10月14日、この10年ほぼ恒例となっている奈良へ行ってきた。
この三年ほど奈良へ行くたびに、高野山へ行こうと話していたのだが、行けば行ったで何かと予定があったりして行くことができなかったのだが今年は東京から真っ直ぐ高野山へ入ることにした。
そういうわけで念願かなって金剛峯寺の山門脇にある常喜院に宿坊を取ることができた。
金剛峰寺から奥の院まではおよそ2.5km、土産物店や塔頭が並ぶ通りをしばらく歩くとやがて聖域に入る。
うっそうと茂る杉林の両側に庶民から歴史上の人物に至るまでの慰霊塔がずらりと並んでいた。
奥州伊達家
加賀前田家
薩摩嶋津家
山口毛利家
歴史上の大名家が並ぶ。
その慰霊塔の形式は全て同じ、大小の差異はあっても高野山真言宗の形なのだろうか。
町石道
この石塔は道しるべとして一町(108m)毎に立っているらしいが、九度山の慈尊院から高野山にかけて180基もあるらしい。
竹田信玄・勝頼親子
高野山の杉
高野山にはうっそうと茂る大木の杉が無数にあるが、そのほとんどが植林で奥の院の中の橋の脇にあるものは樹齢700~750年ほどもあるらしい。
自然木では
恐らくこの木が樹齢950年ほどもあると教えていただいた。
井伊掃部頭の御廟
石田三成
徳川秀忠夫人お江
法然上人
織田信長
明智光秀
とても面白いと思ったのは、歴史上の相対した関係者の慰霊塔がすぐ近くにあることだった。
高野山には金剛峰寺の塔頭が117寺ある。
それぞれがいずれかの菩提寺や関係寺であり、その塔頭それぞれが弘法大師が眠る奥の院までの参道脇に慰霊塔を祭る土地を持って供養しているらしい。
しかしながら、墓ではなく慰霊塔のために関係者による手入れはほとんどなされているようには見えない。
石塔だけに朽ちることなく現存しているが、木造の廟などは数百年の時を経て、傾き、荒れ果て、朽ち落ちてゆくように見えた。
アタシは、高野山は祈りの街のように感じた。
しかしながら、現実は真田丸ブームであったり、紅葉の観光であったり、海外からの世界遺産客であったりして祈りが遠のいているようで少し寂しく感じた。
この三年ほど奈良へ行くたびに、高野山へ行こうと話していたのだが、行けば行ったで何かと予定があったりして行くことができなかったのだが今年は東京から真っ直ぐ高野山へ入ることにした。
そういうわけで念願かなって金剛峯寺の山門脇にある常喜院に宿坊を取ることができた。
金剛峰寺から奥の院まではおよそ2.5km、土産物店や塔頭が並ぶ通りをしばらく歩くとやがて聖域に入る。
うっそうと茂る杉林の両側に庶民から歴史上の人物に至るまでの慰霊塔がずらりと並んでいた。
奥州伊達家
加賀前田家
薩摩嶋津家
山口毛利家
歴史上の大名家が並ぶ。
その慰霊塔の形式は全て同じ、大小の差異はあっても高野山真言宗の形なのだろうか。
町石道
この石塔は道しるべとして一町(108m)毎に立っているらしいが、九度山の慈尊院から高野山にかけて180基もあるらしい。
竹田信玄・勝頼親子
高野山の杉
高野山にはうっそうと茂る大木の杉が無数にあるが、そのほとんどが植林で奥の院の中の橋の脇にあるものは樹齢700~750年ほどもあるらしい。
自然木では
恐らくこの木が樹齢950年ほどもあると教えていただいた。
井伊掃部頭の御廟
石田三成
徳川秀忠夫人お江
法然上人
織田信長
明智光秀
とても面白いと思ったのは、歴史上の相対した関係者の慰霊塔がすぐ近くにあることだった。
高野山には金剛峰寺の塔頭が117寺ある。
それぞれがいずれかの菩提寺や関係寺であり、その塔頭それぞれが弘法大師が眠る奥の院までの参道脇に慰霊塔を祭る土地を持って供養しているらしい。
しかしながら、墓ではなく慰霊塔のために関係者による手入れはほとんどなされているようには見えない。
石塔だけに朽ちることなく現存しているが、木造の廟などは数百年の時を経て、傾き、荒れ果て、朽ち落ちてゆくように見えた。
アタシは、高野山は祈りの街のように感じた。
しかしながら、現実は真田丸ブームであったり、紅葉の観光であったり、海外からの世界遺産客であったりして祈りが遠のいているようで少し寂しく感じた。