読書・水彩画

明け暮れる読書と水彩画の日々

吉川英治の『新書太閤記(八)』

2021年05月22日 | 読書

◇『新書太閤記(八)
 
  著者:吉川 英治  1990.7 講談社 刊(吉川英治歴史時代文庫)

  

   秀吉は信長の悲報に接してからもこれまでと変わらない日課を続ける。そして
安国寺恵瓊を介して高松城の解放・毛利軍との和解工作を進めた。信長死去の報
が毛利軍に伝わらないうちに和睦を決めなければならない。
 間一髪、4千の城兵・領民を解放する代わり清水宗治が切腹し馘を差し出すこ
とを条件とする和議案を宗治がのんだ。

 毛利輝元、吉川元春、小早川隆景と和睦の誓書が交わされて2時間後毛利軍は
信長死去を知った。当然毛利側は烈火のごとく怒り、秀吉討つべしの声も多かっ
たが、小早川隆景の冷徹な判断が優位となり結局秀吉軍は高松城解放の後直ちに
姫路城を経て京を目指し、わずか3日で大阪尼崎に到達した。

 秀吉は父の敵討ち、弔い合戦という大義名分を掲げるために信長の3男神戸信
孝の出陣を待っていたが、信孝は一向に動かず、漸く高山右近、中川清秀らの
参戦を得て明智勢に打ち向かった。秀吉は頭を丸め弔い合戦の意気を示した。 
 ついに信孝、長秀の軍が到着し秀吉は総軍指揮官として采配をとることになっ
た。
 明智軍との合戦は天王山。戦略的にここをどちらかが先に取るかが勝敗を分け
ると双方ともわかっていた。先に抑えたのは秀吉軍だった。なぜ明智軍が後れを
取ったか。逡巡が過ぎたこともさりながら、秀吉が姫路を立ってから少なくとも
1週間はかかると踏んだ読みである。日に夜を継ぐまさかの疾風怒涛の足並みで
山崎後に迫ろうとは。明智の最大の誤算だった。

   天目山の両軍の熾烈な闘いが続く。
 作者吉川英治の見方としては、光秀のこの度の戦闘の目的は既に信長を弑した
事で終わっている。天下人となって国を治めようという野望などないので、絶対
に勝って天下を取るという秀吉には勝てるわけがなかった。戦意において負けて
いたのである。

 華々しく決戦をとはやる光秀を比田帯刀、斎藤利三など老臣の諫言もあって重
臣ら十数名で夜陰に乗じ秘かに坂本城を目指したところ、山科の手前の山里で野
伏りに遭い命を落とすことになる。
 坂本城には光秀の妻子など明智の一族を集めた光春が覚悟を告げる。周囲は既
に秀吉軍に囲まれていた。

 光秀の首は本能寺の焼け跡に曝された。
 一時明智軍の手に落ちた安土城も間もなく秀吉軍によって焼かれ、秀吉は自身
の長浜城へと向かい母らの安否を求めたが、石田佐吉(後の三成)の探査によっ
てすでに家族は伊吹の大吉寺に逃れていることを知って迎えに赴く。

 清須会議。
 織田家の宿老の筆頭柴田勝家は 今後の織田家の統領を決め、明智光秀所領の
配分を決めるために清須城に関係諸侯の集合をかけた。議長の勝家は信長の跡目
には次男の信孝を推したが、秀吉は戦死した長男信忠の三法師丸を推した。勝家
は光秀成敗では秀吉に後れを取った負い目があるし、男系長子相続の習いは筋目
であることから無理押しできず結局秀吉の案通りとなった。なお且つ三法師丸の
保護者として上段において信孝、信雄を初め宿老、その他諸侯の挨拶を受けると
いう決定的なダメ押し場面を作られては如何ともし難かった。

 かてて加えて勝家がお市の方との婚姻にかかずらっている間に、秀吉は信長追
悼の大法要を執り行って京都の民心を捉え、まさに信長の偉業を継ぐ人物として
の評価を我がものとしてしまったのである。 
                          (以上この項終わり)


 
   

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