読書・水彩画

明け暮れる読書と水彩画の日々

シャネル・ミラーの『私の名前を知って』

2021年05月15日 | 読書

◇『私の名前を知って』(原題:KNOW MY NAME)

    著者: シャネル・ミラー(CHANEL MILLER)  
    訳者: 2021.2 河出書房新社 刊


 
 全世界に性暴力とは何かを教え、差別への考え方を決定的に変えた衝撃の回顧録。
これが出版社の惹句である。
 性暴力被害者が書いた世間の偏見に挑戦した稀有の実録である。 
    本書でわれわれは、性犯罪の裁判という裁きの場にあっては、実は裁かれている
のは加害者ではなく、被害者であるという現実をまざまざと実感させられるのであ
る。

 作者は「まえがき」に書く。「…これは究極の真実ではない。私が力の限りを尽く
して語った、私の真実だ。私の目と耳を通して真実を知りたい人、私が胸の中で何を
感じ、公判中にトイレに隠れていたかを知りたい人に、この本を提供する。こちらか
ら与えられるものを与えるので、あなたは必要なものを受け取ってほしい。…」
「…これは、個人的な告発ではない。反撃しているわけでも、だれかを糾弾している
わけでも、裁判を蒸し返しているわけでもない。私たちは多元的な存在だと思う。法
廷では、恥をかかされ、人格を決め付けられ、誤ったレッテルを貼られ、中傷されて、
コメントを氾濫させた。
 私は傷ついた。…性暴力の事件で、犯罪そのものよりも、一番悲しいのは、被害者
が自分に関する屈辱的なレッテルを信じてしまうことだ。私はこれを覆したい。…」
 この前書きのメッセージこそ筆者が読者に訴える本書の動機と目的である。
   「 無責任な世間や法システムとの戦いであったが、最もつらかったのは自分との戦
いだった」この述懐には実感がこもっている。

 筆者は被害者としての私に「シャネル」と名付けた。
 シャネルは22歳の2015年1月、故郷のカリフォルニア州パロ・アルトに住み、仕事
をしていた。妹のティファニー、その友人のジュリアと共にスタンフォード大のパー
ティーに行き、泥酔した後野外の地べたで性的暴行を受けた。通りかかって目撃した
人二人に救ってもらった。加害者は白人の有名な水泳選手だった。

 世間の多くの人々はジャーナリストが書いた断片的で、推論に満ちた、事実と全く
かけ離れた記事をもとにSNS等に勝手なコメントを氾濫させた。加害者が有名人なだ
けに被害者に落ち度があると非難され、なかなか被害者には共感しようとはしなかっ
た。
 陪審員なども「こんなこと私には起こったことないから、被害者に何らかの問題が
あったに違いない」と主張する可能性が高いという。

 著者は当然のことながら事件のことを話題にされ当時を思い出すと感情が激する。
呼吸が乱れ、手が震えて、涙があふれだす。しかしこのような発作が収まると、感情
を論理に変換して法制度や世間の容赦ない詮索や批判を切り抜けなければと決意する。

 ブリーとアラレイなどSART(検察官など性暴力対抗チーム)のスタッフたちは「あな
たのせいじゃない」と言ってくれた。常にシャネルの立場になって支えてくれた。

 シャネルにはルーカスという彼氏がいる。シャネルは一時彼とは別れることになる
かもしれないと懸念したことがあったが、ルーカスは事件があったのちもずっと離れ
ず力になってくれた。

 予備審問は弁護側の都合で何度も先送りされ、裁判は事件から1年以上たった 2016
年3月にようやく始まった。シャネルは証人尋問でまたも詳細に事件内容をなぞられ
過呼吸と滂沱の涙に襲われ審理を中断してもらってトイレに駆け込むことになった。
弁護人は最も重大なことを避け、細部にだけこだわった。シャネルは弁護人が尋問を
通じて陪審員に見せる私の人物像は私とは全く別人になるだろうと思った。

 そして陪審員の評決が出た。被告人は訴因1(強姦)について有罪。訴因2につい
ても訴因3についても同様。被告人は6月の量刑判決の日まで保釈のままとなった。
 法廷を出るとき被告の家族が睨みつけてきたがひるまず睨み返した。「私を睨むの
はお門違いでしょ」
 家族や支援者に「自分の体には、何の価値もないと思っていましたけれど私には価
値があるんです」と言った。
  ティファニーとルーカスに勝ったことを知らせた。二人は泣いて喜んでくれた。

 保護観察官なる女性が電話してきた。裁判官に意見書を出す前に被害者の意見を聞
きたいという。
 確かに彼に犯した過ちを認めてほしいのだと言ったが、意見書では「私はただ、彼
に良くなってほしいだけなのです」と歪曲されていた。「この事件は他の同種の犯罪
と比較した場合、被告人の酩酊度の高さから、それほど深刻でないと考えられるであ
ろう」とし「郡刑務所での軽度の処罰、正式な保護観察、性犯罪者の治療を謹んで提
言する」されていた。
 シャネルとしては陳述書で反撃するしかない。過去のメモなどを繰りながら長文の
陳述書をまとめ裁判所に送った。

 裁判官は言う。「酩酊していたので道徳的過失が小さい、彼は若い、前科はない、
武器は持っていない、性犯罪者として登録されたことで報いは受けている、重罪判決
を受ければ彼の人生に二次的悪影響が出る、被告は反省している、性格証拠等々」を
述べ立て禁固6か月を言い渡した。実際には90日で出てこられる。3つの罪で最高刑
は14年で検察は6年を求刑していたのに。
 (この裁判官はその後市民の罷免要求署名活動などもあって罷免された)
 被告側は2017.12証拠不十分とし控訴した。しかし2018.8 控訴は棄却された。

 陳述書を「バズフィードニューズ」に公開した。多くの女性から感動と激励のメー
ルが届いた。閲覧数は1週間で1200万を超えた。ある日ジョー・バイデン副大統領か
ら手紙が来た「あなたを見ていますよ」とあった。

 その後トランプが大統領に当選し、彼の性暴力行為が問題となりワインスタイン告
発に端を発する#MeToo旋風が巻き起こった。

 巻末に加害者ブロックに対する形式で裁判で加害者に向けて読んだ陳述書の全文が
ある「被害者が受けた影響に関する陳述書エミリー・ドゥ」。文章力があり、新鮮な
比喩も交えた表現力で訴える力に満ちている。性暴力に対する怒りと世間の無理解と、
裁判所や相手方弁護人、スタンフォード大学など既存のシステムに精神的に追い詰め
られていく困難な闘いの実像が赤裸々につづられ、また論理的で説得力のある指摘が
印象的である。

 エミリーの場合、スウェーデン人の二人の目撃者が助けてくれたこと、ルーカスと
いう恋人と、愛する妹、両親、祖父母の愛情と理解に囲まれて困難な闘いに立ち向か
うとてもことができて幸運だったということができる。

 訳者押野素子さんはあとがきで「ジャーナリスト的な記憶力と、作家的な表現力、
事実を詳述しながらも、表現方法がパーソナルなため、シャネルの言葉は頭よりも
胸に響いてくる本書を読み、訳出しながら、何度も感極まり、立ち止まってしまっ
た」と述懐している。まことにその通りである。
                            (以上この項終わり)

 



 
 

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