読書・水彩画

明け暮れる読書と水彩画の日々

吉川英治の『新書太閤記(七)』

2021年05月10日 | 読書

◇『新書太閤記(七)

  著者:吉川 英治 1990.7 講談社 刊(吉川英治歴史時代文庫)

  

  天正十年春、信長は得意の絶頂にあった。上杉謙信はすでに亡く、
 武田勝頼は家康と共に追い詰め滅亡させた。目の上の瘤であった叡山
 も石山も完膚なきまでに叩き潰した。そして西国の中国攻めは秀吉が
 攻略の要である高松城を包囲し、水攻めの秘策をもってあとは信長の
 出陣で仕上げをする段取りになっていた。 

  一方安土城では甲州攻めで共に戦った盟友家康を招き、最高のもて
 なしで宴を張ろうとしていた。ところが信長は一旦光秀を接待役に据
    えながら突然中国攻略の前線へ行けと命令を下す。早々に丹波に帰り、
 但馬より播磨に入り輝元の分国伯州、雲州にも乱入し、高松城攻略中
 の秀吉の側面牽制に当たれとの指図を受ける。近々自ら出陣もするの
 で、先立って戦場に至り秀吉の指図を受けよとの軍令である。このか
 つてない仕打ちに光秀は暗然とする。
  
  それからの10日間。光秀は明智家の今後を思って懊悩する。光秀は
 信長は4・50人の小人数で京都本能寺に泊し、船で備中に渡る予定と
 知り彼はこれを天祐と信じた。
  そして5月29日。幹部諸将に加えて坂本の城を任せている従弟の光
 春も呼び「そなたの命をくれ」と信長弑逆の意中を明かす。
  常識人の光春は主君を弑するという武士の掟を破ることの重大さを
 以って諫言するも光秀の決心は変わらない。遂に光春も明智家一族の
 一員として光秀と共に信長と戦うことになる。

  6月1日。明智の軍勢は備中へ向かうと信じて歩を進めていたが、老
 坂で「敵は本能寺」と告げられて驚愕する。兵は桂川を渡った。
  一方信長とその息信忠は既に本能寺と妙覚寺に分宿し、博多の宗室、
 宗湛らを交えて深更まで歓談していた。
  そして夜半寺を取り巻く堀を越えた明智軍勢は寺に火を放つ。信長
 は弓矢・槍を持って奮戦するも敵わず、もはやこれまでと覚悟する。
 人間五十年、化転の内を較れば、夢幻の如くなり。「悔いはない」大
 声で叫び割腹した。
  蘭丸は言いつけ通り遺骸を武者隠しの部屋に移し焔に包まれたとこ
 ろを見定め自らも割腹しあとを追った。

  しばし本能寺と二条妙覚寺での攻防の様子が語られる。光秀謀反の
 報はすぐに伝わった。上杉、北条はもとより、柴田、前田、佐々ら信
 長の重臣に伝えられたものの、伝わる速度も遅くまたそれぞれ戦線を
 抱えており多くが躊躇逡巡し動きが鈍かった。
   家康は大阪堺に在ったが、50人足らずの主従のまま先ずは本国岡崎
 へと急いだ。

  そのころ、高松城を水攻めにし、信長の出陣を待ち構えていた秀吉
 は6月2日昼に京を立った早飛脚の書状を目にし、青天の霹靂の悲報に
 衝撃を受けていたが、間もなく光秀への報復の決意を固めるとともに、
 信長死去の情報漏れを徹底して防ぎ、小早川、吉川の大軍をどうさば
 くか、一刻も早く上方へ転進するにはどうするかなどが脳裏を駆け巡
 っていた。
                      (以上この項終わり)

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