◇ 『深紅』 著者: 野沢 尚 2003.12 講談社 刊 (講談社文庫)
第22回吉川英治文学新人賞受賞作。
選考委員であった高橋克彦は本作を「奇跡的傑作」と評した。
奇跡的という表現が適当かどうかはともかく傑作であることに異論はない。
何しろ第一章、「家族が事故に遭った」以外何も知らされず、修学旅行先か
らタクシーで東京に向かう主人公秋葉奏子(小6)の心理描写がすごい。
この間の4時間の経過がフラッシュバックし、のちのち奏子を苦しめるのであ
るが、先生は「事故に遭った、怪我ををした」としか言わないが、事故は車で
か、誰が亡くなったのだろう、父と母か、弟たちは…。それとも乗っていた全
員だろうか、きっとそうだ。
自分だけが生き残ったという後ろめたさで、「心の強さに自信が持てるまで、
思いっきり泣くことは先延ばしにしよう」とけなげな覚悟で心を閉ざして、監
察医務院の霊安室に横たわる両親と二人の幼い弟の足の指に触れる。
顔は見られない。なぜか叔母に止められたから。
奏子は通夜の明け方、寺の厨房でふと目にしたTVで、事件のあらましを知
ってしまう。一家4人の惨殺事件。犯人は都築則夫、現場で逮捕された。
そして第二章。犯人都築則夫が裁判長にあてた上申書で始まる。そこでは殺
人の背景、動機、惨劇の状況が詳細に語られる。生い立ちから始まり、高卒で
ありながら会社で異例の昇進をして結婚、未歩という娘も授かった。そんな幸
せの中受注先の課長秋葉由紀彦と知り合う。やがて秋葉は独立し会社を持つ。
ある日都築は秋葉から連帯保証の依頼を受ける。義父の会社が一時的に金繰り
がつかないので1千万円の借金の一部を共同保証してくれというのだ。これま
で仕事で持ちつ持たれつの間柄にあった都築はいくらかの逡巡ののちハンコ
を押す。これが悪夢の始まりだった。借金は焦げ付き、いつの間にか保証人は
共同ではなく都築一人のものになっていた。補償対象の借金は5千万円。
秋葉は都築に白血病で亡くなった妻の保険金1千万円があることを知ってい
たのである。秋葉は払った金は二人の会社間で遣り繰りし補填しようと持ちか
ける。しかし実直潔癖な都築はこれを拒む。自分の腹は痛めないで人に背負わ
せる秋葉に対する怒りは徐々に殺意に収れんしていく。
そして一家4人の惨殺事件に。秋葉由紀彦とその妻はまだわかる。なぜ幼い二
人の子供まで惨殺したのか。その部分は「覚えていない」と綴られている。
第三章 奏子は20歳になった。叔母の家で中学・高校と進み、大学の文学部で
将来は出版関係の仕事を望んでいる。事件の影響で嫌な夢を見たり急に失神状態
になることも稀になった。
都築則夫には一審で死刑判決が出た。二審で公訴棄却になったが最高裁に上告
していた。事件から8年、奏子はある日叔母からの電話で最高裁で上告棄却の判
決が出て都築の死刑が確定したことを知る。
死んでしまった5歳と4歳の弟たち。楽しい人生を送ることもかなわず死んで
しまった。一人生き残ったちう自責の念。犯人と何とかバランスを取らねばと
思うのだが…。
そして再びあの4時間にわたるトラウマが始まった。生唾がわき心臓が不規則
なリズムを打ちち始める。奏子は振り切るように恋人の拓巳の元に走る。しかし
自分だけが生き残って、という家族への負い目は消えない。犯人の上申書では悪
人になっている父は優しかった父のままだ。犯人には自分と同い年の娘がいるは
ずだ。同じ苦しみを味わってもらっていいのではないか。奏子には残酷な自分の
本心をため込む「隠れ家」を持つ。
未歩は殺人犯の子としてどんな苦しみを味わったのか。自分と同じ苦しみを味
わせるにはどうすればいいか。躊躇逡巡しながらも犯人の子に償いを求める道へ。
奏子はかつて遺族の一人娘として取材を受けた椎名というリポーターから無理
やり都築の娘未歩の情報を聞き出す。そして巧みに未歩の職場に入り込み、親し
い間柄になる。
都築の娘未歩には結婚してる男がいる。しかしこの元ボクサーは危険なDV 男
で妊娠中の未歩を幾度も蹴って流産させている。奏子は未歩を巧みに煽り男を殺
すようそそのかす。
やがて粗雑ながら殺しのプランができた。いつの間にか奏子も一役を担うこと
になって・・・。
エンディングの第五章。殺人事件の被害者の家族も加害者の家族も過酷な人生
を強いられる。しかし秋葉奏子は結局優しい女の子だった。
野沢尚は1997年『破線のマリス』で江戸川乱歩賞を受賞している。
(以上この項終わり)