
ミュージカルの黄金期について語る時、この人を抜きにはお話にならない・・・それが、ダンスの神様と呼ばれたフレッド・アステアです。 彼のダンスは、軽やかでしなやか、まさに風の中を舞う羽のように優雅です。 彼が触れたものはすべて、シルクハットもステッキも、果ては灰皿から帽子掛けまで、まるで命を吹き込まれたかのように軽快に踊りだします。(写真は、1942年のアステアです。彼のユニフォームとも言うべき、トップ〔シルクハット〕とテール〔燕尾服〕を着ています。)
フレッドは、1899年5月10日に、ネブラスカ州オマハに、オーストリア移民の子として生まれました。 本名は、Frederick Austerlitz といいます。彼の1歳半年上の姉、アデルは、幼い頃からダンスが上手で、彼女の才能を伸ばすために、一家は1905年にNYへと移り住んだのです。姉のレッスンについていくうちに、いつしかフレッドもダンスを習うようになっていました。アデルはめきめきと上達し、姉と一緒にフレッドもボードビルに出演するようになりました。 これが「Fred & Adele Astaire」の始まりでした。
1917年「Over the Top」で2人はブロードウェイ・デビューを果たしました。このレビューで絶賛された2人は、多少の浮き沈みはあったものの、キャリアを重ね、やがてロンドンデビューを果たします。まずイギリス、スコットランドの各地で公演した2人は大評判となり、ロンドン公演はロングランを記録しました。週末には、名だたる名家に招かれ、フレッドは、すでにNY時代から、後に彼の趣味として知られるようになる競馬に興味を持つようになっていたのですが、イギリス滞在中にますます競馬に夢中になりました。 (競馬以外にも、彼の玉突きの腕前はプロ級でしたし、ゴルフやテニスにも親しんでいました。)
公演がクイーンズ・シアターに移された時には、エドワード英国皇太子も来場し、結局10回も観覧した皇太子は、アステア姉弟を他のロイヤルファミリーにも紹介し、アデルは皇太子にタップダンスを教えてあげたそうです。
その後、姉弟はNYとロンドンを行き来して公演を続けます。1928年、彼らのロンドンでの大ヒット作「ファニーフェイス」が封切られ、263回の公演の最後の晩、アデルは、チャールズ・キャベンディッシュ卿に求婚されました。1931年の「バンドワゴン」での大成功を最後に、アデルは芸能界を引退し、キャベンディッシュ卿と結婚したのです。偉大なパートナーを失ったフレッドは、舞台を続けるか映画界に入るかで迷いましたが、1932年の舞台『Gay Divorce』を最後に、RKO社と専属契約を結び、ハリウッドへの進出を決めました。
RKO社での1作目「空中レヴュー時代」の製作が遅れたため、MGMの「ダンシング・レディ(1933)」で映画デビューを飾り、その後、「空中レヴュー時代」に脇役として出演しました。この映画の中で、ブロードウェイ時代の1930年に彼が振り付けを手がけた作品で顔なじみのジンジャー・ロジャースと再会します。彼女と組んだ「ザ・カリオカ」というダンスナンバーが評判を呼び、一躍観客の人気を集めました。これがきっかけとなり、主演俳優に格上げとなったフレッドは、「フレッドとジンジャー」として知られる名コンビ、ジンジャー・ロジャースと組んで数々の作品に主演しました。ジンジャーとのコンビ解消後も、いくつもの映画会社で、さまざまなパートナーと組んで、「踊るニューヨーク(1940)」、「踊る結婚式(1941)」、「スイング・ホテル(1942)」、「ブルー・スカイ(1946)」、「ジーグフェルド・フォーリーズ(1946)」と素晴らしい作品に出演しましたが、すでにダンサーとして年齢的にピークを過ぎたと自覚したアステアは1946年に引退を宣言、引退後は自分のダンススタジオを運営して後進の指導をしていました。
しかし、1947年、ジュディ・ガーランドとジーン・ケリーの共演作「イースター・パレード」の撮影中、休日にバレーボールを楽しんでいたジーンが、足首を折るという大怪我をしてしまいます。心配してお見舞いの電話をかけたフレッドは、ジーンから「自分の代役を頼めないか」と頼み込まれてしまいました。初めは断ったフレッドでしたが、ジーンの完治に少なくとも5ヶ月かかると聞かされたのと、MGMの副社長からの依頼もあり、ジーンの代役として映画界に復帰することとなったのでした。この映画の成功によって出演依頼が相次ぎ、ジンジャーとの最後の共演作「ブロードウェイのバークレー夫妻(1949)」、「バンド・ワゴン(1953)」と出演が続きます。「足ながおじさん(1955)」のリハーサル中に、21年間連れ添った最愛の妻フィリスを癌で失うという悲劇に見舞われ、悲しみから逃れるために映画出演を続けました。かつて姉のアデルとの共演で大ヒットとなった「ファニーフェイス パリの恋人(1957)」では、オードリー・ヘップバーンと共演、続いて「絹の靴下(1957)」と、年齢を感じさせないエネルギッシュかつ繊細で華麗なダンスで観客を魅了し続けました。 1958年には彼主演のTVのスペシャル・ショー『An Evening with Fred Astaire』が放映され、歌あり踊りありのライヴショーは大好評を得てエミー賞の9部門を獲得しました。1968年、舞台ミュージカルの映画化『フィニアンの虹』が、フレッドの最後のミュージカル出演となりました。
1974年にはMGMミュージカルのアンソロジー「ザッツ・エンターテインメント」の司会者の一人をつとめ、2年後の「ザッツ・エンターテインメント Part2」では、旧友ジーンと二人で、70代後半とはとても思えない歌と踊りを披露しながら、数々の名シーンを紹介してくれました。
また同じ1974年に公開されたパニック映画『タワーリング・インフェルノ』では老詐欺師に扮し、哀愁を漂よわせつつ、いかにもフレッドらしい小粋な名演を披露してアカデミー助演男優賞にノミネートされました。1980年に45歳年下のロビン・スミスと再婚し、翌1981年に公開されたミステリー『ゴースト・ストーリー』が、フレッドの最後の映画出演となりました。彼のその素晴らしい業績を讃え、1950年にはアカデミー特別賞、1981年にはアメリカン・フィルム・インスティテュート(AFI)の生涯功績賞が授与されました。
1987年6月12日、風邪をこじらせたフレッドは、メディアを避けるために「Fred Giles」という名前で、センチュリーシティ病院に入院しました。しかし、肺炎を併発し、10日後の6月22日午前4時25分、息を引き取りました。家族と親しい友人、ほんの数人だけが、葬儀に参列しました。ダンスの神様、フレッド・アステアは、カリフォルニア州チャッツワースにあるオークウッド・メモリアル・パークで、生前彼が愛してやまなかった最愛の妻フィリス、彼の母親、そして実の姉にして彼の生涯最高のパートナーだったアデルとともに眠っています。
1930年代、40年代、50年代、60年代と、ミュージカル映画の全盛期の記録を紐解くと、どの時代にも、トップダンサーとして君臨しているのは、フレッド・アステアです。小柄で優しい笑顔が印象的な彼ですが、素顔の彼は、ダンスに関しては完全主義者で黙々と長時間のリハーサルを繰り返し、撮影開始後も妥協はせず、自分が納得できるまでテイクを続けました。タイプの違うダンサーであるジーン・ケリーとともに、ミュージカルの黄金期を築いたのです。
未だに多くの人の心をとらえ魅了してやまない彼の美しいダンスを、ぜひ一度ご覧になってみてくださいね♪ 多くの歌の歌詞に、「フレッド・アステアのように踊る」、「フレッド・アステアの足」、「フレッド・アステアのステップ」と歌われる意味が、きっとわかっていただけると思います。
なお、彼のBroadwayでのキャリアはこちらから、また映画の出演作はこちらからご覧いただけます。
フレッドは、1899年5月10日に、ネブラスカ州オマハに、オーストリア移民の子として生まれました。 本名は、Frederick Austerlitz といいます。彼の1歳半年上の姉、アデルは、幼い頃からダンスが上手で、彼女の才能を伸ばすために、一家は1905年にNYへと移り住んだのです。姉のレッスンについていくうちに、いつしかフレッドもダンスを習うようになっていました。アデルはめきめきと上達し、姉と一緒にフレッドもボードビルに出演するようになりました。 これが「Fred & Adele Astaire」の始まりでした。
1917年「Over the Top」で2人はブロードウェイ・デビューを果たしました。このレビューで絶賛された2人は、多少の浮き沈みはあったものの、キャリアを重ね、やがてロンドンデビューを果たします。まずイギリス、スコットランドの各地で公演した2人は大評判となり、ロンドン公演はロングランを記録しました。週末には、名だたる名家に招かれ、フレッドは、すでにNY時代から、後に彼の趣味として知られるようになる競馬に興味を持つようになっていたのですが、イギリス滞在中にますます競馬に夢中になりました。 (競馬以外にも、彼の玉突きの腕前はプロ級でしたし、ゴルフやテニスにも親しんでいました。)
公演がクイーンズ・シアターに移された時には、エドワード英国皇太子も来場し、結局10回も観覧した皇太子は、アステア姉弟を他のロイヤルファミリーにも紹介し、アデルは皇太子にタップダンスを教えてあげたそうです。
その後、姉弟はNYとロンドンを行き来して公演を続けます。1928年、彼らのロンドンでの大ヒット作「ファニーフェイス」が封切られ、263回の公演の最後の晩、アデルは、チャールズ・キャベンディッシュ卿に求婚されました。1931年の「バンドワゴン」での大成功を最後に、アデルは芸能界を引退し、キャベンディッシュ卿と結婚したのです。偉大なパートナーを失ったフレッドは、舞台を続けるか映画界に入るかで迷いましたが、1932年の舞台『Gay Divorce』を最後に、RKO社と専属契約を結び、ハリウッドへの進出を決めました。
RKO社での1作目「空中レヴュー時代」の製作が遅れたため、MGMの「ダンシング・レディ(1933)」で映画デビューを飾り、その後、「空中レヴュー時代」に脇役として出演しました。この映画の中で、ブロードウェイ時代の1930年に彼が振り付けを手がけた作品で顔なじみのジンジャー・ロジャースと再会します。彼女と組んだ「ザ・カリオカ」というダンスナンバーが評判を呼び、一躍観客の人気を集めました。これがきっかけとなり、主演俳優に格上げとなったフレッドは、「フレッドとジンジャー」として知られる名コンビ、ジンジャー・ロジャースと組んで数々の作品に主演しました。ジンジャーとのコンビ解消後も、いくつもの映画会社で、さまざまなパートナーと組んで、「踊るニューヨーク(1940)」、「踊る結婚式(1941)」、「スイング・ホテル(1942)」、「ブルー・スカイ(1946)」、「ジーグフェルド・フォーリーズ(1946)」と素晴らしい作品に出演しましたが、すでにダンサーとして年齢的にピークを過ぎたと自覚したアステアは1946年に引退を宣言、引退後は自分のダンススタジオを運営して後進の指導をしていました。
しかし、1947年、ジュディ・ガーランドとジーン・ケリーの共演作「イースター・パレード」の撮影中、休日にバレーボールを楽しんでいたジーンが、足首を折るという大怪我をしてしまいます。心配してお見舞いの電話をかけたフレッドは、ジーンから「自分の代役を頼めないか」と頼み込まれてしまいました。初めは断ったフレッドでしたが、ジーンの完治に少なくとも5ヶ月かかると聞かされたのと、MGMの副社長からの依頼もあり、ジーンの代役として映画界に復帰することとなったのでした。この映画の成功によって出演依頼が相次ぎ、ジンジャーとの最後の共演作「ブロードウェイのバークレー夫妻(1949)」、「バンド・ワゴン(1953)」と出演が続きます。「足ながおじさん(1955)」のリハーサル中に、21年間連れ添った最愛の妻フィリスを癌で失うという悲劇に見舞われ、悲しみから逃れるために映画出演を続けました。かつて姉のアデルとの共演で大ヒットとなった「ファニーフェイス パリの恋人(1957)」では、オードリー・ヘップバーンと共演、続いて「絹の靴下(1957)」と、年齢を感じさせないエネルギッシュかつ繊細で華麗なダンスで観客を魅了し続けました。 1958年には彼主演のTVのスペシャル・ショー『An Evening with Fred Astaire』が放映され、歌あり踊りありのライヴショーは大好評を得てエミー賞の9部門を獲得しました。1968年、舞台ミュージカルの映画化『フィニアンの虹』が、フレッドの最後のミュージカル出演となりました。
1974年にはMGMミュージカルのアンソロジー「ザッツ・エンターテインメント」の司会者の一人をつとめ、2年後の「ザッツ・エンターテインメント Part2」では、旧友ジーンと二人で、70代後半とはとても思えない歌と踊りを披露しながら、数々の名シーンを紹介してくれました。
また同じ1974年に公開されたパニック映画『タワーリング・インフェルノ』では老詐欺師に扮し、哀愁を漂よわせつつ、いかにもフレッドらしい小粋な名演を披露してアカデミー助演男優賞にノミネートされました。1980年に45歳年下のロビン・スミスと再婚し、翌1981年に公開されたミステリー『ゴースト・ストーリー』が、フレッドの最後の映画出演となりました。彼のその素晴らしい業績を讃え、1950年にはアカデミー特別賞、1981年にはアメリカン・フィルム・インスティテュート(AFI)の生涯功績賞が授与されました。
1987年6月12日、風邪をこじらせたフレッドは、メディアを避けるために「Fred Giles」という名前で、センチュリーシティ病院に入院しました。しかし、肺炎を併発し、10日後の6月22日午前4時25分、息を引き取りました。家族と親しい友人、ほんの数人だけが、葬儀に参列しました。ダンスの神様、フレッド・アステアは、カリフォルニア州チャッツワースにあるオークウッド・メモリアル・パークで、生前彼が愛してやまなかった最愛の妻フィリス、彼の母親、そして実の姉にして彼の生涯最高のパートナーだったアデルとともに眠っています。
1930年代、40年代、50年代、60年代と、ミュージカル映画の全盛期の記録を紐解くと、どの時代にも、トップダンサーとして君臨しているのは、フレッド・アステアです。小柄で優しい笑顔が印象的な彼ですが、素顔の彼は、ダンスに関しては完全主義者で黙々と長時間のリハーサルを繰り返し、撮影開始後も妥協はせず、自分が納得できるまでテイクを続けました。タイプの違うダンサーであるジーン・ケリーとともに、ミュージカルの黄金期を築いたのです。
未だに多くの人の心をとらえ魅了してやまない彼の美しいダンスを、ぜひ一度ご覧になってみてくださいね♪ 多くの歌の歌詞に、「フレッド・アステアのように踊る」、「フレッド・アステアの足」、「フレッド・アステアのステップ」と歌われる意味が、きっとわかっていただけると思います。
なお、彼のBroadwayでのキャリアはこちらから、また映画の出演作はこちらからご覧いただけます。