さすらうキャベツの見聞記

Dear my friends, I'm fine. How are you today?

デドモと呼ばれたトマス(1) b

2013-06-30 05:39:10 | Sunday 聖書
(絵:グェルチーノ(Guercino, 1591-1666, 伊)「聖トマスの懐疑」)


 『・・・イエスが来て、彼らの中に立って、「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
  それからトマスに言われた。
  「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。
   手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。
   信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」


  (新約聖書・ヨハネの福音書 20:26-27)







 というわけで、さつきの頃そこを示されてから1か月近く、うんうんと悩んでいた。

 ありがたいことに、イエスは、
「四の五の言わず、信じろ!」
「論理じゃない! 受け入れるんだ!!」
・・・などと、無茶を言う方ではない。

 冒頭にあるように、トマスに対して、確認することを勧めている。
 <それを信じることも。>


(あのときのように、イエス様が現れてくれたら、ありがたいんだが・・・)

 トマス然り。
 キリスト者を迫害していた、サウロ(のちのパウロ)然り。


 見た者は、見た、というほかなく、
 見ていない者は、信じられない、と言う。

 信じた者は、本当なんだ!、と言い、
 聞かされた者は、まさか、と言う。

 ある人々は信じ、ある人々は笑う(使徒28:24, 17:32)

 これに関しては、
 足して2で割る、ということは不可だ。


(とは言っても、私たち自身、肉体をもったイエス・キリストを見たわけではないんだよな)


 だが、信じている。
 これは、信じたいから、信じたわけではない。
 何かにすがりたかったから、信じたわけではない。

 信じざるをえなかったから、信じた。

(・・・どうして、『信じざるをえなかった』んだろう。
 私は、『いわゆるクリスチャンホーム育ち』ではなく、クリスチャン1世の方々のほうが近いのだが)


 場合によっては、『クリスチャン3世』と思われることも多いが、

 私の状況を知る人は、
「あの状況下で、よくまあ、集会(教会)に来たり、クリスチャンになったもんだ」と評する。


 言っておくが、

 周りに流されて、『信じる』ものではない。逆も然り。 (きっぱり)



(・・・ん~、結局・・・あの大きな隔たりが解決するためには・・・)


 祈りの中であれ、
 夢の中であれ、
 大自然の中であれ、
 何かのふとしたきっかけであれ、

 人は、個人的な 神との出会いが不可欠なんだ。
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