塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

改めて考える表記について

2021-10-13 22:23:52 | 日記
 僕は現在、集英社新書「モーツアルトはアマデウスではない」を再読しています。

 辞書、エキスパートのいずれもがウオルフガング・「アマデウス」・モーツアルトと記しているが、彼が自らこの名を名乗ったことはない、ではなぜ皆この名前を用いるのか、という疑問点を筆者、石井宏は様々な角度から見つめています。

 アマデウスは「神に愛されし」という意味合いですが、モーツアルトはこのイタリア語である

 「アマデーオ」

 は用いたと本文にはありまして、彼のような先天的に才能を持ち合わせた人物でも、適性、ウマが合う人物とそうでない人物など、さまざまな観点で悩んだことが伺えます。

 日本サッカーも改める、見つめるべきサッカー用語(独自に用いている)がありますよね。

 トリプルボランチ
 トップ下
 サイドバック

 英国ではどうかわかりませんが、専門誌がサイドバックと呼ぶ以上彼の地でも同様なのかもしれません。

 ただ僕は原理原則に従う形で「フルバック」という表記を用いますが、前ふたつは本当に日本独特の用語と言えます。

 それはサッカーでも野球でも他の競技でも用いられる「〇〇ジャパン」です。

 野球ならば稲葉ジャパン
 サッカーらならば森保ジャパン
 女子サッカー日本代表ならば撫子ジャパン

 女子新体操代表選手たちが「フェアリー・ジャパン」と呼ばれるように、愛称で呼ばれることはまだしも、率いる監督の名前を代表に加えるという話は聞いたことがなく、他国からすれば全く理解できない形ではないでしょうか。

 少なくとも僕ならば

 ラグビー・ニュージーランド代表 オールブラックス
 サッカー・ブラジル代表 セレソン・ブラジレイラ
 バスケットボール米国代表 チームUSA(過去はドリームチーム)

 というように、代表ジャージや文字通り「ブラジル代表」(セレソンはポルトガル語で選抜を意味します)のほうが、どれだけ潔いかがが伝わりますし、日本のマスメディアの見解が乏しいような気がしてなりません。
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