この前書いた動機づけ面接法の続きを書くつもりでしたが
考えてみたら全ての資料を荷造りしてしまっていました。
なので今日はこのところ浮き沈みが激しかった自分の思いを少し。
市営住宅というのはあらかじめ下見をすることができません。
部屋の見取り図はありますが、図面と違うこともあるという
リスクがあって、当選して実際に行ってみたら
和室と洋室のうち洋室のほうは窓が全然ありませんでした。
和室とキッチンはベランダ側にあるので光が入りますが
洋室、浴室、トイレは壁に囲まれているという構造。
今まで三十数年暮したアパートは、築四十年を超えていて
めちゃくちゃ古いですが、採光と風通しはばつぐんでした。
なにしろこの数年の猛暑を、それでもクーラーなしで
何とか乗り切ったのは、その開放的な構造のおかげです。
それで新居を見て、直感的に「座敷牢みたい」と感じてしまい
帰りの車の中で、急にポロポロと涙がこぼれ始めて
止まらなくなってしまいました。
おそらくは自分が最後の時間を過ごす場所を
自分で選べないということが無性に切なかったのです。
考えてみれば、前はもっともっと大変なことでも
歯を食いしばってなんとか乗り越えていくことができたのに
そうしたエネルギーがなくなってきたというのは
それだけ年を取ったということでもあるのでしょう。
最近は世界中で民族紛争が起きています。
内乱に巻き込まれて家や家族を失った人がたくさんいて
祖国を離れて難民になっていく人たちも大勢います。
海外のみならず日本でも震災や事故で家や家族を失ったり
故郷に戻ることができず、未だに避難生活をされている方が
26万人以上おられる(仮設住宅で暮しておられる人が
10万人余)中で、自分は何を甘えたことを考えてるのかと
自己嫌悪を感じたりもします。
けれど、そうした人たちに比べれば自分はまだ幸せなのだ
というような、優越感をよりどころにするような
考え方は好きではないし、どこか傲慢な気がします。
そうは言っても、引越しに伴う現実に立ち向かうためには
この堕ちてしまったメンタルを何とか改善しなければなりません。
昔「アザーズ」という映画を見ました。
古いお屋敷で暮らす美しい母親と二人の子どもたち。
彼らの周辺で不思議で怪奇な現象が起こり始めます。
恐怖に怯える親子ですが、実は彼らこそが死者であったという…。
それを見た時に「ああ、私も死んだらずっとルナ(猫)と今のアパートで
暮したいな」と心の底から思ったのです。
だから最初に癌を告知された時も、一瞬だけど
「子どもたちを育てて、ルナと22年暮した
あの家で死ねたらいいな」という思いが頭をよぎりました。
でも冷静に考えたら死ぬときはたぶん病院です。
自宅で死んだりしたら警察が来たりして大変なのだそうです。
ダンナに容疑がかかる分にはまあいいかなと思いますが(冗談です)
ともあれ余計なことで家族に迷惑がかかってしまいます。
なので、やっぱり死んだ後にルナと一緒にここに戻ってきて
もうどこにもいかず二人で幸せに暮すことにします。
誰か引っ越してきたら「夜中に猫の声がする」とか
「鏡の中に、痩せた陰気な顔をした女が映ってた」とか
あの手この手で怖がらせて追い出します。
でも建物が古いので、もし取り壊されたら
ルナと二人でホームレス幽霊かとも思いましたが
その時は地縛霊という手もあります。
実は私はもう四年以上「遊べるオンライン文芸」という
過疎ったモノ書きサイトで小説を書いています。
そのほとんどがホラーです。
これも最初は「幽霊はこの世で自分に地獄を見せた人間を
地獄にいざなうために立ちいでる」という「四谷怪談」の論評に
激しく共感して、なかば腹いせで書いてきましたが
最近はだんだん「哀しいホラー」を書きたいと思うようになってきました。
春先には、母親のネット依存による育児放棄で
幼い男の子が死んでしまうという「めりーごーらんど」という掌編を書きました。
この世界には理不尽なことがあまりにも多すぎます。
戦争のない平和で豊かな社会と言いながら
自分には何の落ち度もないのに命を奪われたり
あるいは自ら命を絶たなければならないような悲惨が
一部の人たちのためだけの豊かさの陰で増え続けます。
「もっと生きていたかった」「こんな風に死にたくはなかった」
「生きてやりたいことがたくさんあった」「幸せになりたかった」
そういうどこにもやり場のない悔しさ、悲しさ、無念の思いを
ホラーという手法で形にしていく試みを続けています。
そんなこんなで死者とつきあう生活も長いですから
そっち系の人(霊能者とか)に言わせれば「だから癌になったのだ」
というような話になると思います。
これを読んでるだけで気がめいってきて
「もっと前向きに生きようよ」「気持ちを明るく楽しく持って」
そういう風に感じられる方も多いと思います。
けれど後ろ向きも行き着くところまで行けば前向きになるものなのです。
ただし当然のことながら友達はあんまりいません(笑)
自分の心ととことん向き合うことは、辛くて苦しい時もあるけれど
自分の現状や、自分の周りの小さな人間関係だけにとらわれて
狭い袋小路に迷い込んで堂々めぐりをするのではなく
他人と関わりあうことが得意でないのなら
本を(マンガだってかまいません)読んだり、映画を観たり
音楽を聴いたりして、心のキャパを1ミリでも広げてみてください。
自分の現状に対する不平や不満を、他者に対するいわれのない憎悪に
転化するような人間や、それなりの年齢なのに
平気で違法な行為をやるような人間も増えてきました。
体が食物を取り込んでエネルギーに変えるように
脳や心も必要な栄養を補給して、正常な思考ができるように
訓練していかなければ、人間として成長していくことはできません。
科学技術だけが、生物としての人間を置き去りにするほどに進化して
本来はそれを使いこなすべき人間が、どんどん幼稚に退化していけば
社会も人もいびつにゆがんで壊れてしまいます。
自分のための「前向き」は、世間がイメージするステレオタイプな
ものである必要はないのです。
自分なりの、自分が居心地がいい
けれど他人に迷惑を及ぼすようなことのない「前向き」を探して
見つけてほしいなと思います。そうしたら生きていくことが
ほんのちょっぴりだけど楽になるような気もするのです。
以前はネットの怖さもあって、あまりプライバシーをあれこれ
公表しなかったのですが、最近は怖いもの知らずになりつつあります。
前向きというか、やけくそというか。
考えてみたら全ての資料を荷造りしてしまっていました。
なので今日はこのところ浮き沈みが激しかった自分の思いを少し。
市営住宅というのはあらかじめ下見をすることができません。
部屋の見取り図はありますが、図面と違うこともあるという
リスクがあって、当選して実際に行ってみたら
和室と洋室のうち洋室のほうは窓が全然ありませんでした。
和室とキッチンはベランダ側にあるので光が入りますが
洋室、浴室、トイレは壁に囲まれているという構造。
今まで三十数年暮したアパートは、築四十年を超えていて
めちゃくちゃ古いですが、採光と風通しはばつぐんでした。
なにしろこの数年の猛暑を、それでもクーラーなしで
何とか乗り切ったのは、その開放的な構造のおかげです。
それで新居を見て、直感的に「座敷牢みたい」と感じてしまい
帰りの車の中で、急にポロポロと涙がこぼれ始めて
止まらなくなってしまいました。
おそらくは自分が最後の時間を過ごす場所を
自分で選べないということが無性に切なかったのです。
考えてみれば、前はもっともっと大変なことでも
歯を食いしばってなんとか乗り越えていくことができたのに
そうしたエネルギーがなくなってきたというのは
それだけ年を取ったということでもあるのでしょう。
最近は世界中で民族紛争が起きています。
内乱に巻き込まれて家や家族を失った人がたくさんいて
祖国を離れて難民になっていく人たちも大勢います。
海外のみならず日本でも震災や事故で家や家族を失ったり
故郷に戻ることができず、未だに避難生活をされている方が
26万人以上おられる(仮設住宅で暮しておられる人が
10万人余)中で、自分は何を甘えたことを考えてるのかと
自己嫌悪を感じたりもします。
けれど、そうした人たちに比べれば自分はまだ幸せなのだ
というような、優越感をよりどころにするような
考え方は好きではないし、どこか傲慢な気がします。
そうは言っても、引越しに伴う現実に立ち向かうためには
この堕ちてしまったメンタルを何とか改善しなければなりません。
昔「アザーズ」という映画を見ました。
古いお屋敷で暮らす美しい母親と二人の子どもたち。
彼らの周辺で不思議で怪奇な現象が起こり始めます。
恐怖に怯える親子ですが、実は彼らこそが死者であったという…。
それを見た時に「ああ、私も死んだらずっとルナ(猫)と今のアパートで
暮したいな」と心の底から思ったのです。
だから最初に癌を告知された時も、一瞬だけど
「子どもたちを育てて、ルナと22年暮した
あの家で死ねたらいいな」という思いが頭をよぎりました。
でも冷静に考えたら死ぬときはたぶん病院です。
自宅で死んだりしたら警察が来たりして大変なのだそうです。
ダンナに容疑がかかる分にはまあいいかなと思いますが(冗談です)
ともあれ余計なことで家族に迷惑がかかってしまいます。
なので、やっぱり死んだ後にルナと一緒にここに戻ってきて
もうどこにもいかず二人で幸せに暮すことにします。
誰か引っ越してきたら「夜中に猫の声がする」とか
「鏡の中に、痩せた陰気な顔をした女が映ってた」とか
あの手この手で怖がらせて追い出します。
でも建物が古いので、もし取り壊されたら
ルナと二人でホームレス幽霊かとも思いましたが
その時は地縛霊という手もあります。
実は私はもう四年以上「遊べるオンライン文芸」という
過疎ったモノ書きサイトで小説を書いています。
そのほとんどがホラーです。
これも最初は「幽霊はこの世で自分に地獄を見せた人間を
地獄にいざなうために立ちいでる」という「四谷怪談」の論評に
激しく共感して、なかば腹いせで書いてきましたが
最近はだんだん「哀しいホラー」を書きたいと思うようになってきました。
春先には、母親のネット依存による育児放棄で
幼い男の子が死んでしまうという「めりーごーらんど」という掌編を書きました。
この世界には理不尽なことがあまりにも多すぎます。
戦争のない平和で豊かな社会と言いながら
自分には何の落ち度もないのに命を奪われたり
あるいは自ら命を絶たなければならないような悲惨が
一部の人たちのためだけの豊かさの陰で増え続けます。
「もっと生きていたかった」「こんな風に死にたくはなかった」
「生きてやりたいことがたくさんあった」「幸せになりたかった」
そういうどこにもやり場のない悔しさ、悲しさ、無念の思いを
ホラーという手法で形にしていく試みを続けています。
そんなこんなで死者とつきあう生活も長いですから
そっち系の人(霊能者とか)に言わせれば「だから癌になったのだ」
というような話になると思います。
これを読んでるだけで気がめいってきて
「もっと前向きに生きようよ」「気持ちを明るく楽しく持って」
そういう風に感じられる方も多いと思います。
けれど後ろ向きも行き着くところまで行けば前向きになるものなのです。
ただし当然のことながら友達はあんまりいません(笑)
自分の心ととことん向き合うことは、辛くて苦しい時もあるけれど
自分の現状や、自分の周りの小さな人間関係だけにとらわれて
狭い袋小路に迷い込んで堂々めぐりをするのではなく
他人と関わりあうことが得意でないのなら
本を(マンガだってかまいません)読んだり、映画を観たり
音楽を聴いたりして、心のキャパを1ミリでも広げてみてください。
自分の現状に対する不平や不満を、他者に対するいわれのない憎悪に
転化するような人間や、それなりの年齢なのに
平気で違法な行為をやるような人間も増えてきました。
体が食物を取り込んでエネルギーに変えるように
脳や心も必要な栄養を補給して、正常な思考ができるように
訓練していかなければ、人間として成長していくことはできません。
科学技術だけが、生物としての人間を置き去りにするほどに進化して
本来はそれを使いこなすべき人間が、どんどん幼稚に退化していけば
社会も人もいびつにゆがんで壊れてしまいます。
自分のための「前向き」は、世間がイメージするステレオタイプな
ものである必要はないのです。
自分なりの、自分が居心地がいい
けれど他人に迷惑を及ぼすようなことのない「前向き」を探して
見つけてほしいなと思います。そうしたら生きていくことが
ほんのちょっぴりだけど楽になるような気もするのです。
以前はネットの怖さもあって、あまりプライバシーをあれこれ
公表しなかったのですが、最近は怖いもの知らずになりつつあります。
前向きというか、やけくそというか。
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