「日本文学の革命」の日々

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電子同人雑誌の可能性 254 「コンピュータの本質ー数学とは何か 1 」

2022-07-05 09:17:03 | 日本文学の革命
これからギリシャ数学や西洋数学についていろいろ好きなことを書いてゆくことになるが、その前に数学とは何なのか、どのようなイメージがあるのかをあらためて考えてみたい

数学というとまず第一に「論理的に完璧」というイメージが思い浮かんでくる。一部の隙もない論理性、明瞭で明晰で曖昧さを許さない観念、絶対的に正しい推論、厳密に実証的でミリ単位をも揺るがせにしない完璧な正確さ、などというイメージが浮かんでくる。それはまさに自然法則のように絶対的なものであり、世界を動かしている秘密の法則をそのまま写し取り、完璧に体現している結晶体のような論理的構造物に見える

この数学の論理性に比べると言語の持つ論理性などはお粗末なものである。言語でも論理的に話したり推論したりすることはできる。しかしそれは数学に比べると実に曖昧なものであり、しかもしばしば間違うのである。例えば経済の専門家が出てきて今後の景気動向や世界経済の行方などを専門知識と論理を駆使して滔々とまくし立てても、実によく間違ってしまうのである。来年の景気ぐらいならなんとか当てることが出来ても、これが数年や数十年先の未来の経済となるとほとんどが間違っているのではないか。軍事の専門家や戦略研究所のスタッフが出てきて「ウクライナはロシア軍に勝てない。論理的に考えれば考えるほど勝てないことが分かってくる。圧倒されるに決まっている」と述べても、現実の行方がその予想を裏切ると「いや〜ジャベリンはすごいな!ドローンも大活躍してるぞ!やっぱり士気の高い方が強いな。こりゃあロシアが負ける訳だ」と後付けで理由を付けたりしている

言語には論理以外にも実にさまざまな用法を持っている。例えば夢や希望や願望を言い表したり、愛情を表現したり、憎しみを爆発させたり、さまざまなことに用いられるのである。論理的な真実どころか嘘やごまかしや言い訳をすることも得意である。我々が普段使っている言語のうちの半分くらいは嘘なのではないだろうか。言語は嘘や矛盾や誤りが溢れている不純な存在であり、とても数学のように純粋に論理的な存在にはなれないのである

数学のこの厳密な論理性を支えているものが「計算」である。この「計算」にかかるとまさに厳密で絶対的な論理性をもって答えが導き出されてくるのである。それは誤りや矛盾を持たない絶対的な真実であり、この導き出された答えをもってすると自然界の出来事が厳密に予想できるのであり、この世界を知的に操作することすら出来てしまうのである。まさに人間の知性が生み出した最高の存在が数学であり、その絶対的な論理で万物を律し、人間の知的支配下に置くことさえできるほどのものなのだ

このように数学とは論理的に完璧な存在なのだが、ただ数学にはどう見ても論理的には思えない性格も持っている。数学とは実は一つだけではないのである。さまざまな形での数学があり、実に多種多様な数学世界が存在しているのである