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森男の活動報告綴

身辺雑記です。ご意見ご感想はmorinomorio1945(アットマーク)gmail.comまで。

スケールモデルレビューにイラストコラムが載りました&モーゼルC96の話を少し

2024年10月06日 | 銃の話題
先日発売の「スケールモデルレビューVol.4」(ホビージャパン)にイラストコラム「松本森男の鉄砲研究会!」の第2回目が掲載されました。カラー1Pでイイ感じの銃(要は私が好きな銃)を紹介するという内容です。今回のお題はモーゼルC96です。ぜひご覧下さい。 

こちらが表紙です。今回の特集はリヒトホーフェン戦記です。渋くていいですねえ、、。

この本はスケールモデル専門のムックで、とても濃くて私のコラムは別にしてもお勧めです。今号もほんと読み応えがあります。陸海空のアイテムを横断的に濃く渋く紹介してるので読んでて楽しいです。

私だけじゃないと思いますが、興味があって能動的に情報を集めてる分野って結構狭いんですよね。でも、他の分野も嫌いじゃないですからこういう風に同じ雑誌に載ってると読むわけです。で、新たな興味が出てくることがあります。最近はそういう雑誌は減ってますから有難いですね。

私のコラムはどんなのかはちょっとここではUPできないので(当然だ)、下書きを載せときます。大枠ではこういう構成です。

こういう風にササッと描いて、編集の方に見せてOKをもらったら本描きするという感じです。

さてモーゼルはこのブログでもちょこちょこ紹介してますので、以前からの読者の皆さま(いるのか?)にはお分かりかと思いますが、私はモーゼルC96が大好きです。最近モーゼルに関するコネタがちょっと集まったので、丁度いいので紹介してみます。

あ、で、今回の資料はこんな感じです。

「SYSTEM MAUSER」はモーゼルのバイブルみたいな本ですね。「別冊Gun」はモーゼルだけでなく、ガバやSAA、ルガーなど渋い拳銃をそれぞれ詳しく解説してくれてて、重宝してます。中学生の頃に買って、もうボロボロなんですけど、実に素晴らしい本です。

白い表紙のはGun誌などの記事のスクラップ。これもとても参考になってます。

で、今回ふとこの洋書を買ってみました。薄いし、入門書みたいだし、もう知ってることしか書いてないかなあ、と思ってたのですがまあ安いのでポチちっとな、しました。

んが、届いてみるととても濃く詳しい内容で「すいませんでした!!」となりました(笑) 著者のジョナサンさん、ゴメンなさい。印刷がちょっと悪くて、筋が入ってたりするんですけど、まあ値段的に仕方ないですね。

オールカラーで、見たことない個体もたくさん載ってますし、当時の珍しい写真も多々あってお買い得でした。モーゼル好きの方は必携ですね。

その中で「へー」となった話題を紹介してみます。

 まずタンジェントサイトについて。モーゼルの特徴のひとつが、拳銃なのにライフルみたいなタンジェントサイトが付いてる点(付いてないタイプもある)。モーゼル弾仕様は1000メートル、9ミリパラ仕様では500メートルまで目盛りが切られてます。

この写真だと、奥が50m、中が500メートル、手前が1000メートルの位置です。500メートルはともかく、1000メートルだとかなり上になることが分かりますね。ストックを付けて狙うと頬がストックから離れるほどです。

しかし、拳銃なので1000メートル先の的にはまあ当たるわけがありません。スコープ付きのライフルでも難しい、っていうかかなりのプロじゃないと無理です。雑誌などでは「1000メートルまでの表示があるが拳銃弾で当たるわけがない。営業上のセールスアピールのため。要はハッタリ」といった感じで書かれることもあります。私もそうと思ってました。

でも、この本だと少し違う視点で解説をしていました。要は、遠距離で的(要は人体ですね)に命中させることはできなくとも、対象の近距離に着弾させることによる威嚇効果を狙ったものだ、というものです。

この本では一例としてアラビアのロレンスの回顧を紹介してます。ロレンスはシリアで800メートルの距離でモーゼルを撃って強盗を追い払ったとのことです。 当たらなくとも、周辺に着弾させることで威嚇したわけですね。なるほど、です。まあ確かに、拳銃弾でも自分の周辺の地面にピシピシ着弾してきたら逃げますよね。当時としては珍しい自動拳銃ですから、連射で撃たれたらなおさらびっくりするでしょう。

戦闘用の攻撃用兵器ではなくて、旅行とか探検とかの護身用として考えると、銃器を持っていない強盗とか害獣などに対してはかなりの脅威になりますわね。モーゼルを購入する人たちは軍人だけじゃなくて僻地に赴く民間人も多々いたはずですから、確かにこれはセールスポイントですよね。当たらなくとも追い払えればいいわけですから。

ただ、よくわからないのが「拳銃弾はどのくらいの距離まで殺傷能力を持つのか?」という点です。ライフル弾は2キロ先でも殺傷能力があるようですけど、拳銃弾ってどうなんでしょう。モーゼル弾は比較的強い弾なんですけど、威力はライフル弾にはとても及ばない。でも、1キロ先には届くには届くのかな?届くとしてその時の威力ってどのくらいなんでしょう?

先日ツイッターで以上の疑問をUPしたらいろいろとコメントをいただきました。コメントの内容を総合的に鑑みるに、まあ届くは届くけれど威力はかなりなくなるようです。しかし、危険は危険なようです。アメリカでコルトパイソンを空に撃ったら1.2キロ先の人に当たってしまい死亡したという事件があったそうで、もしそれが冤罪とかじゃなくて本当なら「狙って当てるのはともかく、殺傷能力は残っている」ということになります。とはいえ、具体的にどれくらいの威力があるのかどうかはそのつもりで検証してみないとわからないでしょうね。ライフルは狙撃手の本などで「何キロ先の敵兵を倒し云々」とかいう記述がいろいろあるので大体の効果は分かるんですけどね。

例えば10人がモーゼルにストックを付けてサイトを1000メートルにして同じ的に向けてそれぞれが10発全部撃ったら、どういう着弾になるんでしょうね。MG42とか92式重機の管制射撃のような効果に近いものになるんですかね?誰か実験してみてくれませんかね(笑)

という訳でモーゼルのタンジェントサイトについては子供の時から疑問だったのですが、解決(多分、ですけど)してよかったです。

さて次の話題。イギリスの首相だったチャーチルは、若い頃モーゼルを使ってたというのは知ってたのですが、この本には結構詳しくそのことが書かれてました。これはボーア戦争時の(多分)チャーチルの軍装(を着たお姉さん(笑))です。何でお姉さんかというと、まあいいじゃないですか(笑)

元の写真にはキャプションが無くて、ボーア戦争時の写真かどうかよくわかんないんですけど、まあモーゼル持ってますし、その頃なのは間違いないでしょう。 従軍記者とはいっても、準軍人だったんだろうなあ、という装備です。胸ポケットの上の左右の横長の小さいポケットはモーゼルのクリップ入れだそうです。特別に仕立てたのか、モーゼルを購入した英軍人(それなりに人気だったそうな)のデフォルトだったのかはよくわかんないです。

肩のグルメット(っていうのかな?)も興味深いですね。日本の鎧の帷子みたいです。袈裟切り対策の帷子が装飾として残ったとかそういうのですかね?WWⅠのちょっと前の、19世紀の装備の名残があるっぽいのが素敵です。サンヘルメットもいいなあ、、。

チャーチルは記者としてボーア戦争に従軍したのですが、モーゼルでガチの銃撃戦もやって、何人か倒したりしてます。つよつよだったんですねえ。彼はポロで肩を痛めて、剣を自由に使えなくなってモーゼルでその辺を補完しようとしてたとか。モーゼルにしたのは正解だったでしょうね。

彼は最終的には捕虜になってしまい、その時のモーゼルは失われてしまいました。しかし、帰国後新たに4丁も買ったそうな。そんなこんなで気に入ったんでしょうね。

チャーチルの若い頃を描いた映画「戦争と冒険」に彼が持ってたモーゼルの実物が出てくるそうですが、それがそのうちの1丁なんでしょう。また観てみたいですね。この本では、チャーチルのモーゼルは全て行方不明と書かれてますが、映画のモーゼルは多分実物です。Gun誌の「カレイドスコープ」でチャーチルとモーゼルというテーマで紹介されてまして、そこでイラコバ氏が絵に描かれてたので間違いないかと。

ボーア戦争についても、チャーチルの自叙伝ともども本で読んで知りたいですね。ボーア戦争って名前自体はよく知ってるんですけど、実際どういうものだったのか全然知らないんですよね。そもそもボーア人って、カレイドスコープを読んだ子供の時はアフリカの原住民と思ってたんですけど、先に入植してたオランダ系白人のことだったと後で知りました。そのレベルなんですね。で、ボーア戦争って自動拳銃とか機関銃とか、後の第一次大戦で使われた兵器の、野球でいうとブルペンみたいな感じだったそうなのでいろいろ興味深いんじゃないかな、と。

というわけで、この洋書からの話題はこれくらいです。もっとあるんですけど、またそのうち機会があれば、ということで。

さて今回のイラストコラムのお題だったから、というわけじゃないのですが先日、押井守監督の実写映画「ケルベロス 地獄の番犬」を観ました。何度目なのか覚えてないくらい観てるんですけど、何年かに一度なぜか観たくなるんですよね。

で、今回モーゼルの実銃プロップが2種使われてたことに初めて気付きました。映画では終盤の銃撃戦の直前、林らがカルピスのグラスを傾ける(笑)シーンとラストの発砲シーンでモーゼルが大きく映ります。この2丁、ずっと同じ個体と思ってたのですがどうも違うようです。

Gun誌91年5月号に、納富貴久男氏の連載で紹介されていたのがこの図のAで、これは多分中国製コピーです。 グリップが前に曲がってて、形も変です。グリップの溝も粗いです。そして全体のエッジがだれてます。モーゼルは中国でコピーが多々造られましたので、これはその一つでしょう。

これはカルピスのシーンの最後、乾が林に突きつけるカットで出てきます。セフティの形状と、グリップの溝(手の隙間からチラッと見える)がよく似てますのでまあ間違いないでしょう。

そしてバレルには段がありません。あるようにも見えますが写真だと継ぎ目にも見えます。そしてラストの発砲シーンで使われたと思われるのが図BのM1930。M1930はこれまでのC96と違いバレル基部に段差があるのが特徴で、海外のコレクター間では通称「ステップバレル」と呼ばれています。M712の段差もそうで、これはM1930系の特徴です。

発砲のカットではこのバレルの段差がはっきり分かります。そして、このカットではセフティが同じくM1930系の特徴であるユニバーサルセフティのように見えます。図A・Bは矢印の部分のセフティの出っ張りの形がちょっと違うんですね。

発砲シーンははっきりは映ってないのですが、ユニバーサルセフティのようです。カルピスのカットでははっきりとBタイプ(中期生産型の特徴的な形)と分かります。よって、バレルの段差とセフティの形状から、両シーンでは違うプロップが登場していると考えていいようです。

この銃撃シーンを担当したのが香港の「寶力道具有限公司」です(「寶」は「宝」の繁字体 だそうです)。同社は「男たちの挽歌」とかを担当した有名なところなんだそうです。たまたまですが、同時期に小峰隆生氏が同社を取材した週刊プレイボーイのレポートのスクラップを持ってまして(掲載号不明)、そこにはGun誌のC96とは明らかに違うC96が紹介されてます。

この写真を見ると、ステップバレル&ユニバーサルセフティであることがはっきりと確認できますし、全体的な印象(ピシッとしてる)からドイツ製オリジナルのように見えます。このプロップがラストのそれと考えていいでしょうね。先に書いたように、私はGun誌の記事のコピーモーゼルが出ずっぱりと思い込んでいたのですがどうも違うんだなあ、と。そのつもりで観てたので長いこと気が付かなかったんですね。いや、思い込みって怖いですね。

で、押井監督の実写映画のDVDボックスのおまけに「ケルベロス」の発砲シーンの撮影風景のビデオを観ながら、監督と納富氏が語りまくるというたまらんディスクがあります。そこではモーゼルがとにかく調子が悪くて閉口したと語られてますが、コピーかどうかについては語られてません。両氏とも気付いてたはずなんですけどね、、。

映像を見ると、モーゼルはコピーの方でどうもトリガーとシア、ハンマーの調整がいまいちなような感じです。ほんとに調子が悪いです。モデルガンでもそうなのですが、ここの調整が悪いと、トリガーを引いてもハンマーが落ちなかったり、逆にハンマーがコックされなくなったりします。これはひょっとするとコピーだったというのが大きいのかもなあ、と。ラストシーンの撮影風景も出てきますが、こっちは調子がいいんですね。映画のシーンそのものでした。これも、私の推測を裏付けてくれてるような気がします。

で、モーゼルはともかくこの映画、ほんといいですよね。何度見てもいいです。何年かに一度ふと観たくなります。ガンアクションは最高ですし、千葉繁・藤木義勝さんらキャスト・キャラもいい。押井節全開のセリフもいい。舞台となる台湾の風景もとてもいいです。でも、面白いかというとそうではないし(コラ)、人に薦めたら「変な映画観させるな!」って怒られそうなので薦めることもできません(コラコラ)。でも、何度も観てしまうという。不思議な映画と思います。

というわけでお終いです。いや、長くなってしまいました。すいません。で、えーと、そもそもはイラストコラムの話でしたね(笑)ほんと頑張って描いたのでよかったら見てくださいね。

それでは。



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杉浦式拳銃の話

2024年03月10日 | 銃の話題
今回は杉浦式拳銃についての話です。以前お知らせした杉浦式の漫画を描いていて、杉浦式に関して気付いたことや思ったことを書いてみたいと思います。絵を描く時は、資料を何度もガン見しますし「それ」のことをずっと考え続けます。なんかカッコいいですけど(笑)そうしたくなくてもそうなっちゃうんですね。すると、普段なら気付かないことに気付いたり、思いついたりします。

こういうの、模型を作る時もそうですね。「あれ?なんでこんなことに気付かなかったのかな?いつも見てる写真なのに」ってことが多々あります。思い当たる方は多いのでは。こういうのはこの種のもの作りの醍醐味ですし、いいところですね。

閑話休題。というわけでその辺のことを書いてみたいと思います。まずひとつめの話題。

●杉浦式はコルトM1903のまんまコピーなのか?

前にも書きましたが、杉浦式はコルトM1903のコピーとよくいわれますが、私的にはコピーではないと考えてます。まあ、コピーといえばコピーですし、そういわれても仕方ないな、とは思います。けど、少なくとも「まんまコピー」ではないよな、と。

結局は各々が「コピー」という言葉をどういう風に捉えてるか、ってことなんですけどね。言葉の本来の意味からすると「複写・複製」なんですけどそこから派生して「模倣」という意味も含まれています。さらに「元にした」「参考にした」レベルでも総括して「コピー」と呼んでいる、といった感じでしょうか。また、ニュアンスとして「猿真似をした」というネガティブな要素が含まれているように感じます。私が「コピー」と使うときも実際そういうのがあるような。

「模倣」と「参考にした」という違いはなんなのか?というとこれはもうかなり難しい問題となります。これこそ人によって違いますし、場合によっては裁判所で争うような問題です。個々人で断定できるようなものではない。なので、コピーという言葉を使うのは出来るだけ慎重にしたいと思っています。

コピーという言葉の難しさでいうと、銃だとZB26と九六式とブレンの例が分かりよいですね。

ブレンはZB26を原型にしたライセンス生産品です。ブレン(Bren)はブルーノ(Brno)とエンフィールド(Enfield)の頭文字です。つまりメーカーが提携している「正統なコピー」です。構造から何からほぼ同じです。でも一般的には「コピー」とは呼ばれません。ライセンスを取ってるので、否定的な意味での「コピー」とは相容れないのでしょう。

一方で九六式軽機はZBのコピーと言われ続けています。しかし、構造的には全く違っていてコピーとはとても言えません。しかし外観の印象が似てるのでコピーと言われ続けています。これはとても悔しいし残念なことです。似てるといっても①「マガジンが上にある」②「バレルに放熱フィンが付いてて、ハンドルがある」③「ドラム式のリアサイト」くらいです。①②はこの種の銃では普遍的なものでZB特有のものではありません。③はまあ真似したのかなあ?と思いますが、この方式はそもそもZBが最初なんですかね?フォーゴトンでも「普遍的な仕組み」って言ってますね。もし真似だったとしても、これだけで「全体をコピーした」というのはかなり乱暴です。

一方で、銃にとって要といえる閉鎖機構は全く違います。当然ボルトやエキストラクター、エジェクターなど主要な部分は九六式独自のものです。しかもどれも非常に優れた巧妙な設計です。そもそも、ですがトライアル時にA号(九六式の原型)とB号(ZBのコピー)が争って、A号が選ばれたという経緯からも、九六式=ZB説が間違っているのが分かります。でも、ぱっと見の印象だけでコピーと呼ばれる。ブレンと九六式のこの扱いの差はなんなんでしょうね。おかしいでしょう!!フンガー!!(おちつけ)

結局は「評価者の主観の問題」なんだろうな、と思います。でも、こういうのは出来るだけきちんとジャッジしないとアカンですよね。公平ではありませんし、係わった人たちに申し訳ないです。

おっと、長々とすいません。

それでは本題。何だかんだいいましたが、外見は似てますね。コピーです(どないやねん)。ここまで似ていて、関係ないとはとても言えない。内部もバレルと本体との結合はコルトそのもの(ブローニングM1910と同様)ですし、バレルブッシングも同じです。でも、その他はあちこちでちょっとづつ違うんですね。大きな点としては、グリップセフティがない。
次に、ここは大事なところですが、トリガーメカが違います。コルトはガバメント同様、ディスコネクターが別パーツになってます。そのため、トリガーは前後動のみです(青矢印)。杉浦式は、トリガーバーがディスコネクターを兼ねています。トリガーバーが上方に延びて、スライドと接触するようになってます(赤矢印)。スライドが後退したら、ここが下がってディスコネクトするのですね。トリガーバーは前後上下動が必要なため、トリガーは円運動します。そのためのピンがあります(白矢印)

グリップを外すとこんな感じ。トリガーを引くと(1)トリガーバーが競りあがり(2)が飛び出ます。同時にハンマーをリリース(3)。発火してスライドが下がると(2)を押し下げてディスコネクトするわけです。ちなみに、よく見るとトリガーにはトリガーバー用のピンがあります。ここを軸に上下動するわけですね。
コルトのディスコネクトの説明は省略します。有名ですからね。なんであれ、全然違うんですね。ちなみに、私の手持ちの資料では、杉浦式のここの構造が分かる分解写真は1枚しかありませんでした。ハンマーの形とかも知りたいんですけどねえ、、。

さてこの杉浦式のディスコネクターは自動拳銃としては普遍的なもので、有名な拳銃としてはベレッタM1934やアストラM400がこんな感じです。コルト式よりも簡単で簡易なんですが、構造上ディスコネクトの動きがトリガーに(つまり指に)伝わるので精度上よくないといえばよくないですね。しかし、この方式の拳銃が多々あることを考えると、実際には問題にはならないくらいなんでしょうね。

で、ここは自動拳銃の構造としてとても大事な部分です。これが違っているだけでも「まんまコピー」とはいえないのではないかと。グリップセフティを省いた点も含めて考えると、杉浦式は「大枠ではコルトを元にして、各部を省略してコストを下げようとした拳銃」といった感じではなかろうかと思います。

余談ですが、トカレフはガバの影響で作られたとよくいわれますが、よくみるとM1903の要素も多々入っているように思います。合わせ技、ですね。で、こちらもまんまコピーとはちょっと言い切れないですね。いろいろと工夫されていることが分かります。

●素敵な小型もありました

杉浦式は32口径(7.65ミリ)ですが、25口径(6.35ミリ)のタイプもありました。32口径型を短縮・縮小したような感じです。
とはいえ、そのまま小さくしたというわけでもなくて、トリガー後部のフレーム部は微妙にアールが付けられたりと、よく見るときちんとデザインされてます。恐らくは32口径型と同じ設計者(氏名不詳)の手によるものと思われます。

製造数は32口径型より少なく、現存個体のシリアルから考えると(最高で475)1000丁も作られてないでしょう。日本で25口径の自動拳銃は作られたことがないので、貴重といえば貴重な存在です。まあ、これらを製造した杉浦工廠は北京の工場(経営者は日本人)なので日本製ではないのですが。

可愛い形なので、これもトイガンで欲しいですね。

●これまた謎の多い北支一九式

杉浦工廠は後に経営者が代わり北支工廠となりました(1943年ごろ。経営者は同じく日本人)。北支工廠になってから作られたのが北支一九式です。ご覧の通り十四年式がベースになってます。口径も8ミリ南部で同じです。


これこそ「まんまコピー」じゃないかと思いきや、これまたちょっと違います。ご覧の通り、セフティが親指部に移されて片手で操作できるようになってます。いわゆるサムセフティです。

さらに、分解方法が違います。右側のトリガー上部には分解用レバーが着いてます。
これを下げると、バレル部とフレームの結合が解けて分解することができます。

十四年式は、トリガーガードとフレームは別パーツで、トリガーガード上部に凸がありバレル部の凹に入って止めています。マガジンキャッチを強く押すとトリガーガードを下げることができ、結合が解けてバレル部が前にずらせるようになり、フレームから外れます。
一九式はレバーを下げることで凸が凹から離れ、分解できます。当然、トリガーガードとフレームは一体となってます。一九式の方が簡単簡便で、製造工程も少なくて済みますね。トリガーとシアバーがフレーム内で固定されている点も優秀です。十四年式は構造上トリガー部がシアバーと分離してしまうので、製造時にどうしても刷り合わせなどが必要ですし、安全面でも不安がないとはいえない(一九式と比べれば、の話。基本大丈夫でしょうけど)。などなど、一九式はサムセフティともども優れた再設計といえるでしょう。

で、一九式はこの分解レバーを追加したので、十四年式型のセフティが付けられなくなり、サムセフティにしたのかもしれません。逆にサムセフティにしたので、トリガー上部に余裕ができて分解レバー式にしたのかも。どっちが先だったんでしょうね。もしくは同時に思いついたのかも。

 ただ、分解法・セフティともども十四年式が劣っているとするのはちと早計です。十四年式の原型の南部式は1900年初めごろ(正確には不明。00-02年ごろ?)の設計です。このころ自動拳銃は黎明期で、各国のデザイナーが試行錯誤していた時期なので、南部式が複雑でいまいちな設計と断ずるのは不当でしょう。むしろ時代的には優れた設計ではないかと思います。

しかし十四年式が作られた1925年ごろになると、少し古いものになってたことは確かです。再設計したのは南部氏ではありません(正確には不明。一説によると造兵廠東京工廠の吉田智準大尉)。再設計するにあたり、つい南部式に引っ張られたのかな?と思います。こういう原型があるものの改良って、ついつい引っ張られるものです。さらに、大御所南部氏の設計をいじるわけですから、再設計者もドキンチョだったんじゃないかな、と(笑) なんであれ、大改造にはならなかったわけです。

で、一九式の設計は更に後の1943-44年頃(多分)。さすがにもう南部・十四年式をそのままコピーするには厳しい感じだったでしょう。設計者も南部氏や軍とは直接の関係がないので遠慮もいりません。設計者が「ここもっとこうしたらええのに」ってところをズバッと遠慮なく「改良」したんだろうな、と。

私見ですが、一九式は南部式→十四年式とする場合の理想的な設計になってるような。十四年式の段階でこうしていてもおかしくはなかったくらいです。ただ、トリガー部など南部・十四年式の華麗な感じがなくなってしまってるのが残念ですね。しかし、デザイナーとしての割り切りのようなものが感じられるのも確か。この辺は好み、趣味の範疇でしょうね。

そして多分、ですが杉浦式の設計者と同じ人じゃなかろうかと。ガンデザイナーってそうそうはいませんし。北京の銃器製造会社ならなおさらです。日本人なのか中国人なのかは分かりませんけど、なんであれ優秀な方だったのは間違いないと思います。杉浦式も設計的にとてもいいですし、一九式共々「ただの真似だけはしたくねえ!」という意思のようなものが伺えます。なんとなく、ですけどね。でもそういうのって分かるんですよね。

あと、なぜ「一九」式なのかはよくわかりません。中華民国の暦だとこのころだと民国30-31年で全然ちがいます。やっぱり昭和19年のことかなあ、と思いますが、日本人の経営者とはいえ在中国の工場で生産する製品に昭和の年数を入れるのも変といえば変です。日本軍に銃器を納入するのがメインの業務ならわかるんですけどそういう感じでもなかったみたいですし。そもそも、日本軍の制式拳銃をベースに勝手に(多分)改造して製造するというのもどっちかというとオコラレの元のようにも思いますしね。一九式に、日本軍関係者がどういう反応をしたのか知りたいところです。

で、もし昭和「19」式ならば、大陸の工場だけど視点は日本に向いていたことを示します。それならそれで不思議です。「十四年式」にならうなら「十九年式」にするのが普通ですし。

などなど、結局は謎ばかりなのでした。

●センスのいい北支工廠のマーク

北支工廠製造の杉浦式には、星の中に「北工」の漢字を図案化したメーカー刻印が入ってます。この刻印も同じ人がデザインしたんじゃないかなーという気がします。





なんか、センスがいいんですよね。これもなんとなく、ですけどそうじゃないかと思ってます。星マークのせいで、中国共産軍と関係していると誤解されることもあるようです。でも、時期的には敗戦前ですし、そもそも日本軍も星マークを使ってますしね。

杉浦式の北支型には「杉浦式」の刻印は入ってません。よって北支型を杉浦式と呼ぶのは厳密には変です。でも、杉浦式と呼ぶしかない(ややこしい)。杉浦は経営者名なので、経営者が変わった北支工廠で杉浦式の名称が受け継がれたとは考えにくい。でも、製品として継続して生産されている(その代わり星の刻印が入れられるようになったようです)ので、北支工廠での杉浦式の呼称があったかもですが、例によってよく分からないのでした。

また、北支型は杉浦工廠製に比べて仕上げが悪いです。生産時期が戦争末期ー戦後だったからかな?と思います。この仕上げの悪さについては一九式も同様で、仕上げのよいバージョンと悪いのと2種があります。3重丸の刻印のがよくて(さっきの絵)、「二」の刻印のが悪いです。

フォーゴトンでは3重丸と「二」の刻印は品質の差を示すためのものだと断言気味に解説していました。資料「Japanese Military Cartridge Handguns 1893-1945」にも同様の記述があるので、恐らく出所はこの本でしょう。ただ、杉浦・北支工廠関係の1次資料を調べたとはちょっと考えにくいので、あくまで一説ということで、一旦保留にしたいところです(恐れ多いですけど)。

なので、結果的に3重丸が仕上げが良いものばかりで、「二」が悪い、くらいで把握しといた方が無難ですね。これまた私の想像ですが、「二」は戦後工廠が中国軍(国民党系か共産系かはともかく、反日系)に接収されて生産を再開したバージョンじゃないかな?と思ってます。3重丸と「二」でシリアルが重複したもの(4と21の2丁)があるんですね。これは変です。それなら、一旦仕切りなおして再製造した→それはいつか→日本の敗戦後、と考えるのが自然です。

というわけで、あれこれと書かせてもらいましたが、推定推測が多いですね。すいません。ほんとに謎ばかりなんですよねえ。今後の新資料の発掘に期待、といいたいところですが彼の地で当時の資料が新たに出てくるとはちょっと考えられませんし、出てきたとてそれが海外の研究者に知らされ、かつ現地で調査できるとも思えません(しかも昔のこととはいえ兵器の調査ですし)。期待できるとすれば、日本に資料が渡っていてそれが発見される、くらいでしょうか。

●最後にお知らせ

今発売中の「丸」2024年4月号に、A!CTIONさんの杉浦式自動拳銃の広告が掲載されています。

こちらが表紙です。

で、なんとその広告に私の絵を使ってもらいました。ドーン!って感じです。商品の付録の漫画の1カットです。
いやー、これは嬉しいです。それにしても、広告とはいえあの「丸」に私の絵が名前付きで載るとはスゲーなあと。それはそれとして、レイアウトやフォントなど全体的に渋くてカッコいい広告ですね。また、軍事法規研究会先任研究員の大木浩明氏による杉浦式に関する興味深い記事も掲載されています。ぜひ誌面をご覧ください。

というわけでお終いです。いやー、それにしてもあーでもないこーでもないと想像妄想するのは楽しいですねえ。こういうのもこの趣味の醍醐味だなあ、と改めて思いました。

それでは。

以前、杉浦式のモデルガンを紹介した際のエントリーはこちらです。↓

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ごっつええ感じの銃選手権・番外(なんちゃって日本軍小火器編 その4)

2022年12月04日 | 銃の話題

今回は私が妄想・でっち上げた日本軍の小火器を紹介するシリーズの4回目です。これらは要するに全部ウソ、ということです。私が「日本軍にこんな銃があったらよかったのになあ、、」と、見てきたように描いた絵に、あたかもそんな銃があったかも的な解説を加えています。もう一度書きますが、全部ウソです。その旨ご了承下さい。「各部位の解説」もウソです。その次の「妄想の経緯」は、それを描いた理由を書いてます。資料など含め、これはホントのことです。ややこしいですか?。でもまあ、いいですよね!(コラ)。というわけでスタート!

●九九式拳銃

九九式拳銃は「九四式拳銃を十四年式拳銃と同等な性能にし、分解結合を含めた操作法を九四式と可能な限り同一にすることで将兵の教育期間ならびに製造過程も短縮することを目的」(「九九式拳銃取扱法(昭和15年)」を意訳)として開発・採用された拳銃です。

弾倉の装弾数は8発(九四式は6発)、全体のボリュームも十四年式並みに大きくなっています。十四年式は明治期の南部式をベースに開発されたということもあり、性能はともかくとして製造コストが高く、1930年代後半頃になると造兵廠では生産性を向上させたいという認識が高まっていました。そこで開発されたのが九九式というわけです。

しかし、十四年式の製造ラインはすでに確立されたものとなっており、戦線が拡大し小火器の需要が急増する中で新たな拳銃を生産するよりも、十四年式を製造し続けた方がいいと判断され、極少数の生産で終了しています。省力化を図るはずが、逆に十四年式の生産体制を鈍らせるような存在になってしまったのは皮肉です。

とはいえ、サイズや目的の違う2種の拳銃を同一化するというコンセプトは注目に値します。こういう例は他の国の軍用拳銃では類例がありません。九四式を8連発にして、銃身を太くする、安全装置を十四年式のように確実にするなど、基本的に護身用である九四式を十四年式レベルの拳銃に変換するという目的は達成されています。この点は評価されるべきでしょう。アメリカなどに現存する個体のシリアルナンバーから推察するに、100-300丁程度が量産されていると考えられています。

●各部位の解説

→1 九四式の「欠点」とされたシアバーの露出はなく、カバーで覆われている。このため、マニュアルセフティ込みで九四式より部品点数は増加している。

→2 マガジンセフティは九四式と同様な構成。

→3 銃身は長く、スライドから露出している。これは十四年式並みの銃身長を確保するため。

→4 トリガーガード周辺は十四年式後期型に準じたものになっている。セフティの機能も十四年式と同じ。なので操作法はセフティのみ九四式と異なる。

→5 グリップの形状は十四年式と同じ。弾倉も十四年式のものを流用している。先行して量産されていた十四年式と共有化を図ったことが伺える。

●妄想の経緯

要するに九四式を十四年式並みに使えるようにした拳銃が欲しいなあ、ということですね。九四式って実に巧妙で素晴らしい設計で、護身用拳銃のままにするのは惜しいよなあ、と。九四式は十四年式の後継機種ではなく、将校や戦車や航空機の乗員用として作られたもので、十四年式とはそもそも目的が違うのですね。ざっくり分類すると九四式は護身用、十四年式は戦闘用なんです。この2丁は終戦まで並行して生産されているのがその証明です。

九四式を手にして観察すると(モデルガンですけど)、とにかくコンパクトにすることがコンセプトだったことがよく分かります。銃身が特に分かりやすいのですが、十四年式と比べると同じ弾を使うとは思えないほど非常に小さく肉厚も薄く、バンバン連射することを想定しているようには思えません。

弾倉も6発(リボルバーと同じ、、)と少ない。ただ、空挺部隊など装備火器が小型であればあるほどいいという部隊では九四式が活用されていますので、護身用の域を超えた性能であったことはわかります。しかし、戦闘用としては十四年式がいいよな、、くらいの感じなのかな?という、とにかくモヤモヤするゾーンの(笑)拳銃なんですね。

九四式というとすぐ、シアバーの件(露出したシアバーを押すとハンマーがリリースされるという「欠点」がある。とみんなすぐ言う。九四式の枕詞(笑))が語られますが、これもとにかく全幅を薄くするためです。シアの構造が類似しているルガーP08はカバーが着いてます。九四式は薄くするために、このカバーを省いたことが伺えます。南部氏ほどの設計者がこの「欠点」に気付いていないわけがない。重々承知の上で省いてるんですよね。南部閣下をなめんなよ!(笑)

この欠点は、操作法の訓練時に「装填したらここを絶対触るな!」と教えるだけで済む話です。そもそも、この部分は意図的に押さないとハンマーはリリースされません。だれがわざわざここを押すのか教えて欲しい(笑)。モデルガンをいじって分かりましたけど、そのつもりで押す以外は安全です(当然ですが)。この辺は、最低でもモデルガンを買っていじってから語ってほしいな、と(笑)。

しかし構造的には、砲爆撃などに晒されてムチャクチャな状況になったときに、何かの加減でリリースされる可能性はもちろんあります。でも、そんなこと言い出したらガバメントでもワルサーでも、いや拳銃だけでなくてライフルでもSMGでもそんな状況だと「ギャー!うわーっ!!!」ってなって引き金を引いちゃう可能性があるわけで(笑)

この点をアレコレいうなら、マガジンセフティをわざわざ備えている点に注目してほしいな、と思います。十四年式も途中でマガジンセフティが追加されて、すでに支給したセフティのないタイプを回収して追加、再配備までしてます。多分、軍としてはこっちの方を問題視していたんだろうな、ということが伺えます。

恐らく、マガジンを抜いている(けど薬室には弾が入ってる)ので安全とみた将兵が気軽に引き金を引いて暴発・死傷者が出る、という事故が少なからずあったのではないかと思われます。そうでなければ回収まではしないはず。これって、よほどのことですよね。

逆にいうと、九四式のシアバーが終戦まで改良されていないのは軍として「問題がなかった」と認識していた証明ではないかと。軍用銃というのは軍がクライアントなので(当然ですが)、その軍が「問題ない。ヨシ!」として採用・装備してたらそれで話はお終いなんですよね。後世の人が「ここはアカン!」って言ったって「ソーファ●キンファット?」なんですよね(何で英語?)

あ、話がずれました。で、この九九式は薄さを優先しなくてよくなったので、きちんとシアをカバーするようにしました(なんやねん、ですがやっぱカバーがある方がいいですものね、、)。セフティも十四年式のものに準じたものに。これくらいやれば安全安心ですね。銃身は十四年式並みに長くしたかったので、スライドから出てしまいました。銃身の長さに合わせてスライドを長くしてもよかったんですけど、それだと逆に資源の無駄遣いになりますから(笑)

十四年式はじいちゃんが使ってたこともあって、ほんと大好きな拳銃なんですけど、こういう風に九四・九九で一元化できててもよかったんじゃないかな?とも思います。立体化もしてみたいですねえ、、。

●竜野式挺進銃

太平洋戦争緒戦時の、パレンバン攻略戦で陸軍挺進部隊(空挺隊)が装備していた自動小銃です。試製九五式実包を使用(装弾数25発)し、連単選択式。100丁程度が生産され、作戦でほぼ全てが投入されたと推定されています。全ての銃がこの作戦で消耗したと思われ、以後も極秘兵器扱いだったこともあり、現在でもほぼ知られていません。


パレンバン作戦では小銃などの兵器を回収できず(兵士とは別にコンテナで投下したため)、隊員は降下時身に付けていた拳銃・手榴弾のみで戦闘を行わなければなりませんでした。幸い、この挺進銃は最低数ではありますが回収され、戦闘当初の不利な状況を好転させるきっかけになったといわれています。

名称の通り設計は竜野という大尉が行ったといわれていますが、名前や所属などを含め一切が不明となっています。先に書いたとおり、この作戦でほぼ消耗されたと思われるのですが、戦後のインドネシア独立戦争の際、この銃と思われる写真が残されています。独立戦争に協力した残留日本兵が自動小銃班を作り斬り込み隊として活躍したという話もありますが、未確認です。いずれにせよ、謎の多い銃です。

●各部位の解説

1→竜野式の特長となっているのが弾倉を被うようなフォアグリップ。トカレフM1927の形状に似ているが、時期・状況的にトカレフを真似たとは考えにくい。

2→九五式実包を使うため、弾倉はカーブしている。排莢口には、三八式歩兵銃などと同様に、クリップを差し込む溝が付いている。弾倉への装弾はここを用いるため、九六式軽機のような専用の装弾器はなかったと考えられる。

3→連単の切り替えは、セレクターではなくトリガーの引き方で切り分ける(MG34やMP34のように)と思われるが詳細は不明。

4→銃尾の円筒はエアバッファーと思われる。試製二型と類似している。九五式実包含め試製二型の開発時期と重なっているので、機関短銃の開発過程から派生した銃と考えるのが自然。

●妄想の経緯

太平洋戦争における日本軍の戦いを描いた「決断」というアニメがありまして「第9話 ジャワ攻略」でのパレンバンでの戦闘時に、挺進部隊の兵士がへんてこな自動小銃を持ってるんですね。当然バリバリ撃って大活躍(笑)大きな声では言えないんですけど、某大手動画サイトで見れますのでよかったらご覧になってみてください(2分めくらいです)。

この絵はそのコマを模写したものです。うーん、これは一〇〇式でもないし、ベルグマンやトンプソンでもない。ストックやマガジンの感じから恐らくM1カービンかなあ、という気がします。でもマガジン前にはフォアグリップがあるようにも見える。考えれば考えるほどへんなスタイル。でもカッコイイ(笑)。なのでこれを元にでっち上げてみました。製作スタジオがタツノコプロなので竜野式に(笑)

デザインはトカレフM1927を基点にアレコレ考えてそれっぽくしてみました。当初はM1カービンの30カービン弾みたいな弾(A)を使う感じで考えてたんですけど、気が付くとマガジンがバナナ状に(笑)。なので試製九五式実包(B)仕様にしたといういい加減さ(笑)

それにしても、九五式実包を使ってこれくらいのサイズの自動小銃(っていうか突撃銃)を作ったらよかったのに、って思いますね。小銃の生産に影響しないくらいの数量ならどうにかなっただろうし、挺進部隊はじめ特殊な任務を帯びた部隊には最適だったはず。

とはいえ、こういう自動小銃や機関短銃に限らず、日本軍の兵器全般をみてると南方での戦争って事前には想定してなかったんだなあという気がします。志向としてずっと中国・ロシアを相手にした大陸での戦闘を考慮してますものね。明治期からの歴史の流れをみるとまあ当たり前なんでしょうけど。例えば一〇〇式機関短銃の生産が伸びなかったのもそういうことだろうな、と。

機関短銃は大陸では市街戦以外では活躍の機会が少ないわけで、火急の兵器ではなかったんでしょう。一〇〇式は採用はされたけれどほぼ作られた形跡が無い。「一応持っとく」兵器だったんだろうなあ、と。「日本軍は小銃に固執し、機関短銃には否定的だった」みたいなことを言われるんですけど、否定的ならなぜ採用するんだ、という(笑)。単に「いますぐとにかく必要じゃないけど、あったほうがいいよね」的な存在だったんだろうな、と。

逆に、昭和18年に挺進部隊から「機関短銃欲しい」という要請があると(そういう文書が残ってます)折り曲げ銃床の前期型がまとまった数(数百丁程度?欧米の基準からするとかなり少ないんですが)が生産されています。これは要望と生産時期のタイミングからすると多分間違いない。なので、必要になったら生産するスタンスをとっていたことが伺えます。そして、南方での戦闘が熾烈になると昭和19年から本格的に生産されるようになります。ちと遅いのですがもうこれは仕方がない。要は「軽視なんてしてなかった」ってことですね。

あ、話がずれました。なので、状況的にこういう自動小銃を開発することはなかっただろうなあ、と。残念ながら。試製二型が当初九五式実包仕様だったのが途中で8ミリ拳銃弾になったのも、開発意図はあくまで機関短銃であり、自動小銃ではなかったわけですから。でもこういう銃が少しでもあれば、、と思ってしまいますねえ。

ちなみに、試製二型は九五式実包仕様のが「試製二型」でその後8ミリ南部弾仕様になったタイプ(大昔のGun誌でレポートされた後嵐山に展示され、以後行方不明になった個体)が「試製二型改」というそうです(メチャ詳しい人に教えてもらいました)。この辺についてはまた改めて書きたいですね。

●四式自動拳銃

日本海軍佐世保特殊陸戦隊が装備した自動拳銃です。

自動拳銃とは機関短銃の海軍の呼称です。試製二型を元に、海軍が独自に開発。特殊陸戦隊(特陸と呼称されていた)とは、その名の通り現在での特殊部隊のような任務を帯びた部隊です。この銃が特陸のために開発されたかどうかは不明。しかし、生産されたとみられる100丁全てが特陸に配備されていますので、そう考えるのが自然でしょう。ベ式、ス式と同じ7.63ミリモーゼル拳銃弾を使用。装弾数は30発。連単選択式。光学式照準器と消音器が標準で付属しているのが、特殊な作戦用であることを示しています。

●各部位の解説

→1 エアバッファーは試二型より簡略化されていると思われるが、機能は損なわれていない。

→2 ピストルグリップにすることで操作性が向上している。開発時は、機関短銃は世界的に曲銃床から直銃床になりつつあった。直接的にはトンプソンやMP40(遣独潜水艦作戦により日本に持ち込まれていた)などの影響があったと考えられる。

→3 光学式照準器は2倍。特殊な装備ではなく、全銃に付属する。装着した状態でもアイアンサイトは使用可能。状況によって使い分ける訓練がされていたという。

→4 セレクターは安・単・連の順。位置的にも操作性はあまりよくないが、隊員の練度を上げる(状況中は常に射撃モードにし、安全管理を徹底する)ことでカバーしていたといわれている。

→5 短剣は一式銃剣に似ているが違っており、この銃専用に作られたものと思われる。呼称など詳細は不明。

→6 銃床に描かれた髑髏マークは佐世保特陸のシンボル。現存個体(スミソニアン収蔵品など3丁)全てに描かれている。番号は24が最大。

→7 消音器も光学式照準器と同様、基本装備。オープンボルト式のため消音効果はそれなりのようだが、それでも部隊の任務的には十分だったと思われる。当然ながら、消音器を付けると銃剣は使用ができない。それぞれ必要に応じて着脱していたと思われる。消音器、照準器嚢は現存品は確認できていない。

特陸については詳しいことはわかっていません。まあ、特殊部隊なので当然ですね。しかしながら、数少ない資料(隊員の写真含む)は残されており、装備などについてはある程度判明しています。これがそれを元にしたイラスト。

弾倉嚢、防弾衣、短剣など全て専用の装備(陸海含め、類似の装備が見当たらない)のようです。拳銃は九二式機関拳銃。これも極少数が製造されたようです。また次回紹介します。

●妄想の経緯

まあ、要するに試製二型をブラッシュアップしたかった、ついでに陸戦隊好きなので海軍仕様にしちゃえ、ということです(笑)。試製二型は多分かなり性能が良かったんじゃないかと思います。ただ、製造コストが高そう(全部削り出しなので)だったり、構造的に砂塵に弱そうなど、PPShやステン、MP40などと比べるとちと分が悪い。でもまあ特殊部隊が使う少数生産ならいいじゃん、って感じですね。

弾の弱さも、モーゼル弾にすることであっさり解決(笑)。照星がスライド側に付いてるのはちとアレなので(まあSMGだし問題なかったんでしょうけど)本体に付けてみました。ピストルグリップにしたらさらにヨシ!って感じですね。スコープと消音器はまあ、MP5のイメージでつい(笑)。でも強そうでいいなあ、と(自己満)。

海軍はベ式、ス式を自動拳銃と呼んでましたけど、なぜか大枠では機関短銃となってます(海軍の装備一覧(昭19)より)。機関短銃の項目で自動拳銃となっている。不思議ですね。
一〇〇式は海軍も装備してたんですが、呼称は機関短銃です。どうもス式から一〇〇式を装備するころの時期に呼称の改変があったようです。

やっぱり自動拳銃だと普通の拳銃と誤認してしまうことがあったのかもしれません。なので、この四式も機関短銃にするのが自然なんですけど、やっぱそれっぽさ優先、ということで(笑)

余談ですがこの書類、ベ式もス式も作動方式がガス利用となってたり、べ式の発射速度が1100発/分となってたり(オリジナルは500発/分程度)と「んんっ?」っていう点が多いです。なんなんだろうなあ、、。

それにしても特殊陸戦隊がガンガン活躍する漫画とかアニメ、観てみたいなあ、、。前も書いてますけど、皇居から陛下を救出するとか、テニアン・グァムのB29を200機くらい焼いちゃうとか、、って、無理か、、。

●一〇〇式機関短銃(最末期型)

一〇〇式の簡易生産バージョンです。ご覧の通り、ギリギリまで部品を削っており最末期型と呼ばれています。


簡略化されてはいますが、最低限の機能は保持しているようです。

日本本土決戦が確実視されはじめた昭和20年初頭に開発がスタートし、4月ごろには量産体制に入ったようです。本土決戦の始まった同年秋には月産5000丁に達していました。この時期にしては驚異的な数で、これは大規模な工場でなくとも、町工場で製造できるレベルまで各種部品が再設計されていたことが奏功したようです。これは、そもそも一〇〇式が巧妙簡潔な基本設計だったからです。そのため一〇〇式の真骨頂とも言える銃ではないか、という後世の評価もあります。

一〇〇式はそもそも非常に扱いやすい銃で、この最末期型も粗雑な作りながら操作性・信頼性は良好だったようです。

本土決戦では軍民問わず、九九式小銃(末期型は造りが粗悪なのに弾丸は強いままなので扱いにくいものになっていました)よりも頼りになる銃とされ活用されました。日本国内は市街地と森林・山岳地帯で成り立っており、これらはいずれも機関短銃に適した地形です。さらに、機関短銃はゲリラ戦にも向いているため、あらゆる点で本土決戦に順応した銃でした。

正規の製造ルートだけでなく、民間で自発的に生産されたものもあり、終戦時には10万丁程度が存在したと推定されています。終戦後も、占領軍に対する抵抗組織の主要な武器となり、抵抗運動のシンボル的な存在になったこともよく知られています。

●各部位の解説

→1 レシーバー後部は最低限まで簡略化されているが、基本構造は通常型と変らない。

→2 ピストルグリップになっているのは、射撃を容易にするだけでなく銃床用の木材を最小限に押さえるという意図もあったと考えられる。

→3 スリングに金具はなく、本体のスリングスイベル(針金をリング状にしただけのもの)に帆布のベルトを結んだだけ。しかし、本質的な機能は損なわれてはいない。

→4 フォアグリップも最小限。これも木材を節約するため。

→5 弾倉は通常型と共通となっている。しかし、1丁に付き何本も(通常型は20本と規定)生産されたとは思えない。1丁1本であった可能性が高い。ただし、廃棄破損した銃から適宜回収・利用されたことは想像に難くない。数本以上所持している国民義勇隊員の写真が多々残されている。

→6 銃口制退器用の穴は別パーツではなく銃身に直接穴を開けている。かなり粗雑な工作ではあるが、所定の目的は達しているようだ。最末期型までこの機能を維持しようとした点からも、本土決戦で老若男女が使用する前提だったことが伺える。

→7 銃剣は通常型同様三十年式の装着が可能。着剣基部はバレルジャケットの根元に移されている。

●妄想の経緯

一〇〇式機関短銃は、本当に簡易かつ確実な設計でびっくりします。通常型ですら、ステンよりも簡単で簡潔なんですよ。かといって、機能が劣っている点は一切ない。スゲーです。なので、逆に「ギリギリまでやっちゃうとどこまでできるかなあ」と思って描いてみました。

これくらいやれば大量生産も可能かな?と。多分、ですが町工場で作れるレベルです。先にも書きましたけど、一〇〇式ってほんとシンプルなんです。ただ、マガジンとバレルはそれなりの設備がある工場じゃないと無理だと思います。デンマークのレジスタンスがステンを地下で作ってて、それが今も保存・展示されてるんですけど、バレルとマガジンだけは作れなくてスオミとかのを流用しています。なるほどなあ、と。

なので、当時日本がそういう状況になっていたら、設備のととのった工場はとにかくバレルとマガジンを作って、町工場で本体を作る、という構成にしておくといいのかな、と思います。「思います」って、なんの話だよ!(笑)

一〇〇式の設計がいかに巧妙簡潔なのかについては、また改めて紹介したいですね。ほんと、凄いんですよ。

●南部麒次郎氏の試作軽機関銃

これは妄想ではなくて、実際にあった銃を私が想像で描いたものです。

以前紹介した南部氏の自伝「捧げ銃」(ブイツーソリューション)に、非常に興味深い記述があります。

後半の「追録」(南部氏自身のではなく氏の関係者が、南部氏に関する著述を採録した章)に上村良助陸軍中将による、南部氏の思い出を綴った一文が掲載されています(同著P204-214)。上村中将は東京砲兵工廠所属で、日露戦争の停戦間際に任務で渡満、現地の部隊が鹵獲したロシア軍のレキサー(マドセン)軽機関銃を譲り受け持ち帰ります。これは砲兵工廠の参考資料となりました。

レキサー(マドセン)は最初期に実用化された軽機関銃のひとつ(世界初?)で、当時としてはかなり先進的なものです、っていうか以後の軽機間銃の雛形といってもいいくらいの逸品です。これを見た南部氏は国産の軽機関銃開発を決意し、後に十一年式軽機として結実します。

その後、上村中将は南部氏の元を訪れた際の回顧として「南部将軍の手で現制機関銃を縮小したやうな軽機関銃とも自動小銃ともつかぬ小銃を試作中であった」「同将軍の話しに依ると此のレキサー軽機関銃が刺戟となり、我が國現制軽機関銃の實現となったものであるのとの事である」(同著P214)と述べています。

この銃の試作時期は不明です。南部氏自身の回想(十一年式についてのもの。同著P170)から推察するに、マドセンを目にした時期(1904-5年ごろ?)の直後と思われます。上村中将が目にしたのは、その時期の一丁だったのでしょう。着手から十一年式の採用(1921年)まで15年以上の時間がかかっているのは、技術本部があまり軽機に関心を持っていなかったからのようです。関心を持たれていないながらも、南部氏はコツコツと研究を重ねていたようです。氏はそういう旨のことを述べています。

南部氏は「最初は三八式機関銃を小型化した」という旨のことを書かれてるので、それを想像して描いたのがこれ、ということなんですね。十一年式の試作型は保弾板式で、閉鎖機構はホチキスの影響が強いのはご本人が述べている通りです。マドセンが刺戟になったのはあくまで「軽便な機関銃」というイメージで、構造上の影響はあんまりなかったのでしょう。

でもまあ結局よくわかんないんですけどね(笑)それにしても上村中将の「自動小銃ともつかぬ」という表現には魅かれますね(笑)。もっと自動小銃寄りにした推定画も描いてみたいです。

南部氏の本についてはこちらで書評を書いてますのでよろしければどうぞ。

というわけでお終いです。いやー、今回も長かった(笑)。以前からの読者の方々ならお気づきかもですが、隙あらばすぐ私の妄想持論を挟み込むので長くなるわけです(笑)。ほんとすいません、、。

で、気が付くとこの番外編、回数的に本家の選手権とならんでしまいました。本家は私の好きな実在の銃についてあれこれ語るものだったのですが、ずっと放置してますね。こちらもちゃんと継続したいです。

最後にこの「ごっつええ感じの銃選手権」のリンク貼っておきます。よかったらお読み下さい。

本家はこちら。第4回まであります。
1→
2→
3→
4→

妄想日本軍火器シリーズは3回。
1→
2→
3→

これは漫画とか映画のフィクション作品に出てくる銃について書いた回です。

振り返ってみると我ながら凄い文量です。新幹線に乗ってたら大阪から東京に着くんじゃないか、レベルですね(んなこたーない(タモさん))。まあでも、こういうのがお好きな方の通勤通学中の暇つぶしにでもなってくれれば嬉しいです。よろしければ読んで下さいね。

それでは。


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ホルスターの話

2022年08月28日 | 銃の話題
今回はホルスターの話です。このブログを常々読んでくださっている方(何人かはいます、、よね?。ありがとうございます)はよくお分かりかと思いますが、私ははっきり言ってガンマニアです。なので、トイガンだけでなくその関連グッズとしてのホルスターもいくつか持っています。

もちろんミリタリー全般にも興味はあるのですが、いわゆる軍装品(軍服など)はほぼ持ってません。この辺はなんか面白いところです。軍服は欲しいと思ったことないんですけど、ホルスターは欲しくてトイガンと並行してあれこれ買ってました。軍用拳銃のトイガンを買うと、やっぱホルスターも欲しくなるんですね。不思議かもですが、まあそういうものなのです。

でも今はトイガンともどもほぼ買わなくなっちゃったんですけどね。興味がなくなったというよりは、可処分所得の減少が主な鯨飲、じゃなくて原因と思われます。ビール飲みすぎなんすよね、、。どーでもいー話ですね。すいません。

で、私の手持ちのホルスターはほぼレプリカばかりですが、どれも実物を精巧に再現したものです。なので触ってると「実物はこうなんだ」ということがよく分かります。トイガンともども原寸のものって、写真や動画ではイマイチわからないこともすんなり理解することができるんですね。今回はそういう気付いたとこなどをつらつらと書いてみようと思います。

まず中田商店の十四年式拳銃嚢とマルシンの十四年式です。
この拳銃嚢の皮のプレス型は当時のものが中国で発掘されて、それを使って製造されたとか。なので「レプリカ」じゃなくて「再生産品」レベルなんだそうです(銃器雑誌の記事で読みました)そう考えるとメチャ貴重ですね。

私はずっとこの拳銃嚢欲しかったんですけどちと高くて(11000円)躊躇してました。で、その記事を読んで、慌てて購入(笑)ほんとよく出来てます。でもその記事がどの雑誌だったか記憶がおぼろげ、、。10-20年位前だったと思うんですけどねえ、、。ご存知の方、ぜひお教え下さい。確かに、再生産品といってもいいくらいよく出来てますし、実物がどうだったのかをよく理解することが出来ます。

特長的な大きなフラップ(蓋)も、拳銃じゃなくて予備弾入れのポケットを覆うためのものであることがよく分かります。ポケットがなければこのフラップほどの大きさは要らないんだな、と。このポケットには、紙箱入りの拳銃弾が収まります。
また、拳銃嚢の中には予備弾倉が一本収納できます(写真のはハドソンの)。ちと大型なのはそういうことです。子供の頃は「あめりかみたいによびのまがじんないのなんで?」って思ってましたけど、ちゃんと入ってたわけです。

要は拳銃嚢だけで一式揃ってるんですね。ちゃんと考えた上で作ってる。こういう風にホルスター1個で完結したパックにしておけば、急に拳銃が必要になった任務に赴く将兵に「ほれ」と簡単に支給することができる。そういう考え方だったんかな?という想像も出来るわけです。こういうのって、レプリカでも実物でも手にしてみないと分からんのですよね。

こちらは中華人民解放軍のトカレフ(っていうか54式)用実物ホルスターと予備弾嚢とベルトのセット。私が持ってるのはほぼレプリカですが、これだけは実物。
中田商店はン十年前、突然人民解放軍の実物装備を販売し始めました。雑嚢や水筒が600円など、メチャクチャ安くてびっくり。ズックの靴も1000円とかでしたね。このホルスターも一式揃って確か5000円でした(実物としては破格)。

しかし、とてもしっかりした作りで青いベルベット(?)の内張りもあり決して安物ではないです。どーでもいーんですけど、赤の方がそれっぽくていいような気がするのですが、よけーなお世話ですね。

不思議なのが、予備弾倉ポーチ。蓋の裏にスタンプで「54式用」とあるのですが、弾倉を入れると写真のように蓋が閉まらない。弾倉を引き出すための革紐(ドイツ軍のルガー用みたいなん。後述)まで付いてて作りはしっかりしてるけど明らかに寸法がおかしい。

ホルスター本体の予備弾倉ポケットはモデルガン(ハドソン)のがピッタリ納まります。なので余計に不思議。なんだろこれ、、、とツイッターで書いたらある方が「マガジンじゃなくてクリップ用ポーチです」と教えてくれました。

試しにマルシンモーゼルのを入れたらピッタシ!!ちとはみ出ますけど蓋は閉まります。

これ、予備弾嚢だったんですねえ、、。ン十年の疑問が氷解。メチャクチャスッキリしました。

で、10連は収まるんですけど9連だとさらにピッタリっぽい(トカちゃんは薬室込みで9発)のです。9連用の専用があったのかなあ、と妄想は続くのでした(笑)でも、多分10連でしょうね。10連用に7ー8発を付けて入れていたのかも。戦中中国軍で愛用されたモーゼルの影がこの頃まで付きまとってたと思うと、なんか感慨深いですね

2丁のトイガンのトカレフは、ひとつがハドソンのHWモデルガンで、もう一つはガスブロです。確かマルゼンが内部機構を提供してハドソンブランドで販売したもの。バッシバシ撃てて超快調でしたね。でも例によって以後ガス漏れでアウト(笑)なんであれ、ハドソンのトカレフはほんと傑作ですねえ、、。

余談ですが、中田商店が人民解放軍の装備を突然発売し出してびっくりした記憶があります。当時(88年ごろ)は共産圏の軍用品って、とてもレアで例えばソ連軍装備などはかなりの高額で売られていました。そもそも入手ルートがないので当然なんですけど。

今から考えると、解放軍は当時装備の刷新を図っていて、昔ながらの装備が不要になったから放出したのかな?と。発売された装備って、ほんと素朴なものでした(第二次大戦中レベル。ほんとほっこりします)。詳しくはないんですけど、タイミング的にそうだったのかなあ、と。まあ、勝手な想像なんですけどね。

閑話休題。これは第二次大戦中のドイツ軍ルガー用レプリカです。これも中田商店製、っていうか今回のは全部そうです。で、このホルスター、銃よりも何回りも大きくて、1/35の小さいパーツで刷り込まれてた私はびっくりしました。

「ホルスター」というカジュアルな(?)表現では収まらない印象。「革製の拳銃用ケース」と呼んだほうがしっくりくるような。とにかくでかくて丈夫なんですよね。大きく堅いので腰に付けてみるとゴロゴロして実にうっとおしい(笑)。これ付けて、例えば気軽に寝そべってるようなフィギュアは作れないなあ、という。

いじってると、これまたとてもよく考えられて作られていることが分かります。まず銃と外界を確実に遮断してるんですね。予備弾倉込みで、ちょっとやそっとの砂塵や泥が銃まで行かないようになってます。

敵の砲爆撃がまずあって「ひえーっ」と避難して口の中まで泥まみれ。次は敵歩兵が突撃してきます。そういう局面で「で、ウチらはそういうトコで拳銃は泥まみれにならないようにしたんすよ。なのでおまいら遠慮せずバンバン撃てよ!」。そういうコンセプト。西部劇のガンマンみたいな撃ち合いは想定してないんですよね。

日ごろはまあそれなりに拳銃の手入れをしてても、戦闘がキツクなるとそれどころじゃなくなる。でも、これくらい密閉したホルスターにいれとけばいざという時もちゃんと撃てるだろうよ、という意図が感じられるわけですね。こういうのはほんと国民性というかなんというか、、、。しかし、その代わり、瞬時に拳銃を抜き出すことは難しくなっています。まさに西部劇のような米軍のガバメント用ホルスターとは対照的です。これはどっちが優れてるかというよりは、「どっちを優先するか」という思想の問題ですよね。

映画「プライベートライアン」で、ホーヴァス軍曹が対峙したドイツ兵と拳銃で撃ち合う場面では、抜きやすいガバメントのホルスターのおかげで軍曹が勝ちました(ドイツ兵はP38だったと思いますが、構造的にはルガーと同じです)。

映画を見ると、ガバタイプが優れてるように思いますけど、実際の戦闘でこういう場面がどれくらいあるのか?と考えると一概にはジャッジできないですよね。兵器や装備の優劣を判断するのってほんと難しいと思います。

で、ドイツらしいきめ細やかさとしては、拳銃を引っ張り出すための革紐(本体からちょろっと出てるやつ)。これを引っ張ると本体が上に出てきます。これがあるとないとで大違い。こういうのがない十四年式のは抜きにくいんですね。この紐は先のトカレフのクリップポーチと同様な仕組み、というかこっちが本家ですね。どうも、中国ではモーゼルC96用のクリップポーチにこの革紐仕様があるようで、ひょっとするとドイツから伝わったのかな?とも。で、日本軍にはこういう風に革紐を使う装備はありません(多分)。便利なんですけどね。お隣の国なんですけど、ちょっとしたことで違う。こういうの面白いですよね。

その他の工夫としては、ベルト用のループが腰に対して若干斜めになるようになってます。よく見ないと気付かないレベルですが、確実に角度をつけている。これは拳銃を少しでも抜きやすくするため。
MP40やStg44の弾倉嚢もそうなってますよね。こういうの、ほんとゲーコマです。さすがドイツ!という。

ルガーはタナカのガスガンです。グリップがないのは、バラしてそのままのを仮組みしたから。ちゃんと再整備して撃てるようにしたいんですけどねえ、、。もう10年くらいほったらかしにしてる、、。私のトイガンってこういうのばっか。あかんですねえ、、。

これはコルトベストポケット(M1908)用の日本軍仕様ホルスターです。モデルガンはコクサイ製の傑作。

この拳銃、日本軍将校が案外使ってたようです。ご覧の通り、めちゃ小さくて完全に護身用。なので上級士官がメインユーザーだったでしょうね。時々前線に赴く士官用の「一応持っとこか拳銃」みたいな。

モデルガンとホルスターをお持ちの方はご存知でしょうけど、このホルスター、買ったままでは絶対にモデルガンが入りません。キッツキツです。で、私はどうしたかというと、かなりの暴挙に出ました。まずホルスターを熱湯につけて、グニャグニャにしました。そして、モデルガンをグイグイ押し込む。なんとか蓋が閉まるまでこれを何度も繰り返します。そして、モデルガンを入れたまま日陰にぶら下げて自然乾燥するまで何日も放置。それでなんとか入るまでになりました。
しかし、ここまで身を切るような(モデルガンずっと水分まみれなんすよ、、)激闘をしたのにもかかわらず、予備弾を入れると蓋は閉まりません。どんだけキツいんや、という、、。ホルスター自体がちょっと小さすぎるのかもしれませんね。でもまあ写真の通り拳銃の形が付いて気に入ってます。

予備弾は実物ダミーカート(合法品)です。予備弾用のループはゆるゆるですっぽ抜けます。本体のキツさとは対照的。でも、まあいいか、、。で、ベストポケットはもともと好きなんですけど、日本軍将校が使ってたというだけで、さらに好きになるという不思議(笑)人の気持ちって勝手なものですね(笑)

というわけでお終いです。

私は基本モデラーなんですけど、こういう「実寸のもの」に触れたときの印象は大事にしたいなと思ってます。これらホルスターは1/35だとほんと小さいちまちましたパーツです。しかし原寸で見ると想像以上に大きいし、細かい機能にいちいち感心してしまいます。

とはいえ先に書いたように軍服とかそういうの全く持ってないんですけどね。軍服やサスペンダーなどにも、いろいろ工夫があるはずで、知りたいとは思ってますけど破算してしまいますからねえ(笑)。でも、出来るだけそういう「現物主義」は大事にしたいと思ってます。例えば飛行機でも戦車でも国内では見る機会は少ないですけど、実際見ると見ないでは大違い。周囲の評価と自分の印象ってほんと違うなと。

白浜で九五式軽戦車、靖国で九七式中戦車を見たときは「でかっ!」って思いました。びっくりしましたね。よく言われるように、ショボイとは全く思えなかったです。「こんなのが「グワーッ」って来たら逃げるよな、、」と。

要は、見る人によって印象は違うってことなんですよね。なので人によって評価も違うんだなあと。それは各々の感受性とか経験・知識とかそういうのが違うので、当たり前なんですけど。とはいえチハを「しょぼっ!」と思うのが間違いかというともちろんそうではない。それはその人の感性であって、その人なりに大事で大切な印象です。

しかし結局、自分は自分なので、自分のその感性を基軸にするしかないわけです。で、そういう感性ってレプリカでも実物でも実際に触れないと発動しないものでもあるので、機会があれば出来るだけ見たいなと思ってます。
今回こういう風に紹介したのは、、そういうことが言いたかったわけです。コレクション自慢とかじゃなくて(ほんとか)

でも現物に触れるってなかなか機会がないですよね。私もなんか偉そうなこと書いてますけどほんと全然「本物」を見たことないんですよ、、。今はコロナなので気軽にあちこちに行けませんからとくにアレですね。でもまあ、そういう気持ちは大事に持っておきたいと思います。

ホルスターはまだいくつか持ってますので、またそのうち第2弾をやりたいと思います。せっかくなのでこういう風にすこしでも減価償却したいですしね(笑)

というわけでまた。

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一〇〇式機関短銃の弾倉嚢をめぐる気の長い冒険

2021年09月26日 | 銃の話題
今回は、一〇〇式機関短銃の弾倉嚢について書きたいと思います。ご存知の通り、一〇〇式は日本軍が制式採用した唯一の機関短銃です。生産数は8000-10000丁程度といわれていますが、確かな数は不明です。軍用銃としてはかなり少ないです。例えば、九九式短小銃は6年間に230万丁も生産されていますので、その少なさがお分かりになるかと。

右側が一〇〇式です。いわゆる前期型です。もちろんモデルガンです。背景は無視してください(笑)サイドマガジン式の銃は、本棚にこうやって差すとイイ感じですよ(笑)

左はベルグマンMP18/Ⅰです。余談ですが、一〇〇式はベルグマンのコピーといわれることが多いのですが、そうではありません。外観をみるとそう思いがちなのですが、内部構造はことごとくベルグマンと違っています。「とにかくコピーしたくない!」という、南部麒次郎氏の意地や気概が感じられるほどです。この点もいつかきちんとブログに書きたいですね。

余談でした。一〇〇式は生産数が少ないためこの銃はほとんど現存しておらず、非常に貴重なものとなっています。当然、弾倉や専用のスリング、手入れ具なども同様で、銃本体よりも珍しい存在です。一〇〇式の多くはアメリカにあるようです。これは、戦場で手に入れた米兵が記念品として持ち帰ったからですね。で、一〇〇式はじめ九六・九九式軽機など弾倉式の銃は、アメリカに持ち込む際に弾倉は廃棄させられたそうです。要は、トロフィーとしてはいいけど銃としてはダメ、ということですね。

そのため、アメリカのこれらの銃は弾倉がないものが多く、弾倉は銃本体よりも貴重なんだそうです。もちろん弾倉込みで持ち込まれた個体もあります。まあ、持ち込みに明確な基準があったかどうかわかりませんし、戦後すぐのことですから検査も緩くてテキトーだったんでしょうね。検査時に別にして隠せばOKだった、とかだったのかも。

余談ですが、弾倉が本体に固定されている十一年式軽機は完全体での持ち込みがOKだったようです。弾倉の取り外しは出来るのですが、なぜかそこまでされてないんですね。この辺からもその検査の緩さが伺えます。で、弾倉持ち込みが禁止だった理由としてはその後犯罪などに使われることを懸念してのものだったんでしょう。何十年も前に、テレビでアメリカの警察を紹介する番組があり、犯罪に使用された押収銃器の保管部屋が出てきました。そこには十一年式軽機がありました。だから外しとかないと(笑)

すぐ余談になってしまいますね。すいません。で、一〇〇式は生産数はじめいろいろと不明な点が多いんですね。弾倉嚢もその一つです。私はもうン十年もガンマニアをやっていますが、一〇〇式の弾倉嚢を見たことがありません。当時の写真も、現存する実物の写真も、です。私はこの弾倉嚢のことを知りたくて知りたくて、緩いながらもアンテナをずーっと張ってたのですが全く引っ掛かりませんでした。どうも、本当に謎の装備のようです。

日本軍の「兵器学教程 一〇〇式機関短銃(昭和十八年)」(要はマニュアル)には「帆布製でベルト付き。弾倉10本が入る」(意訳)とあります。なので、存在したということは間違いないようです。


私の知る限り、唯一紹介されているのが「世界の軍用銃」(光文社文庫)に掲載されているイラストです。

この本のイラストを担当した川越のりと氏が描かれたもので、はっきりと「百式短機関銃用」と書かれています。これはそれを私が模写したもの。ちなみに、この本に限らず「百式短機関銃」と表記されることがあるのですが、正しくは「一〇〇式機関短銃」です。とはいえ、これが認識され出したのはつい最近のことで(私もそんな前から気付いてたわけではないです)、昔の書籍の多くは「百式短機関銃」となってますね。まあこの辺は細かく指摘することでもなくて、知ってる人がそれぞれ判断すればよいんじゃないかと思います。

で、このイラストはとてもリアルでどう考えても写真を元に描いたとしか思えません。氏の銃や装備のイラストは本当に素晴らしく、私の中で最高のイラストレーターの一人です。そもそも、想像で描いたあやふやなものをこういう本に載せるはずがありません。それなら素性のはっきりした別の銃のものを載せればいいですものね。

またまた余談ですが、この本は実に素晴らしいです。ドライゼ撃針銃から始まる近現代の後装式軍用銃の歴史を、多数の氏のイラストや写真を交えながらとてもわかりやすく解説しています。発行が1985(昭和60)年なので、解説はその時点まで(例えばAK74が不明点の多い謎の銃扱いとなってます。当たり前なんですけど隔世の感がありますねえ、、)なんですが、軍用銃の歴史を知る入門書としては最高です。大きな縦軸を知ることで、全体がよく理解できるんですね。その後知識を追加していく際に、こういう幹を把握しておくことの大切さがよくわかります。軍用銃のことを知りたいけど、どんな本がいいのかわからないという人には超お薦めです。私もこれを小学校高学年のころ買って、何度も何度も読んだものです(やな子供だなあ、、)。

私は当時から日本軍スキーで、この本の日本銃器の情報はかなり貴重なものでした。そしてもちろん一〇〇式機関短銃も大好きでした。タナカの100式のモデルガン、死ぬほど欲しかったですけどもちろん無理でしたね、、。(先のモデルガンは20歳ごろにようやく買ったものです。この頃でも死ぬかと思った、、。)。でも情報だけでも、と思ってたのでこの弾倉嚢のイラストはとても嬉しかったです。

しかしその後、GUN誌やコンバットマガジンをずっと見ていても、一〇〇式について紹介されることはなく、情報の少ない状況は続きました。古本の過去のこれらの雑誌をあさって、実銃のレポートなどがあれば狂喜してました。で、どうも過去の専門誌でも一〇〇式の弾倉嚢が紹介されたことはないようでした。で「じゃああのイラストは何を参考に描いたんだろう」とずっと疑問に思っていました。今と違ってネットなんてありませんし、地方の中高生が専門的な情報を得ることはまあ難しかったんですよ。古本屋を定期的に何件も回って、専門誌を漁るくらいしかその手段はありませんでした。

大人になってから、徐々に日本軍関係の資料が手に入るようになりました。先のマニュアルもそうです。でも、弾倉嚢についてはわからない。ネット環境が充実してからはウェブ上であれこれ調べてみましたが、どうもやっぱりほんとに幻の存在なのは間違いないようでした。

というわけで現在の話になります。少し前に、このブログを見てくださっているというアメリカ在住の日本軍銃器コレクターの方(便宜上X氏と呼ぶ)からメールをいただきました。以前、十四年式のエントリーで、いただいた情報を紹介させてもらった方です。X氏はほんとに凄いコレクター(南部式甲型のストック付きや、三十五年式海軍銃などを「普通に」持ってる方、と言えばおわかりになるかと、、)で、私はこれ幸いとあれこれと質問して、丁寧に答えていただきました。

当然、一〇〇式の弾倉嚢のことも聞いてみました。しかしX氏ご自身も見たことがなく、さらに知人のコレクターの方にも問い合わせて下さいました。このコレクター(以下Y氏)は、一〇〇式本体はもちろん、手入れ具嚢(当然中身入り!)まで持っているという、これまた濃い方です。しかし、Y氏も見たことがない、とのことでした。

ご存知の通り、アメリカの濃いコレクターというのは桁違いで、頭がくらくらするほどです。X氏から「射撃会の動画と画像が出てきたので送ります」というので観てみたら、九七式車載重機や九八式旋回機銃を撃ってましたからね、、。で、そういう方々すらも見たことがない、というなら本当に幻なんでしょう。うーん、やっぱりなかなかないもんだなあ、、と。

しかし先日、ツイッターの私の投稿(日本軍の試作機関短銃の話題)に、ある方(以下Z氏)がコメントを下さいました。いろいろと示唆をいただいて、興味を持ってZ氏のツイッターを覗いたところ、弾倉嚢らしい装備が写っている書籍を紹介されているではありませんか!これがそのページ。

Z氏に質問したところ、これは大戦中に米軍が作成したレポートでした。タイトルは「JAPANESE PARACHUTE TROOPS」です。要は、日本軍の空挺部隊についての調査報告です。こういう風に敵国について調べたことをまとめて、軍内に周知するために本にして配布していたんですね。

ネットを探ると、米国の公立の文書館と思われる(はっきりした施設名がわからんかった、、)サイトで原本が全頁公開されていました。凄い時代になったもんですねえ、、。Z氏は原本の該当ページのスキャンデータまで送ってくださいました。この場を借りてお礼申し上げます。これらの写真はそのデータのものです。で、上の写真のUPがこれ。


これは恐らく弾倉嚢です。左のベルトはこれ用のものでしょう。マニュアルの「帆布製でベルト付き。弾倉10本が入る」という条件と合致しているように見えます。しかし、少し小さくて10本も入るかな?という気もします。

そして、川越氏のイラストとも酷似しています。ひょっとすると、川越氏はこの写真を元に描いたのではないでしょうか。

厳密に比較するとフラップやそのベルトの形状・長さが違うようにも見えます。しかし、「世界の軍用銃」の説明では「弾倉4-5本を収納」となってます。そのつもりで見てみると、写真のものも4-5本くらいかな?という気もします。なんにせよ、35年も前の本ですし、また川越氏は故人(ご冥福を心よりお祈り致します、、)となられていますので、この点については確認のしようがありません。

というわけで疑問点もあるのですが、何であれこの写真で弾倉嚢がどんなものだったのかが初めてわかりました。とはいえ、写真説明にそう書いてあるわけではなく、確定したわけではないのですが。ただ、手入れ具嚢の形状とは全く違っていますので、多分間違いないんじゃないかなあ、と。

さらに、先に書いたようにこの弾倉嚢がマニュアルのものと同一という確証はありません。空挺部隊用に独自に製作された可能性もありますし、かつ陸上の部隊用も含め一〇〇式用のスタンダードタイプだったかどうかもわかりません。結局、わからないんですね(笑) ただ、一歩前進したことは間違いないのです。

佐山二郎氏の「小銃拳銃機関銃入門」(光人社NF文庫)では一〇〇式の弾倉嚢は「九九式弾倉帯甲を流用し、2つに弾倉各4本、計8本を収納した」(意訳)とあります。これの元となる資料はなんなのかもちろん私にはわからないのですが、佐山氏が根拠なく書くはずはありませんので実際はそういうことだったんだろうな、と思います。マニュアルに専用の弾倉嚢があると書かれていても、実際はそれが以後継続して量産されたわけではない可能性は高いかも、と。

実際、一〇〇式を持つ義烈空挺隊員が九九式の弾倉嚢を身に付けている写真があります。奥山隊長が隊員を後ろに軍刀を掲げる有名な写真の、隊長のすぐ右後ろの隊員です。
彼は一〇〇式を持って、軽機弾倉嚢を装備してます。彼は軽機班員で九九式の弾倉嚢を持っている可能性もあります。しかし、なんとなーくですがその弾倉嚢は一〇〇式の弾倉らしきカーブが見えるような気がします(→1)。気のせい、かもですが。右側には軽機用弾薬嚢をさげています。明らかにパンパンで形状が歪んでます(→2)。義烈では軽機弾薬嚢は大きくて使い勝手がよかったようで、本来以外の用途で使っている場合もあるようです。軽機班員でないのなら、何が入ってるんでしょうね、、。そして一〇〇式の銃身部の冷却口部分に白い何かを巻いています(→3)。銃の機能を高めるために、ここに何かを巻く必要があることはないでしょう。なんらかの識別用なのか、日章旗などを巻いているのかはわかりません。左隣の隊員の一〇〇式には見られませんので、とにかく何かを巻いていることは間違いないようです。

弾倉嚢からちょっと話が逸れましたが、こういう風に写真をじっくり見ていると次々に疑問点が出てきますね。うーん、、。

というわけで、先にも書きましたがとりあえず一歩前進です。今後また新しい発見があるかもしれませんので気長にやっていこうと思ってます。まあ、なんでこんなに粘着しているのか自分でもよくわからないのですが(笑)、まあ趣味ってそういうもんですよねえ、、。それにしてもン十年もこの疑問を引っ張ってるって、さすがにアレですねえ、、。でもまあ、いいですよね、、。

最後に、貴重な情報を提供してくださったX氏(ご無沙汰していますがお元気でしょうか?)、Z氏(この度は本当にお世話になりました!)には心からお礼申し上げます。

というわけでまた。


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