義烈空挺隊員のフィギュアは、もうちょっとで塗装に入れるところまで進みました。やれやれ、、と思いきや、驚愕の展開に!続きはこの後すぐ!(笑)
軍跨の造型は「その3」(リンク先は最後に貼ってます)から何度かやり直しました。「その3」でも書きましたが、日本軍のオーソリティのS氏に「日本軍の軍跨っぽくないね」という指摘をいただきまして、なんだかんだで3-4回は作りなおしたかも、、。
お尻の部分もだらんとした感じです。なので、その辺を念頭に置いて再度造型してみました。
なんとかそれっぽくなったかな?とも思いますし、まだまだかな?という気もします。
でも、やり直しすぎて訳がわからんようになってしまいました。「立体版ゲシュタルト崩壊」、みたいな(笑)もうギブアップです。これでいきます。再々ではありますが、指摘してくださったS氏には感謝の言葉もありません。振り返ってみると、以前の造型ではかなりもうひとつだった、ということがよくわかります。ほんと、ありがとうございました!
というわけで、造型についてはほぼ目処がついて、あとは全体の仕上げをすれば塗装に入れるところまできました。
振り返ると、着手してからもう2年半以上が経ってます。「やれやれ、、」と思ってたまさにその頃、こういう本が出ました。
「義烈空挺隊の晴姿」(大木浩明・著)という本です。いわゆる自費出版の同人誌です。
40ページほどの冊子です。この本、メチャクチャ凄いです。義烈空挺隊の装備が、当時の写真や現存の装備などを交えながら、オールカラーで非常に詳しく解説されています。
私のフィギュアの製作に当たって、疑問に思ってたことが逐一解説されてまして、なんというか「目から鱗」を、「絵に描いて額に入れて壁に掛けたような」(by金田)本です。著者の大木氏は、膨大な資料と知識を元に、隊員の各種装備を解説しており、不明点や疑問点についての論考も実に明確・公正なのも素晴らしいです。やー、ほんと凄いです。今手に入るかどうかはちょっとわからないのですが、今年8月の発行ですので、入手できる可能性は高いと思います。興味のある方は探してみてください。
以前の製作記のエントリーではイラストを交えて、装備についてあれこれ書きました。でもほとんどが推測憶測、という「なんちゃって解説」でした。今回、この本で知った点について書いてみます。イラストの番号に対応していないところはパスして下さい。
まずは全体。
3・軍衣跨の迷彩は墨を塗ったもの、というのがこれまでの定説でした。しかし、実際は緑色のペンキを塗ったという可能性が高いようです。当時の証言や、出撃の様子を書いた新聞記事では「緑」という記述があるとか。この辺については、大木氏は断定を避けてはいますが、少なくとも「緑色で塗られた迷彩服」は存在したようです。本を読んだ私の感想としては「墨塗りの迷彩はなく、全て緑のペンキだった」んだろうな、と。これを知ることができただけでも大収穫でした。氏の「墨か緑のペンキか」という考察は非常に興味深いです。ミリタリー雑誌の紹介記事や過去のオークションに出品された「現物といわれる軍衣」に対する論考は、かなり鋭くてかつ読ませるものでした。読んでて「うわー、俺はやっぱアマちゃんだなあ!」としみじみしてしまいましたね(笑)
4・九四式拳銃と弾倉・弾薬を収納する「二式弾帯」は、正しくは「九四式拳銃弾帯」なんだそうです。「二式」は、小銃弾を収納する「一式」のようなものだったとか。
5・銃剣は、やはり三十年式でした。前期・後期型が混在してるそうです。
6・一〇〇式機関短銃の装備数は指揮班・攻撃班(120人くらい?)の中では37丁と、思ったよりも少なかったです。それ以外のパイロットを含む3独飛や、中野学校からの派遣隊員の装備数は不明ですが、写真などから見ると3独飛の装備率は高そうだ、とのこと。
7・吸着爆雷は形状が違ってました。吸盤は、本体側面の出っ張りに付いてます。
ここまでは作ってたのですが、もちろん、作りなおし(笑)。でも、詳細がわかってほんとよかったです。
イラスト2
4・略帽の後ろの札みたいなものは、やはり識別用のものでした。夜光塗料が塗られてたそうです。
5・リュックは英軍のP37でした。これは、別の資料ですでに知ってたのですが、確証が得られました。でも、大小の2種類があったのは知りませんでした。太平洋戦争の緒戦で、ラングーンで挺身第一連隊が鹵獲したものが、義烈空挺隊(母体は同連隊)に回ってきたとのことです。
イラスト3
2・機関短銃の弾帯は弾倉10本入りとのこと。
4・袖のポケットは爆薬の点火具や雷管などを入れておくためのものらしいのですが、手榴弾を入れている隊員もいる、とのこと。
という感じです。で、本を読んで一番「困ったなあ」となったのが機関短銃の弾倉嚢でした。
手持ちの資料でははっきり判別できなかったので、なんとなく「6本差しでいいか。ドイツとかも6本だし」とそうしたんですね。要するに、作り直しです。ああ、、、。また、サスペンダー状のベルトが付いていたようです。そのつもりで資料を見ると、確かに付いてます。弾倉嚢の総重量を考えると、ないとちょっとキツイですよね。これも、また作りなおしです、、。うう、、。
とはいえ、ほんとに10本差しだったのかな?という疑問はあります。10本だとちょっと多すぎて、資料写真のような感じにはならない気がするんですね。
こういうときは実際にやってみるのに限ります。モデルガンの弾倉を、10本分型取ってみました。
で、これを腹に巻いてみると、収まるのは収まりそうです。でも、弾倉の間隔は写真で見るともう少し広いので、わき腹まで届きそうな感じです。私は大柄な方なので、当時の日本人の体格だと、下手すると背中側にまで届くかもです。なので、やっぱちょっと多いかもなあ、と。現実的に考えると、8本くらいが妥当かなあという気がします。しかし、大木氏は「10本」と断定されてます。本の中の氏の記述は、とにかく考証に考証を重ねておられ、推測を元に断定されることは極力避けられているような印象です。なので、その根拠となる写真があったのだと思います。あるならぜひ見てみたいですね。
しかし、ここでは個人的な考察をあえて書いてみます。私の手持ちの資料(関連書籍はもちろん、写真をネットで集めたり、小柳次一氏の写真展に行ってメモをしたり、知人にDVDをお借りしたり、という感じです)「日本ニュース 252号」の「義烈空挺隊」https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300380_00000&seg_number=002の回の中で、機体に乗り込む隊員を、機内から写したカット(5分32秒ごろ)があり、私の知る限り、これが弾倉嚢を一番よく判別できるものです。
NHKのサイトでは、画質的にわかりづらいのですが、テレビ熊本の特番では、このニュース映像が正式に使用されてまして、かなり鮮明に見ることができました(協力して下さった某氏にはこの場をお借りしてお礼申し上げます)。今回、改めてそれを見ると、やっぱり10本は入ってそうには見えず、一番わかるコマでも数えられるのは7本です。弾倉間の間隔も、上の私の型取り写真のそれよりもかなり広いです。他のカット(機体に向かう隊員たちの姿・5分18秒ごろ)では、チラッと弾倉嚢の端が見えるのですが、前述の正面のカットと比較すると、10本収容できる全幅はないように思います。
弾倉は1丁につき10本が支給されてたそうです。なので10本差しが妥当なんでしょうけど、、、うーん、ほんとにわからない、、、。もうちょっと考え&調査はしてみますが、今のところは8本にしようかなと思ってます。2本は雑嚢などに入れてた、ということで、、。
余談ですが、一〇〇式についてはよくわからないことが多いです。そもそも、総生産数すらも判明していないんですよね。
こちらは、私の手持ちの資料です。「昭和18年 兵器学教程 一〇〇式機関短銃」(要はマニュアル)のコピー。後期型は昭和19年からの生産なので、前期型のものとなります。当然、図も取り扱い方も、前期型のものです。この時点では、1丁につき弾倉は20本が付く、となってます。
余談の余談ですが、今回改めてみて気付いたのが発射速度が700発/分という点。一般的には前期型は450発・後期型は800発とされてるんですけど、どちらとも違ってますね。うーん、わけわかめ。また「十四年式拳銃弾を使用する」となってるのですが、機関短銃用と思われる強装弾があったそうです(これは別の本「日本軍の拳銃」(ホビージャパン)で知りました)。で、その強装弾は、後期型から使われてたのかなあ?と。しかし、強装弾を使うと、九四式拳銃との共有が出来なくなります。九四式は構造的に華奢なので、強装の度合いにもよりますが、基本的に危ないんじゃないかと。じゃあ、一〇〇式も普通弾にしてたのかな?でも、こういう作戦なら強装弾の方が絶対いいよなあ、、とかとか。やっぱり、結局、わけわかめのわからんちん、です。私の考察ってほんと、こんなのばっか(笑)。
で、付属品の項目の「弾倉嚢」の解説では「10本を入れる」となってます。なので、1丁に20本付けるのは後期型でも変わらず、隊員への支給は10本で、残りは予備として保管されてたのかもしれませんね。
そして、この弾倉嚢がどんな形状だったのかもわかりません。どこかに写真なり現物があるとは思うのですが、、。日本軍の機関短銃の弾倉嚢については、あれこれ思うところがあるので、また改めて書いてみたいと思ってます。
閑話休題。というわけで、弾倉嚢以外は、まあ大枠では大体このままでいけそうな感じではあります。
マスコットの人形は「日本ニュース」に登場してます。でもちょっとアレンジしてます。これを付けた隊員は「義烈空挺隊」と書いた小さな幟も付けてますが、それは再現しようかどうかは考え中です。
「輸送機を敵飛行場に不時着させ、そこから飛び降りた隊員が敵機を破壊する」という作戦は戦史上では唯一無二です。実に壮絶な作戦です。そういう作戦に、こういう人形を装備に付けて出撃した、というのはなんというか、なんともいえないというか、、。なんであれ、製作に当たっては外せない要素だ、と最初から思ってました。
突入した隊員は、当然ながら全員が氏名も階級も判明しています。このマスコットの隊員の氏名もわかるんじゃないかと。しかし、この作品については特定の隊員を再現するのではなく「義烈空挺隊全体」をモデルとして「象徴的な隊員の姿を再現する」というスタンスで取り組んでいます。なので、装備の組み合わせなどについてはかなり個人的なアレンジを加えています。いまさら、製作スタンスを書くのもアレですが(笑)、そういう感じなんですね。
一〇〇式は、以前のエントリーでも紹介しましたね。塗装してからかなり時間が経ってるので(汗)、油絵具もさすがに完全乾燥したようです。絵具のムラが木目調になってくれてます。これは予期してなかったので、ちょっと嬉しいです(笑)。
銃剣の鍔は、先が丸く曲がった初期型にしてたのですが、何度もつけたり外したりしてたら後期型になってしまいました(泣)これもまた修正しないと、、。
P37リュックは、今回の本で詳細がわかったので、あれこれ修正しなければなりません。フラップの形状と縫い目、金具の形状が違ってます。大きさはもう一回調べてみます。違ってたら全部やり直しですねえ、、。
また、破甲爆雷のケースの縫い目も違うので、これまたやり直しです。あはは。
というわけで、塗装寸前まで来てたのですが、いろいろとやり直しになってしまいました。あれこれ考えると、完成は早くても一年くらい先ですねえ、、、。でも、このタイミングでこの本に出合えて、ほんとによかったです。作品の題材的に、自分のできる限りの知識と技術を駆使しなければならないと思ってますので「もし完成してしまってたら、、、」と思うと冷や汗が出ます。「3歩進んで2歩下がる」という感じではありますが、ほんとそれくらいのつもりで今後も取り組んでいこうと思ってます。
それにしても、地道に調査・研究を重ねて、素晴らしい本にされた大木氏には感謝の言葉もありません。こういう真摯な研究者がおられるからこそ、私のようなモデラーが何かを作れるんだ、ということは常に肝に銘じておきたい、と思ってます。
製作記の過去のエントリーはこちらです。興味のある方はぜひご覧下さい。
第1回
https://blog.goo.ne.jp/morio1945/e/f0e513348ff7d038f701319848baecd2
第2回
https://blog.goo.ne.jp/morio1945/e/85fe47777882ae896d2e136f18120081
第3回
https://blog.goo.ne.jp/morio1945/e/63281e0f10b3fdd84ffbecc18a3e9e98
軍跨の造型は「その3」(リンク先は最後に貼ってます)から何度かやり直しました。「その3」でも書きましたが、日本軍のオーソリティのS氏に「日本軍の軍跨っぽくないね」という指摘をいただきまして、なんだかんだで3-4回は作りなおしたかも、、。
お尻の部分もだらんとした感じです。なので、その辺を念頭に置いて再度造型してみました。
なんとかそれっぽくなったかな?とも思いますし、まだまだかな?という気もします。
でも、やり直しすぎて訳がわからんようになってしまいました。「立体版ゲシュタルト崩壊」、みたいな(笑)もうギブアップです。これでいきます。再々ではありますが、指摘してくださったS氏には感謝の言葉もありません。振り返ってみると、以前の造型ではかなりもうひとつだった、ということがよくわかります。ほんと、ありがとうございました!
というわけで、造型についてはほぼ目処がついて、あとは全体の仕上げをすれば塗装に入れるところまできました。
振り返ると、着手してからもう2年半以上が経ってます。「やれやれ、、」と思ってたまさにその頃、こういう本が出ました。
「義烈空挺隊の晴姿」(大木浩明・著)という本です。いわゆる自費出版の同人誌です。
40ページほどの冊子です。この本、メチャクチャ凄いです。義烈空挺隊の装備が、当時の写真や現存の装備などを交えながら、オールカラーで非常に詳しく解説されています。
私のフィギュアの製作に当たって、疑問に思ってたことが逐一解説されてまして、なんというか「目から鱗」を、「絵に描いて額に入れて壁に掛けたような」(by金田)本です。著者の大木氏は、膨大な資料と知識を元に、隊員の各種装備を解説しており、不明点や疑問点についての論考も実に明確・公正なのも素晴らしいです。やー、ほんと凄いです。今手に入るかどうかはちょっとわからないのですが、今年8月の発行ですので、入手できる可能性は高いと思います。興味のある方は探してみてください。
以前の製作記のエントリーではイラストを交えて、装備についてあれこれ書きました。でもほとんどが推測憶測、という「なんちゃって解説」でした。今回、この本で知った点について書いてみます。イラストの番号に対応していないところはパスして下さい。
まずは全体。
3・軍衣跨の迷彩は墨を塗ったもの、というのがこれまでの定説でした。しかし、実際は緑色のペンキを塗ったという可能性が高いようです。当時の証言や、出撃の様子を書いた新聞記事では「緑」という記述があるとか。この辺については、大木氏は断定を避けてはいますが、少なくとも「緑色で塗られた迷彩服」は存在したようです。本を読んだ私の感想としては「墨塗りの迷彩はなく、全て緑のペンキだった」んだろうな、と。これを知ることができただけでも大収穫でした。氏の「墨か緑のペンキか」という考察は非常に興味深いです。ミリタリー雑誌の紹介記事や過去のオークションに出品された「現物といわれる軍衣」に対する論考は、かなり鋭くてかつ読ませるものでした。読んでて「うわー、俺はやっぱアマちゃんだなあ!」としみじみしてしまいましたね(笑)
4・九四式拳銃と弾倉・弾薬を収納する「二式弾帯」は、正しくは「九四式拳銃弾帯」なんだそうです。「二式」は、小銃弾を収納する「一式」のようなものだったとか。
5・銃剣は、やはり三十年式でした。前期・後期型が混在してるそうです。
6・一〇〇式機関短銃の装備数は指揮班・攻撃班(120人くらい?)の中では37丁と、思ったよりも少なかったです。それ以外のパイロットを含む3独飛や、中野学校からの派遣隊員の装備数は不明ですが、写真などから見ると3独飛の装備率は高そうだ、とのこと。
7・吸着爆雷は形状が違ってました。吸盤は、本体側面の出っ張りに付いてます。
ここまでは作ってたのですが、もちろん、作りなおし(笑)。でも、詳細がわかってほんとよかったです。
イラスト2
4・略帽の後ろの札みたいなものは、やはり識別用のものでした。夜光塗料が塗られてたそうです。
5・リュックは英軍のP37でした。これは、別の資料ですでに知ってたのですが、確証が得られました。でも、大小の2種類があったのは知りませんでした。太平洋戦争の緒戦で、ラングーンで挺身第一連隊が鹵獲したものが、義烈空挺隊(母体は同連隊)に回ってきたとのことです。
イラスト3
2・機関短銃の弾帯は弾倉10本入りとのこと。
4・袖のポケットは爆薬の点火具や雷管などを入れておくためのものらしいのですが、手榴弾を入れている隊員もいる、とのこと。
という感じです。で、本を読んで一番「困ったなあ」となったのが機関短銃の弾倉嚢でした。
手持ちの資料でははっきり判別できなかったので、なんとなく「6本差しでいいか。ドイツとかも6本だし」とそうしたんですね。要するに、作り直しです。ああ、、、。また、サスペンダー状のベルトが付いていたようです。そのつもりで資料を見ると、確かに付いてます。弾倉嚢の総重量を考えると、ないとちょっとキツイですよね。これも、また作りなおしです、、。うう、、。
とはいえ、ほんとに10本差しだったのかな?という疑問はあります。10本だとちょっと多すぎて、資料写真のような感じにはならない気がするんですね。
こういうときは実際にやってみるのに限ります。モデルガンの弾倉を、10本分型取ってみました。
で、これを腹に巻いてみると、収まるのは収まりそうです。でも、弾倉の間隔は写真で見るともう少し広いので、わき腹まで届きそうな感じです。私は大柄な方なので、当時の日本人の体格だと、下手すると背中側にまで届くかもです。なので、やっぱちょっと多いかもなあ、と。現実的に考えると、8本くらいが妥当かなあという気がします。しかし、大木氏は「10本」と断定されてます。本の中の氏の記述は、とにかく考証に考証を重ねておられ、推測を元に断定されることは極力避けられているような印象です。なので、その根拠となる写真があったのだと思います。あるならぜひ見てみたいですね。
しかし、ここでは個人的な考察をあえて書いてみます。私の手持ちの資料(関連書籍はもちろん、写真をネットで集めたり、小柳次一氏の写真展に行ってメモをしたり、知人にDVDをお借りしたり、という感じです)「日本ニュース 252号」の「義烈空挺隊」https://www2.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/jpnews/movie.cgi?das_id=D0001300380_00000&seg_number=002の回の中で、機体に乗り込む隊員を、機内から写したカット(5分32秒ごろ)があり、私の知る限り、これが弾倉嚢を一番よく判別できるものです。
NHKのサイトでは、画質的にわかりづらいのですが、テレビ熊本の特番では、このニュース映像が正式に使用されてまして、かなり鮮明に見ることができました(協力して下さった某氏にはこの場をお借りしてお礼申し上げます)。今回、改めてそれを見ると、やっぱり10本は入ってそうには見えず、一番わかるコマでも数えられるのは7本です。弾倉間の間隔も、上の私の型取り写真のそれよりもかなり広いです。他のカット(機体に向かう隊員たちの姿・5分18秒ごろ)では、チラッと弾倉嚢の端が見えるのですが、前述の正面のカットと比較すると、10本収容できる全幅はないように思います。
弾倉は1丁につき10本が支給されてたそうです。なので10本差しが妥当なんでしょうけど、、、うーん、ほんとにわからない、、、。もうちょっと考え&調査はしてみますが、今のところは8本にしようかなと思ってます。2本は雑嚢などに入れてた、ということで、、。
余談ですが、一〇〇式についてはよくわからないことが多いです。そもそも、総生産数すらも判明していないんですよね。
こちらは、私の手持ちの資料です。「昭和18年 兵器学教程 一〇〇式機関短銃」(要はマニュアル)のコピー。後期型は昭和19年からの生産なので、前期型のものとなります。当然、図も取り扱い方も、前期型のものです。この時点では、1丁につき弾倉は20本が付く、となってます。
余談の余談ですが、今回改めてみて気付いたのが発射速度が700発/分という点。一般的には前期型は450発・後期型は800発とされてるんですけど、どちらとも違ってますね。うーん、わけわかめ。また「十四年式拳銃弾を使用する」となってるのですが、機関短銃用と思われる強装弾があったそうです(これは別の本「日本軍の拳銃」(ホビージャパン)で知りました)。で、その強装弾は、後期型から使われてたのかなあ?と。しかし、強装弾を使うと、九四式拳銃との共有が出来なくなります。九四式は構造的に華奢なので、強装の度合いにもよりますが、基本的に危ないんじゃないかと。じゃあ、一〇〇式も普通弾にしてたのかな?でも、こういう作戦なら強装弾の方が絶対いいよなあ、、とかとか。やっぱり、結局、わけわかめのわからんちん、です。私の考察ってほんと、こんなのばっか(笑)。
で、付属品の項目の「弾倉嚢」の解説では「10本を入れる」となってます。なので、1丁に20本付けるのは後期型でも変わらず、隊員への支給は10本で、残りは予備として保管されてたのかもしれませんね。
そして、この弾倉嚢がどんな形状だったのかもわかりません。どこかに写真なり現物があるとは思うのですが、、。日本軍の機関短銃の弾倉嚢については、あれこれ思うところがあるので、また改めて書いてみたいと思ってます。
閑話休題。というわけで、弾倉嚢以外は、まあ大枠では大体このままでいけそうな感じではあります。
マスコットの人形は「日本ニュース」に登場してます。でもちょっとアレンジしてます。これを付けた隊員は「義烈空挺隊」と書いた小さな幟も付けてますが、それは再現しようかどうかは考え中です。
「輸送機を敵飛行場に不時着させ、そこから飛び降りた隊員が敵機を破壊する」という作戦は戦史上では唯一無二です。実に壮絶な作戦です。そういう作戦に、こういう人形を装備に付けて出撃した、というのはなんというか、なんともいえないというか、、。なんであれ、製作に当たっては外せない要素だ、と最初から思ってました。
突入した隊員は、当然ながら全員が氏名も階級も判明しています。このマスコットの隊員の氏名もわかるんじゃないかと。しかし、この作品については特定の隊員を再現するのではなく「義烈空挺隊全体」をモデルとして「象徴的な隊員の姿を再現する」というスタンスで取り組んでいます。なので、装備の組み合わせなどについてはかなり個人的なアレンジを加えています。いまさら、製作スタンスを書くのもアレですが(笑)、そういう感じなんですね。
一〇〇式は、以前のエントリーでも紹介しましたね。塗装してからかなり時間が経ってるので(汗)、油絵具もさすがに完全乾燥したようです。絵具のムラが木目調になってくれてます。これは予期してなかったので、ちょっと嬉しいです(笑)。
銃剣の鍔は、先が丸く曲がった初期型にしてたのですが、何度もつけたり外したりしてたら後期型になってしまいました(泣)これもまた修正しないと、、。
P37リュックは、今回の本で詳細がわかったので、あれこれ修正しなければなりません。フラップの形状と縫い目、金具の形状が違ってます。大きさはもう一回調べてみます。違ってたら全部やり直しですねえ、、。
また、破甲爆雷のケースの縫い目も違うので、これまたやり直しです。あはは。
というわけで、塗装寸前まで来てたのですが、いろいろとやり直しになってしまいました。あれこれ考えると、完成は早くても一年くらい先ですねえ、、、。でも、このタイミングでこの本に出合えて、ほんとによかったです。作品の題材的に、自分のできる限りの知識と技術を駆使しなければならないと思ってますので「もし完成してしまってたら、、、」と思うと冷や汗が出ます。「3歩進んで2歩下がる」という感じではありますが、ほんとそれくらいのつもりで今後も取り組んでいこうと思ってます。
それにしても、地道に調査・研究を重ねて、素晴らしい本にされた大木氏には感謝の言葉もありません。こういう真摯な研究者がおられるからこそ、私のようなモデラーが何かを作れるんだ、ということは常に肝に銘じておきたい、と思ってます。
製作記の過去のエントリーはこちらです。興味のある方はぜひご覧下さい。
第1回
https://blog.goo.ne.jp/morio1945/e/f0e513348ff7d038f701319848baecd2
第2回
https://blog.goo.ne.jp/morio1945/e/85fe47777882ae896d2e136f18120081
第3回
https://blog.goo.ne.jp/morio1945/e/63281e0f10b3fdd84ffbecc18a3e9e98