森男の活動報告綴

身辺雑記です。ご意見ご感想はmorinomorio1945(アットマーク)gmail.comまで。

ごっつええ感じの銃選手権・番外(なんちゃって日本軍小火器編 その2・完)

2020年06月13日 | イラスト集
前回に続いて第2回です。「日本軍にこんな銃があったらよかったのになー」という私の妄想をイラストで紹介しています。いつものことかもですが今回も脱線脱線、また脱線の繰り返しでありまして、非常に長いです。「こいつはなんでこんなことを必死にやってるんだろう」と思われても仕方がありません。でもまあ、古今東西、趣味というのはそういうものではないでしょうか。そうあるべきではないでしょうか(と、川原で夕日を遠い目で眺める)。

と、まあ、私のそんな無意味な意見はおいといて(笑)、すすめます。前回も書きましたが以下に紹介する銃は全て真っ赤なウソです。しかし、文中には史実もちょこまかと織り交ぜています。非常にタチが悪いのですが、その辺は筆者のタチの悪さと少なからずシンクロしております。これはもう仕方がありません。ご了承下さい。「妄想の経緯」については、それを思いつくに至った、ホントのことを書いてます。実にややこしくまぎらわしいのですが、重ね重ねご了承下さい。

●試製一型機関騎銃A号
世界初の実用アサルトライフルとなったドイツのMkb42(H)は、昭和18年、日本とドイツを潜水艦で往来する「遣独潜水艦作戦」によって日本にもたらされました。それを参考に、日本でも開発がスタートし、最初に完成したのがこの試製一型機関騎銃A号です。当然、連・単射可能で弾倉は30連です。
1→銃身の上にガスパイプが付きます。その他、構造はMkbと同じ。ガスピストン・オープンボルト・ティルトロックです。セレクターは反対側にあるようですが、形式は不明。
2→各部はプレス製に見えますが、当然全部削り出し。コスト高い!でも仕方ないのです、、。ソ連ですら、AK47の本体は削り出しで、AKMまでプレスで作れなかったことを考えると、ドイツって凄かったんだなあ、と。
3→銃剣は当然付きます。日本軍ですからね!(笑) ところでMkbは着剣できたのに、Stgは着剣装置がなくなったのは何でなんでしょうね?MP扱いという認識だったんですかね?あった方が絶対カッチョいいのに、、。

A号はMkbと比べると、少し小型です。弾薬が小口径だったこともあるのでしょうが、意図的に小型にしたような印象です。そのためか、反動がやや強く、強度的にも不安が残ったようです。そのため、開発は数丁の試作で終了しています。

妄想の経緯 Mkb42は、ドイツ軍の制式ライフル弾(8ミリモーゼル)を短縮した7・92ミリクルツ弾を使用し、これまでの自動小銃やサブマシンガンとは違う、まったく新しい種類の銃でした。ライフル弾は強力ですが反動が強く、連射するのには不適で、拳銃弾は逆に威力が弱く遠射には力不足でした。実際の戦闘ではどちらも長短があり、この間を埋めるべく開発されたのがクルツ弾(短小弾)を使用するMkb42だった、という訳です。後に突撃銃(アサルトライフル)と呼ばれることになるこの銃種は、戦後、世界の軍用銃の主流となりました。現在各国の軍隊が装備しているのがそれです。

拳銃でも自動小銃でも機関銃でも、ドイツは常に世界の先端をいっており、突撃銃でも同様でした。しかし、日本軍も短小弾の研究開発は進められていて、三八式実包を短縮した、試製九五式実包という弾薬が開発されていました。名称の通り1935年ごろのことで、これ実は時期的に世界初なのです。

しかし、あくまで九五式は機関短銃用として開発されたようです。機関短銃用としては威力が強すぎるということで、途中で拳銃弾の8ミリ南部弾仕様に変更されました。ここで、九五式用に強度の高い銃(重量を重くし、閉鎖機構を追加するなど)にすればひょっとすると世界初の突撃銃となった可能性もあります。しかし、Mkbの開発経緯をみれば分かるように、兵器の開発において大事なのはコンセプト・目的です。

これは兵器に限らず、工業製品の開発プロセスとして重要なポイントです。例えば、田んぼ周辺の細い道で走れる軽トラを開発中に、たまたま強いエンジンができたからといって、そのエンジンありきで車体を大きくするというのは本末転倒です。なので九五式がいくら先進的な銃弾だったとしても、機関短銃の開発を目的としていた日本としては、銃弾を優先して銃を開発しなおすということは、まあありえなかったでしょう。

しかし、時代は少し進み、軍は太平洋戦争の戦訓からドイツ同様機関短銃と小銃の間を埋める銃種の必要性を認識しはじめてていたら、、、そのタイミングでMkbがドイツから届いてたら、、と妄想したのが和製Mkbというわけです。Mkbはドイツ語でマシーネンカラビナー、英語だとマシンカービンです。直訳して機関騎兵銃・機関騎銃としてみました。Stg→シュツルムゲベール→アサルトライフル→突撃銃という呼称は、この時期にはまだちょっと早いかなと思ったので止めました。つーか、機関騎銃の方がそれっぽいかなあ、と(笑)

それにしても、当時Mkbの存在が日本側に伝わっていたのかどうかはほんとに知りたいところですね。時期的に伝わっていてもおかしくはないのですが。また、Mkbに限らず、他のドイツ製小火器はどうだったのかなあ、、。MP40くらいは日本に来てたのかなあ?、とか。あと、N氏に教えていただいたのですが、防研に昭和19年の「独式42式機関銃製作図」があるそうです。見たい!!

で、このMG42の図面の件で推察できるのは、1942年ごろまでのドイツの小火器の情報は、日本に伝わっていた可能性が高いと考えてもいいということです。なのでMkbは日本に来ていたとしてもおかしくはありません、、、とかいろいろ書いてますが、ほんとにほんとのところはどうだったんでしょうねえ、、。

戦車や航空機については「アレが日本に来てた」という情報や資料はそれなりに出回っていますが、小火器レベルの兵器となるといまいちよくわかりません。「ジェット機・ロケット機の情報がドイツから伝わって、それを元に日本で云々、、」という話の大きさに比べると、小火器は戦局を左右するほどのインパクトがある兵器ではないので(残念ながら)、いまいちその辺の研究からとりこぼされている気がしないこともないですね。

ちなみに、その辺の1例としてゲルリッヒ砲(PAK41)も日本に来ていて試作されたそうなんですが「日本の大砲」(出版共同社)にそれと思われる写真が掲載されています(これもN氏に教えていただきました)。その模写がこれ。戦後、米軍が日本国内で撮影したと思われるもの。

1→日本の15榴
3→これはどう見ても確かにゲルリッヒ砲です。

で、その手前にどう見てもPAK40にしか見えない砲 →2 があるんですよね、、、。

PAK40も日本に来てたんだなあ、と。PAK40が日本に来てたとか、聞いた事がないんですが、、、。どうやって運んできたんでしょうね、、。

などなど、というわけで、ドイツのどんな兵器が日本に来ていたのか、ほんとに知りたいところです。でもまあ「ドイツから何が来てたからって、それがどないしてん。お前になんかええことあんのか?」とか言われたらグウの音も出ないんですけどね(笑)

で、まあ、それはそれとして当時、潜水艦で日本とドイツが情報・資材をやりとりしていた、というのはほんと凄い史実だと思います。この辺をきちんと描いた吉村昭氏の「深海の使者」は必読です。それにしても、日独往復を完遂できたのがイ8の一隻のみ(!)だった、というのはこの作戦の厳しさをよく物語っていますね。

●試製一型機関騎銃B号
九五式実包は、機関騎銃の弾薬として妥当であるとされていたのですが、銃の弾薬の種類がさらに増え、煩雑になるという懸念の声もありました。そこで九九式実包仕様として開発されたのがB号です。A号よりもボリュームがあるのはそのせいです。
1→弾薬が強力なため、銃口制退器が付けられています。
2→弾倉は20連。連射は可能ですが、この点からも単射メインの銃として開発されたようです。
3→リアサイトは後年の64式っぽいです。
4→A号とは銃身とガスパイプが上下逆になりました。単射メインとはいえ、放熱口が開けられており、連射もある程度想定されていたようです。

予想通りというかなんというか、九九式実包では反動が強すぎ、特に連射時の制御が難しくこれまた数丁の試作で終了しました。しかし、外観からわかるとおり、B号は戦後の64式開発の叩き台となり、無駄とはならなかったようです。

妄想の経緯 日本軍って新開発の兵器に対して「あれもこれも欲しい」と要求して結局ダメにしちゃうことが少なからずある(笑)ので、そういう感じにしてみました。九九式よりも弱装のNATO弾のM14、64式、G3、FALなどなどでも、ことごとく連射はキビシくて、銃自体の設計は優秀なのに、弾薬のせいで残念な結果になっちゃったのはご存知の通りです。なので九九式実包仕様だと、なおさらまあ無理だったでしょうね。

それにしても、戦争後半の銃器デザインを保ちつつ、フルサイズのライフル弾を使う自動小銃を考えてたら、どんどん六四式に似ていくというのには参りました(笑)。素人でもこうなっちゃうんですよね(笑)。なんとういうか、デザインの必然性ってあるんでしょうねえ、、。

●試製一型機関騎銃C号
A・B号の不十分な点を踏まえ、開発されたのがC号です。

1→空気圧を利用した反動緩衝器。試製二型機関短銃のそれと同様な構造と思われます。
2→先台は下部が膨らんで握りやすい形状となってます。
3→ガス圧を調整する規制子が付きました。アサルトライフルにこれが付くのは当然世界初です。

C号で、やっと銃の大きさと弾薬の強さがマッチした設計となったようで、各種のテストの結果「実戦に十分耐えうる」と認められました。昭和20年初頭から、試製扱いながら2000丁程度(推定)が量産されたようです。生産、配備が連合軍の日本本土上陸に間に合ったのは僥倖といえるでしょう。
昭和21年4月の都心部の戦闘で、皇居を防衛する海軍陸戦隊と陸軍挺進隊に優先的に支給され、かなりの活躍をしたことが知られています。

妄想の経緯 Mkbからちょっと離れてデザインを考えていくと、どんどんAKに近づいていくという罠(笑)。AKというより、ガリルに近いかな?という感じですね。しかしながら、AK47とStg44は関係ないんですけどね。ちまたでは、AKはStgを参考に開発された、とかまことしやかに言われてるんですけど、私はそれは違うと思ってます。カラシニコフ氏自身、AKの開発ではM1ガーランドを参考にして、Stgは見たことがなかったと言ってます(氏が訪米した際の、月刊Gun誌の床井氏の記事による)。自伝などのカラシニコフ氏の話によると、彼は基本的に独学で銃器設計を学び、習得し、AKを開発しています。

実際、氏が言うとおり、AKとガーランドの構造はとてもよく似ています。ターンロックの感じや、トリガーとシアの関係性など、そのつもりで見るとなるほど、と。逆に、AKとStgは全然共通点がないです。外観は似ていますが、部品の構成・構造的には全く別のものです。

むしろ、M16とStgがよく似ています。レシーバーが上下に別れていて、マガジン前上部のピンを支点に、アッパーレシーバーが上に跳ね上がるところ、リコイルスプリングが銃床内部に収納されているところなどなど。ダストカバーに至っては同じ構造です。マガジンキャッチも似ています。

また、Mkbの設計者・シュマイザー氏は戦後ソ連に抑留され火器の開発に従事しましたが、カラシニコフ氏と出会ったことはないようです。カラシニコフ氏自身、そういう発言をしていません。そもそもAKの設計時、氏はまったくの無名のデザイナー(階級も軍曹。コンペのライバルのデグチャレフ氏は将軍)でした。要するに泡沫候補だったのですね。そういう立場の氏が、ドイツの銃器開発者のトップと知己を得られ、アドバイスを受けられる可能性はまずなかったと考えるべきでしょう。

しかし、ソ連の制式ライフルが、ナチスドイツの影響を受けて開発されたということを隠すために「なかったこと」となっている可能性は否定はできません。カラシニコフ氏があえて伏せている可能性もないことはないでしょう。しかし、氏のインタビューや自伝を読む限り、彼は非常に誠実な技術者であるという印象です。なので、どこから発想を得たかという点(技術者として非常に大事なポイント)でウソをつくとはとても思えません。そもそも、冷戦で対峙することになった、アメリカ製のガーランドを参考にした、とちゃんと発言してますしね。

おっと、話がずれてしまいました。すいません。まあでも、こういう「誤解」は、開発者の名誉のためにも、きちんと払拭されてほしいなあという気がします。銃って、外見が似てるとすぐ「パクった」って言われるんですが、ほんとはそういうんじゃないんですよね。銃の類似性って、内部の構成や構造を見ないとわからないんですよ。例えば、これは何度も書いてますが、九六式軽機はZB26のコピーでは絶対ないです。あと今はもうさすがに誰も言ってませんが、昔は南部式もルガーのコピーって言われてたそうです(笑)

あ、ほんと話がずれまくりですね。まあずれまくったついでにもうひとつ。AKが参加したコンペでライバルとなったデグチャレフ将軍の話です。将軍はAKをコンペ会場で見て、その優秀性にすぐ気付き、自身のコンペ出品を辞退すると多くの関係者の前で明言したんですね。「カラシニコフの銃は、私のものよりも将来性がある。なので私はもう降りる」と。

当時デグチャレフ将軍は銃器デザイナー界の重鎮で、カラシニコフ氏は全く無名の「誰やねんお前」的な存在だったんですよ。ちょっとありえない話です。しかし、将軍はAKの優秀性をいち早く見抜き、それに対抗することが公にとってマイナスになると判断し、かつ自身の努力・成果を無にしてしまってもいいと(しかも自身の名声も貶めることになる)と考え、かつそれを大っぴらに公言したというのは、まあなかなかできることではありません。

将軍のその清廉潔白な技術に対する真摯な姿勢・態度には感動してしまいます。こういう人って、ほんとにいるんだなあ、と。なんというか、もの作りに対して本気で取り組んでるからこそ、そういうことができるわけで、、、。将軍のつめの垢でも煎じて飲まなきゃだわ、と思います、、。カラシニコフ氏も凄いんですが、デグチャレフ将軍も凄いなあ、と。「ものを作る人間って、こーじゃなきゃな!」と、、、。

えーと、、、なんの話でしたっけ、、、。えーと、、、あ、、に、日本軍でしたね!続けます(ほんとすいません)。

●六式機関騎銃
C号は期待された性能を発揮できたのですが、製造工程や実戦での使用でいくつかの不備が見出されました。その辺を改良し、制式化されたのが六式機関騎銃です。
1→C号の空気緩衝器を省略し、脆弱だったストック基部を強化しました。
2→ガスパイプ部に木被を追加。これは銃剣の刺突をより容易にするためと考えられます。木被上部の凹みは、九九式短小銃のそれと同じような形状となってます。
3→先台も銃身部を全て被う形になりました。滑り止めとして、縦に溝が彫られています。

六式は制式後順次生産・配備されましたが、九九式に変わる基幹小銃となったわけではなく、こういう銃種が必要とされる特殊部隊用(挺身隊など)という位置付けだったようです。度重なる本土空襲のため、生産数は伸び悩みましたが、銃器としての威力や重要性は十分認識されていたようで、量産は最優先とされ、終戦までに5万丁程度が量産されたと推察されています。

妄想の経緯 というわけで、やっとなんとなくそれっぽいデザインにできたように思います。自分で描いといてなんですが、まあそれなりにバランスもよさそうで、実際に作ったらまあまあな性能になるんじゃないかと思うんですが、どんなもんでしょうね(笑) でも、全てが削り出しというのはやっぱちょっとしんどいところですが、まあ仕方ないですね、、。

●六式機関騎銃軽機型
六式は配備された部隊からは好評をもって迎えられ、実戦での使用を通じてさまざまな要望が開発側に伝えられました。特に多かったのが、軽機として運用できるようにしてほしい、という意見。そこで開発されたのが軽機型です。

日本軍は、当時すでに九六・九九式という優秀な軽機を持っていたのですが、六式を装備する部隊だと軽機班と小銃班で弾薬の融通ができないのでした。そこで製作されたのが六式の軽機型という訳です。

1→軽機専用の75連ドラム弾倉。これは通常型・短騎銃型(後述)にも装着できるため、人気が高かったそうです。気を許すとすぐちょっぱられるため、軽機型を装備する兵は気が気でなかったとか(笑)
2→構造上、銃身交換ができないのでヘビーバレル化することで加熱対策としています。ヘビーバレルでどれくらい加熱が抑えられるのかよく分からないのですが、フランスのシャテルローがこれで何十年もしのいでるので、案外いけるんでしょうね。また、銃身を長くしており、それに合わせて照星の位置を前方に移しています。
3→2脚は九六・九九式に似たものとなってます。角度を2段階に変えられます。
4→先台は冷却穴を大きくして加熱対策としています。
5→銃床は形状を変え、保持しやすくしています。折りたたみ式の肩当てが追加されました。

軽機に比べると、構造上連射し続けることが難しかったり、使用弾薬が弱いなど、軽機の完全な代用品にはならなかったのですが、六式を装備する部隊にとって、そのへんの欠点を補って余りあるだけの性能を発揮したようです。

妄想の経緯 まあ、要するにRPKってことですね(笑)余談ですが、RPKのドラマガをつけたAKってカッチョいいですよね。

●六式狙撃銃
これも実施部隊からの要望を受けて開発されたもの。軽機型の2脚を外し、九九式狙撃銃の照準眼鏡を装着できるようにした狙撃銃です。
1→照準眼鏡は九九式と全く同じもの。銃身、銃床は軽機型のまま。もちろん、アイアンサイトは九九式狙撃銃同様、照準眼鏡とは関係なく使用できます。
2→20連弾倉。狙撃銃用として作られたものというわけでもないようで、六式通常型の採用当初から少数が生産されていたようです。

狙撃銃とはいえ、もともとがオープンボルト式なので長距離の精密射撃には向いていません。しかし、中距離での制圧狙撃(この銃のために考えられた射撃法。5-700メートルの距離で、3-4発の点射を小刻みに行い、点ではなく面で制圧するというもの)ではかなりの威力を発揮したそうです。特に、都心部など市街地での戦闘では、独壇場といえる活躍をしたとか。

妄想の経緯 とかとか、もっともらしいことを書きましたが、オープンボルト式のライフルではやっぱ狙撃はしんどいですよね(笑)。でもまあ、Mkbにもスコープが付けれましたし、まあいいですよね(笑)。とはいえ、これくらい重くしとけば、案外ほんとに制圧狙撃という射撃法ってできるんじゃないかと思うんですけど、どんなもんでしょね。相手から見えないくらいの距離から、数発ずつ正確に弾が飛んでくるって、結構な脅威じゃないかと思うんですけどね。でも結局妄想の域を出ませんね(笑)。

●六式短機関騎銃
こちらは軽機型とは逆に、全長を短くしたタイプです。指揮官や車載用として開発されました。「たんきかんきじゅう」が制式名ですが、実に言いにくく、かつややこしいので(笑)部隊では「たんきじゅう」と呼ばれていたそうです。
1→ここで初めて明らかになるのが、六式の排莢口の形状。砂塵よけのカバーが付いてます。これは、九六式軽機同様一発ごとに開閉する仕組みだったようですが、詳細は不明。
2→セレクターは上から安、単、連です。レシーバーが一段掘り下げられているのがゲーコマですね。っていうか、そういうことしてるからコストが上がるんですが、まあ「ひと手間余計なことをする日本軍兵器あるある」ですねえ。
3→銃床も短くなっています。スリングスイベルの位置は通常型も同じです。
4→照準器は短騎銃用になってます。ドイツのMP18/Ⅰ用と一〇〇式機関短銃後期型を足したような感じです。50、100、200、300メートルの4種類の距離に設定できます。
これ、ささっと考えたんですけど、結構かしこくないですか?(笑)

5→銃口制退器も短騎銃用に新規設計されたもの。意地でも着剣できるようにしてるのがいかにも、ですね(笑)

妄想の経緯 これは、まあ要するにクリンコフですね(笑)結局、AKのバリエーションをなぞってしまうわけです。それくらい、AKって完成された銃器システムじゃないかと思うんですよね。後からいくらでもバリエーション展開ができるということは、基礎的な設計がとても優秀だったということの証明ではないかと。カラシニコフ氏はほんとエライ!と思います。

●六式機関騎銃最強型
前述の通り、六式はごく限られた部隊に支給されました。この最強型は、その中でもさらに限られた部隊用に製造されたと考えられているタイプです。「最強型」というのは後世で勝手に付けられた呼称です。
通常型に、照準眼鏡とドラムマガジンを装着しています。このタイプがどういう部隊に支給されたのかはよく分かっていません。しかし、通常型に照準眼鏡を装着するためには、本体に照準眼鏡用のベースを付ける必要があり、正統なルートで製造されたのは間違いないのですが、その辺の資料は今のところ一切発見されていません。しかしながら、このタイプが複数現存していることから、何らかの目的があって、一定数製造されたことは間違いないようです。

妄想の経緯 なんかそれっぽいこと書きましたけど、要するに「六式の最強型」をでっち上げてみたかった、ってだけです(笑)。でもこのタイプがほんと最強じゃないかと、、。皇居から天皇陛下を救出する部隊がこれを使ってた、とかそういうんでどうでしょうか。(「そういうん」とか「どうでしょうか」、じゃねーよ!)

というわけで日本軍の機関騎銃についての解説はここまでです。次は、六式の専用の弾倉嚢を紹介します。いや、銃も描いたら装備も描きたくなるのが人情、でして(笑)。

●六式用弾倉嚢 一般兵士用の通常型として支給されたタイプです。軽機用弾倉嚢の形状を継承していて、フラップ部は皮製。本体のD環をサスペンダーのナス環に繋ぐ仕組み。拳銃嚢用と同様な胴体に巻く専用の細いベルトが付いてます。

サスペンダーは背中側でクロスして、真鍮のフック(雑嚢のみたいなの)でベルトに引っ掛けます。弾倉は一人6本(計180発)を持つことになっているので、あと2本は恐らく雑嚢に収納することになっていたのではないかと推察しています。

で、モデルが女性なのは、あくまで「なんとなく」なのでご了承下さい(笑)名前はえーと、えーと、敷島小夜子兵長でどうでしょうか(いやだから、どうでしょうか、じゃねーよ!)

妄想の経緯 一〇〇式機関短銃用の弾倉嚢は、現在現存するものはないようです(マニュアルには専用のものがあると記載されている)。一方、専用の弾倉嚢ではなく、九六・九九式軽機用のが流用されたと記述している資料もあります。六式でもそうなった可能性が高いとは思うんですが、せっかくなので専用のを妄想してみました(笑)

●六式弾帯 
これは特殊部隊用の装備です。義烈空挺隊の一〇〇式用弾倉嚢がベースとなっているようです。いわゆる腹巻式です。


前回のエントリーでも書いた、昭和21年のテニアン島攻撃「激作戦」に参加した陸海軍兵士が装備しました。右の小型の袋は手榴弾、左は装填器用です。背中側はY字型のサスペンダーとなっています。胴体のベルトのバックルは脇にあるようです。

ベトナム戦争で北ベトナム軍が使用したAK用の弾帯に酷似していますが、これは当然六式弾帯の影響です。戦後仏印に残留した日本軍の中に、六式とこの弾帯を装備していた部隊が少なからずあり、それがAKの弾倉嚢に受け継がれたようです。六式機関騎銃はベトナムの独立戦争当初から活用されていて、後にソ連や中国からAKを受け取ったベトミン・ベトコンは「六式のような銃がソ連や中国にもあるのか」と驚いたそうです。

妄想の経緯 北ベトナム軍のAKの腹巻式弾倉嚢(もちろん中国人民解放軍のもの)は実に素晴らしいデザインです。付けてみるとよく分かるんですが、腹巻式の弾倉嚢って実に安心感があるんですよね。守られてる感が凄いです。実際、腹を防弾しているわけで。南方ではちょっと暑いですが(笑)あと、一〇〇式機関短銃は、ベトナムで実際に使われたようです。米軍か南ベトナム政府か、展示主体は分からないのですが「ベトコンの兵器」として、陳列された銃器の中に一〇〇式が写っている写真があります。

で、このモデルさんの名前は、、えーと、、、秋庭綾子二等兵曹っす!で、この間「ストックホルムの密使」を再読したんですが、秋庭少佐はやっぱええですねえ、、。

というわけで、妄想日本軍銃シリーズはここまでです。あれこれ描きましたが、描いててふと「あ、そういや昔こういう風に妄想して銃を描いてたなあ、、」と思い出して過去のスケッチブックを漁ってみて、出てきたのがこれ。

四年式、というのは2004年式、ということですね(笑)
高校生の頃に描いたものです。なんか、もう必死ですねえ、、、。しかも、当時は今みたいに自分の描いたものをこういう風にブログやツイッターなどにUPする手段もなくて、描いたら自己満足して終わり、という感じでした。それなのになんでこんなに必死なんだろう、、、。怖いなあ、、。

でも、逆になんかとても純粋な感じがしないこともないですね(笑)。ほんとにこういうのが好きだったんだなあ、と。で、また、今と全く思考のベクトルが変わってないというのも心温まる気がします(笑)

描いた当時を思い出してみると、確か漫画の「AKIRA」のアーミーの銃を、日本軍風にしてみよう、とか考えて描いたような記憶があります。高校生の頃「AKIRA」にはほんとはまってました。私にとって、漫画の「風の谷のナウシカ」と「AKIRA」は大切な原点なんですね。同様に「気分はもう戦争」や「雑草ノート」とかも原点でした。まあ、ようするにそういう世代だった、ということです(笑)

というわけで、描きなおしてみたのがこれ。
●四年式自動小銃

1→銃剣は意地でも付ける(笑)
2→グリップは変な角度ですが、これは南部式機関短銃からの受け売り。っていうか、高校生の頃に南部式機関短銃を知ってたのがなんかイヤ(笑)確か、アームズマガジンの高橋氏の連載で知ったんですよね、、。
3→光学サイトを付けてみる。SFって感じが大切(笑)
4→先台は六式を踏襲してみました。木製っぽいですが、木そのものじゃなくて木製プラスチック、みたいな未来素材のイメージ。

ブルパップ式は、1990年代後半ごろは「未来の銃」みたいな位置付けで、当時、フランスのFAMAS、オーストリアのステアーAUG、イギリスのL85など、先進国が次々と制式軍用銃として採用していて、全ての国の軍用銃がブルパップ式になるんじゃないかというような勢いでした。「AKIRA」もその流れを受けて、アーミーの銃もそうなってたんですが、今からみると逆に「あの時代」を感じさせるものになってますね、、、。

それにしても、まあ、私は何十年も前から、やってること・考えていることは変わらんですね(笑)ほんと、困ったことです。いや、別に困ることではないか、、、。これからも、好きなことは好きなように描いたり作ったりしていきたいなあと思ってます。

というわけでお終いです。で、さっき読み返してみたら、やっぱメッチャ長いですねこのエントリー。ほんとすいません、、、。3回分に分けることができなくはないかもですが、そういう水増しをしても意味がないので無理やり2回分に詰め込んでしまいました(笑)

で、今回みたいにあれこれ銃器を妄想してでっち上げるのはほんと楽しいので、また機会があればやってみたいと思います。

それでは。






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