森男の活動報告綴

身辺雑記です。ご意見ご感想はmorinomorio1945(アットマーク)gmail.comまで。

刺青の実験

2013年08月31日 | AFVの模型
こんばんは。

先週のお姉ちゃんが大体出来てきました。

ツナギは以前のままなのでもう一つですが、やり直すと全部やらないといけなくなるのでちょっとだけいじって済ませました。まあ、みんなどうせ上半身しか見ないでしょうから、大丈夫でしょう(笑)

基本塗装を済ませて、和彫りの塗装に入りました。例によって資料は画像検索(笑)。いろいろ見ていたら、頭がクラクラしてきました。刺青には、やっぱり呪術性があるんだなあと思います。

とても小さいので、はっきりとはとても描けません。右肩は龍、左は般若のつもりであくまでらしさ優先です。桜吹雪もちらちらと。塗りながら、子供の頃に祖父母と「遠山の金さん」をよくみてたなあとしみじみしてしまいました(笑)

モデルは特に決めずになりゆきで造形しましたが、小雪さんを筋肉質にした感じに見えないこともないですかね?いや、やっぱバスクエスか(笑)。

それではまた。

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過去の修正

2013年08月25日 | AFVの模型
来月、昔の作品何点かを某所で展示させてもらえることになりました。もちろん私だけではなくて、所属している模型クラブの何人かの方と合同です。

なので暇を見つけて作品の埃を払ったり、直せる範囲で修正をしたりしています。

昔の作品の中には、今の自分の基準からすると外に出すのがちょっと恥ずかしいものもあります。これは、まあいいように考えると進歩している証なんでしょうけど、修正するのは後出しジャンケンみたいな後ろめたさもないことはないですね。とはいえ、やっぱり恥ずかしいのは恥ずかしいので(笑)、「ちょっとこれはなあ、、」というところだけ直してます。

例えばこれ。タミヤのM26をM26A1に改造するレジンキットを使って、なんちゃって民生仕様にしたものです。本体はまあいいかな、という感じです(ほんとは塗りなおしたいんですけど、、)。9年ほど前の作品で、チッピングを覚えたころで、塗装が楽しかったのを覚えてます。

で、フィギュアがちょっとキツイ。当時スクラッチしたものですが、ヘッドは流用してちょっとだけいじって済ませたような記憶が。今見ると、なんとか女性に見えるくらいの感じです(汗)。右が昔ので、左が今修正しているやつです。複製したので、まだ何体か残ってました。当時は結構よくできたと思ってたんですけどねえ、、、(大汗)。こういう「もっとよくできてたはずなんだけどなあ」という思い込み・勘違いを直視するのはほんとたまらんですね、、。まあ、フィギュアをオミットしてもいいんですけど、やっぱり客引きは欲しいなあと(笑)

ちょっとエッチなのはご愛嬌、ということで(笑)。最近やっとわかってきましたが、こういうのって、ちょっとづつリミッターを自主的に、勝手に、解除していくもんなんですね。インディーのフィギュアで「よくこんなどぎついの作って売れるよなあ」というのが時々ありますが、これはいきなりそれを出したんじゃなくて、作者的には徐々にリミッターを解除していった結果なんでしょうね。うーん、奥が深いです(そうか?)。

閑話休題。で、出来栄えは、まあなんとかほどほどになるかなあ、という感じです。新たな課題として、和彫りの刺青を出来るだけ表現してみようと思ってます。

でも、これだって10年後に見たら、また大汗をかくのかもしれません、、、。そういうもんでしょうし、それでいいんでしょうね。精進あるのみですね、、、。

昨日今日と雨が降ったので涼しくなりました。いま隣の空き地で秋の虫がリーリー鳴いてます。夏も終わりですねえ、、、(しみじみ)。

というわけでまた。


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ハセガワ 1/48 零戦52型(完成 その2)

2013年08月24日 | 飛行機の模型
というわけで零戦五二型の続きです。

まずは特撮写真から。アングルが似てますけどこの間のとは別カットです。しつこくてすいません。

かなり使い込まれた機体をイメージして塗装しました。零戦は「ボロボロになっても必死で戦う」ような感じが似合うなあと勝手に思ってます。松本零士的といいますか。坂井三郎氏は「零戦に乗ったら絶対負けない」と言っていましたが(あー、なんてかっこいいんだ、、)、そういう「自信」と「意地」が混ざり合ったような感じでしょうか。

素はこんなんです。飛んでいる姿にしたかったので、デスクトップモデルです。ベースは三角の斜めにして、スピード感が出るようにしてみましたが、どうでしょうか。「風立ちぬ」の草原のイメージですが、気付いた人は、いないか(笑) 風がぶわーっと吹いて、草がなびいてる感じですね。

映画の中で零戦はちょっとだけの登場でしたが、あの数カットはめちゃめちゃリキ入ってましたね。その直前の九試が隼型よりあっさりした感じで肩透かしだったので、なお印象的でした。最初の、遠方から側面を捉えたところの動きは水中の魚みたいに綺麗でしたねー。宮崎氏はほんとは零戦を主役にしたかったんでしょうね、、、。でも、そうするとどうしても紋切り型の物語にしかならない(映画・小説・漫画など、これまで数多くの作品がありますからね)ので、ああなったんでしょう。

映画に登場したのは明灰白色の二二型という、あまりなじみのない組み合わせでした。先日、宮崎氏と半藤一利氏の対談本「腰抜け愛国談義」(文春ジブリ文庫)を読みました(面白かったです)。その中で宮崎氏は「緑にすると敗戦の象徴になってしまうので灰色にした」と言ってました。いろいろな人のさまざまな思い入れの束縛から解放された零戦を描きたかった、ということなんでしょう。なるほど。でも、以前「緑に赤の配色が嫌い」という話もしてましたね。絵描きの人からするとこの2色のどぎつい組み合わせは我慢できないんでしょうね(笑)

しかし、零戦はやっぱ緑だよなあ、と思います。思いっきりハゲチョロができるのもポイント高しです(笑)やりすぎかな、と思いましたが次にいつ旧軍機を作るのかもわからないので無駄に頑張りました(笑)

塗装の仕上げは油彩です。単色でも深みがだせる油彩は飛行機でも重宝しそうです。排気管はパステルで錆を表現しました。排気煙のススもパステルです。

自分の最近の制作テーマ「日本本土決戦」に合わせて、機番は本土防空戦に使われたものを探しました。ネットで画像検索すると、スイートの零戦の「本土防空戦」の塗装図がでてきたのでありがたく拝借(コラコラ)。横須賀航空隊から百里に派遣された機体とのことで、上面濃緑色、下が明灰白色、ぺラが茶色という「零戦っぽい」塗装だったので選びました。

んが、しかし、完成後に手持ちの写真集「闘う零戦」(文藝春秋)をパラパラ見ていたら、この機体は秋水搭乗員の射撃訓練用という、かなりシブイものだったことが判明(そのために派遣されてたんですね)。いやー、やっぱり作る前に資料はひととおり見ておかないといけませんねえ(マーダーの時から学んでないな、、、)。ま、でも秋水も好きだからいいか!!あはは!!

というわけで、零戦の破片を入手した興奮のあまり勢いで組み立て、「風立ちぬ」の感激を燃料にして、約2週間で完成させてしまいました。どんなものでも最短でも1ヶ月はかかってしまう私としては、驚異的なスピードです。もし破片が手に入らなかったら、そのころ映画が公開されていなかったら、多分完成していなかったでしょう。少なくとも今年の製作予定にはなかった(笑)。なんといいますか、こういうのも縁なんでしょうね、、、。

で、やっぱり、零戦はかっこいい!と改めて思いました。最後にもう一枚(ほんとしつこくてすいません。でもせっかくなので)。次は、タミヤのキットをじっくり作ってみたいですねえ。

それでは。

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ハセガワ 1/48 零戦52型(完成)

2013年08月20日 | 飛行機の模型
ハセガワの零戦52型が完成しました。今日は特撮写真だけUPしますね。

うーん、零戦はやっぱかっこいいなあ、、、。

背景はもちろんとなりの空き地。でも気分は日本本土上空!! いや、ほんとにそうか、、、。

詳細はまた書きますね。先週末にUPしようと思ってたら、メインのパソコンがクラッシュしてしまいまして。今は以前使ってたパソコン(使えないことはない)を代用してます。でも、復旧しそうにないです。あーあ。

それでは。



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気分はフィンランド

2013年08月15日 | 飛行機の模型
こんばんは。

バッファローを特撮してみました。おおお!あのぼんやりしたアオシマのキットとは思えないこともない!

風防に太陽光がキラッと反射してるのがシブいですねえ(自分で言うなよ、、、)。特撮のためにモーターを入れたんですが、やっぱプロペラが回るといいですね。

フィンランドの緑のように見えないこともないですね。行ったことないですけど。でも、ぜひ一度行ってみたい外国のひとつですね。

特撮といっても、二階の窓から隣の空き地をバックにして撮って、フォトショップで支えの棒を消しただけなのです。これが種明かし。ただの雑草です(笑)

太陽光で撮ると、とてもいい感じに写るので好きです。でも、窓から身を乗り出して撮る姿はあまり見られたもんじゃないですね(笑)幸い、どの隣家も基本的に人がいないようなので、助かってます。

零戦も「風立ちぬ」効果で、あともうちょっとで完成です。実質作業時間で考えると、こんなに速くできたの初めてかも。「風立ちぬ」、恐るべし、、、。で、案の定ハゲチョロが楽しすぎて、やりすぎてしまいました。ははは。

というわけで、お盆休みは、どこにも行かず模型を含むたまった仕事(といっても私事が大半)をあれこれ片付けていましたが、進んだり進まなかったりでした。うーん、、、。

それでは。




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「風立ちぬ」の感想(ネタバレ・超長文注意)

2013年08月13日 | 雑記
それでは「風立ちぬ」の感想です。あくまで、私個人が映画について勝手に推察・解釈したもので、根拠はありません。引用についても、基本的に私のうろ覚えです。なので、以下の文章について資料的・評論的価値は一切ありませんので、あらかじめご了承ください。

あと、ネタバレしまくりですので、未見の方はご注意ください。映画の印象が曲げられてしまう可能性があります。









いいですか?

先日2回目を観にいきました。そしていろいろ考え続けてまして、新たに気付いたこともあれば、考えが変わったこともありました。

まず、先日「この映画は、まずは飛行機好きの人に向けて作られた映画だ」と書きましたが、ちょっと違うかも、と思い始めました。

飛行機が好きな人(いわゆるマニア)に「向けた」というよりは、まあ同好の士への「連帯の挨拶」といったほうが近いのかな、と。言い換えると特別観賞席といったところでしょうか。つまり、ちょっと席(視点)が変わるので、楽しめる要素はとても増えますが、本当に大事な映画の芯を受け止める、観客としての立ち位置は、他の人と同じということです。(それにしても、大盤振る舞いは大盤振る舞いで鼻血がでますが。メカ的な充実度で言えば、カリ城・ラピュタ以来ですね)

では、誰のために作られたのか?

それはまず「子供たち」に、そして次に「その他の人々」に向けた映画なのかなと思います。

でも、監督が伝えたかったであろう内容を考えると、この順番はあんまり重要ではないのですが。とりあえず、この話題はここで一旦おいときます。

さて、まずは推論からやってみます。こういうのは、ほんと綱渡りで怖いですね。得々と偉そうに「これはこうで」とか解説しても、「何をいまさら偉そうに当たり前のことを書いてるんだ。そんなのわかりきってることじゃないか」とか思われるかもしれないわけで。そして、これもありえることですが、監督がインタビューなどで話していることの真逆のことを書いてるかもしれません。でも、まあ恥を忍んで書いてみます。

あと、これまでに映画と原作の漫画以外は、何も見てません。評論や宮崎氏のインタビューも見てません。なので、どこかの誰かが同じようなことを書いていた場合は、偶然の一致だとお考え下さい。

最初の推論 「二郎と菜穂子の子供は、九試(劇中で造られた戦闘機)と零戦なのでは?」

キスシーンが多くでてきたり、初夜を思わせるシチュエーションが描かれるなど、宮崎作品としてはかなりきわどい描写がされています。夜、手をつなげたまま二郎が設計を続けるシーンなどは、まさにそれで、二人で九試を「つくって」いるわけです(うわわわ!!)。

菜穂子が「手を離さないで」と、念を押すのはそれだけ重要な営みであると認識しているからです。体がつながっていなければ「子供は」できないのです(ひええええ!!!!)。で、キスシーンが何度もあるのは、「二人が子供を作っている」ということを観客に気付かせたいというサインなのですね。二人のエロティックな関係・雰囲気を無意識に感じさせたいという意図があるのでしょう。なので、キスシーンが多いのは単に宮崎監督がおじいさんになってエッチになったとか、そういう話ではないんですね(いや、ちょっとはあるかもですが、それは知らない(笑))

そして推論その2 「子供は風の子」なのでは?

風はタイトルにあるとおり、とても大切なキーワードです。風は二人を出会わせ(汽車のシーン)、再会(軽井沢の傘のシーン)させています。それは、風が意図を持ってそうした、ということです。風が出会わせた二人がつくった子は「風」であると考えるのが自然ではないかと。

注意深く見ていくと、あちこちで風が二人の背後で吹いています。二郎が赴任したばかりの職場で設計をしているシーンでも、窓の向うの日よけがひらひらとずっと動いています。黒川宅での二人の結婚式では、菜穂子の髪をゆっくりとなで、桜吹雪を舞わせます。風は、二人をずっと見守っている、ということでしょう。

しかし、一方で震災のシーンでは風は死を招く恐ろしいものとして描かれています。風は、必ずしも二人の味方ではないということです。そもそも、菜穂子の自宅を焼き払い、二人を引き裂いたのも風です。この対比も重要なものでしょう。映画では描かれていませんが、震災時に炎の竜巻が発生し、多くの命を奪ったことはよく知られています(そして、もちろん広島・長崎でも、、、)。

話はそれますが、この震災のシーンは、本当に迫力があり恐ろしい映像です。物語のスタート直後に「これでもか」というくらいのインパクトで迫ってきて、観客の心に不安な印象を植え付けます。これは、ただの震災のシーンではなく、これからの不安に満ちた世相を暗示しているわけです。だからこそ、ちょっと長いかな?とうんざりするくらいしつこく描かれています。

また、燃え上がる空や、大荷物を抱えて逃げ惑う人々など、このシーンはどうしても戦争末期の日本本土空襲の印象とダブってしまいます。映画を観る人は、ほとんどが事前に「零戦を作った人の映画だ」ということを知っているのでなおさらです。そのため、映画の最後に本土空襲の描写が一瞬だけで済む様になっています。B29と燃える空をちらっとみるだけで、最初の地震の映像が脳内でよみがえり、勝手に補完してくれるわけです「ああ、あの地震の地獄がまたあったんだろうな」と。この辺の時間のはしょり方と有効利用のテクニックには舌を巻きます。ほんとに老練(失礼ながら。でも、そういうしかない)な見事な技です。

ついでに書きますが、ほかにもこういう技があちこちに見られます。

例えば、上司の黒川氏の奥さんの初登場シーンです。黒川氏宅で菜穂子の喀血の知らせを受けた二郎が「今すぐ東京に行きたいがどうすればいい」と奥さんに問うと、奥さんは「12時にバスが着て、それに乗れば1時の汽車に間に合う。バス停に人をやって待たすので準備を」と即答します。たった数秒のセリフですが、これだけで奥さんが「常にバスの時間を把握しており、かつ即座にお客が確実にバスに乗られる対策を立てて、実行できる」という聡明で有能な人物であることを示しています。そのため、あとで次郎と菜穂子が黒川宅を訪ねたときも、黒川氏を差し置いて「結婚してもいいじゃありませんか」といっても違和感がありません。観客はすでに、頼りがいのあるお姐さんとしてすんなり受け入れてしまっているわけです。

特高のくだりも見事です。特高が二郎を調べに来ている、ということで二郎は隠遁先として黒川宅の離れに向かいます。特高は一瞬しか登場しませんが、わずか1カットだけでこの時代の重苦しい印象を強める、重要な役割を占めています(しかも、顔すら出ていない!!)。さらに、次郎ら戦闘機の設計者が特高と敵対しているという、かれらの「免罪的な立場」を演出しているわけです。そして、この事件のために次郎は黒川宅の離れを得るのですが、このおかげで、後で二人が結婚するときに、新居を探すという余計な手間を省くことができています。これは、1粒で5-6度はおいしい、見事としかいいようがない手腕です。

あ、メチャクチャ話がそれてしまいました。戻します。すいません。

二郎は菜穂子に会う前、「子供」を自分ひとりで作ろうとして失敗しています。その直後に菜穂子と再会し、二郎は、この娘となら「しっかりした子供」が作れると確信するわけです。だからこそ、すぐに婚約するわけです。もちろん、そんな打算だけで二人が結ばれたわけではないのですが。無機的に解説すると、そういう風になる、ということです。二人の愛情の深さの演出も、これまた見事なものです。宮崎氏がここまで男女の恋愛をキッチリと描いたのは、おそらく初めてではないでしょうか。

しかし、その愛から生まれるであろう「風の子」は最初から悲しい運命にさらされることがわかっています。二人はどういう子供が生まれるのか、わかりきっているのです。

それは「人を殺し、殺される戦闘機」です。

そのことについて、二郎はもう気持ちの整理をとっくに済ませています。迷いは、ありません。カプロニが「ピラミッドのある世界とない世界、どちらを選ぶか。私はある世界を選ぶ」という言葉に二郎が同意するのはそういうことです。さらに、あとでカプロニは「飛行機は兵器であることを宿命付けられた呪われた存在である」とも言っています。2度にわたって同様の発言をするということは、それはとても重要なメッセージである、といえます。

カプロニの発言はしごく当然のものです。戦争がなければ、飛行機はここまで発展しなかったと誰もが認めざるをえないでしょう。例えばジャンボジェットは、第二次大戦中のB17やB29といった大型爆撃機の末裔です(どれもボーイング社の「商品」です。そしてこの二機種は一体何人「喰った」のか。計算するのも恐ろしいですね)。どうあがこうとも、われわれは戦争の恩恵を享受せざるを得ないわけです。残念ながら。

そして、二郎が作りたいと願っていた「美しく、速く、かろやかな飛行機」は、この時代では戦闘機以外はありえないのです。人を殺さないで済む飛行機は輸送機か旅客機など、機能(輸送量)を優先した、見てくれなど後回しの、大きくて鈍重な機種しかないのです。そして、スポンサーになれるほどの財力があるのは軍隊しかないのです。輸送機も旅客機も、結局は兵器や兵士を運ぶのがオチ、という世の中なのです

二郎が「自分の理想となる飛行機=人殺しのための兵器を作る」道を迷わず選択したことを、今の価値観で断罪するのは簡単です。しかし、技術者として、優秀な飛行機を作り出すことがどれだけ魅力的なことか。そして、そのチャンスをみすみす逃すことがどれだけ悔しいことか。それがわかる人がどれだけいるでしょうか。そして、自分の夢を具現化するために努力し、その能力を最大限に発揮できる場所で頑張る人を、だれが非難できるのか。とても善悪だけで判断できるような単純な話ではないのです。例えば兵器に嫌悪感を抱き、戦争反対を声高に唱える人も、いろいろな形でジャンボジェットの恩恵をうけているわけです。しかもその恩恵から完全に逃れることは不可能です(自分が乗らなくても運ばれる荷物や人との関係は絶てないし、絶っていることを証明するのは無理です)。それが、カプロニの言う「呪い」ではないでしょうか。これはもう、私たち全員にかけられた、本当に恐ろしい「呪い」です、、、。

話を戻します。

「人を殺し、そして自らも死ぬ子供」を作っていることを知りながら、二人は生き続けます。しかも、菜穂子自身も病におかされ、死を予期しています。実に、悲しく壮絶なラブストーリーです。

ここで、一つの疑問がでてきます。「死ぬのがわかっている子供」のために、なぜ二人は命を削るような努力をするのでしょうか。「先のない未来のために生きる」ことは矛盾しています。私を含む観客は「2人は未来のために生きて欲しい、末永く幸せになってほしい」と思うのが普通でしょうが、これは物語の構造的にそもそも無理な願いです。なので、少なからず違和感を抱いた人もおられるのではないかと思います。「なぜこのような救いのないラブストーリーにするのだろうか」と。私も最初はそうでした。

しかし、少し視点を変えて考えてみると、その答えのようなものが見えてきました。

それは「結果ではなく過程が問われている」からではないかと。

宮崎氏は「何が残せたか」よりも「どう生きたか」が大事だと訴えているのではないかと。

「菜穂子がかわいそう」という妹に、二郎は「僕たちは一日一日を大切に生きているんだよ」と諭します。「結果の出る明日のためではなく、今日一日をどう生きたのかが大事である」と。

映画の最後にカプロニは、二郎に「君の10年はどうだったかね」と問います。「結果」ではなく「過程」の充実度を問うているのです。普通なら「10年でどういう成果を出せたかね」と「結果の質」を聞くところでしょう。二郎は「できるだけのことはやりました」と答えます。つまり「10年を無駄には生きなかったつもりだ」と。カプロニも「それでいい」と納得します。お互い、過程を大切にすることをよく理解しているからこそのやり取りといえます。

二郎は、最後に菜穂子に「ありがとう」といい(「さようなら」とか「愛している」ではないのです)、菜穂子は笑顔のまま消えていきます。二人とも「全力で生きた」ことに、満足し後悔していないからこそのやりとりです。でも、二郎は涙をこらえることはできないのです、、、。

原作漫画では、飛行機製作において突き当たる現実(技術的、経済的なことなど)と折り合いをつける、二郎やカプロニの苦労をわかりやすく説明するために、宮崎氏自身の映画製作における体験談を頻繁に引き合いに出しています。これは、自身と彼らとを同一視しているともいえます。つまり、「二郎は、私である。カプロニも、私である」と。飛行機と映画は違うものですが、一流のものを生み出そうとする苦労や苦悩は、恐らく同じものだと思います。だからこそ、宮崎氏は2人をリスペクトしたこの映画を撮ったのでしょう。

二郎もカプロニも、それぞれ航空史に名を刻んでいることに異論はないでしょう。そして宮崎氏も、現代の日本人の中で、かなりの結果を出し続けている一人です。そんな人が「結果よりも過程が大事である」といっているのだとすれば、私たちはほんとに謙虚にその言葉を受け止めなければなりません。さらに言えば、結果だけが求められすぎている、現代の社会への一種の警句ともとれます。結果を求めるあまり、過程を軽んじる(つまり多少倫理に劣っても、結果のためには「可」とするような)風潮があるかと問われれば、うなずくしかないのが現状でしょう。

ここで、最初の「これは子供たちにむけて作られた映画ではないか」という推論に戻ります。

二郎は、これまでの宮崎作品には登場しなかった種類のキャラクターです。まじめで頭がよくて、礼儀正しく努力家で、親切で優しい。もっと細かく書くと「弱いものいじめが嫌いで、それを排除するためには暴力も辞さない(つまりただの平和主義者ではない)」「電車の席を率先して弱者に譲る」「身近なことにも気を配っており、鯖の骨からも学べることをよく知っている」「かなりの犠牲を払って人助けをしても、名乗る(謝礼をあてにする)ことを潔しとしない」「肉より魚が好き(笑)」「目の前で腹をすかせてそうな子供がいれば、躊躇なく助けの手を差し伸べる。そしてそれを『偽善だ』と非難されても『そうかもしれない』とあっさり認める」などなど、枚挙に暇がないです。ほぼ完璧に近い人間像です。

ブラント大佐に「君の欠点は、タバコを吸いすぎることくらいだ」と肩をたたかれること請け合いです(笑)。

でも、そんな彼を見ていて、嫌味に感じることはありません。むしろその必死な生き方に共感し、応援したくなってしまいます。これは宮崎氏の人物を描く力量のたまものであると同時に、氏が彼のような人物を好ましく理想に思っているからこそでしょう。

つまり、宮崎氏は、子供たちに「こういう人物たれ」と理想像を丁寧に示しているんですね。

その願いが子供たちにのみ向けられていることは、恐らく間違っていないと思います。宮崎氏は子供好きで有名で、何かにつけて「子供は素晴らしい。しかし、歳を経るにつれて、どんどんつまらない大人になっていってしまう」と嘆いています。いや、まあ「ほんとすいやせん」としかいいようがないです(笑)。

つまり、私たち大人はもう色がついちゃっているから、いまさらこういう理想像をみせられても、自分を変えることはとても難しいわけです。最初から諦められているんです(笑)

オープニングの、屋根から発進する軽飛行機のかろやかで素晴らしい飛行シーンは、子供たちに対する「つかみ」なのですね。「飛行機って、こんなに素敵なんだよ」という。

その後も、カプロニの飛行艇や爆撃機、空母から発艦するかわいらしい複葉機、荘厳なユンカースの大型機などなど、これでもかというくらい古い飛行機の魅力を伝えるシーンが続きます。恐らく、これを見た子供の1000だか100人に1人くらいは飛行機にヤラレて、人生が変わるでしょう。先輩の一人としては「ご愁傷様」としかいいようがない(笑)

で、これらのシーンはもちろんマニアのわれわれにとってもかなりおいしいご馳走です。どのシーンも、知っていれば知っているほど堪能することができます。先に書いたように、これはもう、マニア向けの特等席です。恐らく、こんな贅沢な作品はもうないでしょう。

話が少しそれますが、宮崎マニアの視点で少しだけ解説してみます。直球の解説だと、無知をさらけ出してしまうので、、、。

ユンカースの大型機(J38)は、宮崎氏のお気に入りの機体のようです。映画の原作は「宮崎駿の雑草ノート」という漫画の連載の一部で、連載は模型雑誌「モデルグラフィックス」の創刊号(1984年11月号)から、断続しながらもなんと30年も続いています。「紅の豚」もこの連載が始まりです。

で、この大型機はその連載一回目に登場した、由緒正しい(笑)機体なのですね。かなりの思い入れがなければ、ここまで引っ張ることはないかと思います。映画の時間配分として考えると、ドイツ訪問のくだりはあれほど時間を割くほど重要なものではないと思うのですが、それは多分「この機体を映画で飛ばしたい!!」という宮崎氏のエゴが勝ったからではないかと(笑)。なのでその描き方も半端でなく、機体表面の金属の質感の表現のしつこさは、郡を抜いていますね。

宮崎氏がそう明言したことはなかったと思うのですが、これは「未来少年コナン」の大型機「ギガント」のモデルで間違いないでしょう。日本がこの機体の製造権を買ったのは、日本陸軍がフィリピンのコレヒドール要塞を攻撃するためでした。劇中で二郎が「どこと戦争するつもりなんだろう」と問い、本庄が「アメリカだろう」というのは正解なんですね。6機が造られましたが、製造に手間取っている間に旧式化してしまい、目的を果たすことはなく「無駄」に終わっています。「この飛行機の購入費用で、日本中の腹をすかせた子供たちに天丼とシベリアを食わせてやれる」という本庄のセリフは、これを暗に揶揄した宮崎氏の声でもあるわけです。

同様に、宮崎氏ごひいきであろう機体が九三式重爆撃機です。二郎が軽井沢から戻り、本庄の飛行機を見に行く途中で、一瞬だけ格納庫に収まっているカットが出てきます。この飛行機、ルパン三世の「死の翼アルバトロス」でも一瞬登場します。ロンバッハ航空博物館のシーンですね。ロンバッハの収蔵品です(笑)。それぞれチラッとでてくるのがいいですね。「ほんとに好きなんだろうなあ」とニヤリとしてしまいます(私も、この飛行機好きです)。

わき道にそれすぎました。すいません。

で、子供たちだけでなく、もちろん大人のわれわれにもきっちり剛速球を投げてるんだろうなとも思います。「創造的でいられるのは10年だ」とカプロニは言いますが、これは真に受けてはいけない数字のような気がします。「それじゃ、宮崎さん、あんた何年創造してるのよ?」って思いませんか?(笑)。

もちろん「真に」創造的でいられるのは10年、であるかもしれません。あとは惰性である、という見方もできます。しかし、それはあくまで主観的なもので、同時にかなり恣意的なものでもあります。要するに、どうとでも取れるものです。宮崎氏が創造的な人物でなければ、一体だれがそれに当てはまるのか。世界で数人程度じゃないのか(笑)

宮崎氏の劇場映画の監督デビュー作は「カリオストロの城」です。これを自身で評して「これまでの大棚ざらえをやっただけ」とことあるごとにいっていました。つまり、新しい創造はしていない、ということです。確かに「どうぶつ宝島」などを見れば、あまりのそっくりさ、というか同じオチを臆面もなく同じように使っていることにびっくりします(その辺とは関係なく、面白い映画なので未見の方はぜひ)。しかし、だからといって「カリオストロの城」が「創造的ではない」とは断じていえません。

また話がそれました。「10年」というのは、何かを成し遂げようとする人にとっては、かなり具体的でリアルな数字です(椎名誠氏が「だれでも10年で何らかのプロになれる。だから、大事なのは最低10年頑張ることだ」というようなことを言っていたのを思い出します。彼は編集者と作家をそれぞれ10年やり、その実感としてそう語っていました)。そして、10年とは、かなりの高齢の方以外(80-90代以上でしょうか。ほんと失礼な話ですいません)にとって、ほぼ全員が何とかやりくりして工面できる時間といってもいいでしょう。つまり、だれでも「何か」ができるのです。そう思い至ったとき「宮崎さん、えっぐいボール投げてきたなあ!!!」と冷や汗がでました。「お前、ボケーッと人事みたいに映画観てるんじゃねーぞ」と鋭い刃(やいば)を突きつけられた気がしました。

これまでの映画でも基本的には「子供たちのため」に作られてきたと思いますが、これほど具体的・模範的な生きる姿勢を掲げることはありませんでした。ここまで「こうしろ、これがいいんだ」ということはある意味押し付けがましいともいえます。宮崎氏は、これまで普段のインタビューではあれこれと過激なことを言う人でしたが、作品ではかなりそれがセーブされていました。しかし、今回、そのタガが外れています。いや、外した、のでしょう。これだけのことを子供たちに求めるのは、酷なことです。これまでの作品からは考えられないことです。

でも「そんなことをいっている場合じゃない」と、思いはじめたのでしょう。

そして、もう一つ。映画の最初から最後まで、とにかく緑が美しく描かれていたことに気付かれた方も多いかと思います。二郎の故郷や、車窓の風景、飛行機から眺める下界の様子などなど、どれもがうっとりする美しい風景です。原作漫画では次郎が「美しい国土だ」とつぶやいています。これもまた、宮崎氏のボールの一つです。映画館を出ると、映画の中の美しい風景はほとんど微塵も私たちに残されていないことに気付きます。いや、残されてないというよりは、私たちが捨ててきた、というのが正しいのかもしれません。でも「もうちょっと、どうにかならないのだろうか」と思ってしまいます。

自然だけでなく、街の風景もどこかやさしく暖かい雰囲気で満ち溢れています。二郎の故郷の町の、緑と建物が溶け合った様子は、本当に美しかったです。恐らく、多少は憧憬も混じっていることでしょうが、昔はこういう風景がどこにでもあったのでしょう。これらも、次郎の人間像と同様に「君たちはこういう風景を作ってくれ」という、子供たちに向けた切実な願いであろうと思います。(余談ですが宮崎氏と養老孟司氏の対談をまとめた「虫眼とアニ眼」(徳間書店)という本で、宮崎氏は現代においても実現可能であろう理想の街を、漫画にして描いています。興味のあるかたはぜひ)

というわけで、この映画は「観客全員に向けて、宮崎氏が全力投球してきた、ビーンボールすれすれの剛速球(しかもストライク狙い)」であろうというのが、私なりの結論です。

「俺や、二郎や、カプロニはやることはやった。全力は尽くしたつもりだ。次はお前らの番だ!!!」と言っているわけです。いわゆる、檄文というやつです。

これは、キツイ。お三方ほどではないにしろ、私にも自分なりにやりたいこと・成し遂げたいことがあって、ちょこちょこは進めてはいますが、もしできなくても、だれに怒られる筋合いでもないのでぼつぼつ適当にやってます(笑)。しかし、昔から好きだった宮崎氏に、こういう風に激を飛ばされると、もうこれは「ハッ!了解いたしました!!頑張るでアリマス!!!!」と最敬礼するしかない(笑)

うーん、ほんと困りましたね、、、、。まあ、でもやるだけやるしかないか、と思います。でも、二郎みたいな生き方はできませんね。努力目標ですね(いきなり捻じ曲げている)。この辺が、宮崎氏が期待する子供とのポテンシャルの違いでしょうか、、、。

宮崎氏は、すでに70歳を越えています。今後も映画を撮るつもりがあったとしても、非常に限られた本数しか撮れないことは本人が一番よく理解していることでしょう。ここに来て、こういう剛速球を投げてきたということは、非常に意味深です。これから撮られるであろう映画を含め、この作品は、宮崎氏の遺言の「第一弾」といっていいのかもしれません、、、。

それにしても、宮崎氏のような監督とほぼ同時代を生きていられるということは、受け手としてほんとうに幸せなことです。今回この映画をみて、再確認しました。村上春樹氏などもそうなのですが、自分がそういう恵まれた場所(位置と時代が合ってることは奇跡に近いことです)にいられることを感謝したいと思います。まあ、それでも悪口もたまには言いますが、オフレコだからいいでしょう(笑)

というわけで、親の敵のように長く書いてしまいました。凄い分量ですねえ、、(ひとごと)。もちろん、一気に書いたのではなくて、1週間くらいかけてパタパタ打ちました。稚拙な文章の上、アホみたいな分量なので読むのは大変だと思います。どれだけいらっしゃるかどうかはわかりませんが、全部読んでくださった人には心からお礼申し上げます。もし万一、映画鑑賞のお役に立ってくれればうれしいです。

あと、再度書きますが、以上の推論が当たっているかどうかは保証の限りではありません。でもまあ、当たっているかどうかはほんとうにどうでもいいことかもしれません。映画を見て、そういう受け止め方をするバカが一人いた、というだけのことですから。

でもでも、一旦そういうふうに受け止めてしまった以上、これから肝に銘じてごそごそとやっていこうかな、と思います。

最後に、原作漫画はまだ本になっていませんが、映画をより理解したい方には必読です。どうしても読まれたい方は、月刊モデルグラフィックスのバックナンバーをどうぞ。vol 293-302号 (※休載された299号を除く)

それでは。

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アオシマのバッファロー(完成)

2013年08月10日 | 飛行機の模型
こんばんは。

アオシマのバッファローが完成しました。いやーっ、無改造で済ますつもりが、いろいろ手をいれて遠回りしてしまいました。でもほんと楽しかったです。

どうやら、昭和30年代発売のキットらしいので、じたばたせずに、素直に素材の素朴な感じを生かすようにしました。ほんといい雰囲気のキットだと思います。こちらの心が洗われるような(笑)

木製の飾り台は作ったものではなく、たまたま手に入ったものをそのまま使ってます。でもなんとなく飛行機のフォルムに近くて、気に入ってます。タイトルプレートはアルミ板を曲面にあわせて、金槌で叩き出しています。

「Taivaan Helmi」は、フィンランド語で「天の真珠」の意味(これまで「空の真珠」と訳されてますが、どうも「天」の方が意味として近いようです)。アメリカの制式戦闘機選定のトライアルに負けてしまったこの飛行機は、余剰品としてフィンランドに輸出されます。そして、ソビエト空軍相手に大活躍をしました。フィンランド人は、この飛行機に感謝の意を込めて「天の真珠」というニックネームをつけたのですね。

マーキングは基本的に手描きで、ちょっといびつになってしまいました。でも、「キットの素朴な感じにあってるかなあ」と勝手に納得しています(笑)

マーキングもそうですが、ハゲチョロなどのウェザリングもできる限りのことはしてみました。

モーター内蔵なので、プロペラが回ります。カメラのシャッタースピードがいじれるので、撮影が楽しいですね。ううむ、かっちょいい!!

私は日本陸海軍航空隊の次に、フィンランド空軍が好きなんですが、そもそもは30年前にモデルグラフィックスの表紙にヤラレタのが始まりです。この表紙を見たとき「うわ!タミヤのダサダサのバッファローがメチャかっちょよくなってる!何これ?どこの国の飛行機??」とかなりのショックを受けたことを覚えています。

このころはお小遣いが少なかったので、立ち読みで済ませ(悲しいなあ、、)半年以上経ってお年玉が入ってから、バックナンバーを取り寄せたという紆余曲折があったことは、ほんとどうでもいい情報ですね(笑)。で、雑誌の記事を読んでみると、B239のキットはそもそも存在せず、タミヤであれアオシマであれ、改造前提だったので、その時点で挫折しました(笑)。まあ、そもそもアオシマのキット自体見掛けたことがなく、梅本氏の作例を口をくわえてみているだけでしたが。それを思うと、今回、こうやって自分なりに完成できたことはほんとに感無量です。で、これはたまたまなんですが、私が選んだ機体(ハッセ・ウィンド大尉機)は、表紙の今井氏の作例と同じ機体でした。この今井氏の作例は、ほんとよかったよなあ、、、。後のフォッケルのスクラッチも凄かったよなあ、、、。

というわけで、アオシマシリーズはまだまだやっていく予定です。次は何にしましょうかね、、。なんだかんだでちょっとずつ集めたので、選べるのがうれしい(笑)。アオシマはじめ72のビンテージキットを本棚に積んで、模型店みたいにしてみました。いやーっ、こんなことしてていいんでしょうかね? 楽しすぎだからいいか!! あはは!!

というわけでまた。







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「風立ちぬ」について(補足)

2013年08月05日 | 雑記
昨日の「風立ちぬ」の投稿の補足です。

投稿を読んだ知人の某氏からメールが来ました。「私は飛行機のことを知らないけど、映画は楽しく観れました。それは映画を勘違いして楽しんだということでしょうか?」とのこと。(クレームとかそういうのではないです、念の為)

もちろん勘違いなんかではないので、「これこれこうで」とお返事して諒解していただきました(ありがとうございました)。

で、昨日書いた文章を読み直したんですが、映画を観てテンションが上がってるうえに、飲みながら書いたせいか、偉そうでひどい文章ですね。ほんとすいません。某氏のように感じられた方もいらっしゃるかもしれないですし、それは本意ではないので、メールのお返事を元に補足してみます。ちなみにいまはシラフです(笑)

まず、飛行機の知識がなくても十分楽しめるいい映画だと思います。監督のそのへんの配慮はさすがといった感じでした。でも、飛行機のことを知れば知るほど、より楽しんで観ることができるでしょう。

昨日書いた「受け手を選ぶ映画」の「受け手」というのは「飛行機が好きな人」という意味です。観ていて思ったのは、これはまず、飛行機が好きな人に向けて作った映画なんだろうな、ということでした(間違ってるかもしれませんけど)。好きだからこそ伝わってくるポイント(瑣末なディテールではなくて、フィーリングとして。なんか上手くいえませんけど、、)があちこちにちりばめられていて、「駿ちゃん、わかるぞ!わかるぞ、駿ちゃん!」とずーっと心でつぶやいてました(笑)

でももちろん、そういう人だけに向けて作られた映画ではないでしょうし、映画を観て飛行機に興味を持ってほしいという意図もあると思います。なので、観賞する場合は、知識の有無や深さは問題ではないでしょう。観ていて楽しかったら、それでOKなのが映画ですし。例えば、飛行シーンとかはほんと心地のよい動き方で、知識なんて関係なく堪能できると思います。

しかし、批評するとなると話は別です。「飛行機を造る」ということが物語の中心軸となってますので、知識の有無は非常に重要です。重要というか、必須でしょう。特に、批判する場合はこの辺をクリアしていなければ批評にはなりえないでしょう。さらに、知識がなければ読み解けないこと(地雷)もたくさんあるのでなおさらです。(昨日は、勇み足でこの段落だけを書いちゃった、ということですね)

知識知識と書いてますが、私はほんとお恥ずかしい程度の知識しかないので、こういう風に書くのもお笑いぐさなんでしょうけど、まあ、自分のブログ内ということでご容赦ください。映画を観てわからなかったところは、また勉強してみようかな、と思います。映画を観た人をそういう気にさせるなんて、なかなかできる芸当ではないですよ、、、。

などなど、わかったようなわかってないようなことを書きましたが、一言でいうと

「とってもいい映画でした!みんな観ましょう!」

ということです。いや、まあここでいちいち書かなくても、満員御礼なんですけどね(笑)

いやー、それにしても「劇場にもう一回観にいこうかなー」と思った作品は超久しぶりです。「魔女の宅急便」以来です(古すぎだし、ほんとにファンなのか?)

お盆休みにでも、自分なりの感想を書いてみたいと思います。

それでは。

追記 感想はここに書きました。よろしければお読み下さい。
http://blog.goo.ne.jp/morio1945/d/20130813

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「風立ちぬ」を観てきました

2013年08月04日 | 雑記
今日「風立ちぬ」を観てきました。ネタバレもあるので、これから観るつもりの方はパスしてください。



いいですか?


いやーっ、なんといいますか「ほん、、っっっとに宮崎駿のファンでよかったなあ」と思いました。考えると、もう30年近くも宮崎氏のファンなんですけど、そういうのを自覚して満足できた映画は初めてでした、、、。

映画についてはこれまで通り、あれこれなんやかんやどうこういう人はたくさんいるようです。でも、ほん、、っっっとに申し訳ないのですが、日本の航空史の最低限の知識がない人の批評はマジで無効です。いや、マジで。

私もそんなに知識があるほうではないのですが、それだけは断言できます。そういう意味では、観客を選びまくるめちゃくちゃひどい映画です(笑)

例えば、96式陸攻の重慶爆撃のシーンが出てきますが、あの短いシーンを見て、あれが重慶爆撃だとわかった人はどれだけいるのか、、、。96式陸攻は、映画のセリフにあったとおり防弾設備がないために、中華民国空軍の戦闘機による攻撃で被害が続出しました。で、その96式陸攻を支援するためにデビューしたのが零戦だったんですね。同期の仲間が設計した非力な爆撃機を、堀越氏の零戦が守ったという、映画では語られていない物語がある訳です、、、。

でも、こういうこともそれなりに掘り下げた知識がないとわからないわけで、ほんとに地雷な映画だなー、と思います。

まあ、映画についてはほかにいろいろ語りたいこともありますので、おいおい書かせてもらえればと思います。

まあ、でもラストに零戦が登場して、パイロットが敬礼したときはマジで泣きそうになりましたよ、、、。

「一機も帰ってきませんでした、、、」ってか!!!! ガオーッ!!!




それでは。

追記 ちゃんとした感想を、ここに後日書きました↓。よろしければお読み下さい。
http://blog.goo.ne.jp/morio1945/d/20130813



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アオシマのバッファロー(その1)

2013年08月04日 | 飛行機の模型
アオシマのバッファローが大体できてきました。

なんだかんだで、ここまででほぼ半年かかってしまいました(汗)

マーキングは手描きです。ハカリスティ(卍のマーク)くらいは、マスキングでエアブラシしたかったんですが、マスキングがめんどくさいのでずぼらしました(笑)。なので、いびつになってしまいました。

機番は「オレンジの9」のハンス・ウィンド大尉機。ほんとは「みんな大好き・アンラッキー・カタヤイネン軍曹」機にしたかったんですが、カタヤイネン機はハゲチョロが激しすぎて、一般的なバッファローのイメージからちょっと外れるのでパスしました。全てのマーキングはクレオスのラッカーで描いて、ムラ消しのためにクリアーを一度吹いて簡単に研ぎだしています。

迷彩はグリーンと黒のようですが、黒だとこのスケールだとちょっとキツすぎるかなと思ったので、ブラックグリーンぐらいでとどめてます。

基本塗装と工作が大体終わったので、ぼつぼつ汚し塗装に入ります。基本油彩でやっていくつもりです。ちょっとやってみたところ、戦車同様、自分のイメージに近い感じにできそうなのでこれからが楽しみです。

ところで、このフィンランド空軍の卍マークですが、ナチの卍とは無関係です。1918年、フィンランドの独立戦争に、スウェーデンの貴族・ローゼン伯爵が自家用機で応援に駆けつけました。このローゼン家に代々伝わっていた幸運のシンボルがこの青卍で、伯爵は飛行機にこのマークを描いて参戦しました。それ以降、フィンランド空軍はこのマークを国籍標識として採用したんですね。

第二次大戦で、フィンランドはドイツと組んで枢軸側で戦ったので、どうしてもナチの卍と関係しているように思われてしまうようです。戦後、連合国側からクレームがついたようで、以降は白地に青の二重丸マークに変更されました。経緯からしてまあ仕方なくはないのかもしれませんが、隣国の独立のために一肌脱いだローゼン伯爵や、それを歓迎したであろうフィンランドの人たちの想いを汲んであげてほしかったなあと思わないこともないですね。

ちなみに、ローゼン伯爵の息子は、第二次大戦でソビエトがフィンランドに侵攻した際に、これまた自腹で輸送機を爆撃機に改造して、応援に駆けつけています。さらに戦後、ナイジェリアからの独立を目指すビアフラを支援するために、軽飛行機でまたまた応援に駆けつけました。あと、ハマーショルドの専属パイロットだったこともあったそうで、かなり優秀なパイロットだったのでしょう。

基本的にローゼン家は弱いものイジメが大嫌いな家系のようで、いずれの戦争も誰にも頼まれもしないのに勝手に駆けつけているのがほんとに偉いなあと思います。こういう貴族(騎士的といってもいいですね)が、つい最近まで実際にいたんだなあと思うと、感慨深いものがありますね、、、。伯爵は1977年、エチオピアで難民の救援飛行をおこなっている最中、地上でソマリア人ゲリラの襲撃にあい、「戦死」しています、、、。

国籍マーク一つとっても、こういうドラマがあるんだなあと思うと、襟をただして、今後はきっちりマスキングしていきたいものです(あれ?)。

まあ、それはさておきほぼできてきたのはうれしいですね。モーターでプロペラを回すと、とてもイイ感じです。下界の汚さを忘れてしまいますねえ。

で、お気づきの方はいらっしゃらないかもしれませんが、カメラが変わりました。奥さん所有のあまり使ってないデジカメ「EOS・Kiss」を試してみたら、結構いい感じに撮れることが判明しました。マニュアルモードも使いやすく、接写も問題ないようです。

マーダーの二人組みも、ちゃんとアップで撮れます。この間の写真と比べると、解像度が段違いですね。

市子ちゃんも、まつげまで写りました。ううむ、凄いな、、。

今後、過去の作品も、アーカイブとしてぼつぼつあげていこうと思います。

というわけでまた。

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