森男の活動報告綴

身辺雑記です。ご意見ご感想はmorinomorio1945(アットマーク)gmail.comまで。

南部十四年式拳銃と私(その1)

2020年08月22日 | 模型の話題
私は銃が好きです。いわゆるガンマニアです。

好きな銃はたくさんいろいろありますが、その中でも特別な位置を占めてるのが十四年式拳銃です。日本軍が使ってたあの拳銃です。

この拳銃について思うところは、以前から断片的にあれこれ書いてます。今回、ひとつのエントリーにまとめておこうかなと思いUPした次第です。なので、以前から拙ブログを読んでくださってる方からすると「この話前聞いたわ」という内容ばかりかもしれません。その辺はご了承下さい。まあでも、各エピソードとも、それなりに付け足して書いてますので、よろしければ読んでみて下さい。

ではスタート。なぜ十四年式かというと、実に簡単な理由です。

「祖父が軍隊で使ってたから」です。

12文字で終わってしまった、、(笑)。

私はじいちゃんが好きでした(以下、祖父とじいちゃんが混用されますが、なんとなくなので気にしないでください)。やさしいし、気前がよくてオモチャでも何でも買ってくれるし。酔っ払ったときは怖かったですが。なにかというと、じーちゃんじーちゃんといってました。

じーちゃんは、よく軍隊にいたときの話をしてくれました。私はなぜか軍隊の話に食いついて、何度も軍隊の話をせがんだのでした。その話の中に出てきたのが十四年式拳銃だったわけです。多分、拳銃の名前を始めて認識したのがこれだったと思います。5-6歳ごろです。以後、私の中で「じゅうよねんしきけんじゅう」はとても特別な位置を占めるのでありました。

この絵は、数年前に描いたもの。落書きをしてて、なんとなく十四年式の形になってきてふと「記憶だけで描けるかも」と思って描いたんです。後で答え合わせをしたら、まあ大体合ってました。それくらい好きだ、ということですね。でも何十年も付き合ってたら普通描けるか、、。
祖父の従軍時期(昭和18-20年)から察するに、恐らく後期型じゃなかろうか、と思ってそれにしました。とはいえ、祖父から聞いた十四年式の話で今でも覚えてるのは「撃針がよく折れて困った」ということのみ(これは十四年式の欠点。そのためホルスターに予備撃針が備えられてます)。なんでこれだけ覚えてるかな自分(笑)祖父は山砲連隊に所属し、最終階級は兵長でした。話の内容から想像するに、砲に直接携わっていたわけではなく、砲弾の輸送係とかそういうのだったようです。班長として、拳銃を持たされてたんじゃないかな、と。

じーちゃんから聞いた軍隊の話はいろいろと刺激的で、当然私は恐らくそのせいでミリタリー&ガンマニアになっちゃったんだと思ってます。私に生来そういう素養があったのに加え、薪をくべられたような、、。じーちゃんは戦争映画や戦争ドキュメンタリーが好きで、私はその横でわけ分からんなりに一緒に見てました。そういうのも大きかったですね。「ひこーきがとべるふねなんこれ?」「こーくーぼかんいうんじゃー」などなど、質問に答えてくれる先生が隣にいるわけですし(笑)

とはいえ、じいちゃんの軍隊の話で、今でも覚えているのは少ないです。「サンポー(後に山砲のことと知る)の弾の火薬は舐めると甘くて、おやつ代わりにぺろぺろ舐めてた」とか「馬が死んだら、それで焼肉をした。うまかった」などなど、わりとどーでもいい話題ばかりで、自分の脳のメモリーの信頼性に疑問が生じてしまいます。もっといろいろ聞いたはずなんですが、、。

「伍長にされそうになったけど、めんどくさいので逃げた」とも。あと後日おばさんから聞いたのですが、泥にはまり込んだ馬を1人で助けて表彰されたこともあるとか。ほんとかなあ、という気もしますが、祖父は結構な荒くれ漁師で腕っ節も強かったようなのでまあほんとなんでしょう。また、馬の鞭を編むのが上手で(魚網を作る技術の応用がきいたんでしょうね)、上官の覚えもよかったとか。そんなこんなで、それなりに優秀で要領のよい兵隊だったようです。

祖父は徴兵後、ソ満国境の虎頭要塞の国境警備隊に派遣され(当時の写真に「虎林憲兵隊」の検印が押されてます)、その後本土決戦のために四国高知に。そこで終戦を迎えました。つまり、戦闘に参加することはありませんでした。これはずっと後に知ったのですが、虎頭要塞は終戦後ソ連軍に最後まで抵抗、全滅しています。そして、要塞から本土に移る際、部隊の半分は南方に派遣されています。南方組(派遣先は失念。グァムかサイパンだったかと、、)は玉砕したそうです。

つまり、かなりきわどかったわけです。ちょっとしたこと(部隊を分けられて、どっちに行くかなんて、運以外ないでしょう)で、私はいなかったかもしれないんですね。「軍隊は運隊」という言葉がありますが、祖父はかなり運がよかったんですね。しかも、終戦を迎えたのは隣の県という(馬に乗って復員したそうです)。

で、今になって思うのは祖父が軍隊の思い出を何でも話してくれたのは、戦闘など過酷な経験をしていなかったからなんだろうな、と。いろいろ見聞すると過酷な体験をされた方ほど当時を振り返りたくないという傾向があるようです(当然ですが)。そして研究者など他人に話すのはともかく、孫にそういう厳しい話をすることはまあないよなあ、と。思い出しても、軍隊でキツイ思いをしたという話の記憶はありません。「靴が小さすぎて、最初足の爪が全部はがれた」という話はよく覚えていますが、、。しかし「殴られまくった」などの話はなかったです。

そんなこんなで、祖父は私にあけっぴろげに軍隊の話をしてくれたわけで、その影響で今の私がある訳です。私はその後、戦争や近代史に興味を持って本を読んだりテレビを観たりするようになりました。例えば、小学校の図書館にあった、近代の戦争について書かれた本は全部読んだと思います。もちろん当初は「飛行機や戦車がカッコイイ」という視点で、それが大きな興味の対象でした。子供ならみんなそうだと思います。しかし年を経て知識が深まるにつれ、カッコイイ兵器の背後には、それに乗って戦った人たち、作った人たち、殺された人たち、残された人たちなどなど、さまざまな人が背後にいることに気が付きます。そしてそのつもりでさらに知識を深めていくと、戦争の実態・実相がどういうものなのか、おぼろげながらにも理解できるようになっていきます。今振り返ると、長年の蓄積(というと偉そうですが。でもまあ40年もこの趣味やってるんですよね、、。びっくりです。5-6歳のころに、例えば零戦二一型と五二型の違いをすでに認識してたと思うと、ほんと、、)のおかげで今の認識を得られたことを考えると、祖父には感謝の言葉もありません。

ミリタリーマニアやガンマニアは「戦争や人殺しが好きなんだろう」と誤解されがちなのですが、経験上、詳しい人ほど戦争の恐ろしさ、むなしさ、バカばかしさをよく知ってるように思います。そういう認識と「戦車や飛行機がカッコイイ」と思う気持ちは一見矛盾しているんですが、それぞれ全く別のもので、共存できるものなんですよね。この辺はいまいち理解されにくいのが残念ではありますが、、。

って、じいちゃんの思い出話でかなり長くなったうえ脱線してしまいました。すいません。まあでも、せっかくの機会なので、きちんと書いておきたかったんです。

というわけで、話は戻ります。十四年式がどういう形の拳銃なのかを、いつどこで知ったのかというはっきりした記憶はないんですね。この辺はかなりおぼろげです。でも状況的に多分これだろうなあ、、というのがこちら。エルエスの南部十四年式です。

当時よく行っていた近所のおもちゃ屋さん(といっても日本家屋のお店で、駄菓子屋さんがおもちゃを専業にしてるような感じ。店舗の広さは12畳もなかったんじゃないかなあ、、。今から考えると激シブでした。お店の名前は「タニグチ」といいました)のプラモの棚に「ドーン!」といった感じで鎮座ましましておられたのでした。

お店の取り扱い商品としては、主に男の子向けのものばかりでした。ミニカー、ブリキ玩具、竹ひご飛行機(ゴムでプロペラ回すアレ。なんていうんだろ、、)、プラモなどなど。プラモのラインナップはなぜか飛行機と船と車が多く、戦車はあまりなかったような、、。ましてや銃のプラモはこれが唯一で、一種独特のオーラを放っていました。何年も通いましたが、ずっと売れずに残っていて(多分通う前からずっとあったはず)、お店の主のような印象でした。

こんな感じで箱の側面を見せる形で積まれてて「あー、これがじいちゃんの拳銃かあ。カッコいいなあ」と思ったような記憶が。

なんでずっと売れ残ってたのかなあ、と不思議ですが、まあ一般的な男の子にとっては激シブなアイテムな上、値段も1200円と超高額(店の顧客層からすると雲上キット(造語)です)だったので、まあ売れないか、と。店の爺さんは結構怖くて、プラモの箱を気軽に開けて見てたりすると怒るので、中身も見ずに1200円もの大金を支払う勇者はまあ出てこなかっただろうなあ、とも。私も欲しいとは思いましたが、さすがに1200円は出せないし、箱の中も見れないしで店に行くたびにチラチラと眺めるだけでした。

今から考えると、店の爺さんも軍隊にいたときのからみで仕入れたのかなあ、という気もしますね。でもずっと売れないので何がしか思うところもあったのかなあ、とも(笑)

それにしても、このエルエスの十四年式の箱絵は実に素敵ですね。日本の拳銃!という独特な雰囲気を実に素晴らしく表現した傑作だと思います。南部麒次郎氏の肖像が織り込まれているのも素晴らしいです。

とはいえ、実は十四年式と南部氏は直接の関係はなかったようですね。「日本軍の拳銃」(ホビージャパン)によると、十四年式の開発に当たって、氏は関与していなかったとか。南部式が元になったことは間違いないのですが、それを改良・設計したのは吉田智準という大尉である可能性が高いとか。実際、南部式と十四年式を比較してみると、なんとなーく違います。南部式は各部の処理や収め方が実に優雅で「工芸品」のような印象ですが、十四年式はそういう面がことごとくそぎ落とされており、かなり現実的な「兵器」に昇華されているように感じます。

とまあ、私の印象はおいといて、事実関係だけで言うと「十四年式」はあくまで「十四年式」であり、一般に言われているような「南部十四年式」という呼称は「間違い」ということになります。この点については、南部・吉田両氏の名誉のためにも、きちんと周知されるべきでしょう。

しかし、そういう事実関係とはまた別に「ブランドイメージ」というものがあります。「南部」が日本の銃を象徴するような名前であるならば、それを適宜呼称してもいいんじゃなかろうか、と個人的には思います。実際、戦後日本の警察に採用された「ニューナンブM60」と南部氏は、直接的なかかわりはありません。ニューナンブの開発生産に当たった中央工業の母体となった南部銃製造所の設立者が南部氏だった、というだけです。でも、やっぱり「ナンブ」という名前が今後も使われていくのはいいことじゃないかと思います。

こういうのは難しいところですよね。有名なのでは「シュマイザー」がありますね。ドイツ兵のサブマシンガンのアレ(というだけで通じるほどのアレ。MP40のこと)はシュマイザーと呼ばれることがありますが、実はシュマイザー氏の設計じゃないという(設計はエルマ氏)。でも「シュマイザー」という語感からくるイメージは実に強烈で、戦後MP40が「ドイツ兵のあのサブマシンガン」として確固たる地位を占める、大きな要素になったのは間違いないと思います。

もっとややこしいことに、ベルグマンMP18を設計したのはベルグマンじゃなくて、シュマイザーなんですよね(笑)なので、椅子とりゲーム的にエルマが割りを喰っちゃったわけです。エルマさん、可哀想(笑)。こういうのって、銃の世界ではちょこちょこあって、例えばコルトガバメントだって、元々はブローニングの設計ですし、ブローニングがいなければできていない拳銃ですからね。でも、ガンマニア以外にとっては「コルト」はあくまで「コルト」で、「ブ」の字も残ってないという、、。

まあ、後世に名前を残すことが最終的かつ唯一無二な目的であるのかないのかは人によって違うとは思いますので、なんとも言えないわけですが、、。この辺はほんと難しい微妙なところですね。

って、また話がずれました。すいません、、、。

で、エルエスの十四年式が気になって仕方がなかった私ですが、そのプラモは買うことが出来ない。結構悶々とした日々を送っていたわけです。

で、そんなある年のある夏、地元の神社の縁日の屋台で見かけたのがこれでした。アリイの南部十四年式拳銃。
プラモの十四年式というと、エルエスだけだったと思われがちですが、じつはアリイのもあったんですよ。箱絵が激シブです。ある方に教えてもらったのですが、この絵は丸メカの鴨下示佳氏の手によるものです。びっくり。

スケールは1/3-1/4くらいで、内容的にはプラモというよりも駄玩具の部類です。L字型に折った針金にスプリングをつけて、針状の弾丸を打ち出せる、というギミックです。銃の再現度もご覧の通り、という(笑)でも、子供心には十四年式が立体になってるというだけで感涙ものでした。
縁日のくじ屋さんに陳列されてて、私は一瞬で釣られました(笑)。「おっちゃん、これ売って!」と頼んだら「いやこれくじの商品やけんね。欲しかったらくじ引いて当ててや」と。「むむう、、。足元見やがって、、よっしゃ分かった、当たるまでくじ引いたるわ!」と鼻息荒くくじを引いたら、これは残念賞で一発で入手したという(笑)なんやねん、おっちゃん、、。

経緯はともかく、入手できてメチャ嬉しかったです。小さいし、フォルムも変ですが、子供心にはこれでも十分でした。とにかく立体の十四年式が手元にあるというだけで満足でした。

で、この写真のキットは、去年プレミア付のを買ったのです。高かった、、。軽自動車一台分ぐらいでした(ウソつけ!)。中古模型屋さんのショーケースに入ってて、見た瞬間に「買い!」となりましたね、、、。

箱には50円とありますね。多分駄菓子屋さんとかで普通に売られてたと思うのですが、私はこの屋台で見たのが最初で最後でした。私よりもちょっと前の世代の人なら記憶があるかもですね。それにしても、箱サイドの他のラインナップも素晴らしすぎます、、。ウェブリーの箱絵も渋すぎ。任侠道とウェブリーって、、。
ベレッタはまあ分かりますけど、ボディガードとか前装式デリンジャーとか、いちいち渋くて「わざと外した感」がハンパナイスですねえ、、。

ちなみに、このシリーズはたまにネットオークションとかでも出てくるようです。ほんとは全部揃えてみたいんですけどねえ、、。

で、結局、その店のエルエスの十四年式は入手できなかったのでした。その店に通ってたのは6-9歳くらいまでで、なんとなく足が遠のいてしまいました。11歳くらいのころになると、お小遣いやお年玉も増えて、1200円くらいならなんとか出せるようになっていましたが、逆にそのお店に行くのが恥ずかしい感じになっちゃったんですね。今から考えると全然恥ずかしくともなんともないんですが、まあ子供の気持ちってそういうものです。「久しぶりに行ったら、爺さんが変な目で俺を見るんじゃないかなあ」とか、変な想像しちゃうんですよね、、。

でも、そのころ一度意を決して「あの店にいってあの十四年式を買おう!」と家を飛び出したことがあります。確か、冬休みの間近の日で、クリスマスがらみでお金もちょっと余裕があって、2000円くらいはありました。お金を握り締め、店を目指したのですが、やっぱ店に入れず、仕方なく別のおもちゃ屋さんに行って(当時はそこによく行ってた)、マルイのツヅミ弾のルガーを買って帰りました。1900円だったかな、、。あの時、ほんとに勇気を出せればよかったんですけどねえ、、。これは今でもほんとに後悔してますね、、。

その後、そのお店は廃業してしまいました。戸を閉めて、建物はずっとそこにありましたが、そのうちその建物自体も潰されて、今は更地になってます。今でもよくその前を通るのですが、そのたびに「あのキット」を思い出します。「あー、ほんと買っときゃよかった、、」と。結局、お店が潰れるまで売れ残ってたのかなあ、、。

そんなこんなで、エルエスの十四年式は以後の私にとって「幻のキット」だったのでした。何度も何度も夢に出てきましたね。夢の中で見知らぬ模型店に入ったら、これが棚にあって「やった!」というパターンの繰り返しでした。目が覚めて落胆するという繰り返し、、。もちろん、このキットに限らず例えばタミヤのⅢ号戦車とかロシアンフィールドカーとか「幻のキット」は他にもたくさんありました。でも、当時は中古プラモ屋もヤフオクもないし、基本的に絶版キットを入手することはほぼ不可能でした。

当時の絶版キットの入手方法は、模型雑誌の「売ります買います」欄しかなかったですね。「売ります」欄に出てたら、往復はがきを出して、値段が予算内なら買う、しかも先払い。状態については売り手任せ、という。私は一度だけ利用したことがあります(模型じゃなくて、マルイのガスのMPLを買いました。幸いいいものが買えました。売主の方がとてもいい方だったので、お礼状に「もし十四年式をお持ちならぜひ売って下さい」と添えた記憶があります。必死だな、自分(笑))が、今から考えると凄いギャンブルですね。

で、1990年代後半から2000年ごろに状況がガラリと変わりました。ネット環境が整って、ヤフオクができました。幻だったあのキット、あの本、あのモデルガンがお金さえ出せばいくらでも買えるようになったのでした。これは革命的でしたねえ、、。中古の絶版アイテムが自由に出品される市場って、全然なかったんですよね。ちょうど、私は社会人になったころでメチャクチャお金を使いました。親の敵をとるような勢いでした(笑)

あ、でもそういえば、このころ「クアント」という「売ります買います専門誌」が発刊され、人気を博してましたね。私もマメにチェックしてたんですがヤフオクが出来て、あっという間に波間の彼方に消えてしまいました、、。なんというか、1995-2000年ごろって、そういうアナログとデジタルのつばぜり合いが凄かったんですね、、。この雑誌、出品者の個人情報(住所とか電話番号とか)がバリバリ載ってましたね。そんなこんなで、今から考えるとありえないような感じだったんですよね。当時は当たり前みたいに思ってましたけど、、。

エルエスの十四年式も、例外なくヤフオクに出てきてました。でも、当時からエルエスのプラモガンは相場が高くて、未開封品はなかなか落とせなかったです。私は、組み立て途中のジャンク(箱・取り説付)をなんとか購入しました。2000円くらいだったかなあ、、。上で紹介した箱はそれです。組み立て途中のを(タミヤパテべっとりでした(笑))、一旦剥がして、なんとか綺麗に仕上げようとして、途中で終わったのがこちら。
キットはダルマトリガーガードの後期型ですが、前期型に改造してます。その他いろいろ綺麗に仕上げようと鼻息荒く取り組みました。

しかし、このころいろいろあって数年で何度も引越しすることになってしまい、そのうちにどんどんパーツを紛失してしまいました。なので、今も未完成のままとなってます。

マガジンとか、あんだけでかいのに何で無くすんだろ、、。俺の8ミリ南部弾は一体どこに消えたのか、、、。

久しぶりに手に取って見ましたが、このキットほんと凄いですね。ほぼ完璧です多分。鬼のような再現度です。開発のとき、なんかがエルエスさんに憑依したんじゃないの?というくらいです、、。
マジで背筋がゾッとします。オーパーツですよこれ、、。そういえば、タミヤのチハもそうですね。なんか、ギアがグワッと入っちゃったんでしょうね、、。

で、このキット、ほんと再販して欲しいです。マジで売れると思うんですけどね。エルエスのこのシリーズは傑作ぞろいで有名ですけど、ほんと十四年式だけでも再販してくれたらなあと。

この手の複合素材キットの再版は、金属パーツの再生産が難関としてあるようです。プラだけなら金型があったらいいんですけど、金属パーツは再生産が難しいそうです。確かに、プレス型とかは金型とはまた別のものですものね。スプリングひとつ外注するにしても、コストが今と昔じゃ全然違うかもですし。でも、この十四年式の金属パーツは、ほぼスプリングとピンのみなので、何とかなるんじゃないかなあと思うんですけどね。同シリーズのモーゼルとかはプレスパーツが結構あって、再版はかなり難しそうなんですけどね、、。

で、今、このエルエスの十四年式が再版されたらメガヒット間違いなしと思うんですけど、どんなもんでしょうね。少なくともおっさん連中は1人2箱は買うでしょう!ビジネスチャンスですよ!(笑)。っていうか、金型はちゃんと残ってるのかな?この辺もまったく情報がないのでアレですねえ、、。うーん、、でもほんと再販して欲しい、、。

というわけで、今回はお終いです。ほんとは1回で終わらせる予定だったんですけど、あれもこれもと書いてたらメチャ長くなってきたので2回に分けることにしました。いやー、じーちゃんの話からすでに脱線気味だったので仕方ないか、、。
次回は「マルイの造るモデルガンの十四年式」と私、くらいからスタートする予定です。

それにしても暑い日が続きますね。皆様何卒ご自愛下さい。いやー、ほんと暑いなあ、、。でも暑い夏といえば十四年式だなあ、、(そうか?)

それでは。

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ごっつええ感じの銃選手権・番外(なんちゃって日本軍小火器編 その3)

2020年08月09日 | イラスト集
「こんな日本軍の銃器があったらよかったのになあ」という私の勝手な妄想を誰にも頼まれないのに絵に描いて、あることないこと見てきたようにしたり顔で解説するシリーズの3回目です。前回で一応お終いということにしていましたが、その後もアレコレ頭に浮かんでくるのが止まらず、浮かんだ以上描かざるを得ず(笑)気がつくと1回分くらいになってました。なので続けてしまうのです。

繰り返しになりますが、以下の銃は全て真っ赤なウソです。しかし、文中には史実もあれこれ織り交ぜています。その後の「妄想の経緯」については、それを思いつくに至ったホントのことを書いてます。読んでいて、何がウソで何がホントなのかわけわかめになるかもしれませんが、その辺はもう「世の中そういうもんだ」ということでご了承下さい。

●二式狙撃銃
陸軍挺進連隊(落下傘部隊)用に製造された二式小銃(略称テラ銃)は、銃身部と機関部が分解可能な、世界的にも珍しい軍用テイクダウンライフルです。二式狙撃銃は、テラにスコープを付けた狙撃銃バージョンです。
1→スコープは九九式照準眼鏡を使用。装着部は当然九九式と同様です。
2→先台部はテラと違いハーフストックになってます。また、銃身はフローティングバレル仕様。フローティングバレルとは、銃身と銃床を密着させず、銃身が浮かせるようにすること。こうすると、銃身がフリーな状態となるので命中精度が上がります。
3→消音器は特殊な装備だったようです。目的は不明ですが、挺進連隊の中にさらに特殊な任務を帯びた部隊があり、そのために造られのでは、と推測する研究家もいます。二式擲弾器を流用し、擲弾の代わりに消音器を装着します。そのため、擲弾器にロックが付いてます。
4→チークパッド。消音器同様、これも特殊な装備のようです。現存する個体のほとんどには両方付いていませんが、数丁が確認されています。

二式狙撃銃、テラともども、採用の時点で戦局は悪化しつつあり、本来の採用目的である空挺作戦自体が行われなくなったため、陸上戦闘で通常の狙撃銃として使われました。本土決戦でも活用されたようです。

しかし、この銃が本当に「活躍」したのは戦後の混乱期でした。分解可能で消音器が装備されている点は、暗殺用の銃器としても理想的で、この銃によるものとされる占領軍の要人狙撃事件は二十数件にのぼっています。「犯人」は旧軍関係者とみられており、突発的ではなく計画・組織的な「犯行」に占領軍が大混乱に陥ったことは今でも語り継がれていますね。

戦中は空挺用としての本領を発揮できず、戦後非合法な「犯罪」によってその能力が生かされたというのは皮肉です。そんなこんなで、ダークなイメージが付きまとっている銃です。

●妄想の経緯
とまあ、またまたもっともらしいことを書いてしまいました(笑)。要するに、分解できる狙撃銃があったらカッケーな、というだけの発想ですね(笑)。とはいえ、テラはどうも命中精度はいまいちだったみたいです。ミリタリートイズVol7(八重洲出版)に、たかひろ氏による詳しいレポートが載っています。九九式と共に100ヤードのグルーピングテストを行っており、テラは150ミリー170ミリ、九九式が50-100ミリ(各結果の幅は弾薬の違い)でした。確かに、良くはありません。

テイクダウンライフルで精度を維持するには、普通のライフル並みにキッチリと固定する機構(複数個所でねじ止めするなど)が必要なようです。しかし、テラの結合は薬室下側のクサビ上のロック一箇所のみとなっています。同氏は、発射後、銃口から銃弾が出るまでに、そのクサビ部分を支点に銃身が歪んでしまうのではないか、と推察されています。しかし、狙撃銃ではなく通常の軍用銃としては「十分合格範囲といえる」とのこと。軍もその辺の問題は十分理解したうえで、妥協案としてこの方式を採ったのでは、とも。

要するに、テラは命中精度を許容範囲まで落として、分解結合の簡便さ(コスト)を優先したということですね。そういう選択もありなんでしょう。軍用銃というのはどれもこれも完璧、ってのはなかなか難しいでしょうからね。

なので、テラを狙撃銃にするのはちょっと無理があるんですが、まあいいじゃないですか、という(笑)。余談ですが「ダーティハリー」の悪役・スコルピオが冒頭でテラ改造の狙撃銃を使ってます。やっぱりテイクダウンライフルってのはキャラが立ってて魅力的ですよね。

あと、ミリタリートイズのたかひろ氏のレポートは、銃のチョイスが実に渋く(九九式狙撃銃やアストラ600など)かつ記事も詳しく丁寧で、毎号楽しみにしていました。雑誌が休刊になったのは残念でした、、。

●試製ぺ式自動小銃
米のピダーゼンデバイスを改良・国産化したのが、ぺ式自動小銃です。
ピダーゼンデバイスとは、米軍のM1903ライフルを、拳銃弾クラスの弾丸を使用する自動小銃に変換させるアタッチメントです。日本陸軍は1930年代前半から、自動小銃の開発に着手しており、米のピダーゼン自動小銃のライセンスを購入しました。それを元に自動小銃甲号・丙号が開発されています。この自動小銃のライセンスと同時にピダーゼンデバイスも売り込まれたようです。既存の小銃を、低威力ながら自動小銃に変換できるというアイデアは慢性貧○症の日本軍の興味を引いたようで、ライセンスを取得し、日本独自のアレンジを施したものが試作されました。

1→後部に出っ張っているのがコッキングピース。オリジナル同様、ストレートブローバック式。ロック機構の変わりに、ピースを大きく重くしてロックの代用としているようです。弾丸は三八式実包(A)を小型化した試製ぺ式実包(B)。威力としてはモーゼル拳銃弾より多少強い程度だったとか。オリジナルと異なり、フルオート射撃を可能にしており、これは弾丸の弱さをカバーするためと思われます。
2→弾倉はドラム式50連。弾倉底板を取り外し、ぺ式用の弾倉用ユニットをはめ込みます。オリジナルのデバイスの弾倉は、箱型で右斜め上に差し込む型式となってます。これは、ライフル用の弾倉をそのままにして、ライフルとディバイスを適宜使い分けるためです。ぺ式は下部に移しているので、オリジナルのような使い分けをやめて、自動小銃のみとして使うことを想定していたことが伺えます。
3→ぺ式は、三八式系列の小銃全てに使用可能ですが、残されている写真資料はほぼ四四式騎銃がベースとなっています。これは騎兵用として想定されていたためと考えられます。

ぺ式は試作後各種テストが行われ、おおむね良好な結果を示しました。特に連射は、銃が重く弾が弱いことから制御も容易で好評だったようです。しかし、弾丸の威力は自動小銃としては満足のいくものではなく、没となりました。

●妄想の経緯
ピダーゼンデバイスはとても好きなので、日本軍仕様を考えてみました。で、当時日本軍ではピダーゼンをどう呼称していたのか分からない。スペルはPedersenなんですが、今もピーダーゼン、ペーダーゼン、ぺダーセンなどなどいろいろな表記があります。困ったものです、、。で、ピ式よりはぺ式がいいかな?とそうとしましたが、どっちにしても腰が抜けるような呼称ですね(笑)あと、四四式に付けたのは好みです。騎兵用とか関係ない(笑)

ピダーゼンデバイスは第一次大戦中に開発されました。ライフルのボルトを外し、その代わりにデバイスを差し込むと自動小銃となります。第一次大戦が始まると、塹壕戦などこれまでとは違う戦闘が展開され、米軍内では火力の強い自動小銃の必要性を認識するようになりました。が、自動小銃を直ちに開発生産できるわけではありません。デバイスは、そのような状況を補完するものとして開発されました。1-2年で5万丁(!)も生産されたそうですが、、配備前に戦争が終わり、没となりました。

ピダーゼンデバイスを知った30年ほど前は、全然資料が無くて悶々としてました。そもそもどういう構造なのかもわからない、という。しかし、今は実射動画まで(!)見られます。動画を見ると、部品構成や構造とかがなんとなくながらも分かりますね。ほんと凄い世の中になったものです。

で、以前から、手持ちの四四式のモデルガンにマルゼンのスコーピオンを組み込んで、四四式自動小銃にしちゃろうとずっと前から構想してまして、そこからぺ式を発想したんです(笑)

しかし「四四式のストック削るのもったいないし、時間もないしなあ、、、」とずっと放置中。そもそも、レシーバーなどは完全にプラで作らないといけないので大変です。でも、これができたら面白いものになるんじゃないかと思うんですけどね。

ぺ式も頑張ったら、モデルガンで作れるかもですね。あー、時間と金があれば、、(笑)

●試製一型挺進銃
挺進連隊(空挺隊)専用の自動小銃です。太平洋戦争の緒戦、蘭印軍から鹵獲したジョンソンM1941を見た挺進連隊首脳部が「空挺作戦用に理想的な銃である」として国産化を要望、昭和18年前半に試作されました。

1→使用弾薬は三八式式実包で、弾倉も九六式のを流用してます。オリジナルのジョンソンの30-06弾に比べると、三八式実包は口径も反動も小さいため、非常に扱いやすい銃となったようです
2→銃剣はFG42のような、差し替え・スパイク式。ジョンソンはショートリコイルのため、ナイフ式のような大きな銃剣は装着することができません。
3→グリップ・トリガーガードなどは独自のアレンジをしていますが、機関部など内部構造はほぼジョンソンのままです。

使用弾薬を変更したことで、単発はもちろん連発射撃においても非常に安定した性能をみせ、高評価だったようです。しかし挺進連隊専用銃というのは非常に贅沢なことで当初から異論があった上、このころから徐々に戦局は悪化し、空挺作戦の実施自体が危ぶまれるようになってきたため、採用は見送られました。

しかし細かな事情は不明ながら、試作扱いで一定数(500丁程度と推定)が量産されたようです。戦況が悪化する中、空挺作戦に関係なく挺進連隊を精鋭部隊として強化させておきたいという、上層部の意思が働いたという説もあります。それは本土決戦を見越していた可能性もあるようです。実際、本土決戦では皇居の防衛戦に参加した挺進連隊が装備し、獅子奮迅の活躍を見せたと言われています。

●妄想の経緯
日本軍にもFG42が欲しいなあと思ってたら、ジョンソンがあったので「これだ!」と(笑)。ジョンソンはいろいろ考え抜かれた素敵な銃ですね。ライフル型と部品をいろいろ共有しているところとか、マガジンにリップがなかったり、なんかいいなあと思います。ジョンソンさんはアイデアマンで大した人だったようですがいまいち不遇でしたね、、。日野大尉同様、そういう人ってどの国にもいるんですよね、、。

で、当初はこういう風に描いてました。違いがわかりますか?
1→銃剣を四四式のタイプにしてました。ジョンソンがショートリコイル式だったことを知らなかったんですね(あー、恥ずかしい、、)。ツイッターでUPしたら、ある人が教えてくれました。それで一部描き直したわけです。

ジョンソンの資料(大昔のコンバットマガジンのレポート)は何度となく見てたんですけど、機構についてぼんやりとしか把握してなかったという。で、ショートリコイル式ながら、ライフル型にはスパイク式銃剣が着けられます。ある程度小さく軽い銃剣なら、大丈夫だったんですね。でもあんまりよくはないですよねえ、、。刺すたびに銃身がガチャガチャ動くでしょうし、刺して撃つことができません。不思議です。

あと、恥ずかしついでに書きますが、私これまでずーっと挺「身」連隊って書いてました。正しくは挺「進」連隊です。薄らぼんやり覚えてるとこういうことになりますねほんと、、。あー、恥ずかしい、、

●試製二型挺進銃
一型の開発直後、ドイツからFG42が届き、それを参考に開発されたのが二型です。

1→一型同様三八式実包仕様のため、これまた安定した性能で高評価だった。
弾倉も九六式軽機のものを流用。
2→二型は固定銃身のため、四四式タイプの折り畳み銃剣が付けられた。
3→機関部はFGとほぼ同じ。

一型に比べると構造がやや複雑で生産性が悪かったためか、試作数丁で終了したようです。ほぼ同じ性能の一型が先行して完成し、量産されていたという理由も大きかったと考えられています。

●妄想の経緯
というわけで、FG42ベースのも描いてみました。四四式の銃剣、やっぱ付けてみたかったんすよ(笑)。とはいえ、FG、ジョンソンともどもほんと凝った作りで、製造がメンドクサソウなので、日本が入手していたとしても、コピーする気にはならなかったんじゃないかと思います。作れなくはないんでしょうけど「あえて作る必要はないんじゃね?」って感じですかね。

しかし、ジョンソンともども三八式実包仕様ならフルオートでも全然問題ない、いい銃になったと思うんですけどね。FGのフルオートは制御が難しいそうです。ジョンソンはそれほどでもないとか。でも、ただ、やっぱり日本軍用としては贅沢スギですね(笑)

あと、ジョンソンとFGはとてもよく似てますね。アウトラインはもちろん、セミではクローズドボルト、フルでオープンボルトになるところとか。リアサイトもなんかメチャ似てるし、、。開発時期はジョンソンがちょっと早いんですが、タイミング的にFGが真似できたとも思えないんですよね。これもシンクロ二シティなんですかね、、。

●六式擲弾器
六式機関騎銃(「その2」で紹介)専用に開発された擲弾器です。口径37㍉の専用擲弾を使います。
1→機関部は、中折れ式で左側のロックレバーを押すと下側に開きます。
2→撃発はシングルアクションのストライカー式。機関部が下がると同時にコッキングされます。九七式信号拳銃と同様。弾倉をグリップ代わりに握り、トリガーを引きます。
3→着剣装置で砲身部を固定。後部は1→部のバンドで固定します。
4→擲弾用の照準器。ドイツのシースベッヒャーのそれを参考にしたようです。
5→擲弾は、榴弾とタ弾、信号弾があります。有効射程は約200メートル。
6→機関部は上部のカギが砲身の切欠き(→7)に入り、ロックされます。
8→機関部を下げると、エキストラクターが作動し、排莢。手馴れた射手は、ロックを押して機関部を振り下げ排莢・再装填し、振り上げるようにして発射状態にしていたそうです。

二式擲弾器などと比べると弾の威力はやや劣りますが、元込め式なので再装填も容易で、銃の射撃も並行して行えるなどの長所があります。さらに安定した射撃姿勢と照準器のおかげで、熟練者ならピンポイントに近い射撃が可能だったとか。

迅速な行動が必要な、機関騎銃を装備する部隊(挺進連隊など)には最適だったようで、野戦・市街戦を問わず効果的に活用されたようです。機関騎銃分隊の火力は、当時の歩兵分隊として恐らく世界一強力だったはずで、さすがの米軍歩兵部隊も、機関騎銃分隊に出会うことをかなり恐れていたそうです

●妄想の経緯
ま、要するにM203ですね(笑)機構までM203を真似するのも嫌なので、あれこれ考えましたが、なかなか難しいですね。で、この中折れ式程度のロックで擲弾の反動・圧力に耐えられるのかどうかは、、、知りません(笑)

あと、好きな小説の「五分後の世界」で日本兵(小説内ではアンダーグラウンド兵士と呼ぶ)がオートマチックのグレネード銃を使ってて「擲弾銃いいなあ」と思ってたんですね。で、まず擲弾器から、と(笑)

六式はあれこれ派生型を描きましたが、ちょっとそろそろSFチックになってきつつある感じなので、この辺で止めといた方がいいかも、という気もしますね(笑)

というわけで今回はお終いです。いや、またまた長かったですね。すいません。

で、この「なんちゃって日本軍銃器シリーズ」ですが、まだ続くかもです。すでにいくつか妄想中のがありますし。なのでまたそのうち第4回をやるかもです。それにしても、なんでこんなに必死に描いてるんでしょうね私、、。わけわからんです。でも楽しいな、、。

それでは。




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