森男の活動報告綴

身辺雑記です。ご意見ご感想はmorinomorio1945(アットマーク)gmail.comまで。

パリは「いききって」いるか?

2016年03月26日 | 日記
今回は久しぶりに日記にします。日記なので「ですます」調でなくて「だ、である」調なのでちょっとエラソーな感じになってしまいますが、あらかじめご了承ください。

●月●日

義烈空挺隊員のフィギュアを作っているので、資料を出来るだけ集めている。しかし、「帰らぬ空挺部隊」(原書房・田中賢一著)という、義烈空挺隊の創設から最期までを記した本がなかなか手に入らない。地元の県立図書館にもなく、最後の手段として他県の図書館から取り寄せてもらう。届いたという連絡があって借りに行くと、隣県のよく行く市の図書館の蔵書だった。こういうのって、なんか嬉しい。図書館は、実にありがたい施設だと、しみじみ思う。下の二冊は購入したもの。

田中氏は義烈空挺隊に所属しており、陸軍の空挺部隊創設期から自衛隊の空挺団まで携わったエキスパート。どの本も経験に裏打ちされた知識によって書かれているので、本当に参考になる。

×月×日
後輩から借りた宝塚歌劇の「ベルサイユのばら」のDVDを観る。本当に素晴らしい内容で、びっくりする。


自分からは特に観ようとは思っていなかったのだが、後輩が薦めてくれたので観た。それにしても、ここまでいいとは思わなかった。
なんというか「俺たち(私たち?)はこれでいいんだ!これでいくんだ!」というスカッと突き抜けた感じがずどんと伝わってきて、非常に心地よかった。ダウンタウンの松本人志がラジオで「何でも『いききってるかどうか』が大事」と話していたことがあり「そうかもなあ」と納得していたのだが、これこそほんと「いききってる」んだと思う。DVDを見た翌日、図書館に行って特に当てもなくぶらぶらしてたら池田理代子の「ベルサイユのばら大事典」を見つける!引っ張られてるなあ、と思う。そのうち漫画を読んでみたい。

「ベルばら」がよかったのは、舞台がフランス革命だということも大きいように思う。フランス革命というのは、なんというかロマンチックな要素が多く、とても惹かれるものがある。映画でも小説でも漫画でも、フランス革命を題材にしたものがたくさんあり、かつ支持されているのは、歴史的に重要な出来事というだけではなく、やはりロマンを感じる人が多いからだろう。そういえば「ダウンタウンのものごっつええ感じ」のコント「アドリブ歌謡ショー」でココリコの遠藤が「フランス革命に参加したいぃ!」と歌っていて、爆笑してしまったのを思い出した。さらにそういえば「パタリロ!」でもタイムスリップしてフランス革命に身を投ずるタマネギの話があったようにも思う。フランス革命に参加したい人は案外たくさんいるのかもしれない。

で、あまりに良かったので、DVDのパッケージを見ながらオスカルを描いてしまう。

「ベルばら」は昔から知ってはいたが、まさか、自分がオスカルを描こうとは、、。

△月△日

中四国AFVの会が迫り、イラスト関係の仕事がたまっているのでどんどんこなしていく。缶バッジ用の公式マスコット「せんしゃん」の絵が大体できあがる。よし、これでいい! と満足(左の絵)。で、去年のはどんなだったっけ?と去年のバッジを見たら、ほとんど同じ絵(右)で椅子から転げ落ちる。描きなおしである。

それにしても、ここまで似ているのには呆れてしまった。引き出しが少ないという証明である。

□月□日

久しぶりの連休。ひたすらイラストを描き続ける。絵とか模型とかをやってるときはよく音楽を聴いてるのだが、もう20年くらい使ってるコンポのCDがとうとう壊れてしまう。MD(!)の部分はまだ生きてるので、押入れに入れてたMDを引っ張り出して聴く。持ってることすら忘れてたMDがあって、新鮮。それぞれまったく脈絡がないようでありながら、統一感があるようにも見えなくもない。
「仁義なき戦い」のサントラを聴いてたら、思いついてしまったのでこんな絵を描いた。

絵を描いていたら盛り上がってしまい、時間も無いのに「広島死闘篇」を借りてきて観てしまう。やっぱり最高である。「広島死闘篇」は山中正治(北大路欣也)がとてもいい。彼はこの映画の事実上の主人公といってもいいだろう。劇中、彼は予科練に入りたかったのだが、年齢に満たず諦めたというセリフが出てくる。戦後、そのやり場の無いエネルギーをヒットマンとしての生き方に注いでいく。彼が吹く口笛が「予科練の歌」というのは、彼が戦争を引きずっていることを示す最高の演出だろう。彼は、最後に拳銃を口に入れて自決するのだが、脚本ではこめかみに当てて撃つようになっていた(ウィキによると、彼のモデルはそうしたらしい)。それを、深作監督は口に入れて撃つように変更した。なぜかというと、監督は軍事教練で兵隊の自決方法を教えられていて、それを反映させたのだという。その方法とは、小銃を口に入れて、足の指で引き金を引くというもの。監督は、山中を特攻隊の生き残りとして捉えており、彼を軍人として死なせたかったのだそうだ。(「仁義なき戦い PERFECT BOOK」(宝島社)より)

「仁義なき戦い」を注意深く見てみると、過去の戦争があちこちに影をおとしていることがわかる。主人公の広能自身、兵隊時代の仲間のケンカが原因となって、この世界に入っている。映画の冒頭、拳銃を普通に撃てたのも兵隊だったからである。山中と惚れあうことになる靖子(梶芽衣子)も、戦争未亡人である。この映画は、戦争で狂わされた人生を、なんとか修正していこうとあがく人々の群像劇といってもいい。舞台が広島というのも、必然なのかもしれない。「仁義なき戦い」はただのやくざ映画ではないのだ。


□月■日

3連休の最終日、なんとか当初の目標を達成する。ちょっと不健全すぎるので没にしたイラストもある。

ラフの段階で「これはちょっと、、」とわかってはいたが、思いついた以上描いてみたくなったので描いてしまった。どこかで使えないかなあ、と思う。ナチのハーケンクロイツは、こういうとき描くべきかどうかいつも悩んでしまう。必要以上に遠慮するのも変だと思うし、堂々と使うのもどうかな、とも思う。ナチの思想は、もちろん首肯できるものではない。しかし、ドイツ軍の兵器や軍装は大好きなので、困ってしまう。もう数十年も困り続けている。で、こういうときはチャップリンの「独裁者」で使われてた「××」のマークにすることにしている。それにしても「独裁者」は傑作だと思う。あのときにあの映画を作ったというのは、本当に凄いことだ。考えてみると、チャップリンもかなり「いききって」いる。

▲月▲日

イラストを描いてるうちにワルサーPPKのエーレンヴァッフェのモデルガンがどうしても欲しくなって、買ってしまう。新品をちょっと安く買えたので嬉しい。

グリップに鷲の紋章が入ったもので、「エーレンヴァッフェ(名誉の武器)」と呼ばれている。ナチのスポーツ大会などで優秀な成績を収めた者に贈られた特別な仕様なのだそうだ。いかにもナチの拳銃、という感じがしてとてもカッコいい(困ったものである)。

CAW製のモデルガンで、出来は最高である。完璧な仕上がりだと思う。マガジンに鷲のプルーフマークが入っていて驚愕する。本当に「いききっている」モデルガンである。


ホルスターはずっと前にレプリカのを買っていた。ぴったりである。


拳銃としては小さいほうで、基本的に護身用ということがよくわかる。コルト25オート(コクサイ製)と、九四式拳銃(ハートフォード製)と並べてみると丁度その間という感じ。


私の大好きな小説、村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」にこの拳銃が登場する。物語の後半、間宮中尉が手にする。NKVDのボリスがSSの中佐から取り上げたという拳銃で「銃把には稲妻のようなSSのマークが入って」いたと描写されている。恐らく、モチーフはこのエーレンヴァッフェPPKだろう。

冷酷無比なボリスとこの拳銃の冷ややかな感じがとてもマッチしていて、非常に印象に残っている。残念ながら銃の細かな描写に間違いはある(装弾数や撃鉄の動きなど)がそれを気にさせない、小説の最後の山場にふさわしい実に素晴らしい一節だった。

物語の中で、ボリスはどうしようもないくらい「悪しきもの」として描かれているが、なぜかそれほど憎むべき存在として捉えることができない。どこか、澄み切っているような印象がある。この物語のもう一人の「悪しきもの」である綿谷昇の濁った禍々しさとは対照的ですらある。それは多分、ボリスも「いききっている」からなのだろう。綿谷はどこか「いききる」ことが出来ていないのだ。だから、ホテルの暗闇をさまよって「僕」をつけ回しているのではないだろうかと思う。小説はもう何度も読んでいて、文庫本はボロボロになってしまった。また近いうちに読んでみたい。

というわけで、自分も「いききる」ことができればいいなあとは思っている。しかし、それはなかなか、、というか、かなり難しいだろうと思う。





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「日本兵フィギュア」改め「義烈空挺隊員」 1/12 フルスクラッチ (その2)

2016年03月12日 | AFVの模型
この間紹介したフィギュアは、義烈空挺隊員として製作しています。いまのところ、全体のディテールが作り終わったところです。これから細部の仕上げに入っていきます。

義烈空挺隊は、陸軍の空挺部隊ですが落下傘降下をせず、輸送機で敵飛行場に不時着し航空機を破壊するという作戦のために編成されました。沖縄戦たけなわの1945年5月24日、168名が九七式重爆を改造した輸送機12機に乗り込み、沖縄の米軍の飛行場にむけて出撃、1機が読谷飛行場に不時着、突入に成功しました。少なくとも8人が飛行場に降り立ち、7機を破壊、26機に損害を与え、7万ガロンのガソリンを炎上させる戦果を挙げています。残りの4機がエンジン不調などで帰投、7機が被撃墜ないし海上墜落されたと見られています(「丸」2015年12月号より)。

特別な任務を帯びた部隊のため、その装備は特殊なものが多いです。しかし、不明点も多々あります。製作する上では、残された写真を元に出来るだけ再現しようとしていますが、想像で製作した部分も多いです。装備については後述します。基本的に、ほとんどをタミヤのエポパテで製作しています。





装備の中で特徴的なのが、一〇〇式機関短銃の弾倉嚢ですね。その上に巻いた二式弾帯も多くの隊員が身につけています。


リュックは、恐らく中に箱入りの爆薬が入っているのでないかと思います。このリュックも特徴的な装備です。その下の箱状のポーチは、九九式破甲爆雷のケースです。破甲爆雷は、多くの隊員が複数個身につけています。




装備については、あれこれ試行錯誤してます。脇差は、最初作ったものがちょっと大きかったので作りなおしました。が、まだちょっと納得いかなかったので没に。3回目で何とかなりました。この写真のは没になったやつです。


スケールが大きいので、工作は楽といえば楽なのですが、苦労する部分もあります。長髪なら、このスケールでもエポパテで再現できるのですが、坊主頭のチリチリした感じはちょっと難しいので植毛することに。麻紐を植え込んで短く刈り込みました。

頭を深く削って、根元で接着、ハサミで荒く長さを決めます。

最後はリューターの丸いディスク状のノコで刈り込んでます。アップだとちょっとまだ整いきれてませんね。うーん、、。


隊員は空挺部隊用の二式短剣を装備していたのかな?と思いましたが、写真を見ると三十年式銃剣を装備していたようですので、それに倣いました。長いのでアンバランスではあるのですが、強そうでいいなあと個人的には思ってます。


銃はちゃんと握っているようにしたいので、出来るだけ頑張ってます。


握った状態なので、一度銃を真ん中で切断して手を造形しました。これは大体の形を削りだしたところ。


軍衣跨や軍靴など隊員の基本的な装備は、一般兵士と同じのようです。弾倉嚢などが特有の装備のようで、隊員の特徴となっています。ただ、現物が残っていなかったり鮮明な写真がなかったりと、確証を得られる装備はすくないです。なので多くを推察によって製作しています。自分なりに調べて分かった点をイラストにまとめてみました。

1・略帽は通常のもののようです。どの隊員も略帽に墨の迷彩(後述)は施していないようです。

2・前述のリュックは、一部の隊員が背負っています。雑のうをリュック状にした隊員もいます。また、多くの隊員が軽機用の大型の弾薬嚢を身につけています。

3・墨の迷彩は、隊員自身が施していますので、各自パターンはまちまちです。手製ながら、義烈空挺隊が日本初の迷彩服を纏った部隊なのではないでしょうか。

4・二式弾帯は「日本の軍装」(大日本絵画)でも紹介されている装備です。九四式拳銃嚢と弾倉、弾薬用ポーチから成っていると解説されています。ただ、写真を見ると外側2個と内2個のポーチは大きさが違いますので、大きい方は手榴弾用なのではないかな?という気もします。なので、私はそういう風な造形にしました。また、この二式弾帯は、現物の写真を見たことがありません。もし現存しているならぜひ見たいものです。

5・三十年式銃剣は、出撃時の様子を撮影した小柳次一氏の写真(捧げ銃をしているもの)ではっきりと一〇〇式に着剣していることが確認できました。二式短剣を装備した隊員もいたかもしれませんが、未確認です。

6・出撃前の隊員の持つ一〇〇式には弾倉は入れられていません。一〇〇式はMP40やPPsh41のようにボルトセーフティー(ボルトが動かないように固定する安全装置)がありませんので、弾倉を銃に入れたままにすると暴発する可能性があります。オープンボルト式のマシンピストルやサブマシンガンは構造上、銃を縦に持ってトラックなどから飛び降りると慣性でボルトが後退し、暴発することがあるんですね。

MP38にはボルトセーフティーがなかったのでこれが問題になったようで、あとからボルトを止める銃身につける皮製のベルトを支給しています。さらに、回収してMP40のボルトに付け替えて、MP38/40と名称を改めてます。一〇〇式も装備期間が長くなれば、その辺が問題視されて改良されたのではないかと思います。一〇〇式の場合、ボルトを引いた状態で安全装置をかければこの暴発は起こらないのですが、ちょっと怖いので推奨できないやり方です。
恐らく、隊員も訓練を通じてこの欠点を知り、戦闘時以外は弾倉を入れなかったのではないかと。ただ、写真の中には弾倉を入れて輸送機に向かう隊員も確認できますので、徹底はされてなかったのかもしれません。

7・吸着爆雷は、航空機を破壊するための爆雷です。缶の中に爆薬が入っており、導火線が棒の先まで伸びています。缶の先にゴムの吸盤がついており、これで機体に貼り付けるようになってます。だだ、ディテールがよくわからず、これまた多くを推察によって造形しています。

8・導火線は、棕櫚縄のようなもので棒にまかれているようです。習志野の空挺館にこれのレプリカなど、隊員の装備の展示がされているそうです。いつか行きたいものです、、。

9・脚絆は、戦闘巻と営内巻の隊員がいます。この辺は、好みの問題なんでしょうね。


次は、上半身に焦点をあてます。これは写真を元に描いてます。一〇〇式の弾倉嚢がはっきり写っているよく知られた写真ですね。


1・多くの隊員が九八式軍衣の下に防暑衣を着ており、階級章はそれにつけています。重ね着は飛行中の防寒のためか、もしくは着膨れして着陸時のショックに備えるためでしょうか?また、作戦後に現地部隊と合流して戦闘を継続する場合も想定して、上の九八式を脱いで行動するためだったのかもしれません。沖縄の五月はもう暑かったでしょうしね、、、。

2・装備の中で、とにかく謎なのが一〇〇式機関短銃の弾倉嚢です。これまで、一〇〇式専用の弾倉嚢の実物の写真を見たことがありません。マニアの間でも謎とされているようです。マニュアルによると、付属品の解説の項目に麻布製の「弾倉嚢2(一個につき10本入り)」とあります。が、「小銃・拳銃・機関銃入門」(光人社NF文庫)では九九式軽機の弾倉嚢を流用したとあります。部隊の出撃前の写真では、一〇〇式を持ち、軽機の弾倉嚢を装備した兵士が確かにいます。そのつもりで見ると、弾倉でパンパンに膨らんでいるように見えます。一方でこのイラストの専用の弾倉嚢を装備した兵士も複数見られます。

この写真を最初に見たとき(もう20ウン年前ですね、、)は、ベルトに直接差していたと思ったのですが、よく見ると1本1本区切られた袋状になっている弾倉嚢ということがわかります。型があまり崩れていないので、かなり厚い帆布か、ひょっとすると皮製かもしれません。普通なら必ず付く防塵用のフラップがついていないのが、決死的な作戦を象徴しているような感じです。

「日本の軍装」ではフラップの着いた一〇〇式の弾倉嚢が描かれています。しかし、私の集めることが出来た写真の中には該当するものは見当たりませんでした。

マニュアルに書かれている専用の弾倉嚢も、実際に製作されて支給されたのかどうかもよくわかりません。代用品として、軽機の弾倉嚢が使われたのかもしれません。ただ、唯一「世界の軍用銃」(ワールドフォトプレス)に、川越のりと氏のイラストで「一〇〇式用」として紹介されています。イラストを見ると、どうも写真ないしは現物を元に描かれたようにも見えますが、、、。

なんであれ、陸海軍ともども、日本軍の使用した機関短銃の弾倉嚢についてはよくわからないことだらけです。これはまた改めて書きたいなあと思ってます。

3・隊員の多くは鉢巻をして、その上に略帽をかぶっています。鉢巻は日の丸です。小柳氏の写真に、各隊員が略帽を脱ぎ、故郷の方角を向いて遥拝しているものがあります。それを見ると鉢巻は日の丸のみのものばかりでした。「神風」とか「必勝」などは描かれてなかったようです。

4・一部の隊員の軍衣の二の腕の部分には、ポケットが縫い付けられています。個人の手製なのか、専門部署によって追加されたものかどうかは不明です。中に何が入っていたのかも分かりません。

次は後ろからです。


1・リュックのストラップには緩衝材が入っているようなふくらみがあります。

2・墨の迷彩は、下地との境界がぼやけているものが多いのですが、中にははっきりとパンダの柄のように(不適切な表現かもですが)染めた隊員もいます。

3・九九式破甲爆雷のポーチは、下部の左右が丸く裁断されています。角が立っているように見える写真もあるのですが、爆雷の収め方の違い(丸い爆雷の四方に磁石がついているので)のため張り出しているのかもしれません。

4・戦闘帽の後ろに、白い札のようなものをつけている隊員がいます。形状は楕円形のものと四角形のものがあるようです(材質は不明)。この札の目的はよくわからないのですが、何らかの識別用であることは間違いないようです。

5・リュックの蓋のストラップの金具は、米軍のバッグのようなものが使われています。ストラップの端のベロの部分には金具の補強も入っているようです。緩衝材の入ったストラップといい、日本軍の装備としてはかなり特別なもののように思えます。リュックは角が立っているものとヘタッと形が崩れているものが見られますが、これは中身の形状による違いのようです。角が立っているのは、恐らく中に爆薬が入っており、箱状のケースに収められていたのではないかと思います。

というわけで推測ばかりで恐縮なのですが、わかる範囲で製作するしかないのが現状です。

なぜ、義烈空挺隊員を製作しようかと思ったのかは、ちょっとひとことでは説明できません。中学生くらいのころ「別冊一億人の昭和史 特別攻撃隊」(毎日新聞社)を見ました。この本には、義烈空挺隊の写真が多く載せられています。

ほぼ戦死確実の作戦なのですが、出撃前の隊員はびっくりするくらいさわやかな笑顔を浮かべています。中学生の私は「死ぬのがわかっているのになぜこんな笑顔になれるのか?」と衝撃を受けました。それ以来、ずっとこの部隊のことが気になっています。

その笑顔の意味をちょっとでも知りたい、というのが製作意図の一つです。もちろん、それだけではありませんので、また機会を改めて書きたいと思います。

このイラストはその写真の一枚をもとにして描きました。なんともいえない笑顔です、、。


「一億人の昭和史」掲載の写真を撮影したのはカメラマンの小柳次一氏です(掲載の写真全てが氏のものなのかは不明です)。小柳氏は隊員に密着取材し、本当に素晴らしい写真を残されています。実は、製作の真っ最中の時期に、地元で氏の撮影した義烈空挺隊の写真展が開かれ、私はギリギリ最終日に会場に行くことができました。写真は書籍では見たことのないものや、書籍に掲載されている写真でもトリミングされる前のものなど、どれも非常に参考になるものばかりで、私にとっては僥倖に近い貴重な機会となりました。

なんとか、氏の写真のような隊員の笑顔を作れればいいな、と思いながら取り組んでいます。



というわけで、またまた長くなってしまいました。また進捗すればアップしたいと思います。


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