森男の活動報告綴

身辺雑記です。ご意見ご感想はmorinomorio1945(アットマーク)gmail.comまで。

今の戦争について思うところを少しだけ(ウソです。メッチャ長いので注意)

2022年03月26日 | 雑記
今回は、今起こってる戦争について書きます。

このブログは私の趣味など、個人的に好きなものや興味のあることなどを書くというのが基本で、世の中の出来事とかには出来るだけ触れないようにしています。なんというか、そういうのはあまり書きたくないし、そもそも詳しくないし、読みたいという人もいないだろうと思ってるからです。

しかし、今回の件はかなりやばいなー、しゃれならんなー、と。当事者の人たちだけでなく、私やこれを読んでくれている皆さん、いや、世界中の人にも大きく関係することだなと感じています。例えばこのブログの普段のネタのように、自由に絵を描いたり模型を作ったりする生活が危なくなるかもしれないのです(大げさにいうと、ですが)。なので、1度ちゃんと書いておきたいな、と。

とはいえ、深刻な感じで書くとほんとに深刻になっちゃうので、出来るだけくだけた文章にしたいと思います。不謹慎と思う方もおられるかもですがご了承下さい。そうでもしないと、自分がおかしくなってしまう(笑)まあ、それくらいヤバイ案件、ということです。また、生々しくなるのも嫌なので、国名など固有名詞はイニシャルにします。

まず、今甚大な災厄に遭われている彼の国の人々に心より御見舞い申し上げます。そして、亡くなった多数の方々に心より御悔やみを申し上げます。一刻も早く皆さんが以前のような平和な生活を取り戻せるよう心から願っています。

さて、何で私が「かなりやばいなー」と思ったかというと、ある国が「こいつ気に入らん」と、確たる理由もなく隣の国に殴りこむ、という前例を作っちゃったからです。これはやばい。

R国はR国で言い分は多々あったと思います。

でも、絶対に「殴り込んじゃダメ」なんですね。それが現在の世界のルールでした(過去形)。で、この時点でR国の言い分は完全に認められなくなってしまった。殴りこんだらもうゼロ、っていうか超弩級のマイナスです。

今回の戦争は、というか戦争って基本的には当事国間の問題です。しかし今回は「理由なく殴り込んじゃダメ」という世界のルールを破った時点で「世界の問題」になってしまった。

ヨーロッパの各国は、開戦後なだれを打ったようにU国への支援を始めました。D国なんかは一瞬で180度態度を変えてしまった。T国とG国は仲悪いのに手を握った。ここまではわかります。だってR国に近いですからね。「次は俺たちだ」ってなるでしょう。そりゃ怖いですよ。「こいつらマジで侵攻してくるんだ」って120パー証明されたわけですから。

しかし、支援や経済制裁の広がりは近隣国だけでは終わりませんでした。中立の国までもが(特にあの永世中立のS国の対応の早さにはびっくり)U国側に回りました。その後日本をはじめ、ヨーロッパ以外の国々も続きました。国連では圧倒的多数の国がR国への非難に票を投じました。

なぜか。「俺はあんたを殴らないから、あんたも俺を殴らない。わかってるよね」という「世界のルール」を破っちゃったからですね。今回のR国の行為を世界が許してしまうと、世界のルールが変わっちゃうんです。R国がU国を占領して、他国がなんにもしなかったら「あ、そういうことしていいんだ」という国が出てくる可能性が高くなる。「やったもん勝ちOK」になるわけですからね。これはまずい。とてもまずい。

例話をすると、ある村のRどんが「隣家のUどんへの強盗放火」をやっちゃったとします。Rどんはなんと村の役員の一人です。Rどんは「そうするだけの理由があったんじゃ!」と言い張りますが、誰も信用できない内容でした。Rどんは村一番とはいわなくとも、かなりの力を持ってるちょっと怖い人でした。Rどんを処罰するのはちょっと怖い。でもだからといって、もしRどんを処罰せず、そのままにするとどうなるか。「あ、これやってもいいんだべ」と思って実際にやる人が村内に出てくるかもしれない。その人は「え、Rどん、こないだ同じことやってもお咎めなしだったじゃろ。なんでオラはダメなんじゃ?」って言いますわね。だれも反論できない。以後、村内はメチャクチャになってしまいました、、。そういうことですね。

なので、今回の件は両国の問題だけでなく、地球上の私たち全員の問題なんです。なんです、っていうか、なっちゃった、、、。言葉どおり「人ごと」ではない。プーさんからすると「そんなん知らんやん。これはウチとUとの問題なんやで。ほっといてんか」と思ってるかもですが、もちろんそうはいかないっすよ、プーさん。村内、いや世界の問題にしてもうたんやでアンタ、、。

で、このルール破りの件と同時にほんとヤバイなあ、、と思ったことがもう一つあります。

それは侵略戦争に関して「まさか、そんなことはないだろう」という推測・意見が無力化してしまったことです。

今回の侵略前「もしそんなことをすればR国も経済制裁などで大打撃を被るのは明らかなので、侵攻は絶対にない」ということをいう人は多々いました。判断って要は天秤ですから「アレをしたらコレだけ損するだろうから、やめとこう」と思うのが普通です。私も「いくらなんでもないだろう」と思ってました。でもそうじゃなかった。

「客観的な予測」と思ってたけれど結局は「主観的」だったということ、なんです。「まさか」が現実になってしまった。さっき、R国を真似する国がでてくるかも、と書きました。こうなってしまうとその杞憂を「まさか」で済ませられない。

世界を「何があってもおかしくない」という思考回路にしてしまったかもしれない。

「隣国の侵攻はあるかもしれない!」
「いや、それは被害妄想ですよ(笑)ありえません」
「でもR国は実際に侵攻したじゃないですか!!」
「、、、、」

反論できませんよね。世界中に疑心暗鬼がはびこりかねない。そういう材料を与えてしまった、、。ヤバイ。もちろん備えは必要ですし、今回のU国の例を見ても「そんなことはない」という楽観が過ぎると大変なことになることがよくわかります。しかし、「もし」と思う気持ちが強すぎると備えが過剰になる可能性が高いし、過剰になると刺激が増えてしまう。世界では領土などあれこれ隣国と問題を抱えている国は少なくありません。備えが過剰にならなければ起こらないで済んでたことが起こる、かもなのです。

逆の仮定として、他国への侵攻をこっそり意図している国がもしあるとしましょう。その国は多分固唾を呑んで今の状況を見守っているでしょうね。「ああいうことすると、どーなるのかな?」と。私がその国のトップなら、情報を集めまくって対応を考え対策を練ります。「よっしゃ、こうすれば侵攻しても多分大丈夫。やったるでぇ!」となるか「めっちゃ世界のリアクションキツイやん。割りあわんわ。やめとこか、、」となるか、、。

なので、この意味でも今回の戦争の行く末は非常に大事なものだと思います。「人類の分水嶺」というのは言いすぎ、でしょうか、、。

現時点では、状況は非常に流動的です、、っていうか、一体どうなるのか見当もつかないですね。まあ、私は当然専門家でもなんでもないので、分かるわけないのですが。

しかし何度も書きましたが、今回の戦争は私たちにもかなり関係していることは間違いないと思います。決して人ごとではない。

で、じゃあどうするのか?どうすればいいのか?なにができるのか?というとそんなにすることできることはないですね。残念ながら、、。

あるとすれば
①U国に寄付する(大使館で受け付けてます。ツイッターに口座を書いてます)
②U国の物産などを買って応援する
③日本政府のU国支援策を支持する

くらいでしょうか。逆に、④「R国の一般人を非難・攻撃しない」というのも大事ですよね。料理店に嫌がらせするとか、ひどすぎる、、。また⑤「R国の文化などを排斥しようとするのもダメ」ですよね。それはそれ、これはこれ、と思います。

ただ、デパートとかの「R物産フェア」みたいなイベントは躊躇するところは多いでしょうね、、。この辺はもう微妙なところですね、、。要は積極的な排除はアカン、ということです。

寄付については、些少ですが私もしました。金額に関係なく、ちょっとでも応援したいという人はぜひ。大使館によると、日本からの寄付は人道的支援のみに使われるということです。また折を見て寄付したいと思っています。

さて、今回の戦争では以上に書いたこととは別に、個人的に両国とはあれこれ関係があります。なので人ごとでない感覚は強いです。といってもたいしたことじゃないのですが。

私は学生時代、R国のことを学んでました。語学を中心に、歴史や文化などあれこれを教えてもらいました。ゼミでは文学を選択しました。語学が全然ダメだった(そんならそういう学校に行くなよ、、)のと、小説が好きだったので文学にしたのです。

彼の国の文学はほんと奥が深く、学び取れることも無数にあり、今でも自分の中では大きな糧となっています。歴史や文化も同様にそれなりに知ることができました。なので、今回の戦争でもR国の考えていること、なぜこうなったのかもおぼろげではありますがわかるような気がします(もちろん肯定はしてないです)。でもまあ、私は隙あらばサボる劣等生だったので、中途半端な学びだったのですが(語学もほとんど忘れてしまった、、)。

その学校を選んだのは、当然子供の頃からR国に興味があって(もちろんミリタリー方面も含む)あれこれ本とかを読んでたからなんですね。結局そっち方面への仕事には就かなかった(就けなかった)のではありますが。

また、絵も好きですね。「移動派」という十九世紀の一群の画家たち(レーピンとか)の絵は本当に素晴らしい。文学ともども、虐げられる弱い立場の人々に焦点を当てた、彼の国の芸術家たちのその温かい眼差しは本当に素晴らしいものです。

というわけで、そんなこんなでとても親近感のある国なのですね。だから、とても残念なのです、、、。

一方、U国とのかかわりは最近です。時々お知らせしてますが、私はたまに模型誌の作例をしています。彼の国にはプラモデルメーカーがたくさん(ウィキでは41社)あります。これはモデラー以外には知られていないと思うのですが、最近ICMというメーカーと日本の輸入元(ハセガワ)とのやり取りがニュースになってたので徐々に知られてきたかもですね。こうなったからニュースになったのでアレなのですが、まあいいことと思います。

で、その中にミニアート、というメーカーがあります。私はこのメーカーのキットのホビージャパン誌の作例を担当することが結構あるのです。最初に作ったのが10年くらい前で、キットはバンタムジープでした。

それまでメーカーがあることは知ってましたが、キットは作ったことなかったです。とても精密でよくできていて、フィギュアもリアル。インストのカラー図も綺麗で丁寧で、いろいろとびっくりした記憶があります。

その後、ミニアート製品の作例依頼をちょくちょく頂いて、作っているうちにファンになってしまいました。結局約10年間で確か10回くらいやってます。どのキットもとても精密で、完成したときの佇まいもよかった。何より作っていてメーカーの「愛」が感じられるのがよかった。これはM3リー。

正面のスローガンは「ソビエトの英雄」の意。英雄って、強気をくじき弱きを助けるものだと思うんですけどね、、。故国を救った英雄たちも泣いてるんじゃないですかね、、。

で、スケールモデルはすでにあるものを再現するものなので、例えば「タイガー戦車をどのメーカーが作っても、同じものになるじゃん」って思われがちなんですけど、違うんですよね。プラモって同じものでも各メーカーの「気持ち」によって「結果」が変わるという面白い商品なんですよ。で、その「気持ち」って何かというと、要するに「愛」なんです(書いてて恥ずかしいけど(笑)でもほんとです)。

ミニアートのキットは作ってると分かるんですよ。「あー、この人ら、プラモ好きなんだなあ、、」って。作例は「いいの作ってくれましたね!」という私なりの「返答」のつもりでした。とにかく、どれもいいキットだったので、私なりに全力投球して作りました。もちろん締め切りありき、なので限界はありました。んが、できる限りキットのいいところを見てもらおうと思って頑張ったつもりです。

これは米軍ブルドーザー。
軍用ですけど、勝手に日本の民間仕様(フィクション)にしてます。

こんな風に、私は好き勝手に作っちゃう方なので「私がつくったのん、どんな風に思われてるかなあ。「ウチの製品を変なモンにしやがって!」とか怒ってないかなあ」などと気にはなってましたが、外国なので確認する手段もなく今に至っています。今となっては、勇気出してメールとか送ってみたらよかった、、。

また、ミニアートだけでなく、マスターボックスやICMのキットもそれぞれ1度づつ作ってます。これはICMのパナール装甲車。
このキットも、作っててほんと楽しかったです。これも傑作だと思います。
現在、各メーカーの社員さんの安否や工場の状態など、それぞれ少しずつ情報は入ってきており、何とか無事なようで安心しましたが、詳細は不明ですし当然今後どうなるかも分からないので心配ですほんと、、。また、ローデンというメーカーの箱絵を描いている画家の方が死亡されたというニュースがありました。心より御冥福をお祈り致します、、、。

というわけで、私には両国ともこういう縁があるわけなのです。どちらも大したことじゃないのですが、それでも全く何もないというわけではないので、先に書いたこととは別に、この戦争がどうなるのか本当に心配です。

で、ちと話はずれるのですが、今回の件で「もの作りの大切さ」についてもしみじみと考えています。こういう「モノを介する思いの伝達」って大事だなあ、と。要は「共感」って「モノ」から伝わることが多いんですよ。

ミニアートのキットから私が汲み取ったように「こういういいモノを作る人たちはいい人たちに違いない。だから応援しよう」ってなるんですよ。こういうの大事なんですよね。R国の文学、絵画も同じで「こういう素晴らしい芸術を創る人を産んだ国はいい国に違いない」と。なので、今回のようなことがあっても「彼らは●●(罵声語)だ!」と非難する前に「何か原因があるはずだ。それは何だろう」と考えることができるんですね。思考停止の防波堤になる。これも大切です。

だからこそ、常に「いいもの」を作らなければならないなあ、と。「いいもの」を作る人たちって、基本応援されるんですよね。なので「いいもの」とは何か、を考え続けないとなあ、と。もちろん、それを目的に「いいもの」を作るのではなくて、あくまで結果のおまけ、なんですけどね。それでも大事な要素だと思います。

話がずれました。すいません。

というわけで今回はお終いです。例によって長くなってしまいました。最後まで読んで下さった方(いるんだろうか、、、)ありがとうございました。先に書いたように私たちでもできることは少ないながらもありますので、状況が少しでもよくなるように協力・応援していきましょう。

今回写真を上げた作例は過去にエントリーで紹介してます。よかったらご覧になってください。

バンタムジープ→
ブルドーザー→
パナール装甲車→

ミニアートに限らず地のメーカーの製品を買って彼の国を応援しましょう。モデラーとしてはそういう応援の仕方もあると思います。あ、もちろん積んどくのもいいですけど、できれば作りましょう(笑)

あ、最後にいっこだけ。今回でも痛感しましたが、ミリタリー系の趣味って、平和だからこそ楽しめるんですよね。そういう意味でも参りましたし、改めてその思いを強くしました。戦車や銃が悪いわけじゃないんです。これらはあくまで「手段」の道具であって、問題なのはそれを使う「目的」です。この辺はさらに話がずれちゃうので、また機会があれば書きたいです。

次回からはいつもの通り(?)のエントリーに戻ります。

それでは。

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ブラート襲撃車について。(その3・完)

2022年03月12日 | 模型の話題
というわけで3回目です。

前回までのあらすじ。

森男は、ツイッターで知り合ったシッポナ氏に蘭印軍の装甲車の存在を教えてもらう。しかし、呼称がよく分からない。オランダ在住の後輩で森男機関の在蘭諜報員(勝手に命名)W氏に意味を問い合わせる。シッポナ氏と相談の末「ブラート襲撃車」「ブラート遊撃警戒車」という訳語をつけた。やれやれ、と思いきや、、。※詳しくは前回、前々回をご覧下さい。

さて在蘭諜報員W氏は、今回の件に興味を持ったようでこの件に付随することについてアレコレ調べてくれました。その辺を要約して書いてみようと思います。

W氏は、オランダ語のサイトに「ジャワ通信(JAVA post)」というのがあって、そこでブラート社について紹介していることを知りました。著者は父母が蘭印にいて、戦争中は日本の収容所におり、自身も政府機関で勤務しインドネシアで子供の支援を行う財団と係わるなど、深い関係があるそうです。アドレスはこちら。
https://javapost.nl/2010/11/11/de-bewogen-geschiedenis-van-braat-nv/
リンク張っていいかわからないので、アドレスのみです。興味がありましたらご覧下さい、、、ってオランダ語なんですが。

W氏がこのエントリーを全部翻訳してくれたので(ほんとすいません)以下、かいつまんで紹介します。抜書き、ではなく私が翻訳を参考に再構成しています。私の所感や推測なども織り交ぜてますので、文責は私にあります。

で、その前に簡単なお勉強の時間です。そもそもインドネシアはどこ?どういう国?という話(インドネシアの人、すいません)。私もぼんやりでした。マレーシアとフィリピンの南、オーストラリアの北、にある国です。正式名はインドネシア共和国。たくさんの島(1万3466もあるそう)からなる国で、首都はジャワ島のジャカルタ。ブラート社のあったスラバヤはジャワ島西にあります。インドネシア第二の都市だそうです。

ジャワ、カリマンタン、スマトラ、スラウェシ、ニューギニアなどがおもな島です。ニューギニアは半分がインドネシア、半分はパプアニューギニアです(この画像では切れてます。すいません。)。マレーシアのすぐ南にあるスマトラ島に、日本軍が空挺作戦を行ったあのパレンバンがあります。

人口は2億4000万人超と、世界4位。300もの民族がいる多民族国家。16世紀頃からオランダの支配下となり、東インド会社を設立。以後20世紀まで統治。太平洋戦争で日本がオランダを破り、占領。日本の敗戦後再度オランダが支配しようとしますが独立戦争を経て独立。現在はASEANの盟主とされ、ジャカルタに本部があります。

以上かなりざっくりした解説でした。なるほど、、。今回の件がなかったらほぼ知らないことばっかでした。皆さんはどうですか?そもそもはマイナーな装甲車の話題だったのですが、それでこういう知識(浅いですが)が得られるのはほんといいですね。趣味の醍醐味であります、、。

さて、話を戻します。オランダの方のブログの話でしたね。

ブラート社は1901年、オランダの実業家B.Braat Jnz 氏がジャワ島スラバヤのNgagel地区に設立。お茶、砂糖産業向けの機械製造を専門としており、船舶用エンジン、軍用機器も製造していたとのこと。前々回書いたように、橋梁なども手がけており装甲車も生産していたわけですから、かなり立派な会社ですね。従業員は1000人以上おり、現地では有名な大企業だったようです。ブログには当時の工場の空中写真も添えられており、確かに結構な規模です。

グーグルマップで探してみると、今はフットサル場と緑地公園(?)になっているようです。川沿いの緑の縦長の四角の敷地がそれ。
参照元のブログが書かれたのは2010年で、どうも筆者は現地を訪れたようです。その際はこの土地は空き地だったと。その後整備されてフットサル場になったようです。

太平洋戦争中は日本のために稼動し、戦後のインドネシア独立後も存続。1971年、他の民間企業や国有企業と合併し「PT Barata Indonesia」という会社になり、現在もあります。つまり、同社は120年以上インドネシアの工業を支え続けているわけですね。社名が消えたとはいえ、血は繋がっていると。びっくり。

太平洋戦争中は、白人系オランダ人はじめ、インドネシア人ら従業員はまとめてこの写真の川の対岸にある収容所に収容され、そこから通勤していたそうです。当時、公務員や大企業の従業員など、日本の占領下で戦前からの活動を続けた人々は「Nipponwerkers(ニッポンワーカー)」と呼ばれていたとのこと。要は占領地の運営に協力したわけです。強制された人ばかりだったのか、自由意志で選べたのかどうかはわかりませんが、ブラート社に限っては収容所があったということでまあ基本強制だったんでしょうね。

彼らは識別のために、日の丸の腕章を付けており「ボールボーイ」と呼ばれていたとか。これは日の丸のボールと、野球やテニスのボールボーイの仕事をかけた「主体性のない、誰かの言いなりになる存在」という皮肉なニュアンスがあったそうです。

1943年7月、スラバヤは連合軍の爆撃を初めて受けます。「爆撃を誘導するため、現地内通者が地上から照明弾を発射した」という疑惑が浮上し、容疑者の捜索が行われました。結果、71名が拘束され、70名が処刑。彼らはほとんどがブラート社の従業員だったとのこと。これは関係者の間で「照明弾事件」として記憶されているそうです。

この件は、実際に現地内通者がいたのかどうか、本当に70名も処刑されたのか、などなど個人的には疑問点が多いです。内通(容疑)者が70人もいたというのは多すぎですし、ブログでは拷問で自白を強要したとありますが、これも真偽不明。こういう話は政治的に利用されることもあるセンシティブなものなので、はっきりしたソースが知りたいところです。

その後1944年5月、連合国によるスラバヤへの本格的な爆撃が行われました。目標はブラート社や近在の石油施設。ブラート社では約150人が犠牲に。連合国側の記録では、同社や石油施設に決定的な打撃を与えたとされており、実際この後同社工場はほぼ機能しなくなったようです。

「照明弾事件」同様、この爆撃も内通者の協力によるもの、という疑惑がでてこれまたブラート社の従業員50人が連行されました。こちらはほとんどが数ヵ月後に釈放されたとのこと。

これは戦後の戦争犠牲者調査サービス(ODO)という組織によって調査されたものだそうです。この組織がどういうものかは不明。戦後の戦犯容疑者を洗い出すための組織だったのでしょうか。先の「照明弾事件」と結果が違いすぎるのも変ですね。なんであれ、この手の話はきちんと調査・裏取りをして、可能な限りはっきりさせないといけないのでしょうが、今となっては難しいでしょう。

インドネシアは、太平洋戦争緒戦に占領され戦争中は戦場にならなかったので、どんな感じだったのかよく考えると全く知りません。爆撃があったということも初めて知りました。こういう感じで知識のエアポケットみたいになってることがたくさんあるんだろうなあ、、と。

さて、このブログ記事のコメント欄には、いくつか興味深いやり取りがあるようで、W氏はそれも翻訳してくれました。

「ブラート社は蘭印軍向けに、ブラート襲撃車以外に何か製造していたのか?」という質問が。筆者の回答は「はっきりした資料はないが、同社は39-42年の間、軍関係の生産のみを行っていたという印象。襲撃車以外にはヘルメットを製造していた」とのこと。同軍のヘルメットは非常に印象的で、あれを作ってたのかー、と。

この記事については以上です。

次に、フェイスブックでもブラート襲撃車の投稿があった、と。アドレスはこちら。
https://www.facebook.com/HCRSPB/posts/alles-aan-boord-mannen-wapens-munitie-proviand-water-stop-de-gitaar-moet-ook-mee/526317594752922/

アカウント主は、オランダ軍の「Stoottroepen」という連隊の歴史を紹介する小さな博物館(資料館?)のようです。この投稿では、簡単にブラート襲撃車について紹介されています。そこに一つ興味深い記述が。襲撃車の設計者の名前があるのです。

それは蘭印軍軍人「Luyke Roskott」氏と。これは初めて知る情報です。装甲車の性能についての記述は他のサイトの情報とも一致しますので、確度は高いかと。なんといってもオランダの人が書いた情報ですからね。

W氏はこのLuyke Roskott名で検索してみたところ、オランダ公文書館HPに同氏が捕虜になった際の日本側の記録(収容者カード)が出てきたそうです。それがこれ。

公開されているので転載してもいいのかな?もちろん画質は落としてます。

こういうのも保存公開されてるんですねえ、、。「爪哇」はジャワ、のことです。日本語読みはルイケ・ロスコット。階級は大尉。職業はエンジニア、所属部隊はmotor transporter(車両輸送部隊)。設計者である可能性はかなり高いですね。もしそうならここで日本と繋がったわけです。うーん、凄いなあ、、。歴史探偵団(なんじゃそら)みたい、、。

で、備考欄に日本語で「昭和20年10月、連合国に引き渡す」とあるので無事戦争を生き抜けたようです。これはよかった。オランダに帰国したのかな?

ルイケ氏が本当に設計者なのか、もしそうならどういう経緯で開発に加わったのかなどなど知りたいところ。しかしそれもなかなか困難ですね。今後、何らかの情報が入ってくることを期待したいと思います。

絵にするため写真をずっと見ていて感嘆したのですが、ブラート襲撃車・遊撃警戒車ともども、よくよく見るとかなり洗練されたデザインです。被弾経始についてはほんとよく考えられており、とても現地急造とは思えないレベル。

後部のスペースの張り出しは、機銃架を360度回転させるものだと思うのですが、ここも被弾経始を考慮して菱形にしています。かなり凝ってますよね。

同時期の英米の装甲車のスタイルとは全く違うのも面白いです。普通なら身近な車両を参考に、それらしくすると思うのですが。ドイツの222などを参考にしたのかもしれませんが、時期・地域的に存在を知っていたとも思いにくいです。なので、私はゼロからこういう形状を創作したんじゃないかと思ってます。かなりの設計者だったんじゃないかと、、。

ちなみに、この車両は現存していないのですが、全く同型の軌道用車両(レールカー)がありまして(恐らく足回りだけを変えたもの)、それはインドネシアの軍事博物館に保存されています。ここは、ほぼ完全体のチハが展示されているところ(アーマーモデリングで紹介されてました。主砲が鉄パイプの長砲身で塗装もでたらめなのですが)なのでご存知の方も多いのでは。そんなこんなで一度見学してみたいですねえ、、。

というわけで、以上はW氏からの提供された情報の要約でした。いやー、装甲車の名前を知りたいというスタート地点からあれこれと広がってしまいました。断片的ではありますが、当時の蘭印の状況がおぼろげながらでも知ることができたのはよかったです。

さて、こういう風に知識を得ることができた(ほぼ人まかせ、でしたけど)のですが、それは全て海外のウェブからのものでした。外国語だとどうしてもピンと来ない部分もあります。蘭印軍についても、もうちょっと知りたいなあ、と日本語の書籍で何かないかしら?と思って探してみましたがやっぱりないんですね。蘭印史、についてはいくつかあるようでしたが。

そして、いまさらですが日本が太平洋戦争で戦った国はアメリカとイギリスだけではないのです。オランダ、オーストラリアも交戦国なのですね。でも、米英に比べて資料は非常に少ない。オランダは開戦当初に降伏したのでなおさらのようです。そもそも、日本はオランダとオーストラリアと戦争していた、ということ自体が忘れ去られようとしている、と言うのはいいすぎでしょうか。その証拠に、日本語の書籍ではまあ見当たらないわけです。過去の本ではあったとしても新刊ではまあでないでしょう。

じゃあ、洋書では蘭印軍を紹介したものはあるのかな?とざっと調べてみましたが、2冊が見つかりました。でも1冊はちょっと高価でしかも入手方がよくわかんない。もう1冊はオスプレイのシリーズでした。オスプレイというのはイギリスの出版社で、このシリーズは古今東西の各国の軍隊や部隊を1冊で(ペーパーバックの薄い本ですが)紹介するという有名なものです。

とりあえず、購入してみました。

このシリーズはとりあえずの入門編としては定評があります。この本も一通りきちんと丁寧に蘭印軍について解説してくれているようです。ようです、というのは英語なのでちゃんと読めてないのです(笑)写真などを見ると、実に濃くて、かなりの資料となっているようです。ようです(笑)。まあ、機会をみてちょこちょこ読んでみたいと思います。

で、さっきの「日本は実はオランダと戦争してた」という話のつながりでは、日本とオランダは戦争前からずっと密接な関係を持っていました。ご存知の通り江戸時代からの付き合いです。長崎、出島、ですね。こちらは平和的な友好関係でした。江戸時代はずっと、オランダは日本にとって西洋の重要な窓口として存在していて、オランダも日本との交易によって利益を得ていました。

私は歴史漫画の「風雲児たち」(みなもと太郎著)が大好きでして、中でも前野良沢らが「解体新書」執筆に奮闘するあたり(コミックス5-12巻くらい)が特に好きです。これを読むと、本当にオランダから多々の恩恵をこうむっていたことが分かります。鎖国の中で細々ながらも海外の知識を得た人たちが、少しずつ醸成した知識や技術を後身にバトンタッチしていたのです。そのおかげで、幕末の突然の開国のドタバタもなんとか凌げることができたんだなあ、と。この辺については「風雲児たち」を読むとよく理解できます。

そんなこんなで、日本とオランダとの関係は深かったわけです。でもその割に、今は結構忘れられてるのかもなあ、と。私自身、今回の件で久しぶりにそこに思い至ったわけです。インドネシアとの関係もそうですけど、知らないというのはアカンよな、と。そもそもの話ですがそう思ったのですね。

そもそもは装甲車がきっかけだったんですけど、なんか変なところに来ちゃいましたね。すいません。まあでも、趣味の面白いところはこういうとこにあるんじゃないかな、とも思います。ある一つの興味が、次、次と繋がっていく醍醐味、といいますか。だからといって私も今すぐインドネシアやオランダの本を読んで研究を始めるわけではないのですが、それでも興味の取っ掛かりとして自分の中に「フック」ができたことはよかったな、と思います。なんじゃそら、ですかもですが、それがあるとないとでは大違い、じゃないかと。

なので、今回の一連のエントリーも、どなたかが読んで、もし何かに興味を持ってあれこれ読んだり調べたりすることになってくれたらほんと嬉しいなあと思います。きっかけの大事さって、そういうことだと思います。

というわけで、お終いです。長かったですね(笑)このテーマについては一旦これで〆させてもらいます。もし何か進展があればUPしたいと思います。

で、何度も書きますけど、そもそもはブラート襲撃車がカッコいいなあ、というところからだったんですね。っていうか私は究極的にはこのブラート襲撃車のプラモがあったらそれでいーんですけどね(笑)そういう思いで作ったのがこのイラスト、というわけです。

タ●ヤさんからMMで出たら嬉しいんですけどねえ、、。まあ、絶対無理か(笑)

最後に、情報をいろいろと提供して下さったシッポナ氏と、忙しいなかアレコレと調査して下さったW氏に重ね重ねお礼申し上げます。ありがとうございました!

それでは。

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