森男の活動報告綴

身辺雑記です。ご意見ご感想はmorinomorio1945(アットマーク)gmail.comまで。

試製五式四十七粍自走砲・ホルについて(その2)

2016年08月27日 | AFVの模型
というわけで、第2回目です。今回もかなり長いので、あらかじめご了承ください。

まず、凄い情報を入手しました。ホルは、神戸製鋼所で50両ほど生産されたという記述が神戸製鋼の社史にありました。
前回のブログを書いた後に、ホルの製作にあたってお世話になった大阪の辻本氏に「よかったら見てください」とメールしました。お返事とともに「神戸製鋼の社史に、ホルが生産されたという記述がある」との情報をくださいました。そういえば、以前酒席でも聞いたような、、。しかしながら社名を失念していたのでそれきりになっていたのでした(すいません)。地元の県立図書館のDBに当たってみると、「神鋼五十年史」(昭和29年)が所蔵されてたので、早速借りてきました。すると、確かにそのものズバリの記述が!(P131)

いやー、これは凄い。終戦からわずか9年後に、生産した企業が、社史で「ホル」とはっきり書いてますから、ほぼ間違いないでしょうね。神戸製鋼は九五式を生産してますしね。この数行だけで断定するのは早計ではありますが、「試作で終了した」という定説を揺るがすには十分な資料でしょう。辻本氏はじめ、日本戦車に詳しい方々の間では以前から知られていたんでしょうけど、いや、びっくりしました。

50両というのは試作の域を超えてますから、制式化された、ということでしょうか?もしくは制式化前に、生産するということもありうるんでしょうか? ひょっとすると、同社に写真なり図面なりが残されている可能性もありますね。

で、「日本の戦車」(共同出版社)では「相模造兵廠で完成」とあり、「日本の大砲」(同)では「戦車砲は大阪造兵廠で完成、四技研で研究中の車台に取り付けられた(要約)」とあります。どれもがまちまちで、一致しません。これはこれで謎ですねえ、、。なんであれ、貴重な情報を教えてくださった、辻本氏には改めて御礼申し上げます。

また、社史ではキャタピラについても言及してますね。「改良した」とだけ書かれてますが、少なくともオリジナルのままではなかった、ということでしょう。

<2017年4月18日追記>

先日、日本軍戦車のみならず日本軍兵器のオーソリティーであり、日本軍戦車モデラーの救世主といってもよいある方(これだけ書いたらわかるでしょ!)と下関でお会いしました。このエントリーを読んでくださったようで(ありがとうございます)、ホルの話などをさせていただきました。で、その方によりますと、「この神戸製鋼の社史の記述はそのまま鵜呑みにはできない。製造されたとしてもせいぜい数両が試作された程度で、50両の量産はなかったのではないか」とのことでした。お話の要点は以下の通り。

1・社史を編纂する人たちは、各部局の記録情報を元に書いているわけで、どこでどうその情報が変わってしまうかわからない。社史を編纂する人は製造部門の専門家ではないので、社史イコール史実と考えるのは早計。しかも、同社の歴史の中で、ホルは無数の製品の中の一つなのでなおさら。社史の記述は調査のとっかかりとなる資料の一つであって、そこから具体的な証拠を調べていく必要がある。

2・もし50両も生産されたのなら、写真・現物・部品など必ず何らかの形で残っているはず。当時残っていたのなら米軍へ引き渡されたはず。その記録もない。

3・神戸製鋼への生産の指示や、材料の調達などはされたかもしれない。もし完成していたとしても数両程度だったのでは。

とのことでした。確かに、1-2両のみ作られた四式・五式中戦車も写真をはじめ、少ないながらも存在を決定付ける資料が残されてます。もし50両も作られたのなら、一切なにも残っていないというのは不自然といえます。終戦時に廃棄されたという可能性もないことはないのですが、飛行機を含め他の最新兵器の多くがほとんどそのまま米軍に引き渡されていることを考えると、まあありえないでしょうね。従来の兵器を組み合わせた、それほど目新しいとは思えない自走砲だけを、証拠も残らないほど完全に廃棄する理由も見当たりませんしね、、。

というわけで、この社史の記述は記述として非常に興味深く貴重なものではあるのですが、あくまで資料は資料であって証拠ではない、ということですね。社史の記述を見て舞い上がってしまい、先走ったことを書いてしまいました。心よりお詫び申し上げます。

というわけで、本当のところは実際どうだったのか、ということは依然不明なままです。今後、新資料が発掘・発見されることを願っています。

<以上追記でした>

この社史は、ほんと興味深い記述があちこちにあって、面白いです。こういうのもありました。

これって、つまり「自社の工場が空襲されそうなので、自分たちで高射砲をぱぱっと作って、B29を墜としちゃった(撃ったのは軍なんでしょうけど)」ってことですよね、、。凄いなあ、、。「戦前戦中の日本の工業水準は劣っていて云々」という記述はよくみますし、私もしがちです。が、私はじめ門外漢の「劣っている」という認識は、当時の実情とはかけ離れているのかもという気がしますね。いくら、他の工廠で作られていた砲とはいえ、生産ラインになかったものをさっと作れちゃうってのは凄いですよ。こういうのを読むと、この車両専用のキャタピラを作るくらいは朝飯前だったのかもしれませんね、、、。ちなみに、この九九式というのは、ドイツの88ミリ砲のライセンス版だそうです。いわゆるハチハチじゃなくて、海軍用の古いものですが、高射砲としての性能は十分だったみたいです。なんせB29を撃墜してるんですもんね、、。



というわけで、本題です。まずは主砲の47ミリ砲関連から。これは、搭載された47ミリ砲の略図です。

1・砲の防盾 2・、、は書き忘れました(笑)欠番です。3・砲の発射用の引き金と握り。ピストルの要領ですね。 4・肩当て。ここに右肩を当てて、砲を上下左右に動かして操作します。5・顔用のパッド。ここに顔の右側が当たります 6・照準器 7・砲尾。ここから弾を込めます 8・この箱の中に駐退器が入ってます。(各部の呼称は適当です。これ以降も、日本軍の正式な呼び名だったり、そうでなかったりします。ご了承ください)

近代的な野砲や対戦車砲の砲身は、砲架に付いています。砲架は砲身の軸である砲耳を挟むようになっていて、砲架に付いたハンドルを回して砲身を上下に動かし、左右方向は砲架を回転させるハンドルを回して動かします。戦車砲は、金具で防盾に砲耳をつけ、防盾を砲塔に固定します。左右方向の照準は、砲塔を回転させて行います。生産国や形式などでいろんな差異はあるのですが、これらが砲身を動かす一般的な構造です。しかし、かなり乱暴なまとめ方なので、参考程度にしておいてください。例えば、砲身が後退する砲は、砲耳は後座用のレールについたりしますが、省いてます。戦車砲なら砲耳が別のところ(防盾とか)に着いている場合もあるなど、細かいことを言うと多種多様なので、、。

日本軍の37ミリや47ミリ砲は上記のような方式ではなく、「ジンバル式」(この名称で呼ばれてたどうかもよくわかりません、、)という方式を採っていました。4の肩当てで砲を上下左右に動かして、照準します。防盾が2重構造になっており、大砲の中心軸である「砲耳」が縦と横についてますので、それができるわけです。図の「A」が上下用の軸で、外の防盾に付いてます。内防盾が外防盾の中に入り、「B´」のネジが「B」の穴に入って、左右用の軸となるわけです。砲塔式の戦車の場合は砲塔も旋回しますので、左右に関しては二重に動かす方法があったわけです。

このジンバル式だと、かなり素早い照準が可能だったと思います。肩でぐりぐり動かすだけでいいので、ハンドルを回す必要がなく、特に左右方向は少しの距離なら砲塔を回す手間が省けるわけですから。また、砲架が不要なので全体の重量も軽くなり、生産も楽でしょう。一方で、砲身が安定しないので、ちょっとしたショック(砲爆撃など)で照準がずれやすいでしょうし、強度的にも、砲架式より華奢な感じがします。まあ結局、「どっちもどっち」なんでしょうね。ジンバル式と砲架式のどちらを採用するかは、それぞれの軍のニーズによるんでしょう。日本軍は、ジンバル式が気に入ったようで、一貫してこの方式を採ってました。

とはいえ、日本軍のジンバル式は47ミリ砲までとなってます。75ミリ砲を搭載した一式砲戦車や三式中戦車では、欧米のような砲架式となりました。まあ、このクラスになると砲がかなりでかくなるので肩で動かすのは無理でしょうし、構造・強度的に75ミリ砲弾の反動を受けるのは難しいんじゃないかと。しかし、今回資料を見直してて気付いたのですが、九九式七糎半戦車砲Ⅱ型(Ⅰ型は二式砲戦車に搭載されたもの。Ⅱ型は試製軽戦車ケセを利用した駆逐戦車のために作られたようです。試作で終了してます)にまで、この方式を取り入れようとしてます。操作はさすがにハンドル式になったようですが、強度的に大丈夫だったんですかね、、。

ちょっと話がずれましたが、長々と47ミリ砲の説明をしたのには、わけがあります。以下順を追って説明していきます。

砲を車体に固定する基部は、製作当初は九七式や一式中戦車のような、それ自体が装甲されている形状で製作していました。箱状の、ごつい感じのやつです。

「日本の大砲」の図面でもそういう風にみえますし、書籍やネット上で見られる完成想像図や、これまでに発売された各ガレージキットなどもそうなってましたので、私もそれにならったわけです。九七・一式のイメージもありますので、いかにもそれらしい感じがします。この状態で、完成に持っていこうと考えていました。

ところがこの件は完成の目処が付いた直後に一転します。上の写真まで進んだ頃、辻本氏と再会しました。ホルについて話をすると「新しい発見があった」とのこと。ドキドキしながら聞いてみると「砲基部の形状はこれまでの「定説」と全然違っているかもしれない」ということでした。

氏の説明を以下箇条書きにします。
①「日本の戦車」のホルの簡易図面の正面図からして、防盾周りが九七・一式のものとは似ていない。どうも、砲耳を簡単に固定しているだけのように見える。

②同じく「日本の戦車」の四式十二糎自走砲・ホトの図面を見ると、砲耳の固定方法がホルのそれと非常に似通っているように見える。

③ホトは写真が残されており、それを見ると砲耳は簡単な金具で固定されているように見える。

④よって、ホルもホトと同様な固定方法だった可能性が非常に高い。

というものでした。

ホトの写真は「日本陸軍の火砲 歩兵砲 対戦車砲 他」(光人NF文庫)に載っています。これがその写真の模写です。

不鮮明な写真なので、わかるようなわからないような、火星の人面岩を眺めるような気持ちになります。しかし、ずっと見ていると、確かに砲耳は簡単な金具で固定されているように見えます。

さらに、よく考えてみますと、確かにそうかもしれないと思いました。360度回転する砲塔式の戦車なら、どこにどう弾が当たるかわかりませんから、下図の「甲」のように防盾周囲の装甲を厚くする意味はあります。しかし、こういう自走砲の場合、前面はともかく側面の装甲厚はかなり薄かったはずです。なのに、防盾周囲だけ分厚くしても無意味なんですね。正面図やホトの写真から想像した、ホルの砲基部が「乙」です。

要するに「乙」は外防盾がそのまま装甲になっちゃってるわけです。図面では前面装甲板との隙間も結構あるような感じです。なので、雨水が車内に入ってくる可能性もありますので、少なくとも上面くらいはキャンバスなどの覆いが必要かもしれません。それにしても「甲」と比べると、かなりお粗末な印象です。しかし、ほんとにこんな感じだったのかもなあ、、、という説得力があるような気がします。

この時期はジオラマの製作も佳境に入る頃で、すでに締め切りへのカウントダウンは始まっており、ほぼ目処が付いている車両の作業を後戻りさせるかどうかについては、かなり悩みました。「このままでいっちゃってもいいんじゃないかなあ。車両はあくまでジオラマを構成する大道具の一つなんだしなあ、、、」と。しかし一方で「自分の大好きな車両が、しかもこういうマイナーな試作車が、自分の作品として模型雑誌に掲載されるという機会は今後はまずないだろう。だからこれまで得られた知識や情報を全て盛り込んでおかないと、後々後悔するんじゃないか?」とも。悩みましたが、ズバッと修正することにしました。

これが修正後です。

悩んだ、といってもまあ小さいものですから実作業でいえば大したことではありませんし、時間のロスもそれほどではなかったです。なので、修正してよかったなあと今でも思ってます。「悩んだときは、やっとけ」というのは至言ですね。この写真を見ても、上部に前面装甲との隙間ができてしまうことがよくわかります。

大砲について、あともう一つ。この砲は、左右で計20度振ることができます。20度は結構大きな角度で、500メートル先ですと約176メートルの間が射界となります。M4シャーマンだと約29台分です(図の小さい点)。車体を動かさずに、これだけの射界があるのはいいですね。これ以上の範囲は、車体を左右にずらすしかないわけです。この辺は全部、ドイツの突撃砲と同じですね。

で、この左右の20度で重要になるのが、砲の中心軸(図では黒い丸)がどこにあるのか、という点です。先に書いたとおり、砲手は砲の左側に位置します。なので、砲の軸はできるだけ車体の中心「S」にあるのが理想です。もし少しでも左に寄ってしまうと、「A」の空間が狭まるので砲手のスペースがなくなり、砲を右に振れる角度が実際の能力よりも小さくなってしまいます。
前回チラッと書きましたが、正面図が手に入る前、私が砲を中心に据えていたのはそういう理由です。
でも、図面では恐ろしいことに左側にオフセットされていました。大体図面どおりに作って、砲を右に振ると、砲手の体が入らなくなるんですね。この写真だと、能力の半分の約5度くらいですが、すでにギリギリなのがわかっていただけるかと。でもまあ、素人の私でも気付くことですから、走行装置に干渉してしまうなど、何らかの理由があったんでしょう。操縦手のスペースもギリギリっぽいですからね。


というわけで、砲を右いっぱいに振るとこのイラストみたいになっちゃいます。兵隊さんは、大変です。そもそも、砲手の顔のすぐ横で大砲が発射される(される、というか自分で引き金を引くんですけど)わけですから、かなりの音と衝撃だと思います。耳栓をしてなければ鼓膜が破けちゃうかも。ほんと、大変です。砲手って耳栓をしてたんでしょうかね。その辺もよくわからないです。

話を戻しますと、この右側方向の射角が少なくなる点は「設計上仕方がない」ということで飲み込まれてしまったんでしょうか?その辺も知りたいところです。
続いて、イラストの車内の説明をします。イラストのほとんどは妄想による推定ですので、ご注意ください。
①砲手 いや、ほんとご苦労様であります。
②操縦手。通信手も兼ねます。こちらもかなり狭いところで、正確な操作をしなければならないので大変です。
③車長。装填手も兼ねます。車長も砲の向きにあわせて体をずらす必要があります。逃げそびれると薬莢が飛んできます。下手すると、体が後退する砲尾に当たり、ただではすみません。で、戦車隊の将校だった司馬遼太郎氏の話では、戦車隊は日本軍御用達の私的制裁(ビンタとかの兵隊いじめ)はなかったそうです。機械を扱う部隊なので、とにかく非合理なことを排除しないと成り立たなかったんでしょうね。精神論では戦車は動きませんものね。また、一両の戦車に上官部下が乗って運命を共にするので、連帯感もかなり強かったようです。部下をイジメてる暇があるなら、錬度を上げないと負ける(死ぬ)確立がどんどん高くなるわけですからねえ。また、全員が機械の専門家でなければならないので、隊員の教育レベルも高かったでしょうからなおさらでしょう。なので、このイラストのようなことをいう上官はいなかったかと。じゃあ書くなよ、という話ですが、つい(笑)
④近接防御用の一〇〇式機関短銃。壁面に弾倉嚢を掛けてます。一〇〇式の隣は砲身清掃用のブラシ(分解式)。三式砲戦車には3丁の一〇〇式が積まれていたようなので、ホルなら1丁くらいかな、と。三式砲の内部については、アーマーモデリングで紹介されてましたので、それを大いに参考にしました。
⑤装甲は正面50ミリ、正面の斜め部分が30ミリ、側面が15ミリ程度と推定しました。50ミリはおごりすぎかな、と思いましたが、まあ模型の世界くらいはいいかな?と。私の希望的推測値です(笑)。50ミリでも全然足りませんけどね、、。ほんとは正面25ミリくらいだったんじゃないかなあと。
⑥薬莢受けは、前回書いたように、スライド式の後部板を描いてみました。稜線射撃時以外は、ここを上にずらして薬莢を受けます。
⑦砲弾ケースについては、かなり悩みました。どうやっても数が積めないんですね。あれこれ考えて、側面の角度に合わせて、斜めに入れれば何とか左右で30発くらいは積めるかなあ、とそういう形状をひねり出しました。3列だとかなり狭くなるんですが、2列だとまだちょっとましかも。なんであれ、側面の装甲は薄いはずなので、それなら割り切って垂直にしたほうが車内がかなり広くなるんですけどね。なので側面図だけで製作し始めたときは、かなりゆるい角度で作ったんですが、、。砲弾ケースは、足元に一列のものを配置するなどして、私の妄想作なら65発くらいは積めます。実際の九五式も、こまごまと弾薬ケースを付けてて、感心するほどなので、あれこれ入れ込んだんじゃないかなと。でもまあ、65発でも少ないくらいですけど。辻本氏は、牽引式の弾薬車があったのでは、と推測されてます。それも、十分ありえますね。
⑧エンジン吸気用のダクト。これは九五式と同じです。結構大きな口が開いてます。旧軍戦車にベンチレーターがないのは、これがそれを兼ねてたからなんですかね?その辺もよくわかりません。ホルの場合は、オープントップなので、発砲煙に関する心配(有毒ガスです)はなかったでしょうね。
⑨走行装置も、九五式と同じです。操縦手の左はシフトレバーです。右が右側の走向ハンドル。
⑩手前が無線機。奥が走行関係の計器類の一部。計器板はひざの上にもあります。無線関係は、ほんと資料も知識も無いので困りました。ヘッドホンの詳細もよくわかりません。無線機ともどもネット上などで、写真を集めて製作しました。無線機を積んでるのなら、車外にアンテナがないとダメなんですけど、搭載方法もこれまたわからないので製作ではオミットしてます。日本戦車の通信関係のまとまった資料がほしいんですけどね、、。
⑪機関短銃用の銃眼。「日本の火砲」の図面に三式砲と同形式のものが書かれてたので付けました。ただ、車内が狭いのでちゃんと撃てたかどうか、、。妄想をさらに膨らませると、全長が短い試製二型機関短銃の車載型が搭載されたかもしれませんね。

内部の工作途中写真です。砲弾ケースの蓋は、1枚だとこのように車外にはみ出てしまいます。今から考えると、1列ずつそれぞれについてるほうがそれっぽいかもしれませんね。無線機の上にある雑嚢には手榴弾が入ってる、という設定。


反対側がこちら。砲手の足元にあるのが砲弾ケース。ここで30発です。九五式はこの場所に車載重機用の弾倉ケースがあります。砲手シートの後ろにある箱が、一列5発入りのもの。一〇〇式の奥にあるのが砲身清掃用のブラシ。三式砲も一〇〇式、ブラシともども大体この位置にあります。一〇〇式の弾倉嚢は、この後で銃口の上側の壁面に付けました。改めて見ると、この辺はもうちょっと何か積めそうですね、、。水筒とか糧食を置いてもよかったかも。

というわけで、それなりに作りこんではいるのですが、例によって完成するとほとんど見えなくなっちゃいました。ははは。

次は、車体外部についてです。今回はこれで最後なので、もう少しだけお付き合いください(笑)。こちらも、全部妄想と推測なので、ご注意ください。

①オープントップなので、雨よけのキャンバスがあったんじゃないかと思います。シート状のものじゃなくて、車体に固定して、巻き上げるタイプにしました。
②車長用のペリスコープも必要と思ったので付けました。オープントップですが、戦闘中に頭を出すのは危険ですからね。ドイツのマーダーⅡなんかは、顔をひょっと出したらすぐ外が見えそうなのに、わざわざ側面にペリスコープをつけてますから、こういうのは割と切実に必要なんでしょうね。ライフルしか持っていない敵歩兵からすると、装甲車両から顔を出してくれるのは、ほんとチャンスですものね。宮崎駿氏の漫画「泥まみれの虎」でも、カリウスがひょっと顔を出す一瞬のチャンスを、ソ連の狙撃兵が待ち受けている描写がありましたが、まあそういうことなんでしょう。ペリスコープは九七式中戦車などのキューポラハッチに付いてるのと同型です。
③砲手も、照準器以外にも外を見られるほうがいいので、ペリスコープを付けました。三式中戦車の砲塔にあるような、取り外し式にしました。外を見られる人間は、多ければ多いほどいいはずですので。
④防盾と前面装甲板の隙間をふさぐキャンバス。普通に考えると、つけるならイージーエイトみたいに全周を覆うようにすると思うのですが、そうするとせっかくの砲基部が見えなくなっちゃうので(笑)上部だけにしました。
⑤ライトは九五式と同じです。戦闘時はくるっと後ろに向けられるようになってます。この方式だと、カバーが要りません。かしこいですね。これも辻本氏に教えてもらいました。多分、車内にレバーとかがあって、車内から向きを変えられるんじゃないかな、と思うんですけど、どうなんでしょうね。作例では、一個は割れてしまったようにしたので、正面を向けたままにしています。
⑥車両の角度を確認するためのバーです。赤白の目盛りが塗装されてます。操縦手はこの目盛りと、外の風景を比較して、車体の向きの角度の目安にします。三式砲にこれがついていたそうなので、それにならいました。模型の目盛りは、もっと細かいです(イラストは適当に塗ってしまった)。これがあると、車長の指示通りに微妙な方向操作ができるんじゃないかな、と思います。
⑦天井が広くて間延びしたので、猫を描きました。猫は、真夏でも暑いトタンの屋根で寝てますね。平気なんでしょうかね。
⑧前回と女の子のキャラを変えてみました。変わってないって?服と髪形が違うじゃないですか!! ちなみに、わかりにくいですけどラング兄さんのポーズのつもり(笑)

というわけで、おしまいです。メチャクチャ長くなってしまいましたね。ここまで読んでくださった方(いるのかなあ、、)ほんとにありがとうございました!

次回は、実戦編です。「ホル、もし戦わば」です(笑)

でも、いろいろあってどうも2週間では準備できそうにない感じです。なので、次回は別の話題をはさみます。すいません。というわけでこの続きは約1ヵ月後になります。って、残念がる人はいないですね(笑)

それでは。

※この車両を使ったジオラマは月刊アーマーモデリング2015年4月号にて紹介されています。興味のある方はぜひ誌面をご覧ください。

参考までに、掲載時のお知らせのエントリーはこちらです。http://blog.goo.ne.jp/morio1945/e/0a2c497d62f7526393c4bee1bfb09f3a

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

試製五式四十七粍自走砲・ホルについて(その1)

2016年08月12日 | AFVの模型
今回は、日本陸軍の「試製五式四十七粍自走砲・ホル」について書きたいと思います。

この車両は、九五式軽戦車の車台に、47ミリ戦車砲を搭載した対戦車自走砲です。五式の名称の通り、戦争の末期に試作されました。私はずっと以前からこの車両のことがとても気になってまして、数年前、1/35スケールの九五式軽戦車のキット(ファインモールド製)をベースに製作をスタートしました。完成したのがこれです。

いくつかの幸運が重なって、この車両を登場させたジオラマが月刊アーマーモデリング2015年4月号に紹介されました。誌面ではジオラマの紹介が中心でしたので、今回、車両についていくつか書いてみたいと思います。製作中、調べたことや、形にすることで初めて気づいたことなど、あれこれ書いてみたいことがあったもので、、。

この車両は、試作されたこと自体はわりとよく知られているのですが、残念ながら写真も正式な図面も残っていません(どこかに秘蔵・死蔵されている可能性もあるかもしれないのですが、、、)。「日本の大砲」(共同出版社・1986)という本に、車両の簡単な説明とともに、側面図が掲載されています。地元の図書館でたまたまこれを見たのが製作を決心するきっかけとなりました。よく見ると、「Y・TOMIOKA」とサインがありますので、あの富岡氏の手によるもののようです。何故この本に、富岡氏のこの車両の図面が載っているのか、いまだによくわかりません。他の自走砲の図面がたくさん載ってるならともかく、この車両だけポンと唐突に載っているんですね。他の雑誌からの転載なんでしょうかね?この図面が描かれた経緯を知りたいものです、、。

なんであれ、この図面があれば、なんとか形にはできますので、取り掛かりました。プラ板を図面にならって切り出して、箱型にします。側面図しかありませんので、側面の装甲板の角度はあてずっぽうでした。

これが大体できたところ。47ミリ砲はファインモールドの一式中戦車のもの。いま調べたら、この時点で2012年10月ごろです。ジオラマを含めた全体が完成するのは2014年の夏ごろです。うーん、我ながら気が長いというか、何というか、、。

実は、こういった車両の改造はこれが始めてで、試行錯誤しながらの製作となりました。それでもまあ、割とすぐにそれっぽい形になったので満足でした。「後は、ディテールをちまちまつければすぐできるだろう。ディテールったって、幻の車両なんだからテキトーにやりゃいいか」と、のほほんとしてたのでした。それが大間違いで、修正を繰り返すことになるとは、この当時の私には知る由もなかったのでありました。

その後、中四国AFVの会の会場で、大阪の辻本氏と知り合いになりました。ご存知の方も多いかと思いますが、辻本氏は日本軍の試作車両などを次々とスクラッチする方で、当然ホルのことも詳しくご存知でした。これ幸いと、あれこれ質問していると「日本の戦車(新版)」(共同出版社・1978年)に簡易図面が載っていることを教えてもらいました。後日、写しを送ってもらいました。左が「日本の大砲」右が「日本の戦車」のもの。どうも、富岡氏もこの簡易図面を参考にされたような感じもします、、。結局のところ、この簡易図面が「源泉」みたいですね。

その図面には、正面図が載ってました。製作中の私のと比較すると、正面から見た側面装甲版の角度が全然違ってることが判明しました。製作当初、角度についてはあれこれ悩みました。検討してみると、あまり角度を付けると車内がかなり狭くなりますので「まあ垂直ではなくとも、それなりの角度だろう」と判断してそうしたのですが(理由はまた書きます)大間違いでした。
辻本氏によりますと、この簡易図面は実車を見ながら描いたスケッチの可能性があるそうです。なんであれ、現時点では唯一無二の一級の資料と考えてよさそうです。なので、できるだけこれに沿ったものを製作するのがより「正解」に近いわけです。さらに、砲は車両の中心にあると考え、そうしていたのですが(これまた理由はまた書きます)、正面図では向かって右側にオフセットされています。これまた修正する必要がありました。

※8月13日追記 当初は、「簡易図面は正式図面を写したものらしい」と書いていましたが、辻本氏から連絡があり、これは私の記憶違いによる間違いでした。正しくは「簡易図面は実車を見ながらのスケッチの可能性がある」ということらしいです。大変失礼しました。本文はその旨訂正しました。

というわけで、やり直しです。っていうか、作り直しであります。ははは。

そんなこんなで、完成までかなり時間が掛かってしまったのでした。完成寸前の姿は、アーマーモデリングに掲載されてますので、ご参照ください。

さて、図面を見るだけでは気付きにくいことが、立体にすることによって、よくわかることも多々ありました。こういうのは模型の醍醐味ですね。以前ちらっと描きましたが、まずは車体側面の形状についてです。側面形は、砲基部から、天井に傾斜が着いており、山形になってます。戦車や自走砲の形状としては、ちょっと不自然なものです。天井は地面と平行になっているのが普通です。図面を見ていたときは「なんでかな?」と思ってたのですが、立体にすると一発でその理由がわかりました。稜線射撃時、車両が上向きになった際、正面投影面積を少しでも減らすためなんですね。ドイツのヤークトパンターの天井も、ちょっと斜めになってますが、恐らく同様の理由ではないでしょうか。

戦車や自走砲は車体が大きければ大きいほど、弾薬や燃料を多く積めるので、それに越したことはないのですが、それに比例して敵に見つかる可能性が高くなっていきます。装甲も厚ければ厚いほどいいのですが、車体の大きさともども、重くなればなるほどエンジンの出力に見合った機動性能がどんどん失われていきます。これらの矛盾する各点の落とし所を探るのが設計者の腕の見せ所であり、かつ戦闘車両の設計の難しいところなのだと思います。

そういう意味では、このホルはとてもよく設計されている、優れた車両だと思いました。「長年運用された信頼性のある車体」と「威力と軽さのバランスのとれた優秀な砲」を、「設計の巧みさによって両要素の長所を最大限に引き出した自走砲」なのかも、と。側面から見ると、非常にコンパクトにまとまってることがよくわかります。稜線射撃のために、側面形が山形になっていることも一目瞭然かと。

車体は九五式のものなので、生産や整備、運用についての不安要素はありません。47ミリ砲も、九七・一式中戦車に使用されているので、砲弾の生産や部隊間の融通においても問題はないでしょう。乗員の教育も、組み合わせによってはほとんどなしで済ませられるはずです。47ミリ砲の威力についても、このクラスとしては欧米の砲に比しても遜色はありません。沖縄で同格の一式機動砲がM4シャーマンをぽこぽこやっつけたことから想像するに、車両の長所を把握した上できっちり運用すれば勝機は十分にあります!!それなりの数が量産され、本土決戦が行われた場合、米戦車隊にかなりの損害を与えることになったのは間違いないでありましょう!!!ハアハア、、(落ち着け)

前面からみても、その設計の巧みさがよくわかります。スタンバった状態でも必要最小限の露出で済ませられます。天井が車体最高部で地面と平行だった場合、必要以上に正面投影面積が大きくなることがおわかりになるのでは。
ただ唯一、疑問なのがキャタピラです。「日本の戦車」「日本の大砲」ともども、キャタピラの幅を広げて起動輪を「内部嵌合式」にした、専用のものが用いられたと解説されています。円盤状になっている起動輪は、そのためのものと推察されます。この車両は、砲塔式の戦車と違い、砲の向きを変える場合は車体を左右に移動させる必要があるのですが(車体を移動させなくても、砲は左右計20度動かせますが、360度の砲塔式に比べるとかなり限定されたものです。この辺はドイツの突撃砲と同じですね)、九五式のキャタピラは幅が狭いので、少しづつであろうとも超信地旋回を繰り返すと最悪キャタピラが外れるないしは切れる可能性があります。なので、足回りに何らかの改良を施す必要はあったかと思います。例えば、イタリア軍のセモベンテは、ドイツ軍に接収された後、起動輪にキャタピラ脱落防止用の爪が追加されてます。イタリア人がのほほんと使ってるときは問題なかったんでしょうけど、ドイツ人が突撃砲的な使い方をしようとしたとたん、キャタピラがバンバン外れちゃったんでしょうね、、。

閑話休題。なにはともあれ、試作はともかく量産になった場合、この単一車種のために新規にキャタピラを生産することになったかというと、ちょっと疑問です。生産できたとしても、時期的に量産状況は芳しくないでしょうし(他の車種のキャタピラも量産することを考えると、なおさら)、さらに配備部隊にスペアを補給することを考えると現実的ではないように思います(本土決戦時に、かなりニッチな部品が必要とされる車両がどこにどれくらい配備されてて、さらにその整備部隊がどこにいるかなんて、どこの誰が把握できるでしょう?さらに、この部隊は「自走」砲部隊です。戦場をあちこち移動しています。で、なんとか部隊の位置がわかったとしても、その部隊のために補給の便宜を図る、というのも非現実的です)。というわけで95式のままにしようかな?とも思いましたが、図面の特徴的な丸い起動輪にしたかったこともあり、「新規量産は難しく廃案となり、代替案として九七式のキャタピラを流用することになった」という無理くりの設定をひねり出し、そうしてみました。九五式オリジナルのキャタピラは、正面から見るとなぜか車体に密着せず、ちょっと外側の位置に付いてますので、九七式の幅の広いキャタピラもなんとか収まるような感じでした。

で、アーマー誌のジオラマに配置した状態で撮ってみました。前述の設計の巧みさと、車体がとても小さいこともあいまって、こういう風に廃屋内で待ち伏せした場合、発砲される前に発見することはほぼ不可能でしょうね。雑木林などに隠れている場合も同様かと思います。

見えないところからいきなり撃ってきて、撃つだけ撃ったあとはささっと後退して、廃村の建物や雑木林の向こうに逃げられたらどうしようもありません。M4にとっては、かなーり嫌な相手になったんじゃないかなあと。

次の話題です。「日本の戦車」では、この車両は戦闘室後部上面が開放されているとなってます。要するに、一部がオープントップとなってるわけです。根拠は不明ですが完全に閉鎖されているという説もあるらしく、これまでに発売されたガレージキットの中には、閉鎖式で製作されているものもあるようです(メーカー名などは失念しました。そういうメーカーさんの製品が複数あるのか単一なのかもわかりません。あやふやですいません、、)。で、製作してみると、やっぱり「開放されている」んだろうなあと私は思いました。

稜線射撃の状態にして砲を水平にすると、砲尾が開放された部分とぴったり合うんですね。これで発砲すると、薬莢は恐らく綺麗に外に飛び出していくんじゃないかと。車内はとても狭いので、10発も撃てば空薬莢で足の踏み場もなくなってしまいます。九七・一式中戦車には袋状の空薬莢受けが付いているのですが、これは密閉式砲塔なので外に排出できないためであり、かつ、床にそのままばら撒くとごろごろ転がるので乗員にとって危険になるためです。この作品では空薬莢受けを再現しましたが、考えれば考えるほど、発砲時は自動的に外に排出させるのが「正しい方法」だったんじゃないかなあという気がします。もちろん、薬莢はそのまま使い捨てるものではないので(きちんと回収して再利用するのが基本)、機関室上部には紛失防止用の柵のようなものが付けられたんじゃないかと思います。しかし、砲が水平の場合は、薬莢は外に飛び出すことができないので、薬莢受けが必要です。なので、薬莢受けには水平射撃時用のクッションつきの可動式の板が付いていたんじゃないかなあ、と。稜線射撃の時は、その板をずらすか折り畳むかしたんじゃないかなあ、と。図示するとこんな感じ。まあ、ここまでくると妄想の領域なのですが(笑)製作時はここまで思い至らなかったので、九七・一式の薬莢受けにならったものをつけてます。

さらに、完全密閉式にするのであれば、上面後部を斜めに切り取る(Aのライン)必然性がなくなってしまいます。天井をそのまま戦闘室後部まで延長すれば、車内はそれだけ広くなりますし(Bのライン)、かつ稜線射撃時の正面投影面積は変わりません。でも、それだと全高が高くなってしまうので、後部上面を水平にすれば(Cのライン)、車内の広さはさほど変わりません。密閉式なら、Cのラインにするのが合理的です。なので、AとCの間の空間を殺して密閉式にする理由がちょっと思いつかないんですね(資材の節約、とかはナシにして(笑))。ただ、三式砲のように後部ハッチを大型化するなら話が別です。射撃時にほとんど開放させた状態にできるほどの大きさであれば、納得がいきます。でもそれなら上部と後部が開けばいいだけなので、側面がAのラインになる必然性がなくなってしまいます、、、。だったらやっぱりCのラインかなあ、、いやでも、、というわけで、結局想像は堂々巡りになっちゃうんですが、、。ほんと、写真や図面が発掘されることを願って止みません。

で、もう一つ気付いたのが五式中戦車との類似点です。図面を参考に作って、立体になったのを見ていたら「どこかで見た形だなあ」と。何のことはない、五式中戦車の車体前部の副砲周辺の形状ととてもよく似てるんですね。

瓜二つ、とはいかないまでも各面の構成がかなり似てます。まさか設計者が同じではないとしても、製作時期はほぼ同じということもあって、設計に当たって何らかの情報交換があったんじゃないかなあ、という気がします。

それにしても、この車格の違いは凄いですね。五式中戦車はほんとでかいです。


しかしながら、この2車種が量産されたと仮定すると、実際に活躍するのは実はホルの方なんじゃないかなあと。

先に書いたとおり、整備や運用のしやすさ、隠れやすさ逃げやすさ(笑)などのポテンシャルの高さは、五式中戦車をはるかに凌駕している気がしてなりません、、というのはいいすぎですかね? もちろん、五式中戦車も最高なんですけどねえ。

というわけで、長くなりました。でも、いつものことながら、こういうエントリーが1回で終わるはずがなく(うう、、)、2回くらいにしようかなと思ってたのですが、あれこれ考えると、どうも3回くらいになりそうです。でも、連続するかどうかはちょっとわかりません。間に別のネタを挟むかもしれません。あらかじめご了承ください。

で、冒頭のイラストの全景がこちらです。今回のエントリーについてあーだこーだ考えてたら、無性に絵に描きたくなって、勢いで描きました(笑)勢いで描いたので、細かいところがかなり適当ですが、ご容赦ください。

それにしてもほんと、田んぼとかお地蔵さんが似合う車両だと思います。旧軍の車両はどれも好きですが、ホルはそのなかでもかなり好きですねえ、、、。もう一個、作りたいくらいです。10年後ぐらいに(笑)

で、再々で恐縮ですが、この車両を使ったジオラマは月刊アーマーモデリング2015年4月号にて紹介されています。この車両が紆余曲折の末無事完成できたのも、掲載されたジオラマあってのことです。同誌編集部の皆さんには感謝の言葉もありません。また、多くのアドバイスや資料を提供してくださった辻本氏にもこの場を借りて心よりお礼申し上げます。興味のある方は誌面をぜひご覧ください。

参考までに、掲載時のお知らせのエントリーはこちらです。http://blog.goo.ne.jp/morio1945/e/0a2c497d62f7526393c4bee1bfb09f3a

さらに、五式中戦車は月刊ホビージャパン2009年12月号の作例です。これも本土決戦のジオラマにしています。というか、これがきっかけとなって、私は本土決戦ジオラマを作るようになったんですね、、(懐かしいなあ、、)。これまた、興味のある方はぜひご覧ください。

それでは。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする