今回は、一〇〇式機関短銃の弾倉嚢について書きたいと思います。ご存知の通り、一〇〇式は日本軍が制式採用した唯一の機関短銃です。生産数は8000-10000丁程度といわれていますが、確かな数は不明です。軍用銃としてはかなり少ないです。例えば、九九式短小銃は6年間に230万丁も生産されていますので、その少なさがお分かりになるかと。
右側が一〇〇式です。いわゆる前期型です。もちろんモデルガンです。背景は無視してください(笑)サイドマガジン式の銃は、本棚にこうやって差すとイイ感じですよ(笑)
左はベルグマンMP18/Ⅰです。余談ですが、一〇〇式はベルグマンのコピーといわれることが多いのですが、そうではありません。外観をみるとそう思いがちなのですが、内部構造はことごとくベルグマンと違っています。「とにかくコピーしたくない!」という、南部麒次郎氏の意地や気概が感じられるほどです。この点もいつかきちんとブログに書きたいですね。
余談でした。一〇〇式は生産数が少ないためこの銃はほとんど現存しておらず、非常に貴重なものとなっています。当然、弾倉や専用のスリング、手入れ具なども同様で、銃本体よりも珍しい存在です。一〇〇式の多くはアメリカにあるようです。これは、戦場で手に入れた米兵が記念品として持ち帰ったからですね。で、一〇〇式はじめ九六・九九式軽機など弾倉式の銃は、アメリカに持ち込む際に弾倉は廃棄させられたそうです。要は、トロフィーとしてはいいけど銃としてはダメ、ということですね。
そのため、アメリカのこれらの銃は弾倉がないものが多く、弾倉は銃本体よりも貴重なんだそうです。もちろん弾倉込みで持ち込まれた個体もあります。まあ、持ち込みに明確な基準があったかどうかわかりませんし、戦後すぐのことですから検査も緩くてテキトーだったんでしょうね。検査時に別にして隠せばOKだった、とかだったのかも。
余談ですが、弾倉が本体に固定されている十一年式軽機は完全体での持ち込みがOKだったようです。弾倉の取り外しは出来るのですが、なぜかそこまでされてないんですね。この辺からもその検査の緩さが伺えます。で、弾倉持ち込みが禁止だった理由としてはその後犯罪などに使われることを懸念してのものだったんでしょう。何十年も前に、テレビでアメリカの警察を紹介する番組があり、犯罪に使用された押収銃器の保管部屋が出てきました。そこには十一年式軽機がありました。だから外しとかないと(笑)
すぐ余談になってしまいますね。すいません。で、一〇〇式は生産数はじめいろいろと不明な点が多いんですね。弾倉嚢もその一つです。私はもうン十年もガンマニアをやっていますが、一〇〇式の弾倉嚢を見たことがありません。当時の写真も、現存する実物の写真も、です。私はこの弾倉嚢のことを知りたくて知りたくて、緩いながらもアンテナをずーっと張ってたのですが全く引っ掛かりませんでした。どうも、本当に謎の装備のようです。
日本軍の「兵器学教程 一〇〇式機関短銃(昭和十八年)」(要はマニュアル)には「帆布製でベルト付き。弾倉10本が入る」(意訳)とあります。なので、存在したということは間違いないようです。
私の知る限り、唯一紹介されているのが「世界の軍用銃」(光文社文庫)に掲載されているイラストです。
この本のイラストを担当した川越のりと氏が描かれたもので、はっきりと「百式短機関銃用」と書かれています。これはそれを私が模写したもの。ちなみに、この本に限らず「百式短機関銃」と表記されることがあるのですが、正しくは「一〇〇式機関短銃」です。とはいえ、これが認識され出したのはつい最近のことで(私もそんな前から気付いてたわけではないです)、昔の書籍の多くは「百式短機関銃」となってますね。まあこの辺は細かく指摘することでもなくて、知ってる人がそれぞれ判断すればよいんじゃないかと思います。
で、このイラストはとてもリアルでどう考えても写真を元に描いたとしか思えません。氏の銃や装備のイラストは本当に素晴らしく、私の中で最高のイラストレーターの一人です。そもそも、想像で描いたあやふやなものをこういう本に載せるはずがありません。それなら素性のはっきりした別の銃のものを載せればいいですものね。
またまた余談ですが、この本は実に素晴らしいです。ドライゼ撃針銃から始まる近現代の後装式軍用銃の歴史を、多数の氏のイラストや写真を交えながらとてもわかりやすく解説しています。発行が1985(昭和60)年なので、解説はその時点まで(例えばAK74が不明点の多い謎の銃扱いとなってます。当たり前なんですけど隔世の感がありますねえ、、)なんですが、軍用銃の歴史を知る入門書としては最高です。大きな縦軸を知ることで、全体がよく理解できるんですね。その後知識を追加していく際に、こういう幹を把握しておくことの大切さがよくわかります。軍用銃のことを知りたいけど、どんな本がいいのかわからないという人には超お薦めです。私もこれを小学校高学年のころ買って、何度も何度も読んだものです(やな子供だなあ、、)。
私は当時から日本軍スキーで、この本の日本銃器の情報はかなり貴重なものでした。そしてもちろん一〇〇式機関短銃も大好きでした。タナカの100式のモデルガン、死ぬほど欲しかったですけどもちろん無理でしたね、、。(先のモデルガンは20歳ごろにようやく買ったものです。この頃でも死ぬかと思った、、。)。でも情報だけでも、と思ってたのでこの弾倉嚢のイラストはとても嬉しかったです。
しかしその後、GUN誌やコンバットマガジンをずっと見ていても、一〇〇式について紹介されることはなく、情報の少ない状況は続きました。古本の過去のこれらの雑誌をあさって、実銃のレポートなどがあれば狂喜してました。で、どうも過去の専門誌でも一〇〇式の弾倉嚢が紹介されたことはないようでした。で「じゃああのイラストは何を参考に描いたんだろう」とずっと疑問に思っていました。今と違ってネットなんてありませんし、地方の中高生が専門的な情報を得ることはまあ難しかったんですよ。古本屋を定期的に何件も回って、専門誌を漁るくらいしかその手段はありませんでした。
大人になってから、徐々に日本軍関係の資料が手に入るようになりました。先のマニュアルもそうです。でも、弾倉嚢についてはわからない。ネット環境が充実してからはウェブ上であれこれ調べてみましたが、どうもやっぱりほんとに幻の存在なのは間違いないようでした。
というわけで現在の話になります。少し前に、このブログを見てくださっているというアメリカ在住の日本軍銃器コレクターの方(便宜上X氏と呼ぶ)からメールをいただきました。以前、十四年式のエントリーで、いただいた情報を紹介させてもらった方です。X氏はほんとに凄いコレクター(南部式甲型のストック付きや、三十五年式海軍銃などを「普通に」持ってる方、と言えばおわかりになるかと、、)で、私はこれ幸いとあれこれと質問して、丁寧に答えていただきました。
当然、一〇〇式の弾倉嚢のことも聞いてみました。しかしX氏ご自身も見たことがなく、さらに知人のコレクターの方にも問い合わせて下さいました。このコレクター(以下Y氏)は、一〇〇式本体はもちろん、手入れ具嚢(当然中身入り!)まで持っているという、これまた濃い方です。しかし、Y氏も見たことがない、とのことでした。
ご存知の通り、アメリカの濃いコレクターというのは桁違いで、頭がくらくらするほどです。X氏から「射撃会の動画と画像が出てきたので送ります」というので観てみたら、九七式車載重機や九八式旋回機銃を撃ってましたからね、、。で、そういう方々すらも見たことがない、というなら本当に幻なんでしょう。うーん、やっぱりなかなかないもんだなあ、、と。
しかし先日、ツイッターの私の投稿(日本軍の試作機関短銃の話題)に、ある方(以下Z氏)がコメントを下さいました。いろいろと示唆をいただいて、興味を持ってZ氏のツイッターを覗いたところ、弾倉嚢らしい装備が写っている書籍を紹介されているではありませんか!これがそのページ。
Z氏に質問したところ、これは大戦中に米軍が作成したレポートでした。タイトルは「JAPANESE PARACHUTE TROOPS」です。要は、日本軍の空挺部隊についての調査報告です。こういう風に敵国について調べたことをまとめて、軍内に周知するために本にして配布していたんですね。
ネットを探ると、米国の公立の文書館と思われる(はっきりした施設名がわからんかった、、)サイトで原本が全頁公開されていました。凄い時代になったもんですねえ、、。Z氏は原本の該当ページのスキャンデータまで送ってくださいました。この場を借りてお礼申し上げます。これらの写真はそのデータのものです。で、上の写真のUPがこれ。
ネットを探ると、米国の公立の文書館と思われる(はっきりした施設名がわからんかった、、)サイトで原本が全頁公開されていました。凄い時代になったもんですねえ、、。Z氏は原本の該当ページのスキャンデータまで送ってくださいました。この場を借りてお礼申し上げます。これらの写真はそのデータのものです。で、上の写真のUPがこれ。
これは恐らく弾倉嚢です。左のベルトはこれ用のものでしょう。マニュアルの「帆布製でベルト付き。弾倉10本が入る」という条件と合致しているように見えます。しかし、少し小さくて10本も入るかな?という気もします。
そして、川越氏のイラストとも酷似しています。ひょっとすると、川越氏はこの写真を元に描いたのではないでしょうか。
厳密に比較するとフラップやそのベルトの形状・長さが違うようにも見えます。しかし、「世界の軍用銃」の説明では「弾倉4-5本を収納」となってます。そのつもりで見てみると、写真のものも4-5本くらいかな?という気もします。なんにせよ、35年も前の本ですし、また川越氏は故人(ご冥福を心よりお祈り致します、、)となられていますので、この点については確認のしようがありません。
というわけで疑問点もあるのですが、何であれこの写真で弾倉嚢がどんなものだったのかが初めてわかりました。とはいえ、写真説明にそう書いてあるわけではなく、確定したわけではないのですが。ただ、手入れ具嚢の形状とは全く違っていますので、多分間違いないんじゃないかなあ、と。
さらに、先に書いたようにこの弾倉嚢がマニュアルのものと同一という確証はありません。空挺部隊用に独自に製作された可能性もありますし、かつ陸上の部隊用も含め一〇〇式用のスタンダードタイプだったかどうかもわかりません。結局、わからないんですね(笑) ただ、一歩前進したことは間違いないのです。
佐山二郎氏の「小銃拳銃機関銃入門」(光人社NF文庫)では一〇〇式の弾倉嚢は「九九式弾倉帯甲を流用し、2つに弾倉各4本、計8本を収納した」(意訳)とあります。これの元となる資料はなんなのかもちろん私にはわからないのですが、佐山氏が根拠なく書くはずはありませんので実際はそういうことだったんだろうな、と思います。マニュアルに専用の弾倉嚢があると書かれていても、実際はそれが以後継続して量産されたわけではない可能性は高いかも、と。
実際、一〇〇式を持つ義烈空挺隊員が九九式の弾倉嚢を身に付けている写真があります。奥山隊長が隊員を後ろに軍刀を掲げる有名な写真の、隊長のすぐ右後ろの隊員です。
彼は一〇〇式を持って、軽機弾倉嚢を装備してます。彼は軽機班員で九九式の弾倉嚢を持っている可能性もあります。しかし、なんとなーくですがその弾倉嚢は一〇〇式の弾倉らしきカーブが見えるような気がします(→1)。気のせい、かもですが。右側には軽機用弾薬嚢をさげています。明らかにパンパンで形状が歪んでます(→2)。義烈では軽機弾薬嚢は大きくて使い勝手がよかったようで、本来以外の用途で使っている場合もあるようです。軽機班員でないのなら、何が入ってるんでしょうね、、。そして一〇〇式の銃身部の冷却口部分に白い何かを巻いています(→3)。銃の機能を高めるために、ここに何かを巻く必要があることはないでしょう。なんらかの識別用なのか、日章旗などを巻いているのかはわかりません。左隣の隊員の一〇〇式には見られませんので、とにかく何かを巻いていることは間違いないようです。
弾倉嚢からちょっと話が逸れましたが、こういう風に写真をじっくり見ていると次々に疑問点が出てきますね。うーん、、。
というわけで、先にも書きましたがとりあえず一歩前進です。今後また新しい発見があるかもしれませんので気長にやっていこうと思ってます。まあ、なんでこんなに粘着しているのか自分でもよくわからないのですが(笑)、まあ趣味ってそういうもんですよねえ、、。それにしてもン十年もこの疑問を引っ張ってるって、さすがにアレですねえ、、。でもまあ、いいですよね、、。
最後に、貴重な情報を提供してくださったX氏(ご無沙汰していますがお元気でしょうか?)、Z氏(この度は本当にお世話になりました!)には心からお礼申し上げます。
というわけでまた。