昨日の朝日新聞に、「20年後の壁 ドイツ 壁復活望む不条理」という記事がありました。
11月9日で、ベルリンの壁が崩壊して20年になるのだそうです。
ドイツが統一されて平和で繁栄するという予想に反し、再び壁があってもいいと考える人が15%出ているということです。
第2次世界大戦後、アメリカ、英国、フランスが西ドイツ側を、ソ連が東ドイツ側を占領しました。
1949年にドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)が建国され、完全な分断国家になりました。
1953年にソ連でスターリンが死去すると、東ドイツ内で反ソ連機運が高まり、西ドイツに逃げる市民が増えました。
東ドイツ政府は、労働力の流出を恐れ、ベルリンの壁を1961年に建設します。
西ベルリンとの境界上に、150キロメートルありました。
その後、東ドイツは「社会主義の優等生」と言われるほど成長しますが、石油ショックの影響等で経済が停滞します。
1980年代には、独裁体制への反発が高まりました。
民主化運動の高まりを受けて、1989年11月9日に、当時のクレンツ政権が西ドイツ側への出国の自由化に踏み切り、ベルリンの壁が崩壊しました。
翌年の1990年10月に、東西ドイツは統一されました。
統一時には、西ドイツのコール首相(当時)は、「数年後には花咲くようになる」と宣言しました。
旧東ドイツは、道路などのインフラが整備され、生活水準も西ドイツに近づきました。
しかし、EU(欧州連合)に東欧諸国(賃金が安い)が次々に加盟してくると、企業投資などは減速し、旧東ドイツ地域の失業率は旧西ドイツ地域の2倍以上も高く、平均所得は3割も少なくなっています。
最初は西ドイツへのあこがれから、キリスト教民主同盟を支持する旧東ドイツ市民が多かったのですが、統一から19年経っても格差が縮まらないことに不満を持ち、今年の総選挙では旧東ドイツの流れをくむ左派党が議席を増やしました。
旧西ドイツ地域の市民も、「連帯税」(旧東ドイツ支援のための税金)などの負担が続きます。
最近、民間調査機関フォルザが、約1000人に「壁はあったほうがいいか」と聞いたところ、ベルリンの壁の復活を望む人が15%もいました。
旧東ドイツ地域の男性は、東ドイツで自動車修理工でした。
東西ドイツ統一後は、機械の部品工場や商品の仕分けなどの職を転々としたそうです。
不慣れな仕事でミスをするたびに、「東ドイツ出身者は能力が低い」と言われました。
同じ仕事でも、旧東ドイツ地域では、賃金が半分以下ということもあります。
「これが差別でなくて何だろうか。西側の人間からすれば東ドイツ出身者は死ぬまで失敗国家の人間なんだ」
----------------
ドイツは東西で何とかうまくやっているのではと思っていました。
ベルリンの壁崩壊も、当時は意外にあっけなく決まったという感想でした。
壁をハンマーで壊したり、手を取り合って喜んでいた人達の姿が印象的でした。
11月9日で、ベルリンの壁が崩壊して20年になるのだそうです。
ドイツが統一されて平和で繁栄するという予想に反し、再び壁があってもいいと考える人が15%出ているということです。
第2次世界大戦後、アメリカ、英国、フランスが西ドイツ側を、ソ連が東ドイツ側を占領しました。
1949年にドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)が建国され、完全な分断国家になりました。
1953年にソ連でスターリンが死去すると、東ドイツ内で反ソ連機運が高まり、西ドイツに逃げる市民が増えました。
東ドイツ政府は、労働力の流出を恐れ、ベルリンの壁を1961年に建設します。
西ベルリンとの境界上に、150キロメートルありました。
その後、東ドイツは「社会主義の優等生」と言われるほど成長しますが、石油ショックの影響等で経済が停滞します。
1980年代には、独裁体制への反発が高まりました。
民主化運動の高まりを受けて、1989年11月9日に、当時のクレンツ政権が西ドイツ側への出国の自由化に踏み切り、ベルリンの壁が崩壊しました。
翌年の1990年10月に、東西ドイツは統一されました。
統一時には、西ドイツのコール首相(当時)は、「数年後には花咲くようになる」と宣言しました。
旧東ドイツは、道路などのインフラが整備され、生活水準も西ドイツに近づきました。
しかし、EU(欧州連合)に東欧諸国(賃金が安い)が次々に加盟してくると、企業投資などは減速し、旧東ドイツ地域の失業率は旧西ドイツ地域の2倍以上も高く、平均所得は3割も少なくなっています。
最初は西ドイツへのあこがれから、キリスト教民主同盟を支持する旧東ドイツ市民が多かったのですが、統一から19年経っても格差が縮まらないことに不満を持ち、今年の総選挙では旧東ドイツの流れをくむ左派党が議席を増やしました。
旧西ドイツ地域の市民も、「連帯税」(旧東ドイツ支援のための税金)などの負担が続きます。
最近、民間調査機関フォルザが、約1000人に「壁はあったほうがいいか」と聞いたところ、ベルリンの壁の復活を望む人が15%もいました。
旧東ドイツ地域の男性は、東ドイツで自動車修理工でした。
東西ドイツ統一後は、機械の部品工場や商品の仕分けなどの職を転々としたそうです。
不慣れな仕事でミスをするたびに、「東ドイツ出身者は能力が低い」と言われました。
同じ仕事でも、旧東ドイツ地域では、賃金が半分以下ということもあります。
「これが差別でなくて何だろうか。西側の人間からすれば東ドイツ出身者は死ぬまで失敗国家の人間なんだ」
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ドイツは東西で何とかうまくやっているのではと思っていました。
ベルリンの壁崩壊も、当時は意外にあっけなく決まったという感想でした。
壁をハンマーで壊したり、手を取り合って喜んでいた人達の姿が印象的でした。
ベルリンの壁も20年でしたか…「壁を知らない若者達」も社会に出ている訳ですよね…
壁が崩れた後、何度かベルリンを訪ねています…
http://planeta.269g.net/category/657966-1.html
ベルリンはドイツに在っては「やや特殊な街」という感じはしますね…
Charlieさんは今年もベルリンに行かれたのですね。
サイトを拝見しました。
ユーロは「オイロ」と呼ぶのですか、面白いです。
1990年から92年までドイツに暮らし、その後もたびたび彼の地を訪れています。
壁が崩れてから90年10月の再統一まで、ドイツは揺れ動いていましたね。東の人々にとっては、もちろん不安はあったでしょうが、少なくともそれまでよりは明るい未来を展望していたでしょう。
しかし、西側の人々の多くは困惑していたというのが実感です。
当時私が研究室をもらっていた日本総領事館のドイツ人運転手は、90年10月3日の当日、「統一? 特に感慨はないね。家で乾杯するようなこともしない」と言っていました。
思い返せば、89年11月9日の熱狂はそれからのドイツの道程を痛ましく象徴していたのかもしれません。
ただ、一つ付け加えれば、当時の国際情勢の中では、ドイツは感心するほど誠実に事態に対処したと思いますよ。とにかく、東欧共産政権のドミノ倒しで、毎年100万人を超える規模の難民や脱出者がドイツに押し寄せてきていたのを、最小限の混乱しか起こさせずに受け入れて対応していたのですから。その「最小限の混乱」を面白おかしく伝える日本のマスコミの浅薄な報道は、現地から見ると「恥ずかしいなあ」という思いがしたものです。
現地の事情を詳しくご存じなのですね。
西ドイツ側は実は困惑していた、東欧から100万人を超す人々が流入してきたことは、知りませんでした。
「誠実に対応」にドイツらしさを感じます。