朝日新聞の週末beに、「磯田道史の備える歴史学 防潮堤を造った人々」という記事がありました。
歴史学者の磯田道史さんの連載コーナーです。
江戸時代も1700年くらいまでは、武士も行動的で決断が速かったのだそうです。
今回は、「防潮堤」がテーマでした。
「江戸時代、津波の被害をうけた後、緊急対策として、あっという間に津波防潮堤を建設した歴史がある」と説明されています。
九州の大分県の佐伯の小さな(2万石)大名の話題です。
もともとは森氏といいましたが、豊臣秀吉の命で毛利氏(中国地方)を水攻めにした際、縁あって毛利氏と名乗ることになります。
1707年(宝永4年)10月4日に、宝永津波が佐伯を襲います。
佐伯の城下町は、3.5~4mの津波の被害を受けてしまいました。
6代目藩主・毛利高慶は、すぐに城下町全体を防潮堤で護ることを決意します。
津波の被災17日後から着工し、2カ月の突貫工事で新堤防を完成させました。
新堤防1.3kmを含む総延長4kmの防潮堤が完成したのだそうです。
「赤穂浪士もそうだが、おおむね1700年ごろまでの近世武士は行動的で決断が速かった。
しかし平和が続き、世襲が重なると、近世武士は次第に行動が格式張ってきて「機能的」でなくなる傾向がみられた」
ということです。
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江戸時代の武士は、ずっと効率なんて考えずに、形式を重んじてきたような印象がありました。
1700年くらいまで、と数字を示されたのも興味深いです。
1700年がどういう時期なのだろうと、「1700年 日本史」で見てみました。
「日本の歴史 - Wikipedia」が3番目に出てきました。
クリックすると、江戸時代は「1603–1868」年と、右側に出ています。
江戸時代約300年の最初から1/3のところにあたるようです。
「日本の歴史データ:1700年-1799年 - ムラウチドットコム・村内伸弘の社長日記」というブログも、2番目に出てきました。
(http://m.murauchi.info/weblog/1968/02/post_145.php参照)
村内伸弘さんという日本史好きの社長さんが、1700年-1799年の日本の歴史データを示していらっしゃいます。
1707年(記事で佐伯に津波が来た年)を見てみると、なんと「富士山噴火」とあります。
津波と富士山噴火の年だったのですね。
「1707年」と打っていたら、「宝永地震」「宝永噴火」と出てきました。
「宝永地震、東海地震、東南海・南海地震、連続地震」というサイトが出てきました。
(http://www.bo-sai.co.jp/houeijisin.htm参照)
「防災システム研究所」(東京)のサイトです。
「東海・東南海・南海地震が同時発生
宝永地震は、宝永4年10月4日(1707年10月28日)、中部、近畿、四国、九州の広い地域にまたがり、東海地震・東南海・南海地震が同時に発生し、地震の規模はマグニチュード8.6と日本最大級の巨大地震と推定されている」
「地震後49日目に富士山が噴火(宝永の噴火)
宝永地震から49日後の宝永4年(1707年12月16日)、富士山で大噴火が起こった」
と書かれていました。
1707年は、日本最大級の地震が起き、その49日後には富士山で大規模な噴火が起きた年だったようです。
(「赤福」創業の年でもあるようです)
大きな地震と富士山の噴火が続けて起きることもあるのだと、認識を新たにしました。
歴史学者の磯田道史さんの連載コーナーです。
江戸時代も1700年くらいまでは、武士も行動的で決断が速かったのだそうです。
今回は、「防潮堤」がテーマでした。
「江戸時代、津波の被害をうけた後、緊急対策として、あっという間に津波防潮堤を建設した歴史がある」と説明されています。
九州の大分県の佐伯の小さな(2万石)大名の話題です。
もともとは森氏といいましたが、豊臣秀吉の命で毛利氏(中国地方)を水攻めにした際、縁あって毛利氏と名乗ることになります。
1707年(宝永4年)10月4日に、宝永津波が佐伯を襲います。
佐伯の城下町は、3.5~4mの津波の被害を受けてしまいました。
6代目藩主・毛利高慶は、すぐに城下町全体を防潮堤で護ることを決意します。
津波の被災17日後から着工し、2カ月の突貫工事で新堤防を完成させました。
新堤防1.3kmを含む総延長4kmの防潮堤が完成したのだそうです。
「赤穂浪士もそうだが、おおむね1700年ごろまでの近世武士は行動的で決断が速かった。
しかし平和が続き、世襲が重なると、近世武士は次第に行動が格式張ってきて「機能的」でなくなる傾向がみられた」
ということです。
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江戸時代の武士は、ずっと効率なんて考えずに、形式を重んじてきたような印象がありました。
1700年くらいまで、と数字を示されたのも興味深いです。
1700年がどういう時期なのだろうと、「1700年 日本史」で見てみました。
「日本の歴史 - Wikipedia」が3番目に出てきました。
クリックすると、江戸時代は「1603–1868」年と、右側に出ています。
江戸時代約300年の最初から1/3のところにあたるようです。
「日本の歴史データ:1700年-1799年 - ムラウチドットコム・村内伸弘の社長日記」というブログも、2番目に出てきました。
(http://m.murauchi.info/weblog/1968/02/post_145.php参照)
村内伸弘さんという日本史好きの社長さんが、1700年-1799年の日本の歴史データを示していらっしゃいます。
1707年(記事で佐伯に津波が来た年)を見てみると、なんと「富士山噴火」とあります。
津波と富士山噴火の年だったのですね。
「1707年」と打っていたら、「宝永地震」「宝永噴火」と出てきました。
「宝永地震、東海地震、東南海・南海地震、連続地震」というサイトが出てきました。
(http://www.bo-sai.co.jp/houeijisin.htm参照)
「防災システム研究所」(東京)のサイトです。
「東海・東南海・南海地震が同時発生
宝永地震は、宝永4年10月4日(1707年10月28日)、中部、近畿、四国、九州の広い地域にまたがり、東海地震・東南海・南海地震が同時に発生し、地震の規模はマグニチュード8.6と日本最大級の巨大地震と推定されている」
「地震後49日目に富士山が噴火(宝永の噴火)
宝永地震から49日後の宝永4年(1707年12月16日)、富士山で大噴火が起こった」
と書かれていました。
1707年は、日本最大級の地震が起き、その49日後には富士山で大規模な噴火が起きた年だったようです。
(「赤福」創業の年でもあるようです)
大きな地震と富士山の噴火が続けて起きることもあるのだと、認識を新たにしました。
この話、面白いですね!
江戸時代の武士は官僚的というイメージがあり、決断力が乏しいという印象がありますが、これを覆すおはなしで興味深いです。
佐伯には9ヶ月間住んだことがあります。懐かしいです〜。
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うーん。
すばらしい。
それに比べて、東北震災の復興ペースの遅いのには…。
土木工事が殆ど人力で行なわれていた時代の話ですから、なおさら驚かされますね。
当時の行政(武士)の危機管理能力にあらためて感服です。
たいへん興味深いお話です。
伝えたい人間が何人かいます。
おりがとうございました。
YHさんは佐伯に住まれたことがあるのですか!
すばらしいです、どんな街なのでしょう。
江戸時代の武士は決断がゆっくりという印象を私も持っていました。意外ですね。
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>土木工事が殆ど人力で行なわれていた時代の話ですから
おっしゃる通りです。すごいことなんですね。
8ちゃんさんがおっしゃる伝えたい方は、どういう方なのだろう(ビッグな方なのだろうか)と考えてしまいました。
ありがとうございます。
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