しんしんとした大気が朝日をあびて、ゆるみかけていた。
2月10日、今から正面玄関を開けようとしているJA虹のホール
鈴鹿に着いた。
7日に亡くなった牛丸仁先生の出棺の日。
棺に安置されている先生に最後のお別れがしたかった。
牛丸家の控え室に声かけて、ふすまを開けると、喪服の人が
数人おられた。息子牛丸信さん夫妻だけかなとおもっていて、
ちょとかしこまる気持ち。
棺の前に線香やお供えの台があって、牛丸くんがにっこり
してくれたので、彼の前に座った。
「こんなとき、どうするんだろう?」とやけに殊勝なそぶり。
「宮地さん、おやじといっしょに棺桶のなかにはいらない?」
みたいなこと牛丸くんから聞こえてくる。
「やっぱり、先生の顔がみたい」
棺をのぞくと、先生が皺ひとつない感じで、むしろ蠟人形の
ように眠っている。
往時の、いたずらっぽく微笑んだり、笑ったりしている
表情が重なってきて、おもわずこみあげてくるものがあった。
お線香が無くなりかけていた。
牛丸くんといっしょに新しい線香に火をつけた。
合掌・・
先生自筆の日記のコピーがあった。
「遺言なんだ」
「いつごろ書いたんだろう?」
「わからない。でも12月末ごろかな」
書き出し。
”こんな幸せな一年を送った
人はこの世にいるだろうか。”
つぎ。
”信 息子として知情とともに
思い返してみると、精いっ
ぱいだったよな!”
万年筆のしっかりした字だった。
また、またこみあげてきた。
半分わらいながら、牛丸くんに
「”精いっぱいだったよな”って、どんなことだろうね?」
と問うた。
「わからん」と即座に応じていたけど、精いっぱいの
父と息子の心情のせめぎわいは、筆舌ではいえないものが
あったのでは・・・・
線香の脇にモンブランの万年筆が置いてあった。
牛丸くんのブログに書いてあった、あのモンブラン。
「俺はモンブランで詩を書くのが、夢だ。60年間
思い続けてきた」という。
「高価な物なので、我慢してきたのだ」とも。
「そのモンブランで書いたという文章、見たいなあ」
と言ったら、牛丸くん、座卓の上のファイルの中など見て、
「あれ、ない」と探してくれはじめた。
棺の中まで見たけど見つからない。最後は牛丸くんが始めに見たファイルの
なかに、奥様がその実物を見つけた。
「あった、あった」
”モンブランのために
帰ってくるぞ
六十年余の
夢が叶ったのだから”
それは、すこし揺れているような字だった。
字は、どこまでいっても字だけど、見ていると先生が
甦ってくる。
もう、こみあげてくるものを抑えようとはしていない。
「(詩は) たましいがふとるものじゃないとね」
12月、病を押して講座に来られた先生の最後の言葉。
部屋におられた喪服の人たち。
「おやじと木曽でいっしょに暮してきた人たちなんだ」と
紹介してもらう。
昨年のどこかで、先生のふるさと、長野県上松のことを
講座で聞いたことがある。
たしか、ブログにその講座の感想を書いた。
それを読み返してみた。2011年2月21日付。
http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=8ffa012efb363d097f2d7335ab0c5163
それから、ちょうど一年。
「路地の入口」というエッセイを書き、ラジオでも
朗読で放送されたという。
「どこへ行っても、通りすがりの道に、路地の入口を見つけると、
そこへ踏み込めば、過ぎている時間の隙間が見つかるのではないかと、
ふと立ち止まってしまう癖がある」
こころに残る一節だった。
牛丸先生とのおつきあいは、そのころの講座から一年だけだ。
記憶はまだ新しい。ありありとそのとき、そのときの情景、
身振り手振りなど立ち上がってくる。
身体はいずれ、壺のなかに納まっていくだろう。
そこから、広大無辺の世界につながる無数の人たちの輪のなかに
入られていくのだろう。
一人の人が生まれ、暮らし、土に還っていく過程では、
「こんな人でした」とじぶんのとらえたまま言ってみても、その人の
ささやかな断面でしかないのだろう。
その断面からもたらさされたものの豊かさをもう一度、
向かっていったその無限ともいえる世界において、味わいたい。
逝った先生からの贈り物。
受け止められる分だけ・・・
「さようなら、先生」
牛丸くん、いっしょにまた悪態つきながら、精いっぱいやろうぜ。
牛丸信さんのブログ「親父の再入院」
http://www.scienz-school.jp/blog/sb033/
2月10日、今から正面玄関を開けようとしているJA虹のホール
鈴鹿に着いた。
7日に亡くなった牛丸仁先生の出棺の日。
棺に安置されている先生に最後のお別れがしたかった。
牛丸家の控え室に声かけて、ふすまを開けると、喪服の人が
数人おられた。息子牛丸信さん夫妻だけかなとおもっていて、
ちょとかしこまる気持ち。
棺の前に線香やお供えの台があって、牛丸くんがにっこり
してくれたので、彼の前に座った。
「こんなとき、どうするんだろう?」とやけに殊勝なそぶり。
「宮地さん、おやじといっしょに棺桶のなかにはいらない?」
みたいなこと牛丸くんから聞こえてくる。
「やっぱり、先生の顔がみたい」
棺をのぞくと、先生が皺ひとつない感じで、むしろ蠟人形の
ように眠っている。
往時の、いたずらっぽく微笑んだり、笑ったりしている
表情が重なってきて、おもわずこみあげてくるものがあった。
お線香が無くなりかけていた。
牛丸くんといっしょに新しい線香に火をつけた。
合掌・・
先生自筆の日記のコピーがあった。
「遺言なんだ」
「いつごろ書いたんだろう?」
「わからない。でも12月末ごろかな」
書き出し。
”こんな幸せな一年を送った
人はこの世にいるだろうか。”
つぎ。
”信 息子として知情とともに
思い返してみると、精いっ
ぱいだったよな!”
万年筆のしっかりした字だった。
また、またこみあげてきた。
半分わらいながら、牛丸くんに
「”精いっぱいだったよな”って、どんなことだろうね?」
と問うた。
「わからん」と即座に応じていたけど、精いっぱいの
父と息子の心情のせめぎわいは、筆舌ではいえないものが
あったのでは・・・・
線香の脇にモンブランの万年筆が置いてあった。
牛丸くんのブログに書いてあった、あのモンブラン。
「俺はモンブランで詩を書くのが、夢だ。60年間
思い続けてきた」という。
「高価な物なので、我慢してきたのだ」とも。
「そのモンブランで書いたという文章、見たいなあ」
と言ったら、牛丸くん、座卓の上のファイルの中など見て、
「あれ、ない」と探してくれはじめた。
棺の中まで見たけど見つからない。最後は牛丸くんが始めに見たファイルの
なかに、奥様がその実物を見つけた。
「あった、あった」
”モンブランのために
帰ってくるぞ
六十年余の
夢が叶ったのだから”
それは、すこし揺れているような字だった。
字は、どこまでいっても字だけど、見ていると先生が
甦ってくる。
もう、こみあげてくるものを抑えようとはしていない。
「(詩は) たましいがふとるものじゃないとね」
12月、病を押して講座に来られた先生の最後の言葉。
部屋におられた喪服の人たち。
「おやじと木曽でいっしょに暮してきた人たちなんだ」と
紹介してもらう。
昨年のどこかで、先生のふるさと、長野県上松のことを
講座で聞いたことがある。
たしか、ブログにその講座の感想を書いた。
それを読み返してみた。2011年2月21日付。
http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=8ffa012efb363d097f2d7335ab0c5163
それから、ちょうど一年。
「路地の入口」というエッセイを書き、ラジオでも
朗読で放送されたという。
「どこへ行っても、通りすがりの道に、路地の入口を見つけると、
そこへ踏み込めば、過ぎている時間の隙間が見つかるのではないかと、
ふと立ち止まってしまう癖がある」
こころに残る一節だった。
牛丸先生とのおつきあいは、そのころの講座から一年だけだ。
記憶はまだ新しい。ありありとそのとき、そのときの情景、
身振り手振りなど立ち上がってくる。
身体はいずれ、壺のなかに納まっていくだろう。
そこから、広大無辺の世界につながる無数の人たちの輪のなかに
入られていくのだろう。
一人の人が生まれ、暮らし、土に還っていく過程では、
「こんな人でした」とじぶんのとらえたまま言ってみても、その人の
ささやかな断面でしかないのだろう。
その断面からもたらさされたものの豊かさをもう一度、
向かっていったその無限ともいえる世界において、味わいたい。
逝った先生からの贈り物。
受け止められる分だけ・・・
「さようなら、先生」
牛丸くん、いっしょにまた悪態つきながら、精いっぱいやろうぜ。
牛丸信さんのブログ「親父の再入院」
http://www.scienz-school.jp/blog/sb033/