かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

ゆったりとした時間

2016-07-29 14:10:28 | わがうちなるつれづれの記

最近、心に残る言葉を聞きました。

「心と心が触れ合うために必要なのは何かというと、それは時間である。

人と人をつなぎ合わせるのは、話の内容ではなく、共に過ごした時間

なのだ」

山極寿一さんが話していました。

 

今は京都大学総長。霊長類学者・人類学者として、はじめは1974年から

日本各地のサル、そして1978年からアフリカで野生ゴリラに接しながら、

ゴリラの暮らしや社会の仕組みを野外で観察・調査をしてきました。

調査をはじめて、5年目ぐらいに、日本に戻ってきたとき、ある友人から

突然「どうも、お前と向き合っていると変な気がする。人間ではない

何者かと接しているような気がする」と言われたようです。

その友人は「何を話しかけても私がむっつり黙り込んで

相手の目をじっと見返し、時折グフームと唸るのが不気味だ。

常に腕を組んで座り、あごをしゃくるような素振りをしたり、時々

手首を内側に曲げて机に立てるのはどういう意味か?」と山極さんに

問うた、ということです。

中央アフリカの高地に籠もって、ゴリラと密接して暮らし、彼らの

素振りを一心に観察していて、すっかりそれが身についてしまった

と説明をしていました。

 

「人と人が触れ合うために必要なのは、時間である」というコトバの

もとには、そういう長い積み重ねの経験があってなんだろうな、と

思いました。

それが、どういう内容か、今は自分なりの解釈で受け取っていますが、

いつかお聞きしたいなあとおもいます。

 

話が横に外れます。

鈴鹿の近所の人たちで、「理想の暮らしを語る会」をもう、かれこれ

3年近くつづけています。

 

最近、この会の目的は何だろう?と考えて、1案が出来ました。

<理想の暮らしを語る会がめざすもの>

  「ほんとうはこんな暮らしがしたいよな」とか、

  「こんな社会だったらいいよな」とか、静かに自分のなかの

  気持ちや願いに耳を傾けたら、誰もが、言葉にできる、できない

  は別にして、語りたいことがいっぱいあるのではないでしょうか?

  人はそれぞれ、その時代を自分なりの人生を歩んできました。

  語る会では、お互いを尊重し、理解しながら、なんでも話せるし、

  話したくないときは話さなくてもいい、そこにいるだけでいい、

  そんな時間をともに味わいたいと願っています。

  今を生きることが、面白いなあ、豊かだなあと、ふと湧いてくる

  ような、また寄りたいなあとなるような会にしていきたいです。

 

ああ、これ読み返してみると、「そんな時間っをともに味わいたい」って

表現したんだね。

 

昨日、その会で「阿弥陀堂だより」という映画を何人かで観ました。

2002年の作品で、今頃見るなんて、と思わないではないですが、
 
会で死生観について話しているとき、亜子さんが「この映画見てみない?」
 
とつぶやいて、中井さんが「やろう。やろう!」と受けて、お知らせ入れて、
 
上映会ができた。
 
背景は信州の里山。遠く、アルプスが遠望できて、近くは段々畑があり、
 
小川のせせらぎが暮らしの中にあっります。
 
在所には、老人が多いが、子どもたちもいて、田植え、稲刈り、秋祭り
 
と四季の暮らしがあります。
 
街から故郷に戻った売れない小説家と腕がある内科医の奥さん。
 
パニック症の回復を思っている。阿弥陀堂のおばあ”おうめ”さん。
 


 
ガンで死期を静かに待つ恩師とその妻。
 
映画は加古隆さんの音楽と自然が美しく映されながら、そこで暮らす
 
一人ひとりの内面世界がコトバ少なく、ときに眼差しかちょっとした首や
 
手の動きで、その内面を表現しようとしていました。
 
それが、どんなものかは、観ているこちらにまかされてようでした。
 
人と人が、こんなにもゆったりとした時間のなかで、じっくりその人の
 
内面世界に触れられていく感じ。
 
それが、余韻で残りました。
 
死んでいく人も、一人死んでいくけれど、死に際、妻に「すまなかった」
 
とひとこと。死は個体の死であるとともに、ともに生きた人との別れ。
 
そして、死は新しいいのちをそのうちに内在させているのではないか。
 
 
 
 
また、ゴリラの話にもどります。
 
ゴリラのコミュニケーションについて体験談です。
 
1981年。6頭のオスゴリラの集団を観察していました。
 
とくに何事もなさそうなので、ゆっくり休んでいたそうです。

「すると、近くでアザミを食べていた、十歳になるシリーが私の方に

ゆっくりと、しかし、まっすぐに歩み寄ってきた。(略)

私が横を向いてそ知らぬふりをしていると、シリーは私に手が

触れようという距離まで来て立ち止まり、じっと私の顔を注視し

はじめた。

なにしろ、若オスとはいえ、私の体重の二倍をこえるゴリラである。

ここで眼を合わせたら大変なことになると思い、私は必死にシリー

の方をみないように眼をそむけていた。

しかし、シリーはニホンザルのように立ち去ってはくれず、しばらく

するとそうっと私の方に顔を寄せてきた。不安のあまり、ちらちらと

眼の端でシリーの様子をうかがうと、シリーはじっと私の眼を見つめて

いる。


なおも近づくにつれてシリーの顔の輪郭がぼやけ、顔と顔が触れよう

という距離でシリーは静止した。

そして、そのままの姿勢で、シリーはほとんど1分間もじっと私に

顔を寄せていたのである。

やがて、シリーは元の位置に戻って私をしげしげとながめ、低く

グフームと唸ると去っていったが、私はシリーに自分の内面を

注意深くのぞき込まれた気がしたものである」

ここのところ、ハラハラしながら読みました。

山極さんになったような気持ちで。

このあと、山極さんは「この行動の意味が分からなかった」と

感想を書いていますが、このようにして、ゴリラの内面世界を

ともにしてきたんだなあと思いました。


ゆったりとした時間が流れ、意味のあるコトバがない世界。

意味があとから、あとから湧いてきて、アップアップしている

一直線の時間とコトバが行きかう世界。

これからの社会の構想は、どんな世界がベースになって

描けるだろうか。