かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

 尹東柱 ユンドンジュ

2014-05-25 11:22:18 | わがうちなるつれづれの記

昨日、アズワンコミュニテイも参加するフォーラムが京都で

あった。

会場が烏丸町にあり、同志社大学が目と鼻の先にあった。

同志社大学には、韓国の詩人 尹東柱(ユンドンジュ)の

詩碑があると聞いていたので、フォーラムまで時間があった

ので訪ねてきた。

 

同志社大の構内は広い。

「詩碑に行きたいのですが・・」と守衛さんに尋ねたら

ご存知だったらしく、丁寧に案内してくれた。

礼拝堂の東側に落ち着いた雰囲気のなかにあった。

 

詩碑には、ハングルと日本語で

「死ぬ日まで空を仰ぎ

一点の恥辱なきことを」

で始まる詩が刻んであった。

 

その前に、ブックケースのようなものがあり、開けてみると

ユンドンジュのハングルの詩集や書き込みのしてある

ノートが入っていた。

詩碑の脇にはボールペンが置いてあり、訪れた人の

感想が書いて保管できるようになっている。

いま、尚、ユンドンジュに思いを馳せる人たちがいることを

物語っている。

 

尹東柱という人を知ったのは、15年ほど前。

韓国に滞在していたとき、息子のようなユンソンジュンくんに

案内してもらって、忠清南道天安市にある「独立記念館」に

行ったときだった。

展示の一隅に澄み切った目をした青年の写真があり、そこに

ハングルで詩のようなものが掲げてあった。

ソンジュンくんに訳してもらって、メモをしておいた。

「尹東柱」という詩人の作品で、戦前日本に留学中に亡くなった

という。

 

帰国して、調べたら、伊吹郷さんという詩人が尹東柱の全詩集を

翻訳していることが分かった。「空と風と星と詩」(記録社)。

図書館で借りて、読んだ。

茨木のり子さんの「ハングルの旅」(朝日文庫)には、尹東柱が

日本で亡くなった経過が書いてある。

 

ーー1945年、敗戦の日をさかのぼること僅か半年前に、27歳の

   若さで福岡刑務所で獄死させられた。

   最初は立教大学英文科に留学、やがて同志社大学英文科に

   移り、独立運動の嫌疑により下鴨署に掴まり、福岡に送られる。

   そこで得体の知れない注射を連日打たれ、亡くなるまぎわ、

   母国語で何事か大きく叫んで息絶えたという。

 

ユンドンジュの詩が澄み切っていればいるほど、そのように

感じれば感じるほど、この日本での獄死は胸に響くものがある。

 

尹東柱は詩をハングルで書き続けた。

日本は1937年、中国と全面戦争に入ってから、「内鮮一体」

「皇民化政策」を打ち出し、朝鮮語を学校教育から外して、

日本語の常用を強制したり、「創氏改名」など、人間の尊厳を

踏みにじるような施策をつぎつぎに実行した。

そんな背景があった。

ハングルで詩を書き続けたことの内面、それに目をつけた

官憲。

 

       たやすく書かれた詩             尹東柱 (伊吹郷訳)

   窓辺に夜の雨がささやき

   六畳部屋は他人の国

   

   詩人とは悲しい天命とは知りつつも

   一行の詩を書きとめてみるか

 

   汗の匂いと愛の香りふくよかに漂う

   送られてきた学費封筒を受けとり

 

   大学ノートっを小脇に

   老教授の講義を聴きに行く。

 

   かえりみれば  幼友達を

   ひとり、ふたり、とみな失い

 

   わたしはなにを願い

   ただひとり思いしずむのか?

 

   人生は生きがたいものなのに

   詩がこう  たやすく書けるのは

   恥ずかしいことだ。

 

   六畳部屋は他人の国

   窓辺に夜の雨がささやいているが、

 

   灯火をつけて 暗闇をすこし追いやり、

   時代のように 訪れる朝を待つ最後のわたし、

 

   わたしはわたしに小さき手をさしのべ

   涙と慰めで握る最初の握手。

 

ここでいう「最後のわたし」と「最初の握手」というのは、なんの

隠喩なんだろう・・・

 

日本と韓国のことを考えるとき、ぼくと韓国で、朝鮮半島で暮らす

人たちのことを思うとき、この詩人との出会いは大きい。

韓流の流行のときも、北朝鮮の拉致事件のときも、いまのヘイトの

動きを見聞きするときも、先ず、内から湧いてくるもの。

「先決問題は、日本人自身の反省と努力によって、自身の頭脳・

技術・社会人としての教養・人格・肉体等、実質・外観ともに

歓迎される優秀人となることで、これが国境を無くす近道です。

 

1945年8月、日本が敗戦して、朝鮮半島の日本人が現地から

逃げ出す流れになった。これまでの恨みを晴らそうという気持ちの

人もあったろうか、「日本人を殺してはならない」と戒めていた

朝鮮の人もいたと知ったときがあり、それも胸裏から消えていない。

 

同志社大学の一隅の、この詩碑を今は、ぼくのこころに

刻んでおこう。