かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

百日紅

2013-08-20 17:50:23 | わがうちなるつれづれの記

 カンカン照りの路地を逃げるように歩いていると、一戸建て

住宅の庭に鮮やかに色づいている花がある。

 百日紅。

 「こんな日々はいつまで続くのか」と思いながら、百日紅について

以前じぶんが書いた文章を思い出した。

 いまから、13年前、心身ともに激しい変化があり、屈託していた

ころのことである

 カラダの水分だけでなく、こころの潤いまで炎天の彼方に散り散り

になった感じ。クーラーを使わず。ベトベト、モヤモヤ。

 「集まれ、集まれ、わがこころ」

 そのころがよみがえってくる。

 以前いたことがある、集団生活の暮らしのなかのことだ。

 

         *              *             *

 

     百日紅 (さるすべり)

                     2000年8月記

 今年の夏は空梅雨にまま、六月末ぐらいから炎天となり、そのまま

ジリジリ八月の酷暑になっていった。毎晩、熱帯夜であり、クーラーは

極力止めたいと思いながら、だいぶ厄介になった。八月のある日、

思い立って村のなかにある百日紅の花を写生にいった。

 毎年、夏になると百日紅の花がなんとはなしに目についていた。

 見ていると、暑くなればなるほど、花の色は鮮やかに発色している

ように見えた。

 このクソ暑い時、百日紅はなにを思って、花を咲かせているのだろう。

 よーく見てみると、花びら、雄しべ、雌しべなど、そう単純にできていない。

花びらはシワシワ、近くでみたらきれいに見えない。

 どうも、そうした一つひとつのなかに猛暑のなかで生き抜いていく

工夫が凝らされているように感じる。

 百日紅じしん、なぜ春とか秋とか、もう少し気候のよいときに、

花をさかせるような選択をしなかったのか。不思議だ。

 なにかの行きがかりで、ほんとはそうしたくなかったけど、ちょっと

した偶然の積み重ねで、そんな羽目になってしまったか。

実際のことは、分からないだろう。

 はっきりしているのは、それならそれでと、そういう環境でやっと

生きるというだけでなく、最高に百日紅らしく生きていこうとして

らしいこと。

 

 そのものらしく生きる。その人らしく生きる。

 30代のころ、村のなかで肉鶏の精肉をやっていたとき、いっしょに

やっていた人のことを思い出していた。

 日江井丸介さん。当時50代後半だった。彼は、長く養鶏をやってきた。

 鶏の淘汰の名人と言われていた。卵を産んでいない鶏とかを、顔色や

動きを見て、見つけ出し、先を丸めた針金で、ヒョイとつかまえる。

 日江井さんは痩せぎすで、背が低く、その上少し猫背だった。

 まなざしは笑っていてもハシカイ感じで、歩き方もセカセカした

イメージで、「鶏とそっくり」に見えて、おかしかった。

 

 そのころの肉鶏精肉場の職場では、一日の仕事が夕方には

終わらないので、何人かは残って、夜なべした。

 最後は日江井さんとぼくという日が二年ほどつづいた。

 どちらかというと、日江井さんが最後の片付けまで付き合って

くれたといっていい。 

 11時過ぎて、いっしょに風呂にいき、それからご飯というとき

も、けっこうあった。

 

 日江井さんはとっても有り難かった。

 思い出すと、同時に煙たかった。

 夜、作業台に向かって並んで包丁を動かしていると、なんだかんだと

話かけてくる。

 「宮地は人を自分の思い通りにやらせようとしている」

 「自分のかんがえていることは正しいと決め付けてやっている」

 不愉快になることばかり、言ってきやがる、と感じていた。

 

 なにかのキッカケでタバコを止めたことがある。

 日江井さんは、さっそく「おい、吸ってみな」と執拗にいう。

 「止めることができるなら、吸うことだってかんたんだろ」

 

 ある年の初め、仕事を正月二日からはじめたことがあった。

 今からおもえば、何かに憑かれていたというほかない。

 日江井さんは、そのときは黙ってつきあってくれた。

 その翌日、ぼく自身が寝込んでしまった。

 日江井さんが部屋にきて、「一人で突っ走っても、だれも

ついてこないよ」みたいなことをぼそっと言った。カチンときた。

 それから、1ヶ月以上、職場に行かなかった。はじめは過労

と言えたが、だんだんふてくされて、行かなかった。

 

 その後も、日江井さんとのコンビは解消しなかった。

 ある時期から、「日江井さんをそんなに働かせてはダメだ」と

いう声が聞こえてきた。

 そのうち、関東方面の村に行くことになった。

 「よかったなあ」とうれしい気持ちだった。

 

 70歳過ぎたころ、またぼくが暮らす村に戻ってきた。

 その頃から耳の調子が悪くなってきていた。大学病院にかかりはじめた。

 ふだんは、日用雑貨品が置いてある村の店に行って、小物雑貨の整理を

していた。

 ある日、病院から親族の方といっしょに来て欲しいと連絡があった。

 日江井さんと二人で病院に出かけた。診察のあと、ぼくだけ別室に

呼ばれた。

 「耳の癌です。すでに他にも転移していて、手術もできない状態です。

余命、二、三ヶ月とおもってください」と担当の医師。

 ある程度は覚悟していた。実際に聞くと動揺した。

 本人に知らせるか?知らせないどおこうとおもった。周囲の人とも

相談して、知らせないことにした。

 日江井さんには「もう少し、治療が必要だと言われた」と伝えた。

 その後も、毎日欠かさず日用雑貨品の店に行き、チビたエンピツの

分類などやっていた。

 

 そのうち、村の診療所に入院することになった。

 身体は日に日に痩せてきた。

 日江井さんは離婚している。息子と娘がいる。

 まだ生きているうちにと、長男坊に連絡して、会いにきてもらった。

彼は名古屋にいて、運送会社でしっかり暮らしている。

 息子が会いに行ったところ、日江井さんは

  「忙しいのに、わざわざ来る必要はない」

と言った。

 「せっかく息子さんがお見舞いにきてくれているのに・・・」

とぼくがいうと、「オレは息子をそんなに甘やかして育てたつもり

はない」と本気で怒っているように見えた。

 骨と皮ばかりになっている、日江井さんから出たコトバだった。

 1993年3月24日、日江井さんは息をひきとった。

 

 日江井さんは、へそ曲がりだったとおもう。

 少なくとも、太陽に向かって一途に伸びていこうというふうでは

なかった。むしろ、目立たない日陰ぐらいのほうが、居心地が

よかったのではないか。

 話し方も、真正面からというより、脇から、裏から、遠まわしに

といった具合だった。

 にもかかわらず、つかず離れずやるなかで、いつのころからか

日江井さんは、ぼくにこころをかけてくれている、というのが伝わって

きた。

 日々のやりとりでは、場合によると険悪になったり、そっぽむいたり

などあっても、それとは別になにか確かなものが、二人の間に、

というよりぼくのなかに醸成されていると感じていた。

 実をいえば、日江井さんがどんなふうにこころをかけてくれて

いたか、これこれだ、と表現できるものがない。表現したら、実際と

違ってしまう感じもして・・・

 

 また一方で、今の自分がこんな自分として、ここに、こんなふうに

”いる”いうことは、親やまた祖先、またその先の遺伝因子の背景、

自然風土、時代、社会環境、そのほか数限りない人や出来事や

ものとのかかわりのなかで、揉まれ揉まれて、なんとかここに、

こうして”いる”。

 そうなら、自分にとって影響のあった人のことを、殊更特定し、

大きく取り上げようとすれば、かえって思い入れがあるほど、

実際とは遊離してしまうかもしれない。

 

 こうして、その人のことを取り上げたり、百日紅と関連付けたり、

そんなことしているのは、いまのぼくの恣意といえば、恣意だけど、

自分でもよく分からないが、何かを探っている、なにかの表れ、

かもしれない。

 しばらくは、そういうものと、そういう自分とも、付き合ってやりたい

とおもっている。

 

            *           *             *

  13年前の盛夏、百日紅を見ながら、じぶんのなかに起きた

 感慨がよみがえってきた。

  集団生活や組織から落ちこぼれた、誰にもこの胸の内を

 明かせないような気持ち。

  にもかかわらず、どこか、じぶんのなかに、根になるような

 ものがあるのか、ないのか、知りたかった。

  数年後、一人の人として、新しい人生の転機があった。

  そこから、いまの、この旅がはじまったのかもしれない。