かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

叔母逝く

2013-08-02 04:37:04 | 家族あれやこれや

 叔母が亡くなった、と7月13日、兄からメールが届いた。

  母と同じくらい身近な人を失ったという、喪失感があった。

  享年93歳。

 

  真喜叔母と呼んでいた。父義知(よしとも)の末の妹。

 父が大正元年生、叔母が大正8年生。

(在りし日の真喜叔母)

  

 亡くなったのは、長年暮らしてきた自宅だった。

 敷地には、次女順子一家の家があり、別棟に住んでいた。

 7月11日、たまたま長女の悦ちゃん(大岡悦子)が昼ごろ、

訪ねていったところ、寝室の手前の部屋で倒れているのを

発見した。

 隣の家に住む次女の順ちゃん(羽田順子)は知らなかった。

病院に行こうかと問うと意識はあり、うなずいたという。

救急車を呼び、岸谷の病院へ入った。その時もう意識は

なかったらしい。その後、日付が変わった夜半、息を引き取った

という。

 

 父は5人兄弟の長男。父には姉がいて、寿子伯母さんと

よんでいた。津田塾大学をでたぐらいで、秀才だったらしい。

敬虔なクリスチャンで、若いときから結核のかかり、ぼくが

物心ついたころは、一人身で叔母の家の隣に住んでいた。

 

  真喜おばの青春時代は、才気活発、津田塾大に在学した

寿子おばの交友の人たちと知り合い、生き生きしたつきあいが

たらしい。何年か前、真喜おばから、じかに聞いた。

 

 祖父宮地基三は広島尾道で生まれ育った。

 ガラス製造会社に勤務、昭和に入って横浜鶴見の

工場へ転勤。家族とともに、鶴見駅前に引っ越した。

 (尾道に住んでいいたころの祖父母、子どもたち?)


 戦争で空襲にあったりしながら、宮地一家は敗戦を

た迎えた。

 叔母は結婚して菱沼姓になった。住まいは、はじめ宮地家の

隣だった。いつの頃か、山手の高台に引っ越した。

 わが父母宮地家と菱沼家では次々子どもが産まれた。

 昭和18年の兄伸一、そのあと姪の悦子、昭和22年に

ぼく、つぎ姪の順子、24年に妹文子。

 

 いまからおもえば、真喜叔母はこの頃から、兄弟の

末っ子でありながら、菱沼家と宮地家の両方を束ねる、

家父長的な役割を自覚しはじめたのではないか。

 

 伯母寿子は結核で、療養暮らし。ときに療養所にも

入っている。

 父は、祖父のガラス屋をひきついでいたが、昭和30年

代には、廃業をしている。家計は、祖父の残した

ものを叔母が管理し、両家をささえていた?

 父はその方面には、からっきし関心がなかったように

見えた。

 「母がお金がない、といつも言ってくる」と、叔母は

愚痴っていた。どっちかというと、感覚的に合わない、

そんなに感じていた。

(わが母)

 

 真喜叔母は、しょっちゅうわが家に顔だした。

 「マアちゃん、どうだい、元気かい?」みたいに聞いて

くれた。ぼくが、なにか言えば、

 「そうかい、そうかい、そりゃあよかった」

 正確な言葉は思い出せないが、そういう真喜叔母の

調子に、じぶんを受け止めてくれた、なんかわくわくする

ような安心感がわいた。

 

 小学4、5年のころ、昭和58年ごろ、手塚治虫の漫画が

好きだった。「漫画の描き方」という本が欲しくて、小遣いを

ためてやっと買った。

 書いてあるとおり、墨汁とペン、ケント紙など用意して

コマ取りして、長編漫画を描いた。零戦ものがたりの

ようなもの。

 出来上がったら、すぐ真喜叔母のところに飛んでいき、

見てもらった。そのとき、なんと言われたか、覚えていない。

 

 真喜叔母には、母にはない、知的な雰囲気があり、

それに惹かれていた。

 叔母の家に遊びにいくと、姪二人がいて、トランプや

花札や百人一首などした。そんな様子の子どもたちを

叔母は目を細めて見守ってくれているイメージがある。

叔母の家に行くのが、楽しみだった。

 

 おふくろのことをボロカスになじるときが、あった。

 生半可ではなく、こき下ろすのだった。

 「別れろ、とよっちゃん(父のこと)にいっても、

馬の耳に念仏なんだから・・・」と言った調子。

 おふくろとじぶんは、一つのもの。おふくろを悪く

言われるとじぶんのこと言われているようで、困惑

したし、閉口した。

 

 3年まえ、サイエンズスクールの内観コースに入った。

 「父にたいする私」で自分のなかを見ていた。

 「あれ、おやじのことをまったく知らない、関心もなかった」

びっくりして、父の遺品を兄から見せてもらった。

 そのなかに、戦後、結核療養所に入院している

伯母にあてた真喜おばのハガキが混じっていた。

毎日というほど、小まめに書いている。

 姉あての気兼ねなしで、崩し字の難字。


 「ああ、これも叔母なんだあ」と解読しながら、発見だった。

 ぼくには、弟がいた。妹文子と双子で産まれ、何日かあと

息を引き取った。

 

ーー宮地寿子様  菱沼真喜子    S24-4-9

    驚っくりしたでせう。宮地家始まって以来の大珍事、

   大目出度といいましょうか。前のはがきが着く頃、生まれる

   と思っていたら、ポストに出す矢先、生まれた、どうしたの

   さはぎ(騒ぎ)。まず、軽く済んだのが何より。

    町中、いいたい人ばかりだから、陰口・表口が思はせら

   れます。

    七日朝四時頃始まって、五時二十分頃、男の子。

    これでよしと思ったら、後がおかしい、というわけで

    天口女史(お産婆さん?)すら寝耳に水で、わからなかった

    そうです。(略)

     男の子は細長くて黒く、女の子はみるから、やさしい。

    色白で丸顔、天と地程違います。おどろくばかりです。

     丁度、この日、ガリ氏(父のこと?)、組合のお花見。

    で時間が早く、よかったと湯沸し。

     昌公(ぼく)の子守 台所番。おばあちゃんは風邪で

    頭痛で二日ほどねて、お産に備えていたところ、おこされて

    ねてもいられず、二人の伸公(兄) 昌公の世話にキイキイ   

    キイいっています。(略)

     人の子ながら、みれば可愛い、二人無事育ててやりたい

    と思います。

     絵の二子は実物にそっくり、我ながら感心しています。

     よくごらんください。

 

 このハガキを読んだとき、真喜叔母の思いの丈のほどを

かみしめた。

 

 その後、ハガキは毎日のように、自分の娘たちの様子、

双子の様子が綴られている。

 産まれて翌日。

 「赤坊二人元気。ただし、夕べ男の子の上へ昌公(ぼく)

尻もちついて、ギャアギャア泣かせて、大さはぎを演じたと

いってました。そのうち、親が尻もちつかねば、とおもって

います」

 このへん、叔母の諧謔?

 

ーー真喜叔母から寿子伯母へ        S24ー4ー17

    先生からお聞きのことと思います。

    十六日午前三時死にました。全く可哀想です。

    女の子(妹文子)は大丈夫とお望みをかけている様ですが、

   私は?。まづ、駄目。診断書には発育不完全。

    ガリ氏(父)、七日目に区役所へ手続。一切完了したと

   思ったら、今はまた区役所へいったり、きたり。

    十七日の朝、やきにいきます。

    昌・伸大いに健康、なんだか分かりません。

    悦ちゃんは、みせてもらえて、一種異様の顔してました。

   嬉しくないことだけは分かったらしく、帰って来てから、

   どうして線香たててあるの、大きくなる様に死ンダンダヨ、と

   言えば、順ちゃん位になってくるのと、とにかく珍問答で

   昼ご飯を終わりました。

 

 そのときの女の子、妹文子は、2006年夏、衰弱と心不全で

なくなった。57歳。

 順序が違うじゃん、と悔しかった。

 結婚していたけど、夫がうつ病症状があり、ほとんど

働いていなかった。

 2002年、ぼくが心不全で倒れたとき、妹もそのあと同じ

ような状態で倒れた。

 そのときは、真喜おばと相談しながら、妹の今後を

かんがえた。

 真喜おばは、「妹がいまの夫と別れたら、なんぼでも応援

するよ」といってくれた。

 いっとき、離婚手続きまでしたが、結局妹は同棲暮らしを

選びで、おそらく再発して、衰弱し、死に至った。


 菱沼家と宮地家は、葬式に坊さんは呼ばない。

 戒名もじぶんとこでつくってしまう。この首謀者は

真喜おばだ。ケチなのか、合理的だったのか。

 浄土にしろ、地獄にしろ、勝手につけた戒名が通用した

かどうか。逝った人に聞いてみないと、分からない。

 親父のときも、おふくろのときも、妹のときも、「空」が

一字入っている。なかなか、やるじゃん。おばに脱帽。

 

 2006年秋、妹の遺骨を横浜の日野墓地にある宮地家の

墓に納骨した。兄伸一とぼくら一家、妻、長男太郎、長女

桃子。

 その帰り、叔母の家にみんなで押しかけた。

 叔母は、喜んで昔の写真をひっぱりだしてきて、ぼくらに

見せてくれた。

(叔母の家にて)

 

 そのとき、おもった。

 真喜おばは、宮地家を血統を引き継いでいる。

 親族のなかで、宮地を名乗るのは、兄とぼく。それに、

息子の太郎。

 真喜おばは、宮地姓ではないが、宮地家を背負っている。

 兄伸一にバトンタッチせざるおえない。実際、そうなっている。

 二人が居なくなれば、残るは太郎。

 太郎は、じっさいがそういう家族の行き来のなかで暮らした

ことがない。”宮地家”といっても、なにか取って乗っけたような

帽子のようなものだろう。

 (兄とぼくの家族が叔母を囲む)

 

 ふつう、こういうのを宮地家が絶えるというのだろうか。

 あらためておもうと、ぼくには”家”というイメージが希薄

だったかな。

 家族はあったとおもう。近親の人たちもいた。その人たち

の間で、見守られながら育ってきた。伯母も叔母も、父母と

ならんで、なくてはならない人たちだった。

 

 真喜おばが居なくなった。

 叔母の娘二人、その家族。兄夫婦とその子どもたち。その孫。

 お互いに、いまのところ、ほとんどつきあいはない。

 それぞれ、過去の人のつながりの集積の今として、家族や

社会をなしていくのだろう。

 叔母が居なくなって、そういう地平がくっきりする感じもある。

(2009年、太郎の発案で祖父の墓がある尾道を

訪ねた。太郎と桃子は祖父の墓を洗っていた)


 

 何回も読み返している詩。さいごに。

       人間ピラミット

   気がつくと  

   父を 母を ふんでいた

 

   父も母も それぞれ

   祖父を 祖母を ふんでいた

 

   祖父母も また

   そのふた親をふみ

   むかしのひとびとをふみ

 

   いのちの過去から未来へと

   ときのながれにきずかれていく・・・・・

   人間ピラミット

 

   そびえたつ そのいただきに

   ぼくは たち

   まだいない 子に 孫に

   未来のいのちに ふまれていた

 

 

   「子や孫にふまれている」

   いいもんですよね。

   順当に先に逝った真喜叔母に

 

   合掌。