かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

ふだん着で探訪DAY & 公開シンポジュームのすすめ

2012-05-11 09:27:26 | アズワンコミュニテイ暮らし
 地域社会が見直されている。
 じぶんの周囲社会が、安心して豊かで住みよいものに
ならないだろうか。
 昨年の3・11 東北大震災・原発事故以来、人びとの
こころの内に籠っていた願いのようなものが、白日に
見えてきているように感じる。

 この5月19日(土)午後1時から、20日(日)昼まで

   アズワン・コミュニテイー鈴鹿”ふだん着で探訪DAY"

があります。

http://as-one.main.jp/ac/visit.html


 20日(日)午後1時から
 
    公開シンポジューム「地域創生の時代へ」
       ―-足元からつくろう「やさしい社会」


の企画があります。

http://www.scs-3.org/event/2012/0520.html



 

 「地域創生」という言葉が、どのような内容で言われていくのか、
これは今から、検討していくことになるのでしょう。


 19日からの”アズワンコミュニテーの探訪”や
20日に発表のある 

  東近江市で”街づくり”に取り組んでいる「子民家etokoro」や
 「アズワン・コミュニテイー鈴鹿」

の活動の紹介を通して、具体的にも描けたらいいなあとおもっています。

 参加希望される方は、下記に電話ください。
 詳しくご案内します。
  090-7676-9214     鈴鹿循環共生パーティー スタッフ 
                  宮地 昌幸






 

離れていても近所づきあいしていきたいね

2012-05-11 08:28:49 | アズワンコミュニテイ暮らし
 最近、関東方面から西日本の方に移住しようとしている人が
アズワン・コミュニテイーを訪ねてくるケースがある。

 5月8,9日、30代の青年が一泊二日のアズワンコミュニテイ
”ふだん着で探訪DAY"に参加した。
 彼は、茨城で農を営んでいたが、原発事故後、風評などで農業が
しずらくなり、当面、京都の亀岡に仮住まいをはじめた。
 その日、軽トラックで亀岡からやってきた。

 コミュニテイーの案内をした。
 青年は、3年まえIT会社をやめて、農業に転身した。
 このままの社会でいいはずはないと。
 人生の進路をおおきく本来の人間とは、社会とはという
方向へ舵取りをした?





 鈴鹿ファームの農場を、担当の稲垣さんが案内してくれた。
 広大な玉ねぎの畑。
 若い人が、もくもくと玉ねぎのひげ根切りをしていた。
 青年は「広いですね」と感心していた。
 おふくろさん弁当の食材になる。







 ジャガイモ畑に行く。
 以前は、植木の苗づくりをいていた畑が、鈴鹿の西北部の
平地にえんえんと続いている。
 そこで、あちこちに畑を借りて作っている。3町歩あるという。
 「はじめは、1反だった。3年でここまで来た」と稲垣さん。







 おふくろさん弁当にも行く。
 弁当屋さんにも関心があるという。





 泊りは、コミュニテー食堂”ふぁみーゆ”と、勝手につけた
名前の中井邸。
 青年は肉を食べない。
 料理大好きの”おかみさん”中井佳子さん、なんでもござれ。
 手塩にかけた品々が食卓にならぶ。





 里山にも行く。
 ナラの木を伐採した切り株から、ひこ芽えが勢いよく出てきて
いる。これがやがて、何年か先、ナラ林になっていく。
 記念撮影。





 青年のこれからの人生になにかお役にたてることがあるだろうか。
 「離れていても、近所づきあいしていきたいね」
 彼にであったじぶんのいつわらざる気持ち。

 
 
 

 

 

 

 

友だちは無駄である

2012-05-11 06:10:29 | わがうちなるつれづれの記
 「・・・友だちというものは無駄な時をともに
ついやすものなのだ。
 失恋をした友だちにただ小さなふとんをかぶせてやること
以外できなかった日。
 中身が泣いているふとんのそばで、わたしはかつおぶしを
かいていた」

 これは、故佐野洋子さんの「友だちは無駄である」と言う本の
あとがきの一節。

 「中身がないているふとんのそばで、わたしはかつおぶしを
かいていた」
 いいなあ、とおもう。

 なんとかしてやれないだろうか、とおもっても、なんともできない
時って、けっこうあるもんだ。
 本人が悲しいおもいに打ちひしがれているとき、どんな言葉も
むなしくなるとき。

 本人の気持ちはもっともっと、ほんとうのところがあるようなん
だけど、いまはそれが表現できない、もどかしい、もどかしさに
苦しんでいる、そんなふうにみえるとき。

 これは、その人がほんとに気づくまでは、なんともできないと
いうようにおもえるとき。

 だれでもと、近親の人のように親しい感じがあるわけではない。
 そんなときも来るのかどうか。
 人によって、親疎のちがいはあっても、なにかどんな人に
出会っても、わいてくる情のようなものは、あるように感じる。

 黙っていても、分かり合えるような・・・みたいな表現、
どこかで出会った。
 ときどき、おもいだす。
 そんな人、まわりにはそんなに多くない。
 
 

 奥さんとでも、ときどき「なんでこの人と、いっしょにいるのだろう?」
とおもうときがある。
 奥さんも、おもわぬときに、「わたしは、あなたのなんなの?」と
根源的な問いを発するときがある。

 たじたじになる。
 
 

 そばに、かつお節と削り器をおいたことがある。
 惜しむらくは削り器の刃がボロボロだった。
 ああ・・。