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かたつむり・つれづれ

アズワンコミュニテイ暮らし みやちまさゆき

盛夏の退院

2017-08-15 17:22:54 | わがうちなるつれづれの記

おそるおそるわが家に帰ってきました。

8月10日妻が病院に迎えに来てくれました。

それから6日経ちました。

今は以前のときの退院のように散歩するとか、当面の目標はありません。

今の暑さの中を歩くのは、息切れがすぐに起こりむずかしいのです。

部屋にクーラーをかけて、一日3回ストレッチやスクワット(脚の筋肉を

鍛える運動)をして過ごしています。

暮らしに身体が馴れていく辺を見て行っています。

何人かの人が訪ねてくれましたが、会うと「元気そうだね」と言われます。

血色はよく、病人には見えない、と。

そうなんです。心臓や腎臓の機能が弱っているだけで、あとは普通なんです。

ただ、気持ちの上で、いつまた不整脈(心室頻拍)が起こるか、正直、

どうしても今はそれが怖いです。

 

7月6日夜、植え込んである除細動器の電気ショックが3回立て続けに

作動して、かかりつけの三重大病院に緊急入院しました。

その後も、不整脈が止まらず 日に数回除細動器の電気ショックが起こり

ました。

生きた心地がしませんでした。

医師の方々も手を尽くしてくれましたが、止まらず、窮余の策として、

除細動器の設定を変えて、不整脈は起きてもショックがかからないように

しました。

医師の人たちもこのままと言うわけに行かず、冬にアブレーション手術

をした名古屋大学病院に依頼して、3度目の手術をしました。

手術は「これなら大丈夫」というところにはなりませんでした。

元に肥大性拡張型心筋症という様態があって、それが進んでいるため

不整脈を断ち切るのはむずかしいということでした。

そんなんで、いまのところ不整脈は起きていません。

除細動器の設定ももとに戻しました。

なぜ起こるか、どうして止まるのかはお医者さんでも、分からないのです。

いえることは、「心不全状態にならないように」とか「薬の調整」とか

打つ手はかぎられているらしいです。

暮らしのなかでは、「減塩食」、水分の調整、適度な有酸素運動、これから

その辺に合わせた暮らしをつくっていくことになりそうです。

 

読書したり、テレビ観たり、FBやネットを見ることに不便はありません。

あまり根をつめないようにするつもりです。

 

サイエンズスクールや研究所のブログは、楽しみにしています。

どこかで、生きる支えになっているのかな。

テレビなんか観ていると、どうしてもいろいろな思いが出てきて

忙しくなりますが、そんなときは、いつも「どこから観て行くのか」

問いかけながら過ごしています。

 

退院した日、豪さんの理美容室で散髪してもらおうと妻に連れて

行ってもらったら、娘の桃子が整髪と毛染めをしているところに

出っくわしました。

髪を短く切った娘をみて、思わず4,5歳ころの娘を思いだしました。

 


陰をつたいて

2017-07-03 09:04:33 | わがうちなるつれづれの記

散歩は朝6時前にしようと思っています。

陽に当たりながら、歩くのはしんどいのです。

息がつけないようになり、カラダに重い気だるさが起きます。

6時前の散歩はなかなかできません。

目が覚めても、しばらくカラダが目覚めるのを待つからです。

今朝は、6時半に出かけました。西に向かって、歩きはじめました。

ふと、「陰を歩いたら、どうなるだろう」と思いました。

北に向かう路地に曲がると、家が陽を遮って、陰ができています。

陰を歩くのは楽なんです。

東西の大通りに出ました。

大通りに出来た陰の様子を見ていると、東西なんだけど、大きなマンション

などで陰が東西の通りでも出来ていました。

西に曲がって陰を歩きました。

散歩の都合で北に曲がるところにきて、路地を見ると、南北の路地

なのに陰が少ないです。

駐車場で遮るものがないところや、お日様も少し東の北よりから

射してくるので、南北でも陰が出来なかったり、東西といっても

陰が出来ているところもあります。

 

お日さまが射してくる方向を見ながら、陰を伝って歩きました。

自分というものの動きが陽の射し方とか陰の出来具合を見ながら、

決まっていきます。

固定したもんはないですね。おもしろいです。

 

途中、同じような年代の人が歩いています。

行き違うとき、ちょっと会釈します。

けっこう、シャキシャキ歩いている人も、少しゆっくりの人もいます。

日陰を伝って歩いている人はいないようでした。

ふと、思いました。

行き違う際に、「あの、ちょっと」とか声をかけて、理想の暮らしを語る会

の公開講座の紹介をしたらどうなるだろう。

 

自転車がやっと通れるような路地で蝶の幼虫がコンクリートの上を這って

いました。

黄色に黒っぽい筋の入ったドレスを着ていました。

しばらく見ていました。細い路地を横断して敷石につきあたりました。

その石の壁を登ろうとしていましたが、垂直の岸壁で登れません。

周りを見渡すと、細い路地がコンクリートと敷石でとてもきっちり作られ

ていて、「果たして、この幼虫の運命やいかに」と浮かびました。

そんな細い路地にでも、散歩の人が来るんですね。

ボッーと立っているぼくを怪訝そうな顔して見ながら、すり抜けていかれ

ました。

「あとは、幼虫に任せるほかないな、きっと活路を見出すはず」

思い切って立ち去りました。

 

「かげ」というのをはじめ「影」という文字で考えていて、子どものころ、

「影ふみ」という遊びを楽しんでやっていましたので、「ひかげ」を

伝うことをそんな感じで歩いていました。

あとで、「陰」という文字があることを知って、この場合は「日陰」と

いったほうが、ふさわしいな、と思いました。

 

「日陰」といったら、俳句の季語にないかなと調べてみたら、「片陰」

として、夏の日盛りを過ぎて、やっとかげった日陰とかかわるときの

情感が詠われているようです。これは、共感するなあと思いました。

朝は、熱暑これから迎えるというのでは、違った情感になるかもしれ

ません。

 

   軒下に繋げる馬の片かげり       虚子

   汝が行く手片陰ありや尚も行くや    しずの女

   片陰をゆき中年過ぎにけり       岸 風三楼

   片陰をうなだれてゆくたのしさよ    西垣 侑

 

いずれにしても、これからの季節の暮し方、またゼロから見ていき

たいです。

それなりにおもしろいかも。

 

 

 

ちょっと、つれづれに。

「陰」について調べていたら、こんな詩に出会いました。

作者の人は、どんな方でしょう。

 

詩「日陰」

 
多くのことはできなくても
少しの間だけでも
誰かのために・・・



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  그늘     - 김기만(キム・ギマン)

뜨거워야 그늘이 생긴다
한낮의 나무들 푸른 잎사귀
햇살 쏘이며 반짝반짝 춤춘다
눈 찌푸리던 내가 부끄럽다
누군가의 그늘에서 땀을 말리며
나는 시원하게 웃었을 것이다
누군가의 눈물 위에 누워
휘파람도 불었을 것이다
삶의 무게로 힘들 때
그만큼 가벼워지는 것들
시소에 앉아 힘줄 때
반대편에서 만났을
아이들 눈 속의 커다란 하늘
삶이란 그런 것이다
잠시나마 누군가에게
지게가 될 수 있다는 것
그늘이 될 수 있다는 것



  日陰     -キム・ギマン    

暑いからこそ日陰ができる
真昼の木々 青い葉っぱ
日差しが突きささりキラキラ踊る
目をしかめた自分が恥ずかしい
誰かの日陰で汗を乾かし
自分は涼しげに笑っただろう
誰かの涙の上に横たわり
口笛も吹いただろう
生きることの重さに辛い時
その分だけ軽くなるもの
シーソーに座り力を込める時
向かい側に見かけた
子どもたちの目の中の大きな空
生きるとはそういうことだ
すこしの間でも誰かのために
支えになれるということ
日陰になれるということ




沖縄慰霊の日

2017-06-25 16:35:14 | わがうちなるつれづれの記
今年は「沖縄慰霊の日」を思いながら6月23日を迎えました。
なのに,何故か慰霊式典のテレビ中継を見るのを忘れていました。
なので、黙祷のチャンスを逃しました。
そのとき何してたかというと、ヒョンなことから、沖縄戦で亡くなった
朝鮮の人たちがどうだったか、知りたいと調べていました。
故大田昌秀さんが「平和の礎」建立に汗を流したと知りました。
テレビを見ていたら、朝鮮からの人たちの名前も刻まれていました。
アメリカ人も名前も刻まれていました。
20数万人が死んだのではなく、その人がそのとき、そこで命を失った
のですね。それが 文字として刻まれているんですね。
じぶんの中で、そこの焦点が抜けていたなと思いました。


あとで、式典で高校生の上原愛音(ねね)さんの詩を朗読しました。
冒頭のコトバに感じるものがありました。
   今日も朝が来た。

   母の呼び声と、目玉焼きのいい香り。

   いつも通りの

   平和な朝が来た。

 

こんな朝は、沖縄だけでなく、日本中、世界中で繰り返されて

いる光景ではないでしょうか。

 

 

23日の午後「この世界の片隅に」という映画を観に妻と行きました。

カマドとお釜とご飯炊きが印象に残っています。戦争に負けたあと、

気兼なく白米を炊いて、炊きたての香りを家族で吸い込むのでした。


このような現れが「平和」であり、ほんとうの現われじゃないで

しょうか。

こういう当たり前の現われが、ほんとうじゃないかとはっきりして、

その世界に立って、暮していきたいです。


 

 沖縄地上戦戦の惨劇は、ときの政府や軍が本土防衛するための捨石

にした、沖縄の人たちからすれば、その記憶が払拭されないまま、

引き継がれているように思えてなりません。


 戦争や争いは、虚しいものだと思います。

だれが、こんな虚しいこと、やりたくてやる人がいるでしょうか?

戦争や争いをじぶんの利益のために使っている人もいるかも

しれませんが、そんなことわざわざやらなくとも、じぶんが得を

したり、大儲けできるなら、そんなことには手をださないのでは

ないでしょうか。

そういう工夫ができないものでしょうか。

虚しい記憶からスタートするか、人と社会の本当の姿を見極めな

がら、それを目指して暮していくか。


近ごろ、山之口貘さんの詩をときどき読んでいます。

1903年に、沖縄に生まれ、20歳のころから上京して、詩を書き

たいがため、募集広告に「朝鮮人と琉球人はお断り」と書かれて

いた本土の空気の中、極貧の放浪生活までしていました。

詩人金子光晴の仲人で1937年、結婚しました。

 

 

山之口貘さんの詩を面白く思うのは、目に映る世界は世界とし

て、もともと人や社会とはどんなものか、そういう自問から見え

きたところを詩で表現しているよう見えます。

 

 どの詩もよく推敲されていて面白いですが、二つほど載せてみま

す。ぼくの覚え書きでもあります。

 

       鮪に鰯   山之口貘

   鮪の刺身を食いたくなったと
   人間みたいなことを女房が言った
   言われてみるとついぼくも人間めいて
   鮪の刺身を夢みかけるのだが
   死んでもよければ勝手に食えと
   ぼくは腹立ちまぎれに言ったのだ
   女房はぷいと横をむいてしまったのだが
   亭主も女房も互に鮪なのであって
   地球の上はみんな鮪なのだ
   鮪は原爆を憎み
   水爆にはまた脅かされて
   腹立ちまぎれに現代を生きているのだ
   ある日ぼくは食膳をのぞいて
   ビキニの灰をかぶっていると言った
   女房は箸を逆さに持ちかえると
   焦げた鰯のその頭をこづいて
   火鉢の灰だとつぶやいたのだ

足元の世界を離さずに、ほんものを探ろうとしています。

つぎのは、少し長いです。沖縄慰霊の日に、この詩からいろいろ
思いを馳せました。


           沖縄よどこへ行く

      蛇皮線の島 

      泡盛の島 

      詩の島 
      踊りの島 
      唐手の島 

      パパイヤにバナナに 
      九年母(くねんぼ)などの生る島 

      蘇鉄や竜舌蘭や榕樹の島 
      仏桑花や梯梧の真紅の花々の 
      焔のように燃えさかる島 

      いま こうして郷愁に誘われるまま 
      途方に暮れては 
      また一行づつ 
      この詩を綴るこのぼくを生んだ島 
      いまでは琉球とはその名のばかりのように 
      むかしの姿はひとつとしてとめるところもなく 
      島には島とおなじくらいの 
      舗装道路が這っているという 
      その舗装道路を歩いて 
      琉球よ 
      沖縄よ 
      こんどはどこへ行くというのだ 

      おもえばむかし琉球は 
      日本のものだか 
      支那のものだか 
      明(は)っきりしたことはたがいにわかっていなかったという 
      ところがある年のこと 
      台湾に漂流した琉球人たちが 
      生蕃のために殺害されてしまったのだ 

      そこで日本は支那に対して 
      まず生蕃の罪を責め立ててみたのだが 
      支那はそっぽを向いてしまって 
      生蕃のことは支那の管するところではないと言ったのだ 
      そこで日本はそれならばというわけで 
      生蕃を征伐してしまったのだが 
      あわて出したのは支那なのだ 
      支那はまるで居なおって 
      生蕃は支那の所轄なんだと 
      こんどは日本に向ってそう言ったと言うのだ 
      すると日本はすかさず 
      更にそれならばと出て 
      軍費資金というものや被害者遺族の 

      撫恤(ぶじゅつ)金(きん)とかいうものなどを 

      支那からせしめてしまったのだ 
      こんなことからして 
      琉球は日本のものであるということを 
      支那が認めることになったとかいうのだ 

      それからまもなく 
      廃藩置県のもとに 
      ついに琉球は生れ変わり 
      その名を沖縄県と呼ばれながら 
      三府四十三県の一員として 
      日本の道をまっすぐに踏み出したのだ 
      ところで日本の道をまっすぐに行くのには 
      沖縄県の持って生れたところの 
      沖縄語によって不便で歩けなかった 
      したがって日本語を勉強したり 
      あるいは機会あるごとに 
      日本語を生活してみるというふうにして 
      沖縄県は日本の道を歩いて来たのだ 
      おもえば廃藩置県この方 
      七十余年を歩いて来たので 
      おかげでぼくみたいなものまでも 
      生活の隅々まで日本語になり 
      めしを食うにも詩を書くにも泣いたり笑ったり

      怒ったりするにも 
      人生のすべてを日本語で生きて来たのだが 
      戦争なんてつまらぬことを 
      日本の国はしたものだ 
  
      それにしても 
      蛇皮線の島 
      泡盛の島 
      沖縄よ 
      傷はひどく深いときいているのだが 
      元気になって帰って来ることだ 
      蛇皮線を忘れずに 
      泡盛を忘れずに 
      日本語の 
      日本に帰って来ることなのだ 

 

この詩の最後は、どういう気持ちをコトバにしたんでしょう?

山之口貘さんの一人娘の山口泉さんは、2013年、生誕110年の記念講演を

那覇市でされたとき、父上のエピソードを語られたということです。

ある日、泉さんが「沖縄はいっそ独立すればいいじゃない」と言った時、

貘さんは珍しく色をなして怒り、こう言ったといいます。

「いいかげんなことを言うな。日本は自分が始めたこと(琉球併合)なんだ

から、最後まで責任を持て」

どういう真意かは、また分かる人がいたら、聞かせてほしいです。


貘さんの詩は、いまの時代にも新鮮な問いかけをしていて、古さを

感じさせません。

その問いかけは、時代の事象は違っても、今に生き生きと息づいて

いるとおもいます。





「人形の家」

2017-06-20 16:44:45 | わがうちなるつれづれの記

迂闊なもので、自分が以前に言ったことは忘れていて、相手の人から

「こんなこと言っていたよ」と聞いて、そこを思い出そうというときが

あります。

 

昨年、音信が途切れていた友人から手紙が届きました。女の人です。

「以前、わたしに人形の話をしてくれたの覚えていますか」と書いてありました。。

「人形はただ坐っているだけで『こうなったらいいなあ』『ああなったらいいなあ』

と願っているだけで、周りの人が願ったものを用意してくれる」

そういえば、そんな話をしていたかもしれません。

 友人はその後、いろいろ困難なこともありましたが、自身の生き方を

しっかり見つめているようです。

手紙の最後に、こうありました。

「人形のように、わたしが願っていたら、そしてそれがやったら良い事で

あったら、そうなって行くと思っています。何か自分の力でないものに

動かされている気がしています。人として「真理」に添って生きていこう

としたら、その流れはわたしを見放さない気がしています」

いまは。60歳を越え、独り身で暮している友人に脱帽です。

 

そのとき読んだ本が今だったら、どんなふうに読めるだろうか、

図書館に行って借りてきて、読んでみました。。

 

児童向けの「人形の家」は、イギリスのルーマー・ゴッデンさんの作品です。

イプセンの「人形の家」は、人形みたいにあつかわれた人間の物語ですが、

ゴッデンさんのは、人間のようなこころをもった人形の話なんです。

主人公は、トチーというオランダ人形です。

木で作られた小さなオランダ人形です。

もう、100年、大おばあさんの代から、子どもたちに遊んでもらってきています。

人形の家族はプランタガネット家で、いろいろな人形の寄せ集めで、

おとうさん・おかあさん・トチー・幼児・犬で暮しています。

いまはデーン家の娘エミリーとシャーロット姉妹が、人形たちをじぶんの

家族のように大切に世話をしています。

 

この物語の作者ゴッデンさんは、作品のなかでこう書いています。

「トチーはそのように願うことしかできないのです」

「人形は何も話すことはできません。でもしばしば人形の願いは口に

出していうのと同じくらい強いのです」

「みなさんは人形の願いを感じことはありませんか?」

 こんど読んでみて、ここの、一節には、一瞬、ドキッとしました。

自分からみている世界がガラリと一変する感じがありました。

 

ゴッデンの「人形の家」では、プランタガネットさん一家が、こころをもっ

人間のようにいろいろな願いを話し合うあうのです。

その願いをエミリーとシャーロット姉妹が人形たちの気持ちが伝わったかの

ように、その願いが叶うように考え、動いたりするのです。

人形たちと姉妹との微妙なこころの交流が面白いです。

エミリーが、綺麗でうつくしいが、気位が高いマーチベーンを人形の家の

主人にして、プランタガネット一家は台所に追いやることが起こりました。

シャーロットはそうしたくなかったのです。

トチーは、そんな危機にたいして、「願わなくてはいけないわ」とみんなに

声かけます。

トチーはいいます。

「でも、わたしはエミリーを知ってるわ。あの子は道理もじゅうぶん

わかっているのよ。・・・いつかエミリーも間違いに気がつくでしょうから」

人形の家で事件が起こり、エミリーは「これまでのプラガネット一家の暮ら

しがいいわ」と気がつきました。

マーチベーンは、彼女にとって居心地のよい博物館に贈られました。

ものがたりは、読みすすむと、それぞれの人形が、マーチベーンもふくめて

「ひと」と「もの」切っても切れない深いつながりが見えてきます。

関心のある方は岩少年少女文庫で読むことができます。

 

「人形の願いを感じたことがありますか」・・・・

わが身辺を見渡してみると、机上の棚には、木製のかたつむりやインデアン

の酋長が子どもたち太鼓を叩いている土の人形があります。

孫の晴空が旅のお土産で、爺と婆にとかってきてくれた真鍮製の時計と

蓄音機があります。

そのものたちが何を願ってそこにいるのだろうと想像すると、「それって、

どんなことおもったり、おしゃべりしているのだろう?」と楽しくなります。

東側の窓の棚には、妻がお気に入りの人形たちやおもちゃがあります。

木製のバイクは、子どもたちが触ったりしてガタがきています。

木製の機関車は2歳の孫がきゃっきゃっと遊びます。

耳の欠けた猫はインドネシアから渡来しました。ぼくのお気に入りです。

 

 

まどみちおさんの詩が思い出されました。

     

     「ものたちと」

  いつだってひとは ものたちといる

  あたりまえのかおで

  

  おなじあたりまえのかおで ものたちも

  そうしているのだと しんじて

 

  はだかでひとり ふろにいるときでさえ

  タオル クシ カガミ セッケンといる

 

  どころか そのふろばそのものが もので

  そのふろばをもつ すまいもむろん もの

  

  ものたちから みはなされることだけは

  ありえないのだ この世では

 

  たとえすべてのひとから みはなされた

  ひとがいても そのひとに

 

  こころやさしい ぬのきれが一まい

  よりそっていないとは しんじにくい

 

もしかして、じぶんが願いつづけていることって、じぶんがそう願って

いるんだと疑わなかったけれど、どうだろう、もしかしてぼくの身辺の

「もの」たちはもちろん、地球が成り立ち、生きものを生かしている

すべての関連から願われていることがあり、それらのうちのいくつかを

受けとめて、それこそそれらによって、生かされいるんではないで

しょうか。

 

ときに、「これが見納めになるかも」とよぎるときがあります。

そんなとき、通りがかりの樹木や花に、関心がいくんですね。

道ですれ違う人にも、なにか近しい気持ちが湧いてきます。

これから、じぶんになにが出来るかわかりませんが、地球の上の暮す

すべての人たちの願いをわがこととして、受け取りながら、暮していき

たいです。

まだまだ、いろいろな誘惑に負けて、気がついたら外れていたなんてこと

あるかも。そんなときは、声かけてほしいです。

 

手紙をくれた友人に感謝したいです。

 


「またね」

2017-06-15 16:32:43 | わがうちなるつれづれの記

箕輪ルシオ省吾と奈々子夫妻は、3ヶ月、鈴鹿に滞在していました。

6月13日、ブラジルに向けて出発しました。

前日の昼、わが家を訪ねてくれました。

そうめんを啜り、天ぷらを食べました。「おいしい」と何度も言って

いました。

省吾さんは、サイエンズスクールのコースに3ヶ月の間に5コースほど

参加したそうです。

「社会を知るためのコース」がこころにずっしり残ったということでした。

「これまで自分の生き方ということでは、探究してきたけど、自分と

社会、人と社会というものの本来の姿が自分の中で明らかになったかな」

「ああ、そうかあ」

省吾さんのなかで、どんなことがあったのか。

スクールの感想文では、こんなこと書いていました。

「実際の世界は、”何もしなくてもよい" これがベース。

ここから生まれてくるのは、本心。

そこから見た社会があるんだ。

本当に人の心が満たされる社会。

仕組みや機関は、その結果で出てくるもの。

力が抜けた」

何が起きているのか?

 

別れ際、ちょっぴり照れながら、二人とハグしました。

「じゃあ、またね」

挨拶して別れたあと、「またね」と言っても、もう会うことはないかも

しれないかな、と湧いてきました。

それは、実感として迫ってきました。

「またね」が、一期一会の深みを覗かせてくれたのかな・・・。

 

奈々子さんには、息子の結婚祝いに、詩人吉野弘さんの「祝婚歌」を

毛筆で書いてもらいました。

「私なんか、出来るかな」

と、ちょっと尻込みしていました。

もう、20年以上前になりますが、ブラジルにいる奈々子さんの気持ちを

思いながら、茨木のり子さんの詩を何篇か送ったことがあります。

奈々子さんから、「実は、お母さんが茨木のり子詩が好きで、聞かせて

もらっていたんですよ」という返事がきました。

「自分の感受性くらい」という詩が特に好きだったようです。

たしか、その返事の中にあったと思いますが、「言いたくない言葉」

という作品を毛筆に書いて送ってくれました。

自分では、何が出来るわけではないのですが、奈々子さんの気持ちに

思いを馳せた覚えがあります。

その毛筆の詩を、額に入れて部屋の、目立たないけど見えるところ

に掛けてきました。

 

息子の結婚祝いに、何かと費用がかかるだろうから、祝い金を贈りたい

と息子に伝えました。

「父さん、お金はいいよ。それは、おやじのために使ってくれ」と息子

から返事がありました。

「うーん・・・」

それから、考えて、「祝婚歌」の詩を奈々子さんに書いてほしい、と

思うようになりました。

帰国前日、完成したもの、届けてくれました。

 

奈々子さんには、日本にお兄さんがいます。

両親を亡くして、親族ではお兄さん一人です。

お兄さんは、市井で活動している芸術家に発表の場を広くつくって

いきたいと、それができる会場を三重県庁の近くに借りています。

VOLVOXという名前で、おにいさんが主宰しています。

 

お兄さんは自身、木工家具をつくっています。

最近、VOLVOXで水彩画展があるというので、病院の帰りに

よりました。

絵もよかったですが、額縁にも目がいきました。

清楚で、水彩画とマッチしているように感じました。

奈々子さんが書いてくれた詩には、お兄さんの額縁がマッチするのでは。

お兄さんに連絡したら、妹とコラボでやれるなら、是非と引き受けて

くれました。

お兄さんは、手を傷めて、回復には1ヶ月ほどかかると言うことでした。

さっそく、「了解です」と返事しました。

 

ときに、いまの心不全が悪化するとか、心室の不整脈が出たら、もう先は

長くないのではと、よぎるときがあります。

先がある、ということから、「今、ここ」で願いが叶うような暮し方、

あるのかなあ、と探っています。