娘がわが家で夕食の準備をしていた。
今晩は孫たちとご飯食べる日。
今晩は”なすのギョーザ”ということ。
その傍でボーッとしていたら、娘が「今日ね、朝テレビを見ていたら、
突然画面が一変して、北朝鮮がミサイル発射したというのよね。どこの
県が危ないか、繰り返し放送していた」
「ほう、そう」(これはダジャレ)
娘がそんな話題を取り上げるとは。
そのころ、ぼくは、夜明け前の一眠り中。そんなアラートって、知らなんだ。
そんなアラートで警告してくれても、落ちたらそれまでじゃやないのかなあ。
地べたに伏せて、頭を抱えて、何になるのだろう?
小学校の先生のブログに、朝、ミサイルが落ちるかどうか、子どもたちが
ケンケンガクガク、おしゃべりして、なかなか算数の勉強に入れなかったと、
書いてあった。
先生は「絶対に落ちない」と決然と宣言して、やっとおさまったという。
その後聞いてみて、びっくりしたのが、ほとんどの子が「落ちるはずない」と
言っていたという。先生は、「子どもたちがよくよく考えての結論
じゃないか」と感想を言っていた。
いまの日本の大人たちと、見えている世界が違うかもしれない。
アメリカは、北朝鮮に「核の放棄」を迫っている。
ずっと、訳分からんと思ってきた。
アメリカは核兵器を何千発も持っていて、他国にもってはならないと
どうして言えるのだろうか?
何も北朝鮮が核兵器をもつこと、勧めてるわけではないけど。
「ぼくの方も、核兵器はなくしていくので、あなたも核兵器の開発を
待ってもらえないかなあ」ぐらいなら、政治のことはよく分からないが、
話し合いになっていくんじゃないかなあ。
国連の大多数の国が賛成した”核兵器禁止条約”に核兵器保有国と日本が
決議に加わらなかった。
難しい理屈はわからないが、「核抑止」という考え方で、この世界から
核兵器はなくならないとおもう。
北朝鮮が、その考え方からはじめた。止めようがないのでは。
いまは、韓国でも、日本でも、相手がそうなら、こっちだって、と
なりそう。
バカバカしいなあ。狂ってるなあ。
それほど、世界中をメチャメチャにしたいのだろうか?
誰も、そんなこと望んでいないよなあ。
今朝、テレビを見ていたら、法政大学の田中優子さんが、核兵器を
持って放さない国が、他国に「核兵器を放棄せよ」というのは理に
合わないと話していた。
目の前のことを見て、それが揺るがない現実と捉えたら、やられたら
やり返すというのが当たり前、「もし、相手から攻撃が来たら黙って
見ていられるか?」という考え方が大勢かな。
そんな考えに社会が染まって、一色なりそうな気配。
理に合うとか、合わないとかなんて、言ってられん。
そうだろうかなあ?
子どもは「落ちない」というとき、どんな世界を見ているだろう。
そこは、よく聞いてみないと分からないことだけど、したいこと、
して欲しくないことは、はっきりしていると思う。
「相手が攻めてくるから、こっちも戦う」
ほんとうの、ほんとうは何をしたいんだろう?
自分の中を見ていったら、簡単だと思うんだけど。
人間としての知性は、それを邪魔するものさえなっかったら、
誰もが安心して豊かに暮らせる社会を望んでいて、そんな社会が
実際にあったらいいなあと願っているのでは。
そのためには、目の前で起きていること、それを自分がどう捉えて
いるか、自省するところからはじまるのかなあと思う。
Jアラートで頭を抱えるのはそれぞれの生き方だと思うけど、自分の
捉えているこどが、実際どうなのか、よーくみてみたいなあ。
敵をこしらえて、「国を守る」ってなことって、戦争になるのを
待ってるみたい。
戦争や争いや対立は要らないなあ。
その晩、孫娘が意外と早く帰宅し、娘一家とぼくらは揃って
食事した。なすのギョーザとかぼちゃポタージュ。
食後、何かの弾みに姉が弟の膝を思い切り叩いて、そのまま
自分の荷物も持たず、娘の家に帰ってしまった。怒ったんだろう。
娘も「あれあれ」と帰って行った。
今日、孫娘と話していたら、「ママは今日歯が痛くて、昼ご飯
作れなかった。そうしたら、晴空(弟)が豚肉入りキムチチャーハン
作ってくれたのよ」
「そうかあ」
子どものケンカと大人のケンカ、どこが違うんだろう?
Jアラートのことから、台風18号の嵐のなか、いろいろ思いました。