大分単身赴任日誌

前期高齢者の考えたことを、単身赴任状況だからこそ言えるものとして言ってみます。

読んだ本―「この国は原発事故から何を学んだのか」(小出裕章著 幻冬舎ルネッサンス新書)

2012-11-21 05:52:29 | 本と雑誌

「反原発」の急先鋒とも言うべき専門家による、「この事故を風化させてはならない」(帯より)という視点での本です(もっとも、「あとがき」によれば、実際に書いたのは編集部の人みたいですが、特に科学的な内容についての「責任を持つ」というところから「著者」となっている、ということのようです。そういうのも、まぁ、ありなんでしょうね・・・。)

内容の主な部分は、これまでさまざまなところで言われてきたことをあらためてまとめたものですが、福島原発事故の原因に関する専門的・技術的な説明等が、わかりやすくなされているので、東京電力や政府の人々の言うこととの対比で理解を深める役に立つものだと思います。

その上で問題は、タイトルにあるように、「この国は原発事故から何を学んだのか」?ということです。

大きな被害をもたらした事故であったればこそ、また、可能性としてはさらに破滅的に被害が大きくなることもありえたような事故であったればこそ、私たちはこの事故から「教訓」を学び取り、それを「未来」につなげていかなければなりません。しかし!それがはたしてどこまでできているのか?ということが大きな問題です。

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」的な傾向が全国に蔓延しているのではないか、と思えてしまうような政治状況があります。

「第三極」においても、「中央集権の官僚支配」を「敵」とする「大同」につく、ということが言われていますが、原子力問題にあらわれた政・官・財・学・マスコミの巨大共同体こそが、中央集権支配の最も端的な姿であるはずです。これを看過しておいて言われる「中央集権反対」というのは、自分がその中にいない中央集権支配に反対しているだけのものにしか、私には思えません。

さらに昨日「維新の会」石原代表は、かねてからの持論である「核保有」についても触れていました。核保有が国家としての存立の基礎をつくるのであり、そのためには原発を維持する必要があるのであり、「人間だけが持つ英知の所産である原子力の活用を一度の事故で否定するのはひ弱なセンチメンタルに駆られた野蛮な行為」だ、というかねてからの主張です。口当たりのいい「中央集権の官僚支配打破」を標榜しつつ、底にあるのは「自分が中心に立つガチガチの独裁(中央集権)体制」を目指す姿勢なのだと思えます。

そんな中、なにはともあれ「民意」の問われる「総選挙」です。その中で、私たちは、この本のタイトル―「この国は原発事故から何を学んだのか?」ということを、もう一度考え直す必要があるでしょう。

最後に、これまでの話の流れとは関係ありませんが、「そうだな」と思った本書での言葉を引用して終わります。

「ただ、自分が『どうしてもこれだけは譲れない』という、そのことに関してだけやればいいのです。」

「私は、原子力の専門家として、原子力に反対しています。原子力については、みなさんより詳しいと思いますが、その代わり、お米の作り方も魚の捕り方も知らず、職人さんのようにものを作る力も、絵を描いたり、詩を書いたり、歌ったり踊ったりすることもできません。皆さんは、原子力の専門家ではないかもしれませんが、それぞれの生活の場においては専門家であると思います。その力を存分に発揮していただければと思います。」「