大分単身赴任日誌

前期高齢者の考えたことを、単身赴任状況だからこそ言えるものとして言ってみます。

嘘太郎

2016-05-31 16:01:13 | 日記
NHKテレビのコント番組で「ライフ」という番組があります。内村光良らのコントには秀逸と思わされるものが多く、楽しみにみています。

その中で、見るたびにイラつくコントがあります(笑いながら、ですが)。「嘘太郎(?)」というコントです。星野源の演じる寿司屋の見習い「嘘太郎」が嘘つきで、ひどい嘘をつくのだけれど、内村の演じる親方がそれを結局は許してしまう、ということが、さまざまなバリエーションで演じられます。

先週のでは、折詰を買った客(田中直樹)が怒って怒鳴り込んできます。本来10貫くらいは入っているはずの折詰がスカスカで5貫くらいしか入っていないのです。「これはどうなってるの!?」と怒る客に対して嘘つき見習いは、「そんなもんですよ」と平然と対応します。そこに親方がでてきて、どうしたのか尋ねます。客が説明をして折詰を見せると、親方は「てめぇ、また嘘つきやがったな!」と怒ります。嘘つき見習いは、へらへら笑いながら「すいやせん。もうしません」と一応謝りはするのですが、それだけです。親方は、客に謝りながら、「不足分をすぐにつくります」、と言って見習いに寿司を握らせようとします。「こいつは、嘘つきだけど、腕はピカイチなんです」というと、見習いも「腕はピカイチなんです」とへらへらしています。でも結局握れず、「腕はいいんじゃないのか?」と詰問すると、また「すいやせん、また嘘つきやした」と同じような対応です。親方はまた同じように怒るのですが、結局はうやむやに許してしまって、おしまい、というものです。

ついつい笑ってしまうのですが、やっぱりイラつく。

ここまでひどい話というのは実際にはないのだと思ったのですが、似たような話が実際にあるんだな、と言うことを思わされました。

今回の、「消費税再値上げ延期」が、その「よく似た話」です。

「来年10月の引き上げを18カ月延期し、そして18カ月後、さらに延期するのではないかといった声があります。再び延期することはない。ここで皆さんにはっきりとそう断言いたします。平成29年4月の引き上げについては、景気判断条項を付すことなく確実に実施いたします。3年間、3本の矢をさらに前に進めることにより、必ずやその経済状況をつくり出すことができる。私はそう決意しています」。(下記首相官邸動画の6分30秒~
 「消費税の引き上げを18カ月延期すべきであるということ、そして平成29年(2017年)4月には確実に10%へ消費税を引き上げるということについて、そして、私たちが進めてきた経済政策、成長戦略をさらに前に進めていくべきかどうかについて、国民の皆様の判断を仰ぎたいと思います」同9分30秒~

2014年11月18日の総理大臣記者会見での安倍首相の発言です。http://www.kantei.go.jp/jp/96_abe/statement/2014/1118kaiken.html

こういうふうに言っておきながら、「景気判断」によって「絶対にない」と言っていたことをしてしまう、というのではその言葉のあまりの軽さに呆れざるを得ません。寿司が半分しか入っていないこと(アベノミクスの成果が上がっていないこと)について「そんなもんですよ」で済ませてしまい、どうしようもなくなると「すいやせん、嘘つきました」と口では言いながらへらへらしている(「国民の信を問う」こともしない)、というのは、瓜二つと言ってもいいほどのものです。(もっとも嘘太郎の方は他人のせいにはしないのに、安部首相は「世界経済」のせいにする、というところは違いますが・・・。)
また、その嘘に怒りながらも、結局は許してしまう親方(国民)にも問題がある、と言うべきなのでしょう。

「政治」がこんなことをしていたら、国際的にも国内的にも信頼を失い、とんでもないことになってしまいます。このような「先延ばし」によって、わが業界にもしばらくの「安定」がもたらされる、ということなのかもしれませんが、そこに安住していたのでは、本当にとんでもないことになってしまう、という不安の方が大きくなるようなことです。





伊勢志摩サミットを見て思ったこと

2016-05-28 15:52:05 | 日記
伊勢志摩サミットが終了しました。テロなどの心配もあった中、無事に終了したのは何よりでした。
しかし、その内容を見ると恥ずかしくなるようなものでした。
新聞の川柳に
珍説を咎めず客がおもてなし
というのがありましたが、本当にその通りで、うまい!と思います。

安倍総理は「リーマン・ショックの際も現在の予測を上回る成長が予測されていたが、危機が発生し、マイナス成長になった」として、現在の世界経済の状態を「リーマンショック前」にある、としました。そしてそこから「その轍(てつ)は踏みたくない」として、世界的な財政出動を求めるなど、「アベノミクス3本の矢を、今度は世界に展開していきたい」とした、ということです。
まさに「珍説」であり、恥ずかしくて仕方ないものです。現下の情勢で求められていることをせずに、的外れな「三本の矢」を自分で射ち続けるだけでなく、そこそこうまくやっている人たちにも自分の誤りの輪に入ることを勧めて得意になっったり、「絶対にやる」と言っていた消費税増税を再延期することを正当化する口実にまでしようとする、というのですから、本当に恥ずかしい、と思わずにはいられません。

そのうえで、上記の川柳です。たしかに、この「珍説」に対する各国首脳の反応というのは、「おもてなし」と言うのに値する「大人の対応」だと思います。
しかし、考えてみれば、これはある程度当たり前のことで、「国際関係」というのは、そういうものなのでしょう。もしも、次回のサミットにアメリカの大統領としてトランプが出席して、「珍説」を滔々と展開したとしても、他国の首脳が表立って否定したり反論したりはしない、・・・そういうものなのでしょう。いやしくも「G7」という枠組みを自ら作り、その中の一員としている以上、それをぶちこわすようなことはしない、というのがたしなみだ、ということなのでしょうから。

同様のこと、というのは、ぐっとスケールの小さいことになりますが、私たちのまわりでもあります。今回のサミットにおける安倍総理のように、明らかに間違った情勢分析や、それにもとづく明らかに間違った方針を、得意になって展開する人がいて、恥ずかしい思いをする、というのは、私たちの世界でもよくあることです。このようなときでも、相手方が「それは違うでしょ」と正面切って反論してくる、ということは、まずありません。適当に受け流して済ませてしまう、というのが通常です。これは、攻守の立場を変えて考えてもそうです。しかし、だからと言って、そこでお互いの諒解ができて、ことがそのように進むのか、というとそういうことはありません。むしろ、馬鹿らしいことを一生懸命に言っている相手への軽侮の思いやら不信感を抱かせるだけ、ということになります。そして、そのことに気づかずにいると、「良好」に見える関係性の中において、実は「力関係」として大きく不利に動いて行ってしまう、ということになったりもするわけです。

そのような意味で(違った意味で)、「危機」は発生し展開しているのであり、これに対する有効な手立てを見出していかなければならないのだと思わされたところです。

大分県土地家屋調査士会の総会を終えて

2016-05-23 15:05:21 | 日記
先週の金曜日、大分県土地家屋調査士会の総会がありました。

全般的には、今回の熊本地震を受けての土地家屋調査士(会)の役割に関する意見などもあり、それなりの意義を確認できるものであったと思いますが、一部にはきわめて低水準な聞いていて恥ずかしくなるような「意見」もあり、わが業界の水準というところから考えさせられる部分もありました。ある程度の低水準だと、自分自身に対する恥じらいが生まれてきて抑制の機能も働くのですが、あまりにも低水準になると自分に対する反省がないので、恥ずかしげがないだけでなく得意げにさえなってしまうのですね。そのようなものから「全体の水準」を推し量られる、ということもあるので、情けないことではありますが、そうとばかり言ってもいられず、どうにかしなければならないことです。

問題になったのは、今年大分であった法務局による土地家屋調査士への懲戒処分の件です。
この懲戒処分(戒告)は、土地の分筆にあたって、①測量に当たって使用したとする街区多角点を使用しておらず、②測量の精度に関する簡単な点検さえも行わっておらず、③その結果として1.6mほど誤った座標値を記載したまま分筆登記をした、という案件について、調査士会からの注意勧告がなされ、法務局からの戒告の処分がなされた、というものです。
このような案件について、「単に間違えただけのもので懲戒になるのはおかしい」というようなことを言う人がいます。まったく何を考えているんだか?どういう神経をしているんだか?という「意見」です。
そもそも土地家屋調査士というのは、不動産に係る国民の権利の明確化のために、「間違いのない」ように調査してそれを表示するようにすることを職責とするものです。そのための注意義務を果たすことが必要であり、そのようなことがなされることが期待されて業務独占の資格者になっているわけです。「間違えただけ」というようなことは、何をどう考えれば言えることなのか、まったく理解に苦しみます。

また、この懲戒処分に関することが、大分の地方新聞で報じられたことについても「問題だ」とされました。「調査士会の役割は会員を守ることであり、このような報道は止めるべきだ」というような「意見」です。
しかし、これはまったく間違った考え方です。まず、「調査士会の役割」は「会員を守る」ということにあるわけではありません。「調査士会の役割」は、あくまでも法律で定められているように「業務の改善進歩のための指導・連絡」ということにあります。もちろん、この「指導・連絡」が十全になされて全会員の業務が完璧なものとしてなされるようになっていれば、懲戒処分を受ける会員も出てこないわけでしょうから、結果として「会員を守る」ことにつながりもするわけですが、そのことと「会員を守ることを目的とする」、ということとは全く違うことです。
「身内を庇う」的な行動をとることは、けっして本当の意味で「守る」ことにはなりません。仲間内からでた不祥事に対しては、同じことが二度と起きないように厳しく対応することが自浄能力を示すことになり、大きな意味で「守る」ことにもつながるのだと言うべきでしょう。
こんな当たり前のこともわからないような人が(ごくごく少数とは言え)出てきてしまう、というのは、やはり情けないことですが、だからこそ、そのダメさ加減をしっかりと見つめる中で、次の「改善進歩」につなげていくようにしなければならない、ということを考えさせてくれた総会だった・・・・、と思うようにしたいと思います。


読んだ本-「戦後政治を終わらせる―永続敗戦の、その先へ」(白井聡著、NHK出版新書)

2016-05-13 10:24:15 | 日記
2013年に刊行されて評判になった「永続敗戦論」の著者による「続編」とも言うべき本です。

はじめに、本題とは離れる感想になってしまいますが、本書を読んでいて、「土地家屋調査士」という存在がつくづく「戦後日本」的な存在なのだ、ということを感じました。これは、「土地家屋調査士」だけに限ったことではなく、戦後の日本の持っていた「均質性」は、あらゆる社会集団を「戦後日本」的なものにしている、ということなのかもしれませんが、それにしても次のような指摘は、本当によくもあてはまるものだ、と思わされてしまいます。

著者は、日本の「対米従属」について、次のように言います。
「冷戦構造が終わった時点で、日本はアメリカにとって、アジアのナンバーワン・パートナーではなくなった。アメリカにとっての日本は、『庇護』する対象から『収奪』する対象になったと言えます。だとするなら、当然、日本の方は、それに抵抗しなくてはなりません。では、なぜ抵抗しないのか。」
「身も蓋もない言い方をすれば、その根性がないからです。つまり、政治家や官僚、あるいは一般国民にまで『永続敗戦レジーム』『対米従属』が深くしみ込んでいるので、長い間慈悲深かったアメリカに対して抵抗するという気概も発想もそもそも出てこない。」

このような類似性というのは、「戦後日本」というものが、どのようなものであったのか、ということから考える必要のあることです。
著者は、55年体制下の自民党は、人々を『包摂』する社会民主主義的な政策をとっていた」とします。それは、「都市の工業によって稼ぎ出された富を農村に分配する。いわば都市から農村への富の分配です。これは利益誘導を通じた包摂の政治であるともいえる」ものです。「様々な談合や汚職も含む利権のネットワークを張り巡らせておいて、要はその中にちゃんと入っていて、おとなしく言うことを聞いている人間にはわるいようにしない」という旧保守のシステムができていた、というわけです。
「談合」や「汚職」といった本来違法なものまで駆使してできていたシステムですから、合法的なシステムについても、強大で優秀な官僚機構を通じて社会を包み込むようなものとして精緻にできていた、と言えます。「土地家屋調査士制度」や他の資格制度も、個別的に見ればそれぞれの合理的必要性を持つものであるにしても、この一般的な条件がなければだいぶ様相の違ったものになってしまっていた、と考えるべきでしょう。
このようなことは、「冷戦下の日本が享受した地政学的余裕」によって可能になっていたものだとされます。しかし、冷戦の終結によって、前提が失われます。この中で「分配を重視する保守であったところの自民党が、新自由主義的な、ネオ自民党へと変貌」して、今日がある、というわけです。
「新自由主義」というのは、「資本にとっての障害を力ずくで破壊し、資本が自由に制約なしに活動できる空間を拓く」ものとされます。その政策の遂行は、当然のこととして「包摂から排除へ」向かいます。「今日、さらなる技術革新が進む中であらためて浮上してきているのは、生産性の向上に寄与しないと判定された人は、社会によって包摂されなくなるということ」が広範に起きている、というわけです。

私たちについても、この「包摂から排除へ」の基本的動向と無縁でいられるわけではありません。「小泉構造改革」のもとで進んだ「規制改革」が、資格制度にもメスを入れようとしたのは、この文脈の中でのことだった、と言えるのでしょう。2回の「政権交代」を経て、行きつ戻りつしている現在の状況は「小休止」状態のように見えるとしても、基本的な趨勢はこのようなものとしてある、ということです。

著者は、「ポスト55年体制を本当の意味で構築するために、いま何が必要なのか」を考えるにあたって、「沖縄が現在、政治的には最先端の地域である」ということを指摘しています。「その理由は、沖縄が『永続敗戦レジームの外部』いるから」だとしていて、これは「今何が必要なのか」ということをについて示唆的なものと言えるでしょう。
話は小さくなりますが、私たち土地家屋調査士の今後のありかたについて考えても、キーワードは「自立」ということになるのでしょう。社会全体としてかつての「余裕」が失われた上での現在においては、「従属」と裏腹の関係にある「庇護」に期待をかけることが現実問題として成立し得なくなっていることを直視して、「自立」すなわち直接「社会」に根差した有用性・必要性を明らかにして、そこに軸足を置いていくことが必要なのだろう、ということです。










読んだ本-「『憲法改正』の真実」(樋口陽一・小林節。集英社新書)

2016-05-09 05:32:31 | 日記
憲法記念日の改憲派集会に安倍首相はメッセージを寄せ、「憲法は国民のものであります。新しい時代にふさわしい憲法とはどうあるべきかという観点から、自由闊達に議論できる雰囲気の中で、国民が真剣に考え、しっかりと冷静に議論する環境をつくるべきだと思います。憲法に指一本触れてはならない、議論すらしてはならないなどといった思考停止に陥ってはなりません」と言っています。
例によって、自分がやっていることを他人が犯している誤りであるかのように言って非難する安倍首相独特のレトリックではありますが、言っていること自体としては、まさにそうなのでしょう。「憲法」について「国民が真剣に考え、しっかりと冷静に議論する」ことが必要なのです。
「北朝鮮が危ない。中国が怖い。」ということが煽られる中で、まさに「思考停止」に陥ってしまいがちなわけですが、そうならないようにして、「憲法」というものについて、そこに示される日本社会の基本構造について真剣に考え、しっかりと冷静に議論することが必要であるわけです。

そのようなものとして、「護憲派の泰斗と改憲派の重鎮」の二人による対論の本書を読みました。
まず感じたのは、二人の危機感の大きさです 
「私たち日本人は、今までとは違う社会、異常な法秩序のなかに生きている。」(小林)
「立憲主義の破壊という事態がいかに深刻なものなのか。つまりは国の根幹が破壊されているのです。」(樋口)
「法治国家の原則が失われており、専制時の状態に近づいている。そういう状態に、我々は立っている。」(小林)
「2012年に公表されたあの改正草案(自民党憲法改正草案)は憲法と呼べる代物ではない。」「自民党改正草案は、近代法からの逸脱だということです。民主主義的傾向の芽生えのあった明治期への回帰どころか、前近代への回帰です。」(樋口)


そのうえで、さまざまな論点において自民党の「憲法改正草案」の致命的な問題点が指摘されています。その中で、特に印象に残った2つのことについて書きます。

ひとつは、「緊急事態条項」についてです。これについて述べている章のタイトルは「緊急事態条項は『お試し』でなく『本丸』だ」とされています。「緊急事態条項」が、東日本大震災の経験などから「異論のない必要性のある条項」であるかのようなことが言われ、「まずは『お試し改憲』を緊急事態条項から」というようなことが言われているわけですが、とんでもない話だ、ということです。自民党の憲法改正草案で言われているような「緊急事態条項」は、現実的な必要性がないばかりでなく、必要のない国家緊急権を認めることは、草案における国民の権利への制限と合わせて「独裁」「専制」を招くものだ、とされます。
「緊急事態条項」を憲法に入れることの必要性については、自民党の「日本国憲法改正草案Q&A」自体が次のように言っていることが紹介されています。
「緊急政令は、現行法にも災害対策基本法と国民保護法(「武力攻撃事態等における国民の保護のための措置に関する法律」)に例があります。したがって、必ずしも憲法上の根拠が必要ではありませんが、根拠があることが望ましいと考えたところです。」(「日本国憲法改正草案Q&A」P34-35。なお、これは、自民党のホームページで公開されています。https://www.jimin.jp/policy/pamphlet/pdf/kenpou_qa.pdf政権与党の「憲法観」を知るためのものとして、是非読んでおくべきものだと思います。)
自ら、必ずしも憲法上の根拠が必要なわけではない、ということを認めつつ、それでも「望ましいと考えた」というのは、何の説明にもなっていません。このようなことからもたらされるのは、「原則と例外を対等に並」べてしまうことであり、非常に危険な「独裁」「専制」への道を切り開いてしまうものになってしまうのであり、認めてはならないことだ、とされています。

もう一つは、「歴史」の問題です。
「仔細かつ冷静に明治維新から敗戦までのおよそ80年間の政治を眺めてみると、紆余曲折ありながらも、日本の政治がとりわけ異常だったのは、1935年から1945年までの10年間なのですよ。憲法の歴史で言うと、1935年とは天皇機関説事件で美濃部達吉が糾弾された年です。天皇機関説事件の後は、美濃部のような自由主義的な憲法学が国禁の説とされ、憲法の解釈がまったく違ってしまった・・・」「天皇機関説事件の以前は、美濃部の説が主流はだったのですよ。政府や議会だけでなく、宮中までもが天皇機関説に納得し、国政すべてがその前提で運営されていたわけですからね。」(樋口)
最近の「集団的自衛権容認の憲法解釈変更」を思い起こさせられるものです。従来は「集団的自衛権容認は憲法違反」というのは、憲法学者の大方の意見であっただけでなく政府としての長年の解釈でもあったのに、ある日突然覆されてしまい、「違憲だ」という考えそのものが「政治的中立からの逸脱」であるかのようにされ、さらには「政府見解と異なる異端」であるかのように言われていしまう最近の日本というのは、「1935年の日本」とどれほど違うのだろう?と考えさせられてしまいます。

あらためて憲法について「自由闊達に議論できる雰囲気の中で、国民が真剣に考え」ることの必要性を感じました。