大分単身赴任日誌

前期高齢者の考えたことを、単身赴任状況だからこそ言えるものとして言ってみます。

民法(債権法)改正―地籍問題研究会第14回定例研究会

2015-11-30 18:19:33 | 日記
先週の土曜日(11.28)、地籍問題研究会の第14回定例研究会が「民法(債権法)改正」をテーマとして行われたので、聴講しました。

「民法(債権法)改正」については、今年の国会に上程されて成立するのかとも思われていたのですが成立せず、現在閉会中審議にかけれれている、という状態だそうです。何の情報もないところで勝手に「安保法制のあおりで成立まで行かなかったのか?」と思っていたのですが、「法務委員会」の問題なので、刑訴法改正との関係が大きかったようです。)

「民法(債権法)改正」については、民法という民事法制の基本中の基本にある法律を大幅に改正しようとするものですから大変な一大事です。土地家屋調査士の世界でも、「法律関連専門職のはしくれとして、民法改正案への意見の一つも言えないのは情けない」というような意見もでていました。その「志」(というか「意気」というか)、は高くて素晴らしいのですが、「志」だけで終わってしまってはつまりません。「内容」が伴わなければならない、ということで、地籍問題研究会でもテーマとして取り上げていただき、関係の民法の専門家の先生に講義をいただいた、というわけです。

その上で、内容的なことを、ざっと括ってしまうと、「今回の民法改正(案)は、土地家屋調査士の業務や地籍制度に直接関係するものとしてはあまりない」ということになります。これは、さまざまな形でアナウンスされている改正案の内容を見ていれば、そうだろうな、とわかることではありますが、あらためて立法作業に直接携わった山野目章夫先生(早稲田大学法学学術院教授、法制審議会民法部会幹事)のような方からの話で確認できたのは、ありがたいことでした。(それだけでは、「そんなことのためにわざわざ・・・」、という話ですが・・・。)
その上で、「直接関係ない」ことについてもきちんと見ておく必要がある、ということもあります。「債権法」分野も他の民法の分野と全く独立しているわけではなく、一つの体系の中にあるわけですから、今、直接には関係ないことも全体としては関係してくる、というものとして見ておかなければならないでしょうし、私たち自身が将来的にはそのような関わり合いを持つようなものに、自分たちとして変わっていかなければならない、ということもあるのだと思います。

さらにその上で、もう少し具体的な内容について。今回の民法改正案で、土地家屋調査士の中から「大変だ!」的に言われていたこととして、「瑕疵担保責任がなくなる」ということがあります。このことをとらえて、「不動産取引における責任」がこれまでと180°変わるのだ、というようなことを言う人もありました。一知半解からくるデマみたいなものなのですが・・・。
たしかに、改正案においては、「瑕疵担保責任」という言葉をなくすことにしています。この、すでに十分に馴染んだものになっているように思える「瑕疵担保責任」という言葉をなくそうとすることの理由が、私にもよくわかりませんでした。たとえばそれは、
「まず、この条文に出てくる瑕疵という言葉が難解です。瑕疵とは傷(キズ)とか欠陥といった意味ですが、現代の日常生活では使わなくなっており、このような難解な用語をわかりやすい言葉に置き換える」必要があるのだ、というような形で説明されていました(引用は内田貴「民法改正のいま―中間試案ガイド」から)。しかし、「瑕疵」がそんなに難解な言葉だとは思えないし、今の国民はこのくらいの「難解」さなら、すぐに理解できるものと言うべきでしょう。五郎丸選手の「ルーティン」なんていうのもすぐに人口に膾炙する世の中なのですから。
それはともかく、今回の研究会で「民法改正について―不動産取引実務への影響を中心に」と題して講演された大場浩之先生(早稲田大学法学学術院教授)によれば「瑕疵担保責任」という用語をなくして「瑕疵担保」の問題として問題を立てないようにするのは、「売主の担保責任を契約不適合の問題として債務不履行責任に一元化」することに意味があるのだそうです。
・・・なるほど、という感じもするもののイマイチよくわからないのですが、これにより「瑕疵担保責任の法的性質をめぐる論争」、すなわち「法定責任説か契約責任説か」という論争に「立法による解決」がなされる(法定責任説はとれなくなる)、という意味がある、と言われると、あらためてなるほど、と思わされます。
もっとも、そうだとするとどうも「国民へのわかりやすさ」の問題じゃないような気もしますし、この研究会で「民法改正案における時効法改革」について講演してくださった松本克実先生(立命館大学院法務研究科教授)が指摘されるように「契約不適合」ということが前面に打ち出されると「客観的瑕疵」の面が弱まるという弊害もあるような気もするのですが、「国民へのわかりやすさ」というよりも「法律専門家にはそれとして解決しなければならないことがあるのだ」というようなこととして・・・まぁ納得です。

半日の研究会聴講で全てが分かるはずもないのですが、ポイントを教えていただいたような気がするので、自分で勉強していかなければ、と思わされました。

その他、会場(日司連ホール)への感想、という研究会への趣旨には関係ないことも書こうと思ったのですが、すでに十分長くなってしまったので、これはまたの機会に。


「事実認定」と「法的判断」

2015-11-23 14:21:12 | 日記
先週の金曜日(11月20日)、大分支部の支部研修会がありました。

大分会での研修会については、近年、その充実へ向けていくつかの試みを行ってきています。「全体研修会」を年3回行う、というのは変わりはないのですが、それ以外に、初めの年は「課題別」の研修会を行い、それ以降は「支部研修会」の充実を目指す、ということで進めています。今年は、年2回の支部研修会のうちの1回を、大分会の研修部で内容を準備して行う、という方法をとっており、それが先日開催された研修会です。

この研修会では、日調連で昨年開催した「境界実務講座」での「グループ討議」で取り扱った事例を課題としていました。このような研修会で取り扱う事例というのは、あんまり実例に即した複雑なものだと事案をつかむのに手間取りすぎてしまって検討に入れなくなってしまいますし、あんまり単純だと議論にもならなくなってしまうので、程合いが難しいところですが、この事例については、やや単純にすぎるかもしれませんが、今回の大分支部での研修でもそれなりに議論が成立したので、まぁよかったのかと思っています。

その上で、議論を聞いていて、「事実認定」の部分と「法的判断」の部分とを区別してきちんと行う、ということへの意識が弱いのではないか、ということを感じました。土地家屋調査士が、土地境界問題に関わる他の人々に比べて優れている部分は、境界をめぐる「事実認定」をきちんとおこなえる、というところです。この「事実認定」として行えることをぎりぎりまで行って、その上で「法的判断」として判断しなければならないところが残った時に、それをしっかりと行う、ということが必要になるわけですが、この区別がうまいこと意識されていない、という傾向があるように思えます。「事実認定」をするべき段階で無意識に「法的判断」を混入してしまい、それによって「事実認定」がなされるべき水準まで至らないことになってしまう、というようなことが、結構あるように思えるのです。
これは、従来経験に基づく「職人技」的なものとして十分に理論化しないままで来てしまった、土地家屋調査士の世界全体の弱さの現れのように思えました。
このような「傾向」がわかれば、それに対する「対策」を講じることが必要になります。
そのようなことの積み重ねの中で、「法律関連専門家」として、リーガルマインドにもとづく判断がなされるようにする、・・・というところが目指すべきところなのかと思いました。

「量地絵図帳」

2015-11-16 10:08:16 | 日記
大分会の境界鑑定委員会で、大分県の地租改正等の「土地境界史」の研究を行っています。今週水曜日(18日)に会議があるので、今、これまで調べたものをまとめる作業を行っているところです。

その中の一つに、現在の杵築市山香町のある村の「量地絵図帳」があります。「量地絵図帳」は、地租改正事業の中における「一筆調査」を村毎にまとめたものです。一筆毎に、一枚の用紙で、表面に現在の「登記情報の表題部」のような記載があり、裏面に「地積測量図」のような図面がある、という体裁で、一つの村で千筆を超える土地のものがまとめられています。

この「量地絵図帳」を見て、まず感じたのは、実に精細な調査が行われている、ということです。一般に、「地租改正時の丈量はいいかげん」「税金を抑えるために過少に丈量されている」というようなことが言われていますが、この「量地絵図帳」を見る限り、そんなことはありません。「山林」については確かにざっくりしたものですが、耕地、特に「田」については、一筆ごとに描かれた図面の土地の形を、現在のもの(更正図、国調地籍図、空中写真)と対照してみてみると、ほぼ合致します。
丈量は「十字法」でなされていますが、この「十字法」という方法は、これまで思っていたほどに大きな誤差を生むものではないようです。
大きな違いがあるとすると、たとえば4枚の田で一筆をなしている場合には、「量地絵図帳」では一枚ずつの丈量が行われて、4枚分を合算して一筆の「反別」としているので(つまり、畦畔部分はカウントされていないので)、一筆で外周で地積を算出する現在の方法とでは違いが生じることになります。(・・・・が、その他の諸事情もあって、すくなくとも高低差の大きくない地域では、この違いもさほど大きなものになっていません。)
「徴税のための丈量なので過少になる」というのは、確かにわが国の近代化の特殊性を踏まえて、地租改正事業全体の特徴として言える「拙速主義」という分析の脈絡の中で言われていることなのでしょうが、さらに個別具体的に見れば、それが必ずしも該当するわけではない、ということが明らかになります。
考えてみれば、たしかに一枚ずつは平坦なものである「田」の丈量というのは、さほど難しいものではありません。土地の形が整形ではないとしても、十字法でその出入を按分することもさほど大きな違いを生むものではないようです。
今日のような権利意識が定着していない黎明期にあって、行政権力の「強さ」・・・「やる気」が強くそれが人々に伝わる構造のあるところでは、「拙速」にならずに「速さ」と「うまさ」の両立もあった、ということなのかと思います。

また、一般に言われる「改祖図では、一筆図が寄せ集められて字図がつくられた」ということについても、事実とは違うのではないか、という疑問を持たされます。それは、上記のように一筆ごと(一枚ごと)の測量が正確になされた図面を寄せ集めるという作業はとてつもなく大変な作業であるように思えるからです。「一枚ごととに量を測る」ということと、「全体としての所在や配置を把握する」ということととは、同じ工程のなかに位置付けられることなのではなく、まったく別のことなのではないか、と思えます。
このことは、地租改正事業の本体事業である各土地の丈量とそれにもとづく地租算定の作業は明治8年6月という早い時期に終了していながら、「地押絵図」の作成が遅い、という布達が明治9年11月になってもまだ出されている、ということからも伺えます。今日の感覚からすると、全体としての測量を行えばその結果として一筆ごとの状況もわかることになる、ということなのではないかと思ってしまうのですが、現実の歴史はそのように進んでいたわけではない、ということのようです。

具体的な史料にあたっていると、その中から思わぬことが見えてくることがあります。もう少し、力を入れて研究を進められるよう、具体的な方向を示していきたい、と思っています。

新人研修

2015-11-12 06:08:27 | 日記
昨日、来年1月に大分で開催される「日調連九州ブロック新人研修」の準備会議がありました。研修部と講師を務める十数人で内容の確認を行う3回目の会議です。
このような準備を重ねることによって、内容のある意義のある新人研修を実現できるものと期待しています。

この「日調連九州ブロック新人研修」は、日調連が「新人研修」を各ブロック協議会に委託して行っているものの一つで、土地家屋調査士試験の合格発表の1か月半後に「2泊3日」の日程で行われるものです。
土地家屋調査士試験が、実務経験などを問わないペーパーテストであることから、実際に土地家屋調査士としての業務を始めていくにあたって、この新人研修の持つ意義は極めて大きい、と言えるでしょう。
しかし、その本来的な意義の大きさに比べて、その実施が十分な内容(量と質)をもってなされているのか、というと疑問符をつけざるをえないようにも思えます。

最近、たまたま司法書士(日司連)の新人研修の案内を見る機会がありました。この案内は、司法書士試験の最終合格発表の直後に、合格者に送られてくるもののようです。さらさらっと見ただけなのでさだかではないのですが、司法書士の新人研修は、日司連が直接行う中央研修(2泊3日?)と、各ブロック協議会の研修(5泊6日?)があり、登録前に受講することが必須とされているようです。そして、それに続いて簡裁代理の特別研修があります。この3つの研修の案内が、それぞれそれなりに立派な冊子の形でなされています。
この司法書士の新人研修は、司法試験後の修習に比べれば随分と軽いものだということになるのでしょうが、資格者団体が独力で行うものとしてはかなりのものだと言えるでしょう。

ペーパーテストで合格した新人が実際に業務を始めていくにあたって、資格者団体がその業務を行うにあたって必要なことを研修する、それなしには適正な業務が十分に行えないものとして実施する、というのは、資格者団体が存在する意義の大きな部分を占めているものと言えるでしょう。
土地家屋調査士においても、この機能の弱い部分を見つめ直す必要があるのだと思います。

「安保法制と政治連盟」

2015-11-09 11:42:34 | 日記
「安保法制と政治連盟」と題するコメントをいただきました。このところこのブログに寄せられる「コメント」は、「お前はバカだ」と「俺はエライ」の二つの旋律しかないような状態が続いていて、わが業界のレベルがここに現れているのだとしたら悲しいものだ、と思っていたところでしたので、久しぶりにまともなコメントをいただき、ありがたく思っています。

直接お答えするわけではありませんが、この問題を巡って考えたことを書きます。

考えたことの一つは、私たち土地家屋調査士が、「安保法制」をめぐる問題を、どのような立場で、どのように考えたのか?ということについてです。
「安保法制」をめぐる論議の中では、「違憲性」「立憲主義」ということが問題になり、「法的安定性」ということが問題になりました。そのような問題状況の中で、法律に関する民間の専門家の多くの方が、その職業的な立場から「安保法制」への考えを表明し、さまざまな行動をとりました。
この中で、私たち土地家屋調査士は、どうだったのか?・・・「法」に関わる専門的職業にたずさわる者としての観点からこの問題を考える、という視点がそもそもあったのか?ということです。

十数年前の司法制度改革の中で「隣接法律専門職」ということが言われ、土地家屋調査士もその一翼にかろうじて入れられた、ということがありました。その後、「隣接」というのは、「本体」があっての「隣接」ということで不適当だろう、ということで「法律関連専門職」という用語を使うようにしてきたのですが、「隣接」だか「関連」だかはともかく「法」に関わる専門職である、ということが実際の職務の中で意識され定着される、ということが全体として実現できているのか?・・・という問題です。

・・・ということを書いていたら、7日の大分会の研修会で、鹿児島会の谷口前会長が、司法制度改革の時期のことを手際よくまとめて話してくださっていました。谷口さんは、その上で「調査士への社会的な認識の広がりを実現するために政治連盟が作られた」ということを強調されていて、なるほどそういう面があるのか、と思わされました。確かに、ある事象があったとき、その原因としては主体的なことと客体的なことがあるわけです。今の問題で言えば、調査士が主体的に「法律専門職」と言えるものとしてあるのか、という問題と、社会が調査士をどう評価しているのか(それが足りないのではないか)という問題です。この二つは、どちらも追求しなければならないものですが、現実の問題としては、「俺たちはちゃんとしているのに世間が認めてくれないのがいけないので、それをどうにかするべきだ」という方向に流れて行きがちであり、実際にそのような形で問題の「解決」が図られた、と言えるのでしょう。
その中で、「法律に関わる専門職」としての視点に立って物事を考えて行こう、そのための主体的な努力を重ねて行こう、という姿勢が弱くなってきてしまったように思えます。
このような形になってしまった要因には、主体的な努力不足、ということもりますが、司法制度改革が全体として思うような成果をあげず、行政改革も目覚しい進展を見せるとは言い難い状態が続いている中で、土地家屋調査士も従来通り行政補完的役割を果たしていれば何とかなる、という気分が広がっている、ということもあるのでしょう。この中で「法律関連専門職としての確立」という課題が後景に追いやられている、という現状です。
しかし、「改革」が遅々として進んでいないからと言って「改革」を必要とした現実の諸問題が解決された、ということではありません。なすべきことができていない、ということは、解決すべき問題が蓄積してしまう、ということであり、今後一層急激に問題解決を迫られることになるでしょう。調査士の問題としては、その解決に寄与しうる者としての自分たちの確立が必要であり、それなしには社会的存在意義そのものが問われることになる、ということには何らの変化はないのです。ここでの立ち遅れは、土地家屋調査士業界が抱えている最大の問題と言うべきものなのだと思います。
わが国における、「法的安定性」が問題にされた時、「法」とそれにもとづく「安定」を職業的な課題とする者として、もう一度考えてみる必要がある、ということなのだと思います。