大分単身赴任日誌

前期高齢者の考えたことを、単身赴任状況だからこそ言えるものとして言ってみます。

オウム真理教への死刑執行

2018-08-07 19:32:05 | 日記
先月、オウム真理教の13人に対する死刑が執行されました。
死刑執行が2回に分けて行われたことについては「一度に13人の死刑を行うとジェノサイトとの批判を受ける恐れがある」ということを理由の一つとしてそのようにされた、と報じる新聞もありますが、「2回」に分けたところでその性格に変化が生じるものとも思えません。「国家による大量虐殺」ということには変わりはない、と言うべきでしょう。
この大量処刑を受けてEUなど海外からは死刑制度への批判がありましたし、国内でも日弁連は「死刑執行に強く抗議し、直ちに死刑執行を停止し、2020年までに死刑制度の廃止を目指すことを求める会長声明」を出していますが、主要なメディアの場ではほぼ何の議論もおきていないようです。
そのような「世論」の潮流を意識してなのかどうなのか、上川法務大臣は、麻原ら7人への死刑執行命令にサインをした翌日に「赤坂自民亭」の「女将」としてにこやかに酒食を供していました。なんともイヤな気分になります。少なくとも「生命の尊厳への冒涜」だと思ったりしないのかな?と大いに疑問です。

今回の死刑執行については、そもそも「多くの国民が理解し納得する死刑」として麻原彰晃への執行があったのであり、これによって「やっぱり死刑は必要だ」という「国民世論」はますます強固になったのかもしれません。
しかし、それでいいのか?・・・と私は考えます。少し書きます。

日本では死刑制度の存続を支持する意見が80%を超える、と言われます。
内閣府が2014年11月に全国の成人3000人を対象に実施(回答率60.9%)した。死刑制度の存廃について、国民の意識は「死刑は廃止すべき」との答えが9.7%で、「死刑もやむを得ない」との答えが80.3%を占めた。」(「nipponn.com」の記事(https://www.nippon.com/ja/features/h00101/)
死刑存続支持の理由としては
死刑容認を支持した人が挙げた理由(複数回答)は、「死刑を廃止すれば、被害者やその家族の気持ちがおさまらない」(53.4%)、「凶悪な犯罪は命をもって償うべきだ」(52.9%)などだった。(同)
ということです。麻原に対する一般的な感情として、「あれだけ悪いことやったんだからぶち殺してやるべきだ」というのがあり、それが「死刑制度」を支持する理由になっているのだと伺われます。
たしかに麻原の行ったことは「卑劣の極み」であり、「万死に値する」ものであり、「死をもってしか償い得ない」ものであるように思えます。
しかし、では他の12人についてはどうでしょう?確かに、この12人も相当ひどいことをしています。だからこそ死刑判決を受けたわけです。しかし、その罪責を麻原と比較したときには、やはり麻原の方が重い、ということになるのだと思います。
そうだとしたら、麻原も他の12人も同じ「死刑」でいいの?という疑問が出てきます。「死刑」が「究極の刑罰」だとして、「それ以上は区別のつけようがない」ということになってしまうのか?もしも罪責の違いがあるのなら、「被害者感情」からするのであれば死刑囚のなかでも差をつけるべきなのではないのか?という疑問です。
この疑問に対する一つの解決方法は、死刑の方法を変えることです。古来、死刑には様々な方法がとられてきています。火あぶり、釜茹で、鋸挽き等々、人類はその英知?を振り絞って「罪人」にその悪業に応じた死を賜る方法を考えてきたわけです。
そのようなことからすると、たとえばより罪責の重い麻原には、より苦痛の大きな方法による処刑をして、反省の情の顕著な中川さんや豊田さんなどには苦痛の少ない薬物投与等の方法をとるようにする、ということも考えられていいのでは?ということになります。
しかし、これはできないことになっています。それは、直接的には、今の日本では、死刑の方法は「絞首」と法定されている(刑法11条1項「死刑は、刑事施設内において、絞首して執行する。」)ので、他の方法はとりえないことになっているからです。このような時代錯誤的な規定が今も残っている、ということ自体問題だとは思うのですが、この「絞首」という方法に関する規定をいじるとなると、様々な問題が噴出してしまうので、なかなかその改正に手を付けることができない、ということなのでしょう。
そして、さらにこの「絞首」規定を改めて、「罪責に応じた処刑方法」をとれるようにしようとしても、さらに問題があります。憲法上の制約、という問題です。
憲法第36条は 「公務員による拷問及び残虐な刑罰は,絶対にこれを禁ずる」と規定しています。ですから、もしも罪責のより重い麻原には、より苦痛の大きな処刑方法を、ということにするとすれば、それは「残虐な刑罰」を選択するということを明らかにすることになってしまいます。また、もしも、より苦痛の少ない薬物投与の方法などを取るようにするのであれば、それとの比較において苦痛の大きな、たとえば現行の「絞首」のような方法は「残虐な刑罰」にあたるのではないか、ということになってしまいます。
しかし、「残虐な刑罰」って一体何でしょう?おそらく火あぶり、釜茹で、鋸挽き、八つ裂きといった方法がそれにあたるのでしょう。では、ギロチンはどうでしょう?刑の執行によって首がポロリと落ちてしまい夥しい流血を伴うこの方法は、私の感覚からすると「残虐な刑罰」にあたります。しかし、この方法はフランス革命において、受刑者の苦痛を和らげる「人道的な処刑方法」として採用されたものだそうです。処刑される人の直接的な苦痛ということで言えば、日本で行われている「絞首」刑はギロチンよりもはるかに大きな苦痛を与えるものなのだそうです。
こうしてみると「残虐な刑罰」とは何なのか?はっきりとわからなくなってしまうので、角度を変えて、ではなぜ「残虐な刑罰」を禁止するようにされている(憲法で規定されている)のでしょうか?
これは、先のギロチンがフランス革命のなかで「人道的」理由から採用された、ということからも明らかなように「人道的」な理由、死刑になる(殺される)人の「人権」に配慮したから、ということなのだと思います。
「人権への配慮からのギロチン」ということが象徴的に示しているように、やはり「死刑」というのは、そもそも矛盾をはらんだものである、ということになります。「報復感情」を満足させたいけれど、「残虐」にしてはいけない、というのは無理がある、と言うべきでしょう。少なくとも近現代の刑罰思想として考えたときには無理が出てくるのです。
だからこそ、先に引用した「nipponn.com」の記事から改めて引用すると
死刑に関する諸外国の動きはどうか。国際人権団体のアムネスティ・インターナショナルが2014年に公表した報告書「世界の死刑統計2013」によると、2013年末現在、死刑を全面的に廃止した国は世界で98カ国。10年前の2004年(85カ国)より増加している。また2013年には、22カ国で死刑執行が行われたが、2004年(25カ国)より若干減った。(同)
ということであり、「今回のワールドカップ16強のうちで死刑制度のあるのは日本だけ」ということにもなっているわけです。

オウム真理教という極悪の犯罪を犯した者たちに対してなされた「死刑」であるからこそ、「そうだ、そうだ、殺してしまえ!」という直反応だけでなく、もう一歩考えてみる必要があるのか、と思います。そしてその際、日弁連という在野の法曹団体が(その中に根強い反対論を抱えつつ、また社会的には圧倒的な少数派でありながら)「死刑制度廃止」の方向を打ち出していることの意味を(社会的問題の法的意味、法的問題の社会的意味を)考える必要があるのだと思います。