大分単身赴任日誌

前期高齢者の考えたことを、単身赴任状況だからこそ言えるものとして言ってみます。

「昭和」への大後退ー筆界管理の基本的な考え方について

2021-07-08 14:33:00 | 日記
「筆界認定の在り方の関する検討会」を主催した「金融財政事情研究会」から「『筆界の調査・認定の在り方に関する検討報告書』の解説」という小冊子が発刊され、日調連からも周知のための「お知らせ」がなされています。「検討報告書」本体だけでなく、検討会の資料も掲載されているもので、内容の理解のために欠かせないものと言えるでしょう。これを読んでみて、前回までに書いたことに付け加えること、やや修正すべきことがあるように思いましたので、以下書くようにします。


前回まで「筆界の調査・認定の在り方に関する検討報告書」について長々と書きました。長いわりに意を尽くせないものだったのですが、さらに考えの浅い部分もあったか、と反省する部分もあります。
「検討報告書」に対する私の考えとして書いたのは、「基本的な考え方を整理した『本文』と、その考え方に基づいてより実務的に代表的なケースを類型的に整理した『資料』に分かれている」とされる「検討報告書」について、「本文」はいいけれど「資料」はよろしくない、というものです。その上で、「資料」部分の問題をさまざま挙げました。
しかし、「資料」が「本文」の「基本的な考え方」に「基づいて」いるものであることからすると、単に「資料」だけが問題で「本文」はよろしいのだ、というのも変な話です。
考えてみると、このようなことになるのは、「本文」における「基本的な考え方」というのが、何についての「基本的な考え方」であるのか?ということによるのだと思えてきました。それが、「筆界認定の在り方」自体に関するものなのであれば、このようなことにはならないはずです。そうではなく、問題が「筆界確認情報」の取り扱い方、ということに限定されてしまっているので、その限定の中においては「筆界確認情報の提供を不要とするべき」ケースを多くする、という「基本的な考え方」はよろしい、ということになるのですが、もっと広く「筆界認定の在り方」自体に関するものとして考えると問題がある、ということになるわけです。
また、「筆界認定の在り方」という問題は、筆界認定を行った上でそれを管理していく、ということまでを含んで考えるべきだと思えますので、「筆界管理の在り方」の問題としてあります。
そのように「筆界認定の在り方」「筆界管理の在り方」の問題として考えてみると、「筆界確認情報」をめぐる問題というのは、主に何に依拠して筆界を認定し管理していくのか?という問題(の一部)である、ということになります。
「筆界確認情報」を「筆界認定の有力な証拠として取り扱っている」ということは、「証拠」を「人証(ひと)」「物証(もの)」「書証(情報)」と分けるなら、「人証」を重視している、ということです。そして、「検討報告書」では、その「人証」たる(筆界確認)「情報のみに依拠することは必ずしも相当でな」い、としています。ここまではよいのです。
では、その上でどうするのか?というのが問題です。「人証」への過度の依存をやめる、ということは、今までより以上に「物証」「書証」を含めた考慮が必要になる、ということです。これは、まさに「総合考慮」として行わなければならないのですが、「検討報告書」ではそのバランスがおかしくなっているように思えます。
端的には、本文の「第2」の「4」として「付言(永続性のある境界標の設置について)」が置かれていることに見られます。「付言」というのは、手元にある辞書を見ると「言い終わった後で、付け加えて言うこと」とあります(「明鏡国語辞典」)。まさに、言い終わった後で付け加えて言っていることなのですが、それまでの論調と断絶したところで「蛇足」になっているように思えてなりません。
その重視ぶりは、次のように言われています。
「境界標は、その設置によって、現地において目視することのできない筆界の位置をその境界標を現認する人々に対して現地に表現し、権利の客体となる土地の区画を明確化させることができるものである。/そのため、筆界点としての正しい位置に永続性のある境界標を正確に設置することによって、後日の境界紛争や工作物の越境に伴う紛争等の発生を未然に防止する効果を期待することができる。このほか、別添資料において検討したとおり、登記官が筆界の調査・認定を行う際にも物証として重要な判断資料となり得るものであり、例えば、隣接土地の所有権の登記名義人の所在を把握することができず、そのため筆界確認情報の提供等がない場合であっても、現地に境界標が存することによって登記官が筆界の認定を行うことが可能となるケースも生じるなど、不動産取引の前提となる筆界関係登記の申請について、より円滑な処理を実現することができるものと考えられる。」

このように、「筆界管理」のためにも、「筆界認定」のためにも「境界標」が重要であることを強調してやみません。
しかし、「筆界管理」ということで言えば、現地における「境界標」の重要性もさることながら「地図」(不登法14条1項地図)や「地積測量図」の情報内容を豊富化することによって行っていく、ということもあるわけですし、むしろこれまでこの「情報」面こそが重視されてきたのだと思えます。
そのことは、「検討報告書」の「資料」第1-1の補足説明で説かれている地積測量図の変遷にも明らかです。
すなわち、地積測量図に記載するべき事項について、次のような変遷があります。1977年(昭和52年)からは「土地ノ筆界ニ境界標或ル時ハ之ヲ記載スベシ」として境界標の記載がうたわれ、1993年(平成5年)からはこれにくわえて「境界標ナキトキハ適宜ノ筆界点ト近傍ノ恒久的地物トノ位置関係ヲ記載スベシ」として「位置関係」を距離・角度で記載すべきものとなりました。これは実質的には座標値(任意座標)を記載することと変わりません。そして、2005年(平成17年)からは「基本三角点等に基づく測量の成果による筆界点の座標値」の記載を基本として、最低でも任意座標値が記載されることとなりました。この変遷はすなわち、境界標が設置されることが望ましいことは変わらないにしても、境界標がない場合でもこれらの「情報」を蓄積することによって筆界点の位置を特定できるようにしよう、としてきているわけです。「物」に頼るだけではなく、「情報」でも十分やっていけるだろう、という方向に変化してきた、ということなのだと思います。
しかし、「検討報告書」ではこのような変遷、「情報」による筆界関係の安定化への努力の歴史に反するかのように、「情報」の意義を低く見て、「境界標」を偏重する傾向が見えます。2021年から1977年への40数年の後退、元号で言えば「令和から昭和への大後退」がなされようとしていのです。
・・・こう言うと、「何を大げさなことを言ってるんだ?そんなことあるはずないだろう」と思われる方がいるかもしれません。しかし、そんなことないのです。実際に、よく見てみると「40数年の大後退」を見て取れるはずです。見てみましょう。

先に紹介したように「市街地地域」で「筆界が明らかであると認められるための要件」として
「ウ 登記所に筆界の復元基礎情報といい得る図面情報が記録された地積測量図の備付けがある場合において、当該情報に基づく表示点の位置に対して、公差の範囲内に境界標の指示点が現地に存するときの当該指示点」

というものが挙げられています。これは、山林・原野地域では「当該情報に基づく表示点」として、境界標に関する記述がなく、そのまま「筆界が明らかであると認められる」とされているのに対して、市街地地域については「表示点の評価を厳密にする」ものとして、境界標の位置を筆界と認めるべきものとしているものです。
このような「結論」は、①「情報」によって筆界認定できるケースでも「境界標がない」という理由で「筆界認定できない」ということにしてしまうことになり、「筆界確認情報に頼らない筆界認定」という基本的方向性を実現できなくするもの、であるとともに②「情報」の示す位置ではなくて「境界標の位置」を筆界だと認定してしまうように決めつけてしまい、誤った筆界認定をすることになってしまう危険性を有するとともに、そこにつけ込んでの不正を誘発しかねないもの、としておかしいものです。このおかしさは、このような「結論」に至った「理由」を見ると、さらにはっきりとします。
長くなりますが、「検討会資料2」(「解説」冊子P68-69)から引用します。
土地の区画が明確であるといえる場合については次のA案又はB案の考え方があるが、どのように考えるか。
●一筆地の図面情報
[筆界に関する現況が存しない場合]
【A:土地の区画は明確であるとする案】
復元点は許容される公差(測量誤差)の範囲内に復元されていることから、復元点を筆界として認定することができる。
【B:土地の区画は明確であるとまではいえないとする案】
復元点は許容される公差(測量誤差)の範囲内に復元できるにとどまるものであることから、復元点を筆界として認定することは困難である。
[境界標が設置されている場合]
【A:土地の区画は明確であるとする案】
境界標の指示点が筆界点であると強く推認することができるため、他の筆界に関する現況や筆界確認情報を考慮するまでもなく、境界標の指示点を筆界として認定することができる。
【B:土地の区画は明確であるとまではいえないとする案】
許容される公差(測量誤差)の範囲内であるとはいえ、復元点の位置と厳密に一致していない状況においては、筆界確認情報及び境界標以外の筆界に関する現況等を考慮して筆界の位置を判断する必要があり、境界標の指示点を筆界として認定することは困難である。

この「A案又はB案」の検討がなされた後に、上記「ウ」が「結論」として出された、ということになります。すなわち、[筆界に関する現況が存しない場合]については「B案」、[境界標が設置されている場合]については「A案」を採用した、ということです。
私は、そもそもこの「A案」「B案」の設定そのものがおかしいとは思うのですが、それを言い出すと長くなるので、この設定の上で考えてもなおおかしい、ということを書くようにします。
まず、[筆界に関する現況が存しない場合]について「B案」を退ける理由として「復元点は許容される公差(測量誤差)の範囲内に復元できるにとどまるものであることから」と言われています。そんなことを言い出したら、そもそも地積測量図等の(図面)情報には筆界の現地特定機能(「点・線」としての特定機能)というものは成立しえない、ということになってしまいます。常に「許容される公差(測量誤差)の範囲内に復元できるにとどまるもの」でしかない、ということになってしまうのです。ここには、当該資料の正確性に関する検討・評価もなにもありません。確かに古い資料の中には「許容される公差(測量誤差)の範囲内」でしかない(あるいは「範囲外」のおそれも含めて)と判断せざるを得ないものもあるかもしれません。あるいは、新しいものでも不良調査士の作成したものや、官公署が測量業者に作成させた地積測量図に同様のものがあるかもしれません。しかし、少なくとも新しいものの多くは「点・線」での特定機能を有するものと評価・判断しうるものだと思います。そのようなものを作成して登記所に備え付け、蓄積していくことによって安定的な筆界管理ができるようにしよう、と法務省も調査士も努力を続けてきたのだと思います。そのようなものとして1993(平成5)年からは「境界標ナキトキハ適宜ノ筆界点ト近傍ノ恒久的地物トノ位置関係ヲ記載スベシ」として、境界標の設置がない場合においても情報として筆界点の位置を記録して明らかにする、という方策が追加的にとられるようになったわけです。それなのに、「情報」の「復元」というのは「公差(測量誤差)の範囲内に復元できるにとどまる」としてしまうというのは、この意義を否定してしまうものです。1993(平成5)年改正の否定、1977(昭和57)年への回帰、の考え方です。

一方、[境界標が設置されている場合]について「A案」を採用した理由ですが、「境界標の指示点が筆界点であると強く推認することができるため」と言われています。しかし、一体どうして「強く推認される」のでしょうか?まったく根拠はありません。勝手に決めつけているだけです。
この決めつけは、次のような言い方を見るとより顕著です。
それは「5 地積測量図に記録された境界標の種類と同種ではない境界標が設置されている場合等について」の検討を行っている部分です。
この場合について、結論としては「そのため、地積測量図に記録された境界標の種類と実際に設置された境界標の種類とが同一であることは要件とはしていない」としていて、その結論自体は妥当だと思うのですが、理由として言われていることはおかしい、と言わざるを得ないものです。次のように言われています。。
地積測量図に記録された境界標の種類と同種ではない境界標が設置されている場合とは、当初に設置された境界標が何らかの事情で取り除かれたため新たな境界標を設置したケース等が考えられ、地積測量図に記録されていない境界標が現地に存する場合とは、筆界関係登記の申請時には境界標が設置されていなかったため当該申請に併せて提供された地積測量図に境界標の記録はないが、その後に境界標を設置したケース等が考えられる。いずれの場合にも境界標の設置誤差や設置位置の誤りを考慮する必要はあるものの、表示点の公差(位置誤差)の範囲内に境界標の指示点が存している場合には、境界標の指示点が筆界点であるとする一定の推認力が働くと考えられ、境界標の指示点が筆界点であることを否定する資料がないときには指示点をもって筆界と認定することは可能であると考えられる。

ここでは、先に「強く推認される」と言われていたものが「一定の推認力が働く」というようにややトーンダウンしてはいるものの、結論としては同じように「推認」できるものとしています。しかし、「情報」(地積測量図の座標値)が「X=50.000,Y=100.000」となっているので、その位置に境界標を設置しようとして、「その後に境界標を設置した」位置が「X=50.040,Y=99.960」となっている場合、X方向に4㎝、Y方向に-4㎝(北西方向に5.6㎝)の「境界標の設置誤差や設置位置の誤り」があった、ということになる(ちなみにこれだけの誤差は、「筆界点の位置誤差」についての「甲1」での公差、「甲2」での平均二乗誤差内です)わけで、他に理解のしようはないように思えます。それなのに、何故「境界標の指示点が筆界点であるとする一定の推認力が働く」と言えるのか、さっぱり訳が分かりません。このような場合には、地積測量図の示す位置(50.000,100.000)が筆界点である、と判断するのが基本でしょう。もっともその上で「境界標の指示点(50.04,99.96)が筆界点である」という判断を(新たに)する、ということがあってはいけないわけではないとは思います。それは、まさに「検討」の上での「判断」としてなされるべきものであって、そのようにするべきものとして決めつけるのは間違いです。ましてや「境界標の指示点が筆界点であるとする一定の推認力が働く」という全く根拠のない面妖な「理由」をくっつけるべきではありません。

先に「本文」の「付言」で見たように、確かに「「境界標は、その設置によって、現地において目視することのできない筆界の位置をその境界標を現認する人々に対して現地に表現し、権利の客体となる土地の区画を明確化させることができるものである。」と言うことができます。ですから、「杭を残して悔いを残さず」と言って境界標の設置を促進させようとすることには、現実の社会経済活動の円滑な推進のために意義がある、と言えます。
しかし、それを必須のものと考えることはありません。この社会には「筆界を明らかにする業務の専門家」がおり、不動産登記制度における情報の蓄積が図られているわけですから、たとえ「境界標ナキトキ」においてもその情報によって「筆界の安定」は実現できる、と言うことに努力するべきだし、強調するべきだと思うのです。
また、「検討報告書」の先の解説の後の個所では、
「境界標は、隣接関係にある土地の所有者の一方によって隣接土地の所有者の確認を得ないまま設置されるケースや、一方の所有者によって勝手に移設されるケースもあることは常に念頭に置いておく必要がある」

という指摘もなされています。そのようなこともある「境界標」について無前提に「強く推認される」とか「一定の推認力が働く」と決めつけてしまい、他方で地積測量図などの数値情報について「公差(測量誤差)の範囲内に復元できるにとどまるもの」だと貶めてしまうのは、とても正しい態度だとは思えません。根拠なき半世紀の後退と言うべきものだと思います。

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