大分単身赴任日誌

前期高齢者の考えたことを、単身赴任状況だからこそ言えるものとして言ってみます。

「山口達也メンバー」って・・・?

2018-04-26 21:12:13 | 日記
今日の午後2時、スマホがブルっと鳴るので何かと思ってみてみると、「山口達也会見、AbemaTVで中継」とのことだったので、つい見てしまいました。われながら馬鹿だね。
「会見」は、冒頭のジャニーズ事務所顧問弁護士の説明も、本人の「挨拶」も、何故か周囲に記者たちが群がってする質問も、どれもこれもが低劣なもので、見るに堪えるものではありませんでした(これがジャニーズ事務所の「危機管理」というものなのでしょう)。馬鹿だね・・・。私が・・・。

ところで、この事件の報道で気になったのが、「山口達也」氏に関する呼称です。例えば、朝日新聞では、「人気アイドルグループ「TOKIO」の山口達也メンバー(46)」と呼んでいます。NHKも同じです。
「山口達也メンバー」って、とってもおかしな呼び方なので気になってしまいます。
「強制わいせつの疑いで書類送検」されたわけですから、「容疑者」でもよさそうなものなのに、何故?と思って調べてみると、次のようなことでした。

「逮捕状が出てから指名手配、逮捕、送検までは『容疑者』」、「実名を出す場合の任意調べ、書類送検、略式起訴、起訴猶予、不起訴処分は『肩書き』または『敬称(さん・氏)』を原則」(共同通信記者ハンドブック)としている、ということだそうです。(Wikipedia。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A2%AB%E7%96%91%E8%80%85)

要するに「逮捕」されるか否か、ということが分かれ道になる、とのことです。しかし、この「逮捕するのかどうか?」ということは、捜査機関がかなり恣意的にきめることです(それ自身とっても問題だと思いますが)。マスメディアが、その捜査機関の判断に従って捜査対象になっている人の呼称を言わば自動的に決める、というのは、報道機関としての自主的な判断を放棄した無責任・無定見な態度のように思えます。
そもそもこの「容疑者」呼称というのは、

「1980年代半ばから暮れ(昭和末期から平成初年)にかけ、ほとんどの放送・新聞などのマスメディアは「容疑者」という呼称を用いるようになった。読売・毎日・朝日の各紙は、それぞれ1面で容疑者という呼称をこれから使用することを述べている。それによると、以前は「実名呼び捨て」であったが、被疑者は無罪を推定されている立場であり、基本的人権の観点から呼び捨ては適正でないことを挙げている。」(同)
というものです。「基本的人権の観点から」わざわざ使われるようになった言葉だというのですから、もしもその趣旨が本当なのであれば、「逮捕」の有無如何にかかわらず、在宅の人も含めて法的に「被疑者」だとされる人については、ひとしく「容疑者」と呼ぶようにすればいいのだと思います。そうできない、というのは、「容疑者」という呼称が、実はなんら「無罪推定からの人権擁護の観点」から使われているわけではないことを自ら暴露してしまっているもののように、思えてしまいます。大体、なぜ法的な用語である「被疑者」をつかわないのか?ということについて「『被害者』と混同されがちだから」みたいな理由をつけていますが、「被=こうむる」と「容=いれる」では意味が全く違います。「容疑者」と言っている時点で「有罪推定」のにおいがかなり強くなっている、ということなのではないか、と思えます。

そもそも、この犯罪報道における「実名報道」というものに、どういう意味があるのか?・・・疑問です。
最近、ニュースを聞いていてそう思ったものとして、次のような事件がありました。(九州のテレビニュースで聞いた事件です。)
 
20歳大学生の男逮捕 7歳男児自転車ひき逃げ 容疑認める 札幌市中央区:4/20(金) 12:45配信 北海道ニュースUHB
  先週、札幌市中央区で小学2年生の男の子が自転車にはねられて重傷を負ったひき逃げ事件で、警察は、札幌市の20歳の男を逮捕しました。
 道路交通法違反などの疑いで逮捕されたのは、札幌市豊平区の大学生・○○〇〇容疑者(20)(原文は実名)です。
 この事件は4月9日、札幌市中央区南9条西3丁目のコンビニ前の歩道で、店から出た小学2年生の男子児童が右から来た自転車にはねられ、左足の骨を折る重傷を負ったものです。
 はねた白い自転車の男はそのまま現場から走り去っていて、警察は画像を公開するなどして行方を追っていました。
 警察は、19日までに事情を知っているとみられる○○容疑者を見つけ、20日朝から話を聴いたところ、容疑を認めたため逮捕しました。
 警察は自転車の確認を含めさらに事情を聞いています。

.
たしかに7歳の子供が重傷を負わされた事件ですので、同年代の孫をもつ私としても穏やかでないところがあるのですが、それにしてもこれが全国的に実名報道されるべきことなのか?と思います。自転車じゃなくて自動車だったらどうなの?と思いますし、公開されている画像を見るとそれほど悪質なものだとは思えず、20歳になったばかりの若者を実名で「容疑者」として全国に知らしめる意味がどこにあるのか?と思います。
そして、あらためて「人気アイドルグループ「TOKIO」の山口達也メンバー(46)」に戻れば、この20歳の若者を「容疑者」と呼ぶのに対して、山口氏を「容疑者」としないのは、あまりにも均衡を欠く、と思うのです。

「不在者財産管理制度と土地家屋調査士」

2018-04-19 21:40:57 | 日記
先日、日調連の「eラーニング」のコンテンツに新しいものが加わった、との連絡があったので、見てみました。
このeラーニング、しばらく見ない間に随分と増えているのだということに、まずはビックリ。いっぱい勉強できる素材がある、というのは大事なことではありますが、反面、何が大切なのか?が分からないくらい拡散してしまうことの問題、ということもあるように思えてしまいます。

その上で、新しいコンテンツである「不在者財産管理制度と土地家屋調査士~土地家屋調査士の業務との関連から~」というのを視聴してみました。所有者不明土地問題が大きな問題となる中、「大切なこと」に関するものだと思ったからです。

感想を言うと、まず「看板に偽りあり」です。タイトルのなかに「土地家屋調査士」という言葉が2回も出てくるので、土地家屋調査士に焦点を当てて「不在者財産管理制度」を解説しているのかと思ったのですが、そういうものではありませんでした。ごくごく一般的な、たとえば市町村の公民館で開催される「法律セミナー」とかで話されるであろうものと同じようなものでした。
「土地家屋調査士の業務との関連」というところでは、要するに不在者財産管理人からの依頼によって「筆界確認」をしたり「分筆登記」をすることがある、というだけのことが言われています。そんなの「不在者財産管理人」だろうとそうでなかろうと関係ないじゃないか!という話です。
たぶん、タイトルは日調連側で準備して、講師はそれに沿った話にしようと思ったのだけど、なにも思いつかなかった、というようなことなのではないか、と思われます。お粗末!

なぜこんなことになっちゃううのでしょうか?
研修を準備する側に、この問題にかかわる方針がないから、なのだと思います。
講義のなかで、「財産管理人になる資格」ということが言われていました。そこではまず、「財産管理人になる資格に法律上制限はない」ということが言われます。その上で、「しかし実際には」ということでして、「法律専門家」が選任されることが多い、として「弁護士だとかわれわれ司法書士が」選任されることが多い、と説明されます(講師は司法書士さんです)。
その上で「土地家屋調査士が、家庭裁判所から不在者の財産管理人として選任されることはあるか?」という設問を示して、それへの「回答」として、「土地家屋調査士は、表示の登記等の専門職ではあるが、財産管理の専門職ではないので、家庭裁判所から専門職として選任されることはない」ということが妙にキッパリと言われます。
そうなの?と疑問です。そもそも「財産管理の専門職」なんてものがあるのかな?というのが疑問ですね。すぐ前には「法律上制限はない」としていて、「実際上」の問題として弁護士・司法書士が「法律専門家」として選任されることが多いだけだ、とされていたのに、あたかも弁護士・司法書士が「財産管理の専門職」であり、だから選任されている、みたいに言う、っていうのはちょっと違うんじゃないの?と思います。
大体、弁護士について「財産管理の専門職」だとするのは、破産管財人に弁護士がなることからも、まぁそう言えるのかな?と思いますが、司法書士が「財産管理の専門職」だとは(元々は)到底言えないように思います。先の土地家屋調査士に関する言い方を倣えば「司法書士は、登記・供託や裁判書類の作成などの専門職ではあるが、財産管理の専門職ではない」とするのが、司法書士法の規定から素直に読み取れるところなのではないか、と思えるのです。

・・・と言っても、別に私は「司法書士が財産管理人に専門職として選任されているのがいけない」ということを言いたいわけではありません。司法書士は、その法的規定そのものからすると無理筋だと思えるようなことについても、積極的に「職域拡大」のための努力を対外的にも体内的(主体的)にもおこなって、以前の「弁護士不足」という時代情勢にも助けられてその実現を勝ち取ってきたのでした。その上で、不在者財産管理人への選任やら成年後見人への選任、といったことが「実際上」(部分的には法令上も)なされるようになっているわけです。このような「拡大志向」には、控え目な性格の私からすると、傍から見ていて見苦しいと思えるところもなくはないように思えますが、それにしても「努力の賜物」だということは言えるのだと思います。

さて、それに引き換え、という話です。
所有者不明土地問題が大きな社会的問題になり、不在者財産管理制度やそれへの資格者の関わりが問題になる中で、積極的な関与をしていこう、というところで「eラーニング」にもこのコンテンツが入れられるようになっているのだろうに、その中で、「土地家屋調査士は、表示の登記等の専門職ではあるが、財産管理の専門職ではないので、家庭裁判所から専門職として選任されることはない」とキッパリと言ってしまう(言わせてしまう)、というのは何なんだろうな?・・・素直な疑問です。

「土地家屋調査士調査情報保全管理システム『調査士カルテMap』について」

2018-04-11 16:13:40 | 日記

日調連の会報「土地家屋調査士」3月号に、「土地家屋調査士調査情報保全管理システム『調査士カルテMap』について」という記事が載っていたので、一言。
この「調査士カルテMap」については、昨年末から「運用」が開始されたとのことであり、私としては「百害あって一利なし」の愚策だと思いつつ、あまりのばからしさに、これまで何も触れずに来ました。本当にまともな判断力を持った大人がやろうと思うことだとは、どうしても思えないようなものなので、話のとっかかりがつかめない、ということもあるのですが。
ところが、その「話のとっかかり」が、この記事の岡田会長が書いている「前説」で得られました。さすが会長、「百害」の部分を端的に表現してくれているので、せっかくなのでちょっと書いてみようと思います。岡田会長は次のように言っています。
「私たち土地家屋調査士の業務は、人々の気持ちに寄り添い、人生の幸せな瞬間をも共有することができる、とても温かで人間性豊かな内容を含んでいると認識しているところですが、資格者の保有する情報の発信や共有に関する仕組み作りは、立法によってのみ実現するのではなく、資格者組織が独自のスタンダードとして自主的に立ち上げる場面があってもよいことであります。」
・・・失礼!先に「端的に表現してくれている」と言ったのですが、全然「端的」じゃなかったですね。4行弱の文章のうち前半の2行近くは、後半の結論部分と何の関係もない、と言うか何の意味もないもので、全然「端的」ではありません。しかし、このような昔の少女漫画みたいな「なんとなく温かくて人間的」雰囲気で無内容の極致をカムフラージュした気分になれる、というところに「百害」が端的に表現されている、と言えるのかもしれません。
・・・で、後段の問題です。ポイントは「立法によってのみ実現するのではなく」というところにあります。ここでは、「立法によってのみ」ではない、と「のみ」と言っていますが、ほかのところに「立法」があるわけではありませんので、ここでの「のみ」は何か意味を持ったものではありません。つまり、「立法によってではなく」やっていくんだ、ということを言っている、というところにこの文章の「意味」があります。「立法」の追求の放棄、です。
ところで、日調連のような全国組織の役割は「立法」の追求にある、というべきです。それは、「法」の形式において「制度」を問題にする、ということです。「制度」を「立法」による「改革」を含んで問題にするところに、全国的な組織の存在意義があるわけです。そのようなところから、土地家屋調査士法等の資格者法には「・・・連合会は(その資格者の)業務または制度に関して(主務大臣に)建議することができる」という規定が設けられています。行政上のさまざまなことについては行政機関(官庁)において基本的に決定・執行していくとしても、「現場」での問題にじかに当たっている民間資格者の声をも吸い上げて、問題の解決、より良い行政事務の実現を追求する、ということが、その趣旨であり、資格者制度の民主主義的なありかたの一つの表現だと言えるでしょう。
ところが、資格者(団体)側は、往々にして「業界(者)団体」としてその個別的利害の追求に走りがちですし、行政側も「省益」の追求に走る中で、この機能は十分に働かないことになってしまいがちです。それを受けて、日調連では制度の全体を対象とした「立法」の追求を回避する傾向が、近年とみに強まってきた、と言えます。言わば「行政の言いなり」であり、「行政にとって面倒なこと不利益になることは自主規制して回避してしまう」という姿勢が近年とみに強まっているわけです。ここに「百害」、諸悪の根源があると言えます。
しかし、この「立法」の追求をしない、ということは自分の存在意義そのものを否定してしまうことになります。「そんなものなら連合会なんてなくてもいいじゃないか」ということになるわけです。それではまずいですし、人間というのは何かしら前向きな意義あることをやっているのだと、自分にも他人にも思い込ませたいものなので、何か他のことをしているかのように装うことが必要になります。
「資格者組織が独自のスタンダードとして自主的に立ち上げる場面があってもよい」というのは、このそれ自身として矛盾した表現の仕方からして正直にその「装い」を表現している、と言えるでしょう。「独自のスタンダード」は、「立法」の追求の放棄の免罪符とされるわけです。それが「百害」である所以です。

この「調査士カルテMap」は、ちょっと前までは「旧業務情報公開システム」と言われていたように、「公開」に意義があるものだとされていました。それが、いつのまにか「調査情報保全管理システム」に変わってしまいました。
何故そうなったのでしょう?おそらくは「個人情報(保護)」がネックになった、と考えられているのだと思いますが、そんなことは議論を始める前からわかっていたことです。その上で、「個人情報(保護)」問題をクリアできて、公開することに意義のあるすばらしい情報を土地家屋調査士は保有しており、それを公開することによって、すばらしい成果を得られる、・・・というほとんど妄想に近いようなことを考えて、この「業務情報公開システム」の論議がなされ、結局「公開」はできないので「調査情報保全管理システム」でお茶を濁しておこう、ということになったわけです。
「公開」をしようと思って検討を始めたけれど、「公開」はできない、ということになったのであれば、当初の目論見自体が間違っていた、ということとして反省をして取り止める、ということをするべきなのに、なし崩し的に全く違うものをつくってしまって、「何にも間違ってませんでした」みたいに装う、というのは、とても不誠実で間違った態度です。

なぜ「公開」ができないのか?ということをもっと真剣に考える必要があります。それは、問題を「制度」の問題として考える必要がある、ということです。より具体的に言えば、不動産に関する情報の公開(公示)制度としてある不動産登記制度との関係において考える必要がある、ということです。「業務情報公開システム」において「公開」する、としていた「情報」は、現行の不動産登記制度とどこが違って、どこが優れているのか?劣っているところはないのか?それは、不動産登記制度の改善によってはできないことなのか?ということが真剣に検討されなければならないはずのものです。すぐに「独自のスタンダード」などと言って済まされていい話ではないのです。
また、本当に土地家屋調査士は、それを公開することが社会的に意義のある「すばらしい情報」を持っているのか?ということも反省的に考える必要があります。それは、人間誰だって自分が素晴らしくて意義のあることをやっている、と思いたいものですが、そのような自己満足の井戸のなかにこもってばかりいたのでは、社会に認められるはずもありません。どんな情報を「公開」することが社会的に有意義なのか?それを私たちは本当に持っているのか?ということを(もちろん個人情報の問題を含めて)考える必要があるのです。
そのようなことをせず、当初の目論見の甘さを顧みることなく、「公開システム」を「保全管理システム」に換骨奪胎してしまって何の恥じらいも反省もない、というのは、羊頭狗肉の詐欺商人のやることです。
そこのところを「資格者組織が独自のスタンダードとして自主的に立ち上げる場面があってもよいことであります」として言い訳がましくごまかしてしまっているのですが、「独自のスタンダード」というそれ自身に矛盾を含んだ表現に端的に表れているように、「本当のスタンダード」としての「法的制度」を問題にすることを放棄して、自分たちの穴のなかに閉じこもって、それを「独自のスタンダード」だとしてしまうのは、「社会的信頼性」に背を向ける所業です。繰り返して言いますが、このような態度は、「百害あって一利もない」ものです。

・・・と思ったら、この紹介記事にはそうでもなく、「一利」はある、ということが書いてありました。
「『地図機能』では、全国の住宅地図やブルーマップを制限なく閲覧、検索が可能であり、印刷では複製許諾証が与えられていることから、官公署への提出にも利用できます。」
とのことで、毎月3000円払えばゼンリンの地図機能を使い放題でつかえるという「一利」が立派にある、ということです。結局はこれが最大の「売り」になる、ということなのか・・・、それってあまりにも・・・、とは思いますが・・・。

いずれにしろ、昨年末に始まったというこの「システム」については、連合会、単位会において一定期間経過後にしっかりとした検証をしなければならない、ということなのだと思います。

財務省事件と土地家屋調査士・・・あまり関係ない話を関係づけて

2018-04-05 15:40:10 | 日記
森友学園への国有地の不当廉売-財務省公文書偽装について、一般的なことを書いてきたのですが、ようやく「本題」に入ります。長くなります。

この問題(森友・財務省公文書偽装)について、多くの人は憤り、それによって内閣支持率も落ちています。これがごくまっとうな感覚なのですが、正反対の反応を示す人もいます。
「役人(「官」)を動かすためには政治家(「政」)を使わないといけないってことが、これでも明らかになったんだよ」と、全く逆の「教訓」を得る人です。そういう人たちは「やり方があまりにも拙劣だったので問題になってしまったけど、こんなことはあたりまえにおこなわれていることにすぎないさ」という評価をし、そういうところから、「方針」としては、自分たちの利益のために「政治力を強くして行政に対する影響力を発揮しなければならない」として、「政治活動」に積極的に取り組むことになります。今、現実に「政治活動」に力を入れている人の多くは、このような人たちだとさえいえるでしょう。
非常に古い形での「利益誘導政治」の考え方です。

このような考え方に対しては、まずはごく基本的なところで「政治」というものをそのように私益(もしくは共益)のためのものとして考えるのは誤っており、あくまでも公益のためのものとして考える必要があるのであり、「政治」によってゆがめられることのない公正な行政が追求されるべきだ、ということを言っておかなければなりません。
もっとも、いくらそう言ってみたとしても「何を青臭いことを言ってるんだ」と一蹴されてしまうことでしょうし、「現実を知らないんだから」と馬鹿にされてしまうのだとは思います。
確かに俗流の「現実」、卑小なる「現実」の観点からするとそのようになるのでしょうが、それこそ大きな意味での「現実」を理解しない考え方だと言うべきでしょう。
ごく一般的なことを言えば、「利益誘導政治」というのは、戦後復興-高度成長の時代に、分けるべき「パイ」が大きくなっていた時期に有効なことなのであり、今のような「成熟」した時代に有効だとは言えません。
もちろん、「格差の拡大」に見られるように、構造的なものとしての「利益誘導」はなされており、それによる弊害がもたらされている、ということはありますが、それはまさに制度そのもののありかたを規定しているものなのであり、その意味で構造的になっているものなのであって、個別の利益誘導が有効に作用するということではありません。
そのような中で旧来型の「利益誘導政治」を追い求めると、極端な姿としては籠池氏のようなものになってしまいます。また、そこまではいかないまでも、これまで「疑獄事件」として問題になったものの多くが、新興企業(群)であったり、「傍流政治家」であるように、少し無理をして「政治」を動かさなくてはならない立場にある者であることに明らかなように、「利益誘導」を「構造」にまで高め(?)ることがないと落とし穴にはまってしまうのです。

ということの上で、私たち土地家屋調査士にとっての「政治」というのは、どのようなものとしてあるのだろうか?・・・ということを考えます。
数年前の日調連総会の際に、政治連盟の役員をしている人から、「日調連は政治連盟を抑止力としてだけではなく、より積極的に位置づけるべきだ」というような意見の質問が出されていました。それに対して、当時の執行部の担当者は、「別に政治連盟を抑止力としているわけではない」との返答をしていましたが、「事実認識」の問題として言えば、回答者よりも質問者の方が正しい、と言うべきです。(その上で、「方針」としては、無自覚ながら「抑止力」にとどめることしかしない回答者の方が正しいと言うべきなのですが・・・)
土地家屋調査士における「政治連盟」というのは、たしかに「抑止力」としての役割を果たしているものとしてあります。では、何からの「抑止」なのでしょうか?一言で言えば「官」(ということは監督官庁たる法務省ということになります)ということです。「官」からの「暴虐」とまでは言わないにしても、かなり「上から」の見下したような態度、方針に対して、「政」は「抑止力」になる、というものです。
このような「抑止」が働くのは、土地家屋調査士をめぐる「政」と「官」の関係については、一般によく言われることとして、次のような構造があるとされることがあります。
その構造とは・・・「政」は「官」に対して強く、「官」は調査士に対して強く、調査士は「政」に対して強い(とまでは言えないにしてもまぁ一応)という三すくみの「ジャンケン関係」がある、というものです。
たしかにこの構造に近いものがある、ということは言えるのですが、さらに仔細に見てみると、これはそれほど確固たるものとしてあるわけではありません。
「3命題」をそれぞれみてみましょう。
まず、「『官』は調査士に強い」というのは、「3命題」のなかでは、現実の問題として最も言えてしまうこととしてあります。しかし、それが本質的で逃れがたいものとしてあるのか?と言うと、少し違うように思えます。「強い・弱い」というのは、相互的な関係ですから、調査士の側で「弱い」と決めつけてしまっていることが、この強弱関係を規定しているのだと思えるからです。たとえば、先日決定されたという「土地家屋調査士のグランドデザイン」では、調査士自身が自らの「優位性」を分析するときに、まずまっさきに「国家資格者としての地位をもつ」ということを挙げていることに示されるように、「法務省御用達」に頼る事大主義が調査士の中での支配的傾向としてあります。これは、調査士が克服すべき最も大きな課題なのだと思います。
次に、先に書いたときに括弧をつけずにはいられなかった「調査士は『政』に強い」について。これは、まず「有権者一般が政治家に強い」と言うのと大して違わない意味においては言えます。しかしそうだとするとその「有権者一般」における「力」の源泉は「票」とそれを支える「金」ということになりますから、「強い」力を持つのは「票と金」を提供できる者になるわけで、調査士にそこまでの「強さ」があるようには思えません。・・・その上で、調査士の場合、一般的に言えることとは違う面での「強さ」もあるようには思いますが、それはまた後で。
最後に、「『政』は『官』に対して強い」について。これも、一般的な意味では言えることでしょう。「官」にとって「政」は、「国会対応」が主要な「仕事」のひとつになっているように、配慮の必要な、無視しえない(厄介で面倒な)存在としてあります。その意味で「『政』は『官』に対して強い」と言えないわけではないことになります。しかし、そこでも一般に「面従腹背」が「官」の基本姿勢だと言えます。それは、最近、内閣人事局によって「政」の(と言うより「官邸」の、らしいですが)「官」への「支配」が強まった、という現在においても基本的には維持されていることだとみるべきですし、特に私たちの関わる法務省においては、より一層強く言えることです。法務省における、そして私たちが直接に関わる「登記」というのはきわめて事務的・手続的な専門性をもつ領域だと考えられており、そのような領域に「政治」が介入するということはなしがたいものになっています。また、その「人事」ということから言っても、法務省の主要幹部というのは、みな「法曹」に籍を置く者なのであるところが他省庁と異なるところとしてあります。もちろん、その上で法務省にとっても政治家は鬱陶しい存在であることには違いはないわけですが、その影響力がさほど強いとは言えない、ということがあるように思えます。
そして、そのような構造の上で、「政」の側からすると、摑むきっかけにとぼしい「官」としての法務省に対する足掛かりを持つ必要がある、ということになります。そのようなものとして、法務省管轄下の公的存在である資格者(団体)というのは格好な存在ということになります。それが先に述べた調査士の「強さ」の一因だと言えるのだと思えます。・・・とすると、この調査士の「強さ」というのは、「弱さ」の違う形での表現でしかないことになってしまいます。
このような関係性の上で、ごく卑近な現実の問題について私が日調連副会長時代に見聞したことにおいて見ると、例えば次のようなことです。
地方の調査士政治連盟において、地元の国会議員との勉強会をして、公共事業における調査士のより一層の活用が必要であることを確認した。これを受けて、その議員は、法務省に対して「現状はどうなっているのか?もっと調査士を活用するべきなのではないか」という「問い合わせ」をした。・・・・ということがあったとします。政治連盟の地道な活動と、それを受けての国会議員の活動、というとても理想的な姿のように思えます。
しかし、現実の問題としては、このようなことがあると、法務省の担当者は日調連に対して「困るな」と「上から」のクレームをつけてきて、「こういうことはないようにしてくれ」ということをかなり居丈高に言います。「組織の体をなしていないんじゃないか」というかなり失礼なことを、まさに小役人が言ってきたりもするわけです。そして、それに対して日調連は、担当者(今は最高責任者)が「僕が謝ってくれば済むのだから」と「謝り」に行ってことを収める、ということが行われ、さらに「地方」に対して「自粛」の要請がなされることで収束する・・・という、とても「理想的」とは言えないことになってしまうわけです。
・・と、とても「理想的」ではないわけですが、これは逆の立場からすれば実に理想的な姿だということになります。日調連に対してちょっと脅しておいたり、ちょっとおだてあげておいたりすれば、それで「政治対応」のかなりの部分を終わりにすることができるわけです。
つまり、「『政』は『官』に対して強い」とされていることを逆手にとって、「「官」は調査士に対して強い」をさらに強化し、「間接統治」を実現する、ということになります。何のことはない、犬が喧嘩していて、相手の尻尾に噛みついたと思ったら、自分のしっぽを噛んでるだけで痛くて仕方なくて負けてしまった、みたいな話です。


・・・というわけで、「政治家を使って行政を動かして、自分(たち)に有利なように事を運ぼう」などというさもしい望みを抱くことなく、「現実」を見据えて、地道な「自助努力」が必要なのだ、ということを肝に銘じておくべきだ、というのが今回の事件と私たちとの薄いながらのつながり、ということになるのだと思います。