大分単身赴任日誌

前期高齢者の考えたことを、単身赴任状況だからこそ言えるものとして言ってみます。

読んだ本―「日本はなぜ脱原発できないのか―『原子力村』という利権」(小森敦司緒:平凡社新書)

2016-03-30 17:56:26 | 日記
「日本はなぜ脱原発できないのか?」・・・まったく、本当にそう思います。何かこの問いへの答えのヒントがあるかと思って読みました。

著者は朝日新聞の記者で、福島原発事故以前からエネルギー・環境分野を担当してきた記者とのことです。以前に執筆した記事を含めて、「『原子力村』を立体的に伝え」るものとして一冊の本にまとめた、ということです。

本書で書かれていることは、特に目新しいことではありません。また、どれか一つを取って「決定的に重要だ」という事実が示されているわけでもありません。そうであるだけに、本書で示されているさまざまな「細かい」事実から、巨大な構造体ができていて、ちょっとやそっとのことでは突き崩せないものになってしまっている、ということが見て取れます。まさに「電力会社ばかりか、産業界・財界、官僚、政治家、学者、さらにメディアをも含む巨大で強力な『原子力複合体』」であるわけです。その構造、実態を具体的に見て考えると、それが私たちのまわりにもあり、私たちもそれから無縁ではない、ということを思わずにいられません。

「利権構造」と言うと、原発の建設などに直接かかわる巨額の利権の問題だと考えがちですし、実際そういう問題はあるのだと思いますが、そうではないこまごまとした、間接的な「利権」が全国にばらまかれているようです。

たとえば、本書の最終章では「買われたメディア」として、マスメディアが「取り込まれ、一体化」する様子が描かれています。
原発が本格的に稼働し始めた時期に「石油危機で経営が苦しかった新聞業界にとって、電力の広告はありがたいものだった」ということで、電力会社の、したがって原発推進の広告が掲載されるようになった、とのことです。テレビでも、報道・編成部門に対して「営業」からの締め付けがなされた、ということがあった、とされています。「総括原価方式」のもとで、「広告宣伝費」を湯水のように使い、「電力の広告単価は他業界に比べ相当高かった。それはメディアに『原発推進の側にいてくれ』という狙いが込められていた」というような状況が生み出されていった、ということで、これらのことが、マスメディアの姿勢を左右していった、ということがあるのでしょう。

また、「専門家」の世界でも、その論理がまかり通っているようです。原発事故時の原子力安全委員長であった班目春樹氏は、2006年の「六ケ所村ラプソディー」という映画の中でインタビューに応じていて、「最終処分地の話は、最後は結局おカネでしょ」と言い放っていたそうです。「受け入れてくれないとなったら、お宅にはその2倍拂いましょう。それでも手を挙げてくれないんだったら5倍拂いましょう。10倍拂いましょう。どっかで国民が納得する答えがでてきますよ。」というのだそうです。
この「最後は金目でしょ」という考え方は、もっとソフトな形では、全国のあらゆる領域にまで浸透してしまっているようです。私たちの業界でも、電力会社の仕事をしている土地家屋調査士が、原発事故以降の電力会社の業績悪化によって、用地関係の仕事が激減している事を受けて、「早く原発を再稼働してほしい」と言っているのを、直接聞いたこともあります。

全体として「自分の経済的利益」を最優先する、という考え方に飲み込まれてしまっている、ということが、「世論調査」では「脱原発」が多数を占めながら、一向に「脱原発」できない現実を作ってしまっている、ということなのでしょう。そういう現実に対して、「利権」から自由な位置で「社会全体」を考えうる立場、というものがとても大切なのだと思い、私たちがそういう存在であり得れば、ということを考えさせられます。










地籍問題研究会15回定例研究会(於東北学院大学)

2016-03-23 17:43:52 | 日記
先週の土曜(3.19)、仙台の東北学院大学で、地籍問題研究会の第15回定例研究会があり、参加してきました。
詳しい報告は、大分会にするようにしますが、とりあえずの感想を書きます。

今回の研究会は、東日本大震災の発災から5年、ということでもう一度「東日本大震災により生じた地籍情報の課題」を見直すものとして開催されたものです。私自身とても勉強になりました。

防災科研の花島氏による基調講演では、「生活再建支援から見えてきた地籍情報利活用の課題」をテーマとして、東日本大震災の際に、生活再建支援に携わった経験からの教訓が明らかにされました。
「地籍情報」という領域が、災害対応においてどのような役割を果たしうるのか、ということについて、これまであまり議論されてこなかったけれども、重要な論点を含んだ問題なので、しっかりと取り組む必要がある、という指摘は、地籍情報に関わる業務領域にある者として、反省とともに受け止めさせられたことです。
災害対応における地籍情報の問題というのは、主に「地域復興・創成のための基盤情報」という面から問題にされてきているように思えますが(それはそれで重要なことですが)、「生活再建支援のための基盤情報」という面にも注目する必要がある、との指摘がなされていました。
たとえば、罹災証明の発行、ということ一つをとってみても、「被災情報と地籍情報(地番)との照合」ということが必要となるのであり、それは被災後に行おうとしてもとても困難なことになってしまうので、「平常時から地籍情報に位置情報を紐づけしておくことが必要」ということでした。
さまざまな内容と形式を持つ行政情報を、統一的に取り扱えるようにすること、その媒介の役割を地籍情報が果たして結合しうるようにする仕組みが必要なのだ、という指摘は、地籍情報に関わる業務領域にある者として重く受け止めなければならないことです。

研究会では、被災3県の土地家屋調査士からの「筆界の移動」をめぐる問題を中心とした報告もなされました。
阪神大震災の際に、「地震による地殻の変動に伴い広範囲にわたって地表面が水平移動した場合には、土地の筆界も相対的に移動したものとして取り扱う」とされたことを受けて、東日本大震災においては、さらに様々な形での「筆界の移動」があり、それに対するさまざまな対応策がとられた、ということです。
この経験は、「土地の筆界」ということについて、災害への対応においてどのように取り扱うべきなのか、という問題であり、復旧・復興へ向けて早急に進められるように、東日本大震災時の経験を蓄積し共有化しておくべきものです。
また、より一般的な問題としても、この「非常時の経験」が活かされ、対応していけるようにしていかなければならないことでもあります。
そのような取り組みが十分に行われているのか、というとやはり弱さがあると思わざるを得ないところがあるので、それへの反省を含めて、課題に向き合っていくことの重要性をあらためて認識される研究会でした。


読んだ本―「東北ショック・ドクトリン」(古川美穂著:岩波書店)

2016-03-14 10:00:48 | 日記
「3.11」から5年、ということで、新聞・テレビでも多くの特集報道がなされていました。その中で紹介されていた本で、読んでみました。昨年の3月に発行された本です。

「ショック・ドクトリン」というのは、ナオミ・クラインが「衝撃的な出来事を巧妙に利用する政策」を指す言葉として使用しているものです。その一つとして、「壊滅的な出来事が発生した直後、災害処理をまたとない市場チャンスと捉え、公共領域にいっせいに群がる・・襲撃的行為」として「惨事便乗型資本主義」がある、としています。
ナオミ・クラインの方の本の冒頭部分で紹介されている2005年のハリケーン・カトリーナによってニューオリンズに甚大な被害がもたらされたとき、共和党の下院議員リチャード・ベーカーが「これでニューオリンズの低所得者用公営住宅がきれいさっぱり一層できた。われわれの力ではとうてい無理だった。これぞ神の御業だ。」と語ったことや、不動産開発業者が「今なら一から着手できる白紙状態にある。このまっさらな状態は、またとないチャンスをもたらしてくれている」と語ったことが紹介されています。

このような極端で露骨な物言いではないにしても、東日本大震災からの復興を目指す中で、特に「創造的復興」の名のもとに同様のことが起きている、というのが本書における主張です。
本書で示されている現実のすべてからそのようなことが読み取れるというわけでは必ずしもありませんが、冒頭に紹介されている「東北メディカルバンク構想」の例を見ると、たしかにそのような「悪魔のささやき」があり、それが現実化している、ということもあるようです。
「東北メディカルバンク構想」というのは、「約500億円の復興予算を使って行われる、文部科学省管轄下のプロジェクト」で、「柱となるのは、大規模ゲノムコホートとバイオバンクの複合事業」だそうです。(「コホート研究」というのは、「共通の因子を持つ個人の集団(コホート)を一定期間追跡して特定の病気の発生率を土地家屋調査士、要因と病気の関連などを調べる観察的研究」のことだそうです。)
この研究が意義のあるものであることは確かなのでしょう。
しかし、著者は、「なぜ日常的な診療体制の復旧すら不完全な被災地でゲノム研究なのか」?という疑問を呈しています。
これは二つの面で問題になります。ひとつは倫理的問題で、「人間を対象とした医学研究の倫理指針『ヘルシンキ宣言』には、不利な立場またはぜい弱な人々と地域社会を対象とする研究について』の慎重さを求める項目があり・・被災地はこれに該当すると考えられる」ということです。
もう一つは、「復興予算」をめぐる問題で、「被災地に固有の問題を研究・解明するのが主眼ではなく、復興予算を使ってとにかくゲノムを集めようという話なら、復興は口実で研究者のためのプロジェクトなのではないかと言われても仕方ない」ということになるとして批判されています。

日本の置かれた現状からすればたしかに「創造的復興」が必要なのだと思います。しかし、その名のもとに必ずしも適当ではないものが「群がる」ということがあるようですし、そのうえで現実が進行する、ということもあるようです。
「5年」の節目を機に、そのような現実をも踏まえて、私たちの業務領域においても反省と自戒とともに復興への道筋を考え、進んでいかなければならないのだと思います。

































「自然災害等による倒壊等建物の職権滅失登記の実施基準」

2016-03-07 08:39:25 | 日記
今週は5回目の「3.11」を迎える週です。

そんなときに、法務省が「自然災害等による倒壊等建物の職権滅失登記の実施基準」を定めて、自然災害等での建物滅失登記の職権での実施についての基本方針を定めた、とのことで、各調査士会からの連絡がありました(平成28年2月25日法務省民二第117号、平成28年2月29日。日調連発第317号等)

それによると、「東日本大震災においては,巨大地震や大津波などにより,膨大な数の建物が被害を受けたこと」を受けて、さらに「我が国においては,東日本大震災のような大規模災害ではないものの,地球環境の変化等により集中豪雨等の自然災害が多発しており,これにより建物が倒壊,流失等するといった事案も発生してい」ることに対して、、「被災者支援の一環」「地域の復旧・復興に貢献する」ものとして登記手続きの場においてもできることを積極的に行っていくことを示しているもので、意義の大きいものだと言えるでしょう。

その意義を確認しつつ、「通知」を見ていて気になるところがあったので、その部分について少し考えてみます。
「通知」では、
「当事者の申請によることを原則とする不動産登記制度においては,登記官の職権発動は,飽くまでも補充的な取扱いとして位置付けられることから,職権滅失登記を行うに当たっては,そのような制度上の位置付けと被災者支援という社会的要請との調和を図る必要があります。」
とされています。
この「職権発動はあくまでも補充的な取り扱い」とすることが「制度上の位置づけ」だ、とされていることについて、あたりまえの前提のように言われていますが、そういうものなのだろうか?と思う面があります。この機会にもう一度考え直してみたいと思います。

不動産登記法では、「登記は、法令に別段の定めがある場合を除き、当事者の申請または官公署の嘱託がなければすることができない」(16条1項)としています。そしてそのうえで、表示に関する登記についての規定として「表示に関する登記は、登記官が、職権ですることができる」(28条)とされています。
「表示に関する登記」というのは、昭和35年以降の「一元化」によって確立したいわば新しい領域になりますので、それまでの「申請がなければできない」というのが原則で、「職権でできる」というのは例外なのだ、というように理解することが自然にでてくるのかもしれません。これは、「表示に関する登記」という領域に関する、ごく本質的な問題として考え直す必要のあることのようにも思えます。

有馬厚彦著「詳論不動産表示登記」(金融財政事情研究会:2002)によると、最高裁は「旧建物が取り壊され、その同一敷地上に新建物が建築されたのに、旧建物の登記が残存していたため、新建物の所有者から旧建物の所有者に対して旧建物の滅失登記を訴求した事案」について、「建物の滅失登記は登記官が職権をもってすべき登記であるから」という理由で新建物の所有者の請求を退けた、そうです(最一判昭和45.7.16)。これを、有馬氏は「いわゆる『職権主義』を『登記官の職権登記が原則』と理解する思想が根底にあるように思われる」と「評価」しています。
そしてそれに対して有馬氏は
、「そのような理解に立つとしても、登記官が登記申請を待たずに、あらゆる不動産について、積極的にその現況を把握して登記するということは、現実的に不可能であり、その不可能をもともと法は要求しているものとは解されない」として、「表示に関する登記についても、『当事者の申請』が原則であり、いわゆる職権主義は第二義的なものと考えるべきであろう」
としています。
これはさらに
「表示に関する登記は権利に関する登記につながる不動産取引の出発点(かつての台帳とは性格を異にする)と捉えて、目的的に不登法の解釈をすれば、やはり、不動産の表示に関する登記も、その権利に関する登記と同様、申請主義こそ原則であり、いわゆる職権主義は補充的に働くに過ぎないと考えざるを得ない」
とも言います。

この点について、私には肯定的に受け止める部分と批判的に考える部分があります。
まず、肯定的に受け止めるのは、「表示に関する登記」の課題を「国家としての課題」という面からではなく「国民の権利を守る」という面から考える、という基本姿勢です。「台帳事務」が徴税という「国家課題」の遂行のために行われるものであったのに対して、それが不動産登記制度に組み入れられることによって、「国民の権利を守る」ための制度としての性格を明らかにしたことは、積極的な意義を持つのであり、「表示に関する登記」に携わる民間資格者としての私たちにとって基本的な視点、姿勢として大事なポイントだと思うのです。
そのうえで、批判的に考えるのは、そうであることと「申請主義」「職権主義」の問題は直接結びつく問題ではないのではないか、ということです。そもそも、台帳制度という、登記制度とは目的の異なるものを組み込んだ時点において、制度の在り方としても性格の異なるものを組み入れることになってしまうのは当然のことなのであり、そのようなことを行ったうえで、「やっぱり何も変わらない」とするのには無理があるように思えます。
現に昭和35年の「登記一元化」の際には、そのような考え方ではなかったようです。当時の国会での法務省民事局長答弁を見てみると
「従来は、御承知の通り不動産の登記というのは申請主義を建前としておるのでございますが、不動産の表示に関する登記につきましては、これは現行の台帳制度のもとにおけると同じように、登記官吏が職権をもってこれをする必要がございますので、新たにこの規定を設けたのでございます。」
「土地建物の現況を把握して、権利の客体を明確にする、その他国の政策上、土地建物を特定して、これを明確に把握しておくという必要上、この台帳制度というものがあるわけでございますが、ただ本人の申告あるいは申請に待っておりましただけでは正確を期することができません関係で、この職権調査ということが建前になっておるのでございまして、これは台帳におけると同じように、台帳の機能を果たしますところの新しい案のもとにおける登記簿の表題部においてもこの職権主義の建前をとった次第でございます。」(第034回国会参議院法務委員会昭和35年3月10日法務省民事局長答弁)
というように、「台帳制度と同じものとしての表示に関する登記制度」が強調されています。「表示に関する登記」のありかたについての考え方は、それがつくられたときと今日とではだいぶ違うものになっているように思えるのです。

いずれにしろ、3.11大震災を受けて、これまでの制度のありかたそのものを問い直すことが必要でしょうし、「建物滅失登記」という一領域においてもその作業が進んで現実のものになってきている、ということの意義は大きいのだと思います。さらに考えていかなければならないことでしょう。

読んだ本ー「日本病―長期衰退のダイナミクス」(金子勝・児玉龍彦著:岩波新書)

2016-03-01 11:45:30 | 日記
「うまくいかないことには理由がある。内部が複雑なシステムは外から見てもよくわからない。表面上、よくわからないのだが、何かがおかしい日本社会を、深刻な病が蝕んでいる。」
本書は、このように言います。たしかに、実感ですね。「アベノミクスで景気が良くなった」と言われていますが、その実感を持たない国民の方が多い、という状態が続いています。「有効求人倍率が上がった」とよく言われますが、「非正規雇用」の求人ばかりが増えていたのでは、国民が豊かになった、とはいえず、むしろまったく逆になります。都合のいい指標(特に「株価」がこれにあたります)を都合のいいように使って「景気が良くなった」といくら言われても実体は変わらないわけです。

「人々にとってわかりにくい複雑な現象が起きていて多くのデータがあるとき、データの不足、モデルの間違いと恣意的なデータの選択などの問題が起こりやすい。それゆえ、人の予測を自分の都合のいいように誘導しようとする人は、さまざまな理由をこじつけて情報を隠そうとする。」
ということが確かに起きているようです。あらためて
「データを得る現場での品質管理が大事なのである。それは、データを得た後の情報処理では改善できないのだ。」
ということに注意をしてみていく必要がある、ということです。これは、私たちの業務領域に関しても言えることで、肝に銘じておくべきことでしょう。

本書の特徴は、経済学者である金子勝と生命科学者である児玉龍彦との共著であり、「市場や生命という複雑なシステム」の分析と予測のための方法を示しているところにあります。社会的現象と自然的現象とでは性格が違うんじゃないか、と思ってもしまうのですが、単なるアナロジーを超えた共通性があると考えるべきなのかもしれません。「生命や経済にあるいくつかの周期性に着目して、変化するもの、動くものをどう分析し、予測するかに焦点」を合わせる、という方法を面白く思いました。

その中で、ひとつのキーワードとして示されているのが、「制御系の解体」ということです。たとえば、
「がんという病気の中で、我々が相手にする対象が、歴史的にかわってきていることがわかる。最初は、外科手術でとれるがん細胞が取り除かれる。次に、細胞毒の薬で増殖の速いがん細胞が除去される。そしてドライバー変異をターゲットにした分子標的薬で、多くのがん細胞が取り除かれる。だが、最後に残るのは、制御系を制御する仕組みの壊れた原始的ながん細胞の親玉で、栄養を感知して増殖を判断する仕組みを再構築することが鍵となる。そうでなければ、また再発してくるのである。」
という、「がん」の構造が示され、それと
「金融の世界で起こっていることを見ても、同様の問題が起こっていると考えられる。バブルとショックを周期的に繰り返すバブル循環が中期の波を形成すると、どの国でも経営責任を問えないまま不良債権(=がん)の本格的処理ができない状況の下で、グローバルな超低金利政策の時代になっていく。」
構造とが対比されます。「マイナス金利」にまで踏み込んだ金利政策は、「金利機能という制御系を死なせ」るものだとされるわけです。

そのようなものとして、「アベノミクス」に対する厳しい評価がでてきます。
「アベノミクスは・・・、異常な金融緩和によって財政赤字をファイナンスするとともに、円安と株高を誘導することで大手企業の収益をあげさせることだけに集中しており、その結果、大手企業は軒並み外資の持ち株保有が増加して、名だたる企業の外資の持ち株保有が3分の1を超える『外資系企業』となり、ひたすら当期純利益を上げ、内部留保と株式配当を膨張させるようになっている。」
「アベノミクスは、危機が進行しているのに、古い産業の既得権益にしばられ、その利害を守るために、ひとつ前の周期で使われ効かなくなっている既存の政策を大幅に拡大して総動員しているだけで、その結果として、より一層、経済の制御系を破壊していくのである。」
そしてそのようなことが繰り返されていると
「中期の周期である一国レベルの景気循環は、ただ同じ状態が繰り返されるのではなく、少しずつ変化を蓄積していく。それが、より長い周期性を持つ世界的な産業構造の転換と重なり合って、また新しい中期の周期性を持った循環が形成される。だが、バブルの崩壊以降、厳格な不良債権処理ができず、ひたすら中期の景気循環を持たせる政策が行われているうちに、制御系の束によるフィードバック機能が次々と失われ、産業構造の転換が遅れ、長期停滞は長期衰退へと向かってきた」
ということになるのだとされ、その中で
「外部の環境の変化が、内部の複数のシグナルを同時に誘導する」
危機があるのだとされています。
私には、現在の全体としての経済の状況に対する分析としてどこまで妥当であるのかの判断まではできませんが、「危機の構造」としては理解できる感じがします。グーッとスケールが小さくなりますが、わが業界の「危機の構造」の問題としても。