大分単身赴任日誌

前期高齢者の考えたことを、単身赴任状況だからこそ言えるものとして言ってみます。

読んだ本ー「佐藤優の集中講義・民族問題」(佐藤優著 文春新書)

2017-11-29 21:08:56 | 日記
この本の「帯」に「民族と国家は現代日本人の必須科目だ」、とあります。
「民族」が「必須科目」であるのは、全世界の近現代の人々にとってであり、「現代日本人」に限られたことではありませんが、これまで「日本人」は、その世界的な近現代の課題を、「単一民族」の幻想の下軽視してきました。しかし、もはや他人事ではなくなった、ということです。

この一二年、「民族問題」は、スコットランド、クルド、カタルーニャにおいて「独立」が先鋭な政治課題になったように、現代世界において決して無視しえない重要な問題です。
この「民族問題」は日本(人)にとっても重要な問題となっています。それは、今挙げた世界各地の動きが「国際政治」の枠組みにおいて日本に影響を与える、といことだけではなく、日本の「国内問題」としても課題になっている、ということです。
「沖縄問題」です。
歴史的に沖縄に大きな犠牲を強い、さらに「本土復帰」後も基地負担を集中させ、そしてさらに沖縄の人々の意思を踏みにじる形でそれを強化しようとする日本政府の政策は、「琉球独立」を単なる絵空事ではなく現実の政治課題にしていっている、と著者はかねてから指摘していました。
そのことが「民族問題」への一般的な理解の上で説かれており、勉強になります。(ただしいつも思うのですが、著者の啓蒙的説明やそのうえでの分析はとても理解しやすいのですが、それと現実的な方針とがかみ合わず、理解しがたいものになってしまうのは、とても残念なことです。)

そのうえで、本書で説かれている「民族問題」に関する基本的な理解の仕方について一瞥し、そのうえでそれとは直接関係のない「筆界」の問題について考えさせられたので、それについて書きます。

まず「民族問題」について。
「民族」についての基本的なとらえ方について著者は次のようにまとめます。
「大きくきく異なる二つの考え方があります。ひとつは『原初主義』というもので、もうひとつは『道具主義』です。」
聞きなれない言葉ですが、それは次のように説明されます。
「まず『原初主義』のほうは、民族とか国家には、その原初、はじめのところに、何かしらの実体的な源があるという考え方なんです」
「それに対して、「民族というものは、作られたものだ」と主張するのが道具主義の立場です。では、なんのために、誰が『民族』を作ったのかというと、国家のエリート、支配層が、統治目的のために、支配の道具として、民族主義、ナショナリズムを利用した、と考える。だから『道具主義』なんですね。」
このように整理・説明されると、著者が、「日常的に『民族』というと、多くの人がこの原初主義的なイメージをもっていると思います。」と言うように、「民族」というのは、言語だとか、肌の色や骨格などの生物学的な違いだとか、地域だとか、宗教だとかの「動かざるもの」を共有するものとして実体をもって存在するものだと考える傾向が強く、したがって「原初主義」でいいんじゃないか、と思われるかもっしれません。
しかし、著者によれば、「民族」が実体としてあるととらえる「原初主義」は「学問的には完全に否定されています」、ということです。

では、もう一方の「道具主義」はどうか?・・・基本的には「作られたもの」だと考えられるので、こちらの方が正解に近いのですが、正解とも言い切れないところがあります。それは、
「現実には、いくら支配者たちが民族をつくりたいと思っても、任意に民族をつくることはできない」
からです。まったく根拠のないところからでっち上げられたわけではなく
「『民族』のもとになるような『何か』が存在するのではないか。」
ということが問題になる、というわけです。
ここに「民族問題」の複雑さと解決の困難さがあるわけですが、それについては本書や本書において紹介されている推薦図書で勉強することにして、本書とは直接関係のない「筆界」について書きます。

この「民族」の構造というのは、「筆界」の構造とも似ています。元来「実体」を持つものとして存在するわけではなく、現実の境界問題を解決するための「道具」として「作られたもの」でありつつ、全く任意につくられるわけではなく、それなりの現実的基礎を持っている、という構造です。

このような「民族」と「筆界」の構造の共通性というのは、実は社会的な事柄に対して「概念」を与えるときに生じる通常のことなのだと思います。
一定の社会的な基礎があるから、一定の概念が生まれるわけですが、それはなんら確定的な「実体」を持ったものではなく、「真理」でもない、という、ごく当たり前のことです。

問題は、その概念を生み出した構造と意味を理解し、それを正しく「利用」すべきだ、というところにある、とするべきなのだと思います。ここが実践的な方針とかかわるところです。
いずれにしろ、「民族問題」という全世界的な課題について学ばせてもらう中で、ごく卑近な私たちの業務にかかわる問題についても、対すべき姿勢を学ばせてもらえたように思いました。



一身上の事情で

2017-11-17 17:10:03 | 日記
このブログの更新がしばらく途絶えてしまいました。「連載」をしたり「予告編」を出したりしたものもあったのに、いけないことです。
しばらく途絶えたことの理由は、「一身上の事情」であり、極めて個人的なことなので、あえて書くこともないのかとも思いますが、いろいろと思うところもあったので、「言い訳」を兼ねて少し書きます。

一言で言うと、「引越し」をします。もう少し事情を述べると「終活」のスタート、ということになります。
私の場合、子供たちが比較的早く家を出て行ったので、「老夫婦二人暮らし」状態になってからもう10年ほどが経ちます。子供がいることを前提とした家に、無駄な部屋を抱え、その中に無駄な荷物をため込んでしまうような生活をしばらく続けてきたことになります。
このままの状態を続けていくのはいかがなものか、と思うようになりました。無駄なものを抱えたまま年を取って動けなくなっていき、後に残る者たちに「負債」を抱えさせるべきではないのではないか、と思うようになったのです。
そのようなわけで、荷物を劇的に減らして、生活そのものをダウンサイジングしていくことにしました。そのための転居です。

この1か月ほど整理をして、家のものと、事務所のものと、それぞれで荷物を半分以下に削減しました。つくづく無駄なものに囲まれて生活をしていたものだと思わされ、だいぶ身軽になった感じです。

・・・ということで、来週、最終的な引越しをして、その後「新生活」をスタートさせることにします。

明日の大分会の研修会では、前回に続いて「大分における筆界の誕生と公図の読解」に関する話をさせていただきますが、これについても、これまで業務の中で調べてきたことの「在庫一掃」をして後の世代の人々に引き継いでいく「終活」の一環なのだと思っています。このブログで書き切れていないことも、そのような性格を持つものなのだと思っているので、再来週以降の「新生活」の中で、書いていくようにしたいと思います。