トランプ大統領の誕生(大統領選挙でのトランプの勝利)は、非常に衝撃的なことでした。「なぜこんなことが起きるのだろう?」というのが、私の大きな疑問であり、その答えを示してくれそうな本をいくつか読みましたが、本書は、「思想」的なものとしてはその中で最も説得的な本であるように思います。
本書の内容を、著者自身による要約を使って紹介します。
まず指摘されるのは、アメリカの「ふしぎ」な現状です。それは、
キリスト教に限らず宗教というものは(あるいは「文化」そのものは)、「伝播の過程で、その土地の文化に大きな影響をもたらしつつ、同時にみずからを変化させてゆく。これが『土着化』や『文脈化』と呼ばれるプロセスです。」
という過程をたどるものであり、キリスト教のアメリカにおける土着化においては、「片務契約から双務契約へ」の変質を遂げたことが、特徴として指摘されます。「片務契約」というのは、「神は人間の不服従にもかかわらず一方的に恵みを与えてくれる存在である」というとらえ方です。これに対して「双務とは、神と人間がお互いに契約履行の義務を負う存在になった、ということです。すなわち、人間の義務は神に従うことであり、神の義務は人間に恵みを与えること、となるのです。」「ひとたび人間が義務を果したら、今度は神が義務を果たす番になる。つまり、正しいものは神に祝福を強要する権利をもつ、ということになるのです。」・・・ということなわけですが、さらにこのような「土着化」は、逆転して次のようにとらえられるようになります。
「しかし、やがてこの論理は逆回転を始めます。『正しい者ならば、神の祝福を受ける』が逆になり、『神の祝福を受けているならば、正しい者だ』となるのです。」.
ということです。そして、「神の祝福を受けている」というのは「成功している」と同義にとらえられます。つまり、結果として「成功した者」になった、ということは、「正しい者」だ、ということになるのです。
トランプがアメリカの人々に受け入れられるのには、このような宗教的(土着化の)基礎がある、というわけです。
ここでもうひとつ「反知性主義」がアメリカ政治史を特徴づけるものとして指摘されます。
「反知性主義」というのは、一般に「反知性」を主義とするようなものとしてとらえられ、確かにそのような風潮が日本を含む全世界に広がっているように思えますが、ここで言われている「反知性主義」というのは、それとは異なる概念です。かぎ括弧の位置を変えて言えば、「反知性」主義なのではなく、反「知性主義」だということです。ですから、このような概念が出てくる元になる「知性主義」というものがある、ということになり、それを理解しないとアメリカにおける「反知性主義」を理解できない、ということになります。
「知性主義」というのは、「(ハーバードやイェールなどの)大卒のインテリ牧師だけが幅を利かせるピューリタリズムの極端な知性主義」のことだということです。そして「もともと知性は権力と結びつきやすい性格を持っています。そしていったん結びつくと、それは自己を再生産するようになる」ものなので、「反知性主義」は全面的に否定されるべきものではなく、「民主主義社会における反知性主義の正当な存在意義」もあるのだということです。
このような基礎の上に、現実にアメリカの政治史の中においてトランプのような人物が大統領になったのは初めてではなく、何度か繰り返されていることだということも事実として紹介されています。
とは言え、トランプの大統領就任という事態が「異常」でないということではありません。十分に異常なことであり、それを引き起こした蔓延するポピュリズムが何なのか?ということが次に考えられます。
「自由意志の過信によって、人民はポピュリズムに乗っ取られてしまう」・・・と言われます。「メシア(救世主)は存在しないのではなく、自己肥大化した『人民』がメシアを僭称している」という状態がつくられている、というのです。デマゴーグが、「IT」「SNS」を駆使して世論操作し、人々が「自由意志」によってそれに飲み込まれていく姿です。
この世界的な姿は、特にアメリカに親和的だとされます。アメリカは「自由意志」の国であり、「平等主義がエンジンになって、反エリート、反権威の精神が形成されてきたのがアメリカです」ということなのです。
そして、「借り物でパッチワークするしかない」ポピュリズムは、「移民排斥を唱えるのなら右翼の思想を借りてくる。同時に、リベラルな寛容論を使って内向きの平等主義を唱えたりもする」という支離滅裂な姿をさらすわけですが、それはそれだけアメリカにおける社会の「危機」が根深く、広く進行していっている、ということなのでしょう。
・・・・最後に。本書は前著「反知性主義」(新潮選書)の内容をかみくだいている部分と、トランプ登場後の事態を説き明かしている部分とによるものです。私は、前著「反知性主義」を途中まで読んで投げ出してしまっていたのですが、あらためて読まなければ、と思わされました。今度こそ!
さて、今日で今年の「営業日」が終わりました。何もしないまま終わってしまったような1年でしたが、それだけに無事新しい年を迎えることが出来そうです。反省とともに感謝いたします。
新しい年が皆様にとってよい年になることを願って(かつ毎年さぼっている新年のあいさつに代えて)、今年最後の投稿とします。
本書の内容を、著者自身による要約を使って紹介します。
まず指摘されるのは、アメリカの「ふしぎ」な現状です。それは、
「アメリカという国を外側から観察すると、道徳主義と快楽主義、高度な知性と宗教的原理主義、政治や選挙における熱狂と『大きな政府』への不信と反感など、いくつもの矛盾が同居している」
という「ふしぎ」な現状の指摘です。なぜこのような相反するものが同時に共存するようなことになるのか?著者がそれを読み解く「鍵」として挙げるのが「キリスト教の土着化」です。キリスト教に限らず宗教というものは(あるいは「文化」そのものは)、「伝播の過程で、その土地の文化に大きな影響をもたらしつつ、同時にみずからを変化させてゆく。これが『土着化』や『文脈化』と呼ばれるプロセスです。」
という過程をたどるものであり、キリスト教のアメリカにおける土着化においては、「片務契約から双務契約へ」の変質を遂げたことが、特徴として指摘されます。「片務契約」というのは、「神は人間の不服従にもかかわらず一方的に恵みを与えてくれる存在である」というとらえ方です。これに対して「双務とは、神と人間がお互いに契約履行の義務を負う存在になった、ということです。すなわち、人間の義務は神に従うことであり、神の義務は人間に恵みを与えること、となるのです。」「ひとたび人間が義務を果したら、今度は神が義務を果たす番になる。つまり、正しいものは神に祝福を強要する権利をもつ、ということになるのです。」・・・ということなわけですが、さらにこのような「土着化」は、逆転して次のようにとらえられるようになります。
「しかし、やがてこの論理は逆回転を始めます。『正しい者ならば、神の祝福を受ける』が逆になり、『神の祝福を受けているならば、正しい者だ』となるのです。」.
ということです。そして、「神の祝福を受けている」というのは「成功している」と同義にとらえられます。つまり、結果として「成功した者」になった、ということは、「正しい者」だ、ということになるのです。
トランプがアメリカの人々に受け入れられるのには、このような宗教的(土着化の)基礎がある、というわけです。
ここでもうひとつ「反知性主義」がアメリカ政治史を特徴づけるものとして指摘されます。
「反知性主義」というのは、一般に「反知性」を主義とするようなものとしてとらえられ、確かにそのような風潮が日本を含む全世界に広がっているように思えますが、ここで言われている「反知性主義」というのは、それとは異なる概念です。かぎ括弧の位置を変えて言えば、「反知性」主義なのではなく、反「知性主義」だということです。ですから、このような概念が出てくる元になる「知性主義」というものがある、ということになり、それを理解しないとアメリカにおける「反知性主義」を理解できない、ということになります。
「知性主義」というのは、「(ハーバードやイェールなどの)大卒のインテリ牧師だけが幅を利かせるピューリタリズムの極端な知性主義」のことだということです。そして「もともと知性は権力と結びつきやすい性格を持っています。そしていったん結びつくと、それは自己を再生産するようになる」ものなので、「反知性主義」は全面的に否定されるべきものではなく、「民主主義社会における反知性主義の正当な存在意義」もあるのだということです。
このような基礎の上に、現実にアメリカの政治史の中においてトランプのような人物が大統領になったのは初めてではなく、何度か繰り返されていることだということも事実として紹介されています。
とは言え、トランプの大統領就任という事態が「異常」でないということではありません。十分に異常なことであり、それを引き起こした蔓延するポピュリズムが何なのか?ということが次に考えられます。
「自由意志の過信によって、人民はポピュリズムに乗っ取られてしまう」・・・と言われます。「メシア(救世主)は存在しないのではなく、自己肥大化した『人民』がメシアを僭称している」という状態がつくられている、というのです。デマゴーグが、「IT」「SNS」を駆使して世論操作し、人々が「自由意志」によってそれに飲み込まれていく姿です。
この世界的な姿は、特にアメリカに親和的だとされます。アメリカは「自由意志」の国であり、「平等主義がエンジンになって、反エリート、反権威の精神が形成されてきたのがアメリカです」ということなのです。
そして、「借り物でパッチワークするしかない」ポピュリズムは、「移民排斥を唱えるのなら右翼の思想を借りてくる。同時に、リベラルな寛容論を使って内向きの平等主義を唱えたりもする」という支離滅裂な姿をさらすわけですが、それはそれだけアメリカにおける社会の「危機」が根深く、広く進行していっている、ということなのでしょう。
・・・・最後に。本書は前著「反知性主義」(新潮選書)の内容をかみくだいている部分と、トランプ登場後の事態を説き明かしている部分とによるものです。私は、前著「反知性主義」を途中まで読んで投げ出してしまっていたのですが、あらためて読まなければ、と思わされました。今度こそ!
さて、今日で今年の「営業日」が終わりました。何もしないまま終わってしまったような1年でしたが、それだけに無事新しい年を迎えることが出来そうです。反省とともに感謝いたします。
新しい年が皆様にとってよい年になることを願って(かつ毎年さぼっている新年のあいさつに代えて)、今年最後の投稿とします。