大分の土地家屋調査士ブログ

「土地家屋調査士の業務と制度」を中心に、それに広い意味で関連する様々なことについて一人の人間として思うところを書きます。

大分会全体研修会を受講して

2016-02-23 18:25:25 | 日記
先週の土曜日の大分会の全体研修会は、「93条調査報告書様式改定の説明」がメインテーマだったということで、多くの参加者がありました。久しぶりに顔を見る方も多く、懐かしく、うれしく感じたところです。

研修会では、メインテーマの「93条調査報告書」について、城戸崎会長からの「位置づけ・趣旨」についての説明と、業務部からの具体的な説明がなされました。現段階における伝達としては十分なものができたのではないか、と感じました。

しかし、そのうえでなお言うと、「位置づけ・趣旨」が具体的な内容とどう結びつくのか、ということがあいまいであり、かえって齟齬をきたしてしまうのではないか、ということも明らかになっているようにも思えます。これは、大分会の研修会での説明がどうだこうだ、という問題ではなく、そもそもの作り方の問題です。

多くの質問が出る中で、問題の核心を突くものもある反面、この「93条調査報告書」を「登記を通すためにださないといけないから仕方なく出している」的なとらえかたがまだあるようです。書くことをできるだけ少なく、簡単にして、自分に責任がかからないようにしたい、というスタンスで「93条調査報告書」をとらえている向きがまだまだあるのですね。
作る側でもそれに迎合するような面があるように思えてしまいます。

何度も何度も同じことを言っているのですが、「93条調査報告書」というのは、それによって申請内容の真正性を確認することができれば「登記官の実地調査」を行わなくてよい、とする「不動産登記規則93条」の規定に基づいているものです。
ですから、「93条調査報告書」を読むことによって登記官が「実地調査」に行かなくても登記の適正性を確保できる、と思えるようなもの(申請内容の真正性を確信できるようにするもの)にする必要がある、というのが、調査報告書(様式)の問題を考えるときのスタートでありそこにゴールでなければならないものです。
そして、そのような効果をもたらす、ということのためにはそれなりの「責任」を伴うことになります。
そしてさらに逆に言うと、「責任」を負うということは「権限」を持つ、ということにつながります。実質的に判断しているのであれば、形式的なことはともかく実質的には土地家屋調査士の調査とその報告によって完結するという「現実」が形成されるわけです。
この構造を作っていかなければならないわけですが、なぜかここに踏み込まずに曖昧にしてしまうので、話がとても分かりにくくなってしまうのですね。

たとえば、次のように言われる部分があります。
「現行様式においては、『精度管理』・・についても『記載していたが、土地家屋調査士は調査測量実施要領に基づき、当然に精度管理を行っているものと考えられ・・・改訂様式では項目を削除した。」
というものです。「当然に行っているもの」なのであれば、それを自分だけのものにするのではなく、報告をするべきでしょう。登記官は、それを見て、申請された筆界位置が適正に計測されている、ということ、その結果に基づく登記が適正なものである、ということへの確証を持てる、ということになるわけです。そこにこそ「調査報告書」の意義がある、ということになります。(そのためには、調査士がちゃんと報告する、ということともに、それを見る登記官等がその意味するところをきちんと読み解ける、ということが必要になるわけですが、それはさておき・・・。)
ところがこのようないい方をされてしまうと、「やっていることを報告する」という構造なのではなく、「報告しなければならないからしょうがなくてやる」的な位置づけをされているかのように思えてしまいます。わかりにくくなってしまうところですね。
様式自体についてはしばらくは動かせない、のだとは思いますが、その趣旨をとらえてアナウンスしていく、ということがもう一段必要となるのだと思いました。


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「名こそ惜しけれ」

2016-02-16 09:27:20 | 日記
先日(2月14日)NHKスペシャルで「司馬遼太郎思索紀行『この国のかたち:第2集:“武士”700年の遺産』」という番組がありました。NHKのホームページでの番組紹介は次のものです。
日本、そして日本人とは何か?作家・司馬遼太郎の作品『この国のかたち』を通して、現代の日本人へのメッセージを読み解くシリーズ。 第2回のテーマは、“武士”。司馬が注目したのは、鎌倉時代の武士が育んだ、私利私欲を恥とする“名こそ惜しけれ”の精神だった。それは、武家政権が拡大する中で全国に浸透、江戸時代には広く下級武士のモラルとして定着したという。そして幕末、司馬が「人間の芸術品」とまで語った志士たちが、この精神を最大限に発揮して維新を実現させた。明治時代に武士が消滅しても、700年の遺産は「痛々しいほど清潔に」近代産業の育成に努めた明治国家を生みだす原動力となった。それが続く昭和の世に何をもたらし、どのように現代日本人へと受け継がれたのか-?「名こそ惜しけれ、恥ずかしいことをするな」。グローバリズム礼賛の中で忘れ去られようとしている日本人独自のメンタリティに光を当てる。
・・・というものです。興味を持たれた方は、再放送だか、アーカイブだかでご覧ください。もっとも、この「紹介」の内容は、司馬遼太郎が言っていてこととはだいぶかけ離れている気がしますし、番組の内容自体ともちょっと違うように思えます。すでに「戦前」において「名こそ惜しけれ」が失われていったことに現代の問題がある、とされているのに、そこを素通りして「日本人独自のメンタリティ」の礼賛のようになっているのはちょっと違うのではないか、という感じがします。(「戦後レジームからの脱却」を目指す「NHK上層部」の意向の反映か?なんて思っちゃいます。)

・・・が、まぁそれはともかくとして、「名こそ惜しけれ」について。
司馬遼太郎が、この「名こそ惜しけれ」を尊いものとしてとらえているのはその通りだと思いますが、司馬は、「どのようにしてこの「名こそ惜しけれ」の精神が成立しえたのか」というところにこそ問題があるものとしています。そこに「鎌倉幕府」の日本の歴史上最大とも言うべき意義を強調しているわけです。それは、
「京都の律令制度を断ち切ることで、鎌倉の幕府は成立しました。『田を作る者が土地を所有する』という権利を勝ち取ったのです。」
ということであり、それはさらに
「「土地は耕した者のものだ、というのはリアリズムの基本です。それが確立すると、世の中は変わりました。」(1992.10.17講演「九州の東京志向の原形」)
としています。

この問題は、日本における土地所有制度、とくに明治維新後に確立した近代的土地所有権とその物理的外縁としての土地境界の問題に関するものとして(つまり私たちの業務領域に関するものとして)重要なところです。・・・が、今日の私が言いたいのは、それとは別の問題です。「土地は耕した者のものだ」ということを「リアリズムの基本」ととらえる、というところが重要だと思うのです。そして、その「リアリズム」の上にこそ、「名こそ惜しけれ」という精神規範も成立する、ということに結びついていきます。

さてそこで、私たち土地家屋調査士に、「名こそ惜しけれ」は成立しているのか?・・・ということが問題です。「田を作る者が土地を所有する」ように、自分たちが調査をし検討して結論をだしていることについて、自分たちが「所有」しているのか=責任を持つものとすることができているのか?・・・ということが問題になります。私たちの業務領域における「現実」を直視して、それに責任を持つべき、という基本姿勢としての「リアリズム」があるのか、という問題です。
具体的には(話のスケールが小さくなりますが)「93条調査報告書」は、この「リアリズム」を体現するものとしての意義を持つものだったはずです。しかし、それが十分に機能せず、最近の「様式改定」でも、かえってそこからかけ離れたものになってしまっているように思えます。
「田は、耕す者のものではなく、京都のお公家さんのものだ」としておいた方が、そして「京都のお公家さん」からの保護を受けていたほうが楽だからいいや、というような考えにとどまっていたのでは、「田を作る者が土地を所有する」ということは成立しませんし、その上に誇るべき精神も打ち立てられません。

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新人研修

2016-02-08 18:34:10 | 日記
ちょっと古い話になりますが、先々週の土曜日から月曜日までの3日間、九州ブロックの新人研修がありました。
大分会が当番会ということで企画運営を行い、全体として所期の計画通り、大過なく実施することができた、ということなのではないか、と思います。
私も、少し「講義」を受け持ちました。「筆界特定、ADR」について25分、「地図と境界」について45分というコマです。
個別的な課題について担当したのは久しぶりだったので、新鮮な驚きもあり、新たに気づいたこともあります。
やってみてとにかく思ったのは、「時間が足りない」「コマが足りない」ということです。
たとえば、「地図」について話をしようと思うと、「不登法14条1項の地図」に関することについて話をするのと、「公図」について話をするのとは、かなり違う方向の話になります。その両方を話そうと思うと時間が足りない、ということもありますが、ただそれだけではなく「整理が悪い」ものになってしまう、というところが問題です。このような形では、聴く方として整理できず、消化できずに終わってしまいます。
このような構造になっているのは、そもそも土地家屋調査士の世界で、自分たちの業務というのがどのようなものとしてあるのかを体系的に整理しきれていないことによるのではないかと思えます。この整理のために、業務の全体をカバーしうるカリキュラムを具体的に立てる必要がある、ということだと思います。その作業が行われれば、単に「新人研修のため」にとどまらない成果を得られるのではないか、と思います。。
「新人研修」に限って言えば、その作業を行うと、おそらく「新人研修」のために必要な日数というのは、現在の「2泊3日」(「15時間以上)ではなく、「5泊6日」「6泊7日」という期間設定にならざるをえないでしょう。よその業界を見ると、司法書士の場合は、「中央研修」が計「5泊6日」、「ブロック研修」が「6泊7日」行われていて、しかもそれが「必須」のものとされています。土地家屋調査士の新人研修の場合、そこまでのものにすることはないようにも思えますが、それでも今の倍以上は絶対必要だと言うべきでしょう。

現在の土地家屋調査士の新人研修は、日調連の規則的に言うと、「研修の実施機関は、連合会研修部とする」とされてはいますが、実際は、その次の但し書き(=「ただし、連合会は、本研修の運営の一部又は全部をブロック協議会へ委託することができる」)を使って「ブロック協議会で実施する」のが常態となっています(この「但し書き」を当たり前の姿にしてしまうところに、また一つの問題があるのでしょう)。調査士業務の場合、たしかに「地域」による特殊性がありますが、しかしその前に全国的な統一性が必要な領域が確固としてあるわけで、それを確立することが、まずは必要であり、それができていない、というところに大きな問題があるのだと思います。
なぜ、こんなことができないのだろう?・・・そう考えると、「自分自身の足で立って進もうとしない依存と従属の体質」に問題があるのだろう、というところに行き着きます。考えていかないといけない問題です。
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読んだ本―「成長なき時代のナショナリズム」(萱野稔人著:角川新書)

2016-02-03 18:19:54 | 日記
「私たちに必要なのは(そして実際に可能なのは)、ナショナリズムを外から否定することではなく、その内部にとどまりながらそれをつくりかえることである。」「ナショナリズム昂揚の底にある問題意識を共有しないナショナリズム批評は、それがどんなに『立派な』ものであれ、そのナショナリズムの担い手たちには届かない。」
著者の問題意識はここにある、とのことです。折衷主義的なにおいを感じて全面的には賛同できませんし、さまざまな意味で使用されている「ナショナリズム」という言葉に関する諸傾向へのフェアな批評とは言えないような部分もあるように思えますが、重要な問題を指摘してもいる、ということは言えるのだと思います。
それは、現在の「排外主義へ向かうナショナリズム」を根底から克服するためには、同じ問題に正対する必要がある、ということです。
著者は、「成長なき資本主義」の時代が本格化していく中で「社会的リソースの枯渇」が進行しており、そのことに敏感な人々の一部が「排外主義へ向かうナショナリズム」に流れている、とします。「私たち自身の社会的リソース、パイを防衛しろ」という形で、「民族的な単位」こそを「私たち自身」とだとして政治的に表現するようになる、それが「ナショナリズム」であり、それが排外主義に流れているのだ、というわけです。
「社会的リソースの枯渇」は、「資本主義が、成長しない時代に入る」という大きな世界的な趨勢の中で起きていること、だとされます。だとしたら、それは仕方のないことなのだ、ということになるのでしょうか?
「小泉構造改革期の経済成長は、グローバリゼーションの進展によって日本の市場も労働市場も国際化する中でもたらされたものだ。だから、外需と直接むすびついてグローバル企業はとても儲かったけれど、ドメスティックな市場しか相手にできない中小企業は恩恵をまったく受けることができなかった。」
ということが指摘されています。これは、アベノミクスの現在も変わらないことです。
そして、このような、一部のものしか潤わない、ということは、特殊な事態なのではなく一般的なことだとされます。
「なぜ経済が成長しないときにこそ経済的不平等が拡大するのだろうか。それは、たとえ経済そのものが成長しなくても、大きな資産を持っている人は高い収益が見込まれる投資を行うことができるからである。」
というわけです。
・・・とても悲観的にならざるをえないような話ですが、であればこそ、変えなければならないのはその構造だ、ということになります。この構造を変えることによって「社会的リソース」の確保を追求するしかない、ということになるわけです。
もちろんそれは、基本的な構造をめぐる問題なので、とても大変なことなのであり、本書を読んでその展望が拓けてくる、とはとても言えませんし、わが業界の現状も社会全体の大きな流れの中にあるものであることを、あらためて考えさせられてしまうのですが・・。


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