著者佐藤優さんは、今日の世界・日本の危機的な状況の中で「反知性主義」が抬頭していることを危険な徴候と捉え、「反知性主義」に対抗して打ち克つ方向を探るものとして本書を含む諸論稿の執筆・発表をしています。私もその基本的方向性に共鳴する者として期待をもって本書を読みました。
しかし、率直な感想として言えば、期待がかなえられたとは言い難いです。別に内容の方向性に不満がある、という訳ではないのですが、やっぱり佐藤優さんは「書きすぎ」ですよね。内容的にではなく量的に。
私は(以前にも書いたことですが)佐藤優さんは「読書論」的なものを書くのが一番向いているのではないか、と思っているので、本書のような引用で埋め尽くされているようなものも勉強になって面白くはあるのですが、それにしても世界の現下の最大課題とも言っていい「反知性主義への対抗」を正面に掲げたものとしては、物足りなく感じてしまいました。(820円の新書本にたいする過大な期待がいけない、と言われれば確かにその通りですが。)
その上で、いくつか勉強になったこと。
著者は、「反知性主「実証性と客観性を軽視若しくは無視して、自分が欲するように世界を理解する態度」としています。
そのような「反知性主義」が「もっとも『良質』な形で表れている」ものとして、2013年の麻生副総理による
なお、歴史の事実としては
分かりにくいところもある文章ですが、”憲法を形式的に改正しなくても、通常法の制定で憲法の実質的改正はできる。””それは、指導者が国家・民族が必要としているものを判断して決めればいい”というようなことを言っている、ということなのかと思います。
これは、「国際情勢に目をつぶって従来の(憲法)解釈に固執するのは政治家としての責任の放棄だ」として「違憲」とする圧倒的多数の憲法学者の指摘に対して「合憲だという絶対的な確信」を根拠なく言うこと(安倍総理)や、「法律の説明はまったく正しいと思いますよ。私は総理大臣なんだから」とすること(安倍総理)、「現在の憲法をいかに法案に適用させるか」が問題だとすること(中谷防衛相)、「憲法学者はどうしても憲法九条二項の字面に拘泥する」とか「私は、憲法の法理そのものについて学者ほど勉強してきた、というつもりはない。だが、最高裁の判決の法理に従って、何が国の存立をまっとうするために必要な措置かどうか、ということについては、たいていの憲法学者より私の方が考えてきたという自信はある」(高村自民党副総裁)。・・等というようなことを、表現を変えて言っているものだととらえられるように思います。麻生発言が、通常思われるように思慮の足りない軽はずみで馬鹿げたものであるわけではないように思え、恐ろしいことです。
しかし、率直な感想として言えば、期待がかなえられたとは言い難いです。別に内容の方向性に不満がある、という訳ではないのですが、やっぱり佐藤優さんは「書きすぎ」ですよね。内容的にではなく量的に。
私は(以前にも書いたことですが)佐藤優さんは「読書論」的なものを書くのが一番向いているのではないか、と思っているので、本書のような引用で埋め尽くされているようなものも勉強になって面白くはあるのですが、それにしても世界の現下の最大課題とも言っていい「反知性主義への対抗」を正面に掲げたものとしては、物足りなく感じてしまいました。(820円の新書本にたいする過大な期待がいけない、と言われれば確かにその通りですが。)
その上で、いくつか勉強になったこと。
著者は、「反知性主「実証性と客観性を軽視若しくは無視して、自分が欲するように世界を理解する態度」としています。
そのような「反知性主義」が「もっとも『良質』な形で表れている」ものとして、2013年の麻生副総理による
「憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口を学んだらどうかね。」
という発言がとりあげられています。なお、歴史の事実としては
「ナチス・ドイツは憲法を改正しておらず、ナチス政権時代のドイツでも形式的にはワイマール憲法が維持されていた」
ということなので「麻生発言には根本的な事実誤認がある」
ということになるわけですが、そうであること(ワイマール憲法の形式的維持)を含めて、今日の日本の政治状況との関係で見ると興味深いことが示されています。「ナチス・ドイツ第三帝国は、独自の憲法を作らなかった。形式的には、ワイマール憲法が残った。コストをかけて憲法改正をする必要がないという主張を展開したのが、ミュンヘン大学教授をつとめたオットー・ケルロイター(18883~1972年)だ。」
としてケルロイターの著作の一部が紹介されています。ケルロイターは「今日の発展段階においては、この意味において次の諸法律をドイツ指導者国家の憲法規定と称することができる。即ち-」
として「1933年3月24日の国民及び国家の艱難を除去するための法律」(所謂授権法)から「1937年1月26日のドイツ官吏法」までの10の法律を挙げています。そしてこの10の法律によって 「自由主義の国家学及び憲法学が産んだ憲法構成、及びそれから生ずる一切は、指導者国家においては無意味なものとなった。けだし、法技術的に見れば、上に掲げた基本的諸法律は、国家指導の他の諸法律と別に区別はない。就中これらを変更することは、爾余の政府による法律の場合と正しく同一の、単純な形式で可能なのである。」「ここで問題になるのは、有機的な憲法発展の形式的完成ということである。何となれば、成文の規範体型の構成は、指導者国家における憲法の意味なのではなく、民族と結ばれた指導による民族体の政治的及び国法的構成が、その意味であるからである。指導者国家に於ける憲法の構成及び完成の態様と方法に対しては、ヒューラーによって確定される、ドイツの民族・及び国家生活の政治的必要だけが、決定力を持ちうるのである。」
と言っているのだそうです。分かりにくいところもある文章ですが、”憲法を形式的に改正しなくても、通常法の制定で憲法の実質的改正はできる。””それは、指導者が国家・民族が必要としているものを判断して決めればいい”というようなことを言っている、ということなのかと思います。
これは、「国際情勢に目をつぶって従来の(憲法)解釈に固執するのは政治家としての責任の放棄だ」として「違憲」とする圧倒的多数の憲法学者の指摘に対して「合憲だという絶対的な確信」を根拠なく言うこと(安倍総理)や、「法律の説明はまったく正しいと思いますよ。私は総理大臣なんだから」とすること(安倍総理)、「現在の憲法をいかに法案に適用させるか」が問題だとすること(中谷防衛相)、「憲法学者はどうしても憲法九条二項の字面に拘泥する」とか「私は、憲法の法理そのものについて学者ほど勉強してきた、というつもりはない。だが、最高裁の判決の法理に従って、何が国の存立をまっとうするために必要な措置かどうか、ということについては、たいていの憲法学者より私の方が考えてきたという自信はある」(高村自民党副総裁)。・・等というようなことを、表現を変えて言っているものだととらえられるように思います。麻生発言が、通常思われるように思慮の足りない軽はずみで馬鹿げたものであるわけではないように思え、恐ろしいことです。