大分単身赴任日誌

前期高齢者の考えたことを、単身赴任状況だからこそ言えるものとして言ってみます。

読んだ本-「知性とは何か」(佐藤優著:祥伝社新書)

2015-07-19 06:14:33 | 本と雑誌
著者佐藤優さんは、今日の世界・日本の危機的な状況の中で「反知性主義」が抬頭していることを危険な徴候と捉え、「反知性主義」に対抗して打ち克つ方向を探るものとして本書を含む諸論稿の執筆・発表をしています。私もその基本的方向性に共鳴する者として期待をもって本書を読みました。

しかし、率直な感想として言えば、期待がかなえられたとは言い難いです。別に内容の方向性に不満がある、という訳ではないのですが、やっぱり佐藤優さんは「書きすぎ」ですよね。内容的にではなく量的に。
私は(以前にも書いたことですが)佐藤優さんは「読書論」的なものを書くのが一番向いているのではないか、と思っているので、本書のような引用で埋め尽くされているようなものも勉強になって面白くはあるのですが、それにしても世界の現下の最大課題とも言っていい「反知性主義への対抗」を正面に掲げたものとしては、物足りなく感じてしまいました。(820円の新書本にたいする過大な期待がいけない、と言われれば確かにその通りですが。)

その上で、いくつか勉強になったこと。

著者は、「反知性主「実証性と客観性を軽視若しくは無視して、自分が欲するように世界を理解する態度」としています。
そのような「反知性主義」が「もっとも『良質』な形で表れている」ものとして、2013年の麻生副総理による
「憲法は、ある日気づいたら、ワイマール憲法が変わって、ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口を学んだらどうかね。」
という発言がとりあげられています。
なお、歴史の事実としては
「ナチス・ドイツは憲法を改正しておらず、ナチス政権時代のドイツでも形式的にはワイマール憲法が維持されていた」
ということなので
「麻生発言には根本的な事実誤認がある」
ということになるわけですが、そうであること(ワイマール憲法の形式的維持)を含めて、今日の日本の政治状況との関係で見ると興味深いことが示されています。
「ナチス・ドイツ第三帝国は、独自の憲法を作らなかった。形式的には、ワイマール憲法が残った。コストをかけて憲法改正をする必要がないという主張を展開したのが、ミュンヘン大学教授をつとめたオットー・ケルロイター(18883~1972年)だ。」
としてケルロイターの著作の一部が紹介されています。ケルロイターは
「今日の発展段階においては、この意味において次の諸法律をドイツ指導者国家の憲法規定と称することができる。即ち-」
として「1933年3月24日の国民及び国家の艱難を除去するための法律」(所謂授権法)から「1937年1月26日のドイツ官吏法」までの10の法律を挙げています。そしてこの10の法律によって 
「自由主義の国家学及び憲法学が産んだ憲法構成、及びそれから生ずる一切は、指導者国家においては無意味なものとなった。けだし、法技術的に見れば、上に掲げた基本的諸法律は、国家指導の他の諸法律と別に区別はない。就中これらを変更することは、爾余の政府による法律の場合と正しく同一の、単純な形式で可能なのである。」「ここで問題になるのは、有機的な憲法発展の形式的完成ということである。何となれば、成文の規範体型の構成は、指導者国家における憲法の意味なのではなく、民族と結ばれた指導による民族体の政治的及び国法的構成が、その意味であるからである。指導者国家に於ける憲法の構成及び完成の態様と方法に対しては、ヒューラーによって確定される、ドイツの民族・及び国家生活の政治的必要だけが、決定力を持ちうるのである。」
と言っているのだそうです。
分かりにくいところもある文章ですが、”憲法を形式的に改正しなくても、通常法の制定で憲法の実質的改正はできる。””それは、指導者が国家・民族が必要としているものを判断して決めればいい”というようなことを言っている、ということなのかと思います。
これは、「国際情勢に目をつぶって従来の(憲法)解釈に固執するのは政治家としての責任の放棄だ」として「違憲」とする圧倒的多数の憲法学者の指摘に対して「合憲だという絶対的な確信」を根拠なく言うこと(安倍総理)や、「法律の説明はまったく正しいと思いますよ。私は総理大臣なんだから」とすること(安倍総理)、「現在の憲法をいかに法案に適用させるか」が問題だとすること(中谷防衛相)、「憲法学者はどうしても憲法九条二項の字面に拘泥する」とか「私は、憲法の法理そのものについて学者ほど勉強してきた、というつもりはない。だが、最高裁の判決の法理に従って、何が国の存立をまっとうするために必要な措置かどうか、ということについては、たいていの憲法学者より私の方が考えてきたという自信はある」(高村自民党副総裁)。・・等というようなことを、表現を変えて言っているものだととらえられるように思います。麻生発言が、通常思われるように思慮の足りない軽はずみで馬鹿げたものであるわけではないように思え、恐ろしいことです。

読んだ本-「従属国家論-日米戦後史の欺瞞」(佐伯啓思著:PHP新書)

2015-06-30 16:56:59 | 本と雑誌
今国会の初めの方で、共産党の志位委員長がポツダム宣言の条文を読み上げて安倍総理の見解を質したところ、安倍首相が「その部分は詳らかに読んでいないので答えられない」と答弁した、ということがありました。
「詳らかに」というのがとりあえず今年の流行語大賞にノミネートされるのではないかと思っているのですが、まぁそういうつまらないことはともかくとして、著者佐伯啓思さんからすると、「そんなことを訊ねるところが共産党(とそれに連なる戦後民主主義・進歩派)のダメなところであり、そういう答弁で逃げるしかないところが安倍総理(とそれに連なる現実的保守派)のダメな所だ」ということになるのでしょう。いずれにしろ、このあたりの問題が、今の安保法制問題を含めて戦後日本の根本問題だ、ということです。

著者は
「この『無意識のアメリカへの自発的従属』こそが『戦後レジーム』にほかなりません。」
として、「戦後レジームからの脱却」が必要だとします。・・・と言っても、その意味合いは、安倍首相が言っていたものとはだいぶ違います。著者は
「『レジーム』とはさしあたりは『体制』といった意味なのですが、それは、ただ制度的な枠組みだけではなく、その枠組みによって規定され、また同時にその枠組みを支える、人々の価値観、ものの考え方、生活の様式までをも含んだ言葉です。」
ととらえています。経済学者である著者ですが
「確かに、自由な市場経済は社会主義の計画経済よりはすぐれている。しかし、市場競争そのものは、市場原理にのらない『社会』の安定性によって支えられなければならない。」「『社会』の安定があってはじめて市場競争はそれなりに機能するのです。そして、『社会』の秩序は、基本的にその国の文化や習慣の中で歴史的に作り出されてきたもので容易に作り変えられるものではありません。『制度の文脈依存性』と呼ばれるものです。グローバルスタンダードなどといって標準化できるものでもない。」
と考えるものが根底にあります。

それでは、そのようなことを踏まえて「戦後レジーム」をどうとらえているのか、ということが問題になります。
「日本国内では『われわれの意志』で平和主義を唱えているつもりでも、その枠組み自体をアメリカが作り出している、という構造」
を「戦後日本の基本的な『レジーム』」だとします。それは、軍事的なものだけでなく、「日米構造協議」-「構造改革」のように経済的なものとしてもある、とされます。さらに、
「自らすすんで、アメリカの意向を『内面化』し、それに反するものをあらかじめ排除する」
「無意識の自発的従属」が作り上げられてきている、とします。

この点をめぐる著者の分析はとても鋭く、勉強になるのですが、では、このような「戦後レジーム」に対してどうすべきなのか?どう脱却するべきなのか?ということに関する著者の方針は必ずしも明らかではありません。
「こうなると、日本の『国益』は文字通り、日米関係を緊密にする以外になくなってしまうのです。それ以外の選択肢はなくなってゆく。この『状況』を前提にしてしまえば、確かに現実的保守派がいうように、アメリカとの連携を最大限、緊密化するほかない。」
「しかし、そのことが両国の価値観の共有というところまでくると、ますます日本はアメリカへの『自発的従属』に陥ってしまうのです。」
「今、われわれにできることは、何よりもまず、われわれを就縛している『戦後レジーム』の構造を知ることなのです。そのことを知っておくことは極めて大事なことなのです。『知ること』はそれ自体が『力』なのですから。」

あんまりスッキリしませんし、そもそも著者の実際上の判断などに賛同しかねる部分も多くあるのですが、なにはともあれ「知ること」の大事さを確認でき、勉強になりました。

読んだ本-「原発ホワイトアウト」(若杉冽:講談社文庫)

2015-06-24 18:44:18 | 本と雑誌
「現代人必読の警告の物語。これを読まずして原発問題は語れない。」「次の原発事故を待たなければ、『原発ゼロ』は実現できないのか!日本人の叡智と民度が試されている!」と帯にあります。
原発問題を取り上げた小説です。2013年9月に単行本として出版され22万部売れたものだそうで、私も読みたいと思いつつ読めずにいたものです。今回文庫版発行にあたってようやく読みました。
著者は、「現役の霞が関官僚」とのことで、それによるリアリティもあります。

「小説としての完成度」というようなことはよくわかりませんが、「面白く読めて勉強になる」ものであることは確かです。

「勉強になる」部分は、まず、「原発問題」の構造に関するものとして、です。
福島原発災害以降、「原発ムラ」という言葉がよく知られるようになって、原発をめぐる利権構造が、電力会社、原発メーカー、議員、官僚を中心に立地自治体や学者などをも含んで作られていることが明らかにされました。しかしその反面「ムラ」という言葉から何か牧歌的な感じも受けてしまうのですが、そんな生易しいものではないことが描かれています。その構造は、利権に支えられつつ強力な「国家意思」によるものであることが明らかにされています。しかも、それは仙谷さんではありませんが「暴力装置」としての国家のもので、とても強固なものであることを思い知らされます。

「勉強になる」二つ目は、技術的な問題についてです。原発の再稼働を推進する人々は、「世界最高水準の安全基準」ということを言いますが、「世界最高水準」って何?というのがよくわかりません。本当にすべての面で「世界一」なのか、というとそういうわけではないようですし、どこまでさまざまな事態への「想定」が拡げられているのか、それに対応できるようになっているのか、ということがはなはだ疑問です。そのようなことが、「小説」という「想定」を膨らませる形で示されています。

最後に「勉強になる」のは、「官僚支配」に関するものとしてです。原子力規制庁などの組織が構造的・制度的な面でもどのように動いているものなのか、ということが示されていますし、その基礎にある官僚の生態や思考方法もが描かれています。これは、「小説」という形態だから描けるものでしょう。
なお、小説の中で法務省も少し出てきます。
「法務大臣は、国家公安委員会委員長や環境大臣と並んで軽量級の政治家が座るポストであり、引退直前の議員や、参院の初入閣者、あるいは女性の初入閣者が就くのが通例だった。」
「検察の出世コースには、伝統的に、『巨悪を眠らせない』という特捜部のコースと、法務官僚として行政能力を買われるコースがある。」
・・・とのことです。あくまでも小説の作者が言っていることです。

読んだ本―「ぼくらの民主主義なんだぜ」(高橋源一郎著:朝日新書)

2015-06-20 05:56:48 | 本と雑誌
朝日新聞の「論壇時評」として2011.4から2015.3まで月1回連載されたものを新書化したものです。

その時々に「論」じられていたことを紹介しながら「評」したものですが、通常の「論壇」だけではなく、さまざまな事柄が対象になっていて、この4年間(まさに3.11以降の4年間です)を振り返りながらタイトルにあるように「ぼくらの民主主義」を考えるものになっています。

断片的なものになりますが、私の面白いと思ったものをいくつか抜き書きします。

「ぼくたちは、民主主義の理想を『熟議』に、公共的なコミュニケーションに置く。けれど、著者(東浩紀)は、熟議への信奉こそが、ことばによるコミュニケーションを至上のものとするかんがえこそが、ひとびとを政治から遠ざけたのだとする。」
これは、東浩紀の「人間は論理で世界全体を捉えられるほどには賢くない。論理こそが共同体を閉じるときがある。だからわたしたちはその外部を捉える別の原理を必要としている。」という考えを受けて言われているものです。「そうか」と思わされもするけれど「それで?」とも思わされるものですね。

「いまの政治システムがおかしいことは、みんなわかっている。杉田敦は、いわゆる『決められない政治』が跋扈する理由は、『多数派』に負担を回すことができないので(そんなことをすると選挙で落ちるから)、政治家たちは『後世』という『外部』へ、そのつけをまわそうとするからだ、という。あるいは、大竹文雄は、『選挙は民意を正しく反映するか』という問いに、やはり多数派が、心地よい、『つい信じてしまいそうな主張』に動かされやすいことが、とりわけ『瀬戸際に立たされた政治家』に影響を与える、と指摘する。」
規模の小さなものとはいえ、「選挙」を終えた(しかも負けた)ばかりの私にとって痛い指摘ですね。

「いまこの国の人たちの中に、『身も蓋もない言い方をするならば、「みんなで無知でいようぜ、楽だから」というメッセージ』が蔓延しつつある、と想田さんはいう。『彼らにとって、政治家のレベルが低いことは望ましいことであり、むしろそのことを、無意識のレベルで熱望しているのです。』」




読んだ本-「日本戦後史論」(内田樹:白井聡。徳間書店)

2015-06-16 08:33:34 | 本と雑誌
「日本辺境論」の内田樹と「永続敗戦論」の白井聡による対談です。

全体としての紹介や評価についてできる状態ではないので、面白く思ったところを抜書きします。

「自分が犯した愚行や、恥ずかしい失敗を認めて『俺はそういうことをしかねない人間だ』という自己評価を引き受けたときにはじめて愚行や失敗の意味が解明され、同じ愚行や失敗を繰り返さない方途が発見される。『そんなことは俺はやっていない』と否認したり、あるいは『そういう風に見えたかもしれないけが、俺はそういうつもりでやったわけじゃない』というふうに見苦しい言い訳をすれば、個人としてのアイデンティティは成り立たない。」(内田)
個人的なこととしても骨身にしみるようなことですね。さらに「集団」になった場合に、よりしっかり考えておかないといけないのだな、と思わされます。

「2008年に行われた韓国の陸軍士官大学の卒業生たちへのアンケートでは、仮想敵国ナンバーワンはアメリカでした。・・・実際に戦争が起きたら最も頼りになるはずの同盟軍に対して、韓国の軍人たちは信用を置いていない。信用を置いていないし、好きでもないと公言している。でも軍略的には米韓両国にとってこの同盟関係は相対的に『よりまし』なものだから採択されている。こういうのが主権国家の『ふつう』の態度だと思います。別におべっかを使う必要はないし、『思いやり予算』を付けることもしない。相互に利用価値があるから利用し合う。それ以上のことを望まない。それが本来の外交でしょう。」(内田)
「大人の関係は相互利用」というのは、かねがね私の持論なのですが、そう言うと「なんて薄情な奴なんだ」と言われてしまいます。情緒的な関係性というのは、かえって関係性が悪くなった時に取り戻せなくなってしまうような気もします。「本来の外交」ということを(国同士の関係についてだけでなく)考えた方がいいのだと思います。


「岸信介や佐藤栄作や田中角栄までの世代の人たちは、アメリカにコントロールされながら、どうやってそのコントロールを出し抜くかを考えていたと思うんです。面従腹背だった。とりあえず短期的には徹底的に対米従属する。そして、早めに対米独立を獲得しよう、と。それは国家戦略としては間違っていないんです。」「日本はある段階から、対米従属戦略そのものが自己目的化してきてしまって、それがアメリカから日本の国益にかなう譲歩を引き出すための戦術的迂回であったということを忘れてしまっている。」(内田)
なるほど。

「最近の日本は『右傾化』したと言われますが、僕はむしろ『シンガポール化』と呼びたい。・・・シンガポールは、国是が『経済成長』ですから。統治システムも、教育も、メディアも、すべての社会制度が『経済成長に資するか否か』を適否の基準の判断がなされる。わかりやすい国です。」「彼らは別に戦前の大日本帝国のような日本を作りたいんじゃない。シンガポールみたいにしたいだけなんです。金儲けだけに特化した社会の仕組みにしてほしいので、民主主義は邪魔なだけなんです。」(内田)
・・・これも、なるほど。

最後に、これもまた「なるほど」と思ったことを紹介して終わります。原発政策に関することとして言われていることですが、いろいろなことに当てはまるな、と思います。
「『どっちかといえば、やめた方がいい』程度の意志で、やめられるはずがない。それがどうやらわかっていないところが、日本国民のだめなところです。国家がこれまであらゆる反対意見を踏み潰して推進してきた政策なんだから、これを政策転換させるのは、とてつもなく大変なことで、『どっちかと言ったらやめた方がいいんじゃないですか』くらいの意志でやめさせられるはずがない。、『どっちかと言ったらやめた方がいいと思います』程度の意見というのは、事実上の推進と同じなんです。」(白井)