大きな帯に、「最高裁中枢の暗部を知る元エリート裁判官衝撃の告発!」とあります。たしかに「衝撃」の内容です。
著者の瀬木氏は、同じく帯に記載されている略歴によると、「1979年以降裁判官として東京地裁、最高裁等に勤務、アメリカ留学。並行して研究、執筆や学会報告を行う。2012年明治大学法科大学院専任教授に転身」という経歴を持つ方です。
そのような人が、「司法荒廃、崩壊」の実相を厳しく告発しているので、非常に衝撃的であるわけです。
瀬木氏によると、日本の裁判所の世界というのは、最高裁事務総局を頂点とする司法官僚の「上命下服、上意下達」の体制にあり、精神構造的に閉鎖的で「収容所群島」(旧ソ連の思想統制を告発したソルジェニーツィンによる表現)というべきものとしてある、とのことで、そのことが、さまざまな「事実」を示しながら明らかにされています。この「告発本」というのが、本書の一つの特徴です。
しかし、著者は「裁判官であったことのある学者」であり、本書は単なる「告発本」の範疇を超えた問題提起を行っています。
日本では「キャリアシステム」=「司法試験に合格した若者が司法修習を経てそのまま裁判官になる官僚裁判官システム」をとっているが、そうではなく、「法曹一元制度」=「相当の期間弁護士等の法律家経験を積んだ者から裁判官が選任される」制度への転換が必要、というものです。これは、一般的によく言われることですが、上記のような経歴を経てきた著者が言うことによって説得力が増しているように思えます。
多くの論点があるのですが、とりあえず二つだけ、私にとって説得的だったことを紹介します。。
一つは、本書の大きなテーマである、「裁判とは何なのか?」ということをめぐる問題です。著者は、
「裁判の目的とはいったい何だろうか?私は一言でいえば、『大きな正義』と『ささやかな正義』の双方を実現することではないか、と考えている。」
と言います。そして、「日本の裁判所では『ささやかな正義』はしばしば踏みにじられている」と言います。
民事裁判で言えば、「和解」によって事件を「落とす」件数だけに関心が向けられる姿です。「当事者の名前も顔も個性も、その願いも思いも悲しみも」念頭になく、ただひたすら「事件処理の数とスピード」にしか関心が向けられない実情がる、と言います。刑事裁判においては、もっと極端に、実質的に裁くのは検察であり、裁判はその追認に過ぎなくなっている、とされます。
そして、このような「ささやかな正義」が踏みにじられることの延長上において「大きな正義」についても、「きわめて不十分にしか実現されていない」状態になってしまっている、とされています。
もう一つは、あまり主要なテーマではないのでしょうが、「法理論というものは、純理にとどまらない結論正当化のための理屈という性格を必ず幾分は含んでいる」という限界についての認識を持つべき、ということです。そのうえで、「悪い法理論は、最初に結論を決めてただそれを正当化するために構築されていることが多い。・・・法理論については、難解な用語を用い、かつ、巧妙に組み立てられていることから意外にも、法律の素人である一般市民をあざむくためには結構効果的なのだ。そのような法理論の欠陥を見抜くには、それを正確かつ簡潔に要約するとともに、日常的な言葉に翻訳してみることが大切である」としています。興味深く読みました。
(なお、「説得力」ということで言うと、初めの方の「告発」ということに関しては、残念ながらあまり「説得力」を感じることはできませんでした。おそらく、「事実を事実として伝える」という能力と、「論理的に説き明かす」という能力とは別物で、著者は後者にとても優れた能力があるのに、前者にはそこまでのものがない、ということによるのでしょう。「本当にひどい実態」を身をもって感じた人間が、その経験を有しない他者に伝えることのむずかしさ、=書いている人がいきり立てばたつほど伝わりにくくなってしまう、ということを・・・私自身にはよく伝わったものの・・・感じました。、おそらく一般的には「一歩的にむちゃくちゃ言ってるな」と思われてしまうのではないか、と感じさせられてしまいました。むずかしいところです。)