大分単身赴任日誌

前期高齢者の考えたことを、単身赴任状況だからこそ言えるものとして言ってみます。

年の終わりに・・・

2016-12-28 14:27:50 | 日記
2016年が終わろうとしています。

年末には、その年を振り返って見るものです。

個人的には、とてものんびりとした月日を送った一年でした。振り返ってみても特に何もない・・・。年老いてからの歳月とはそういうものか・・・、と寂しくなるような感慨もあります。

これはまぁ個人的なことなのですが、「土地家屋調査士界」としてもどうかな、と考えると、なんか同じような感じを受けてしまいます。特にない・・・。

・・・と思っていたら、年末近くになっていくつかの動きがありました。

一つは、「連合会における土地家屋調査士CPD情報の公開」へ向けた動きです。
これについては、「土地家屋調査士CPD」ができて以来の課題であるにもかかわらず一向に進まなかったものが動き出した、ということで、いろいろな問題はありつつ、何はともあれ前進なのだと思います。しっかりと動いていくことを期待しています。

もう一つは、「筆界特定制度と土地家屋調査士会ADRとの連携」に関することです。
これについても、ずいぶん前から課題として挙げられながら、実効性のある方策がとられてこなかったことですので、そのような経緯への反省を含めて取り組んでいく、ということには意義があるのだと思います。
しかし、はたして、今、進められようとしているのは、そういう方向を向いたものなのか?・・・というと、疑問があります。以下、その「疑問」について書きます。
それは、端的に、日調連が各単位会に出した「意見照会」の依頼文書に現れています。そこでは次のように言われています。
「筆界特定制度と土地家屋調査士会ADRとの連携については、法務省との間で今後の連携の在り方について協議を続けており、平成28年度中に「筆界特定制度と土地家屋調査士会ADRの今後の連携方策について(仮称)」を取りまとめる予定としております。この度、法務省から、その骨子案について各土地家屋調査士会への意見照会の依頼がありましたので、別添のとおり送付します。つきましては、ご意見等がある場合には・・・・」
というものです。
ええーっ?これって何でしょう?日調連と法務省との間で協議をしていて、それをまとめる段階に来ている。ついては、協議の相手方である法務省から各土地家屋調査士会への意見照会をするように、という依頼があったので、文書を送る、というものです。
どうしてこんなことになってしまうのでしょう?ここでは、日調連というのは、対等な立場で協議をしている一方当事者であるわけですから、その協議をまとめるにあたって構成員である各会の意見照会を行うかどうか、は自分で決めればいいことです(もちろん、やらない、とするべきではなく、行うべきなのでしょうが)。それを、協議の相手方からの依頼があったからやるようにする、というのは、あまりにも情けないでしょう!
これは、たとえて言えば、日米で「防衛協力指針」を協議するにあたって、日本政府としてはそれに関する国会での議論をして承認を得るような手続きをする気はなかったけれど、アメリカ側の依頼があったので国会審議をすることにした、というのと同じようなことだと思えます。もしもそんなことがあるのなら(似たようなことは現にあるにしても)、それは「主権の放棄」「独立の放棄」であり、完全な「属国」であることを自ら宣言するようなものです。

こう言うと、「言葉尻をとらえて文句を言うのはよくないよ」という意見もあるかもしれませんが、これは筆が滑ってでてくるようなものではありません。このように言うのが適切だと考える「基本哲学」から出てくる言葉なのだと思います。そのような基本的考え方を持ちながら、さすがに「それをいっちゃあおしまい」だと考えるところもあって表面には出てこなかったものが、ついにこのような表現の仕方をするところまで来てしまった、ということなのだと思います。残念なことです。

それは、完全な「受け身」の姿勢であり、自分自身としては決して「前」に出ず、ただただ後ろからついて行くだけ、という姿勢です。
何かをしようとしたら必ず様々な意見があります。それらを踏まえて、それでもなにがしかの方向性を決めて進んでいかなければならないわけですが、そのようなことを自ら行うことをせずに、結局は「外圧」によって決めてしまう、というようなことを繰り返していると、やがて、自分自身で考えて自分自身できめることが当たり前の姿なのではなく、誰かに決められることが当たり前のようになってしまう、ということがある、ということなのかと思います。
これは、単に「組織」としてのありかただけでなく、「業務」のありかたの問題でもあるのでしょう。
このような傾向を断ち切れずにいる頽廃は、やがて全身を腐らせることに結びついてしまうように思えてしまいます。

年の終わりに、景気の悪い話ですみません。・・・が、なにはともあれ、よいお年を!

読んだ本―「グローバリズム以降―アメリカ帝国の失墜と日本の運命」(エマニュエル・トッド:朝日新書)

2016-12-26 08:58:02 | 日記
フランスの歴史家・文化人類学者エマニュエル・トッドへの朝日新聞記者によるインタビューをまとめた本です。

「私たちは全く新しい世界にいる」として「4つの要素」が挙げられています。それは
、「①共同体的な信仰の喪失②高齢化③社会を分断する教育レベルの向上④女性の地位の向上」
です。パッと見るとごく当たり前のことのようで、取り立てて新しい指摘ではないように思えてしまうのですが、その内容を見るとなるほど、と思わされます。
①について、「経済的合理性」「利益率でものを考える世界」が「信仰として最後のもの」としてあり、それは「反共同体的な信仰」だとします。「経済は手段の合理性をもたら」すが「目的の合理性ではない」ので「限界がある」とされます。
②の「高齢化」は、単にフィジカルの問題としてだけ言われているわけではありません。「形而上学的な展望の欠落と高齢化」との結びつきが問題で、それを「無責任な高齢者」という概念で表しています。
③について、特に日本のことが指摘されています。「日本は再び、教育という点で階層化された社会になっています」と言うのです。「高等教育の普及」によって「新たな教育格差が別の重い意味を持つようにな」る、と言われます。
④の「女性の進出」についても「教育革命」との関係で問題にされることです。

インタビューに答えた断片的な言葉を、どれだけ理解できているのかわかりませんが、これらの前社会的な同区に関する指摘を受けて、その社会の一部分である自分の身の回りのことを含めて考えさせられました。

まずは「経済的合理性」は「利益率でものを考える」ということとしても表現されています。そこには、たしかに当初は「手段の合理性」があるのでしょうが、「目的」を喪失したところで「手段」が独自の意味を持ってしまう、というのはとても危険なことなのだと思います。
その上での「高齢化」です。日本の国全体として「将来世代の借金」で今を生き延びているようなことがありますが、それは社会の隅々のいたるところで同様の構造を生み出しているのでしょう。土地家屋調査士の業界においても、「今と同じようなことをし続けていたら未来はないのではないか」、ということは、少しでもものを考える人間であればだれでも考えるようなことなのですが、「無責任な高齢者」がそれにフタをしてしまう、ということがなされているように思えます。これは構造としての問題です。

日本について著者は、「日本はテクノロジーに問題があるわけではありません。最も進んだ国の一つであり、国民全体の教育レベルが高い国です。しかし教育のある女性が働きながら子供を持つようにすることができないままです。」と指摘しています。
まさに、こういうところに問題があるのでしょう。「教育のある女性」が、その教育程度に応じた「活躍」ができずにいます。同様のことは、男性の「教育のある」人々の問題でもあります。いくら「教育」があろうと、それを活かす社会的な構造がないと「宝の持ち腐れ」になってしまいます。本来は、ものを考え、それを創造的に生かしていくことに役立つべき「教育」が、より「上」で作られるシステムを動かしていく歯車としてよりよく機能するためだけの役割しか果たさなくなってきてしうまう、という姿は、私たちの業務領域でも見ることのできるものです。

2016年は、世界と日本で「トランプ大統領」と「カジノ法案」というとんでもない形で終わろうとしています。そのような社会の潮流が私たちをも包んで進んでいる今、本書で示されたようなことを自分自身の問題として考える必要がある、と思いました。



「認定調査士」について

2016-12-19 17:55:42 | 日記
大分会の会報用の原稿として「認定調査士」に関することを書きました。書く中で、自分自身としてもあらためて考えるところがあったので、原稿の一部を流用しつつもう少し考えてみます。

「認定調査士」の制度ができたのは、平成17年の土地家屋調査士法改正によります。この平成17年改正というのは筆界特定制度のできた不動産登記法改正に伴うものです。筆界特定制度の創設に伴ってすべての調査士が筆界特定手続の代理をできるようになった、ということと同時に、「特別研修」を終了して一定の「能力を有すると認定」された者(認定調査士)のみが「筆界が現地において明らかでないことを原因とする民事に関する紛争」についての「民間紛争解決手続」(ADR)の代理をできるように定められたわけです。
ここでは、「筆界」に関すること(筆界特定制度)と「所有権界等民事に関すること」(筆界の不明を原因とする民事紛争)とがはっきりと区別されています。
これは、「筆界」「境界」に関するこれまでの理論的な整理にもとづくものです。
しかし、現実の土地境界をめぐる問題、というのは、このようにすっきりと区別できるようなものとしてあるわけではありません。元々の筆界を確認しようとする場合でも、土地所有者にとっての関心事は「自らの所有権の及ぶ範囲」(所有権界)であるわけですし、土地境界紛争が起きるのはこの所有権界をめぐってのことです。そのような中で「筆界だけ」を対象とすることの方が困難で、「筆界」の確認のためにも土地の所有権をめぐる「民事」的な問題を抜きにすることはできない、というのが現実だというべきでしょう。
このような現実は、筆界特定制度ができて10年を経て、25000件以上の手続を行ってきたことの上で明らかになってきています。理論的にも、「筆界と所有権界との峻別」だけではなく、その「関連性」ということを考えていかなくなってきている、と言えるでしょう。
その一つの現れとして、今年運用の試行がなされることとなった「所有者不明土地に関する筆界特定手続」の運用方針があります。この運用方針では、筆界調査委員の指定に当たって「認定調査士」であることを「考慮」することとされています。
従来の「理論的」な考え方からすれば、「所有者不明」であろうと何であろうと「筆界特定」にあたって「認定調査士」であるかどうか、ということは関係のないことであるはずです。にもかかわらず「認定調査士」であることを考慮する、というようにするのが適当であると考えるようになっているのは、「筆界」を民事的なこととの関連において考えなければならない、ということが自覚的であるかどうかはともかくとして明らかになってきていることによるのではないかと思います。
そして、これをさらに広げて考えると、日常的に私たち調査士が行っている「筆界確認」についても、それ自体としては「民事」に関することではないとしても、やっぱり「民事」的な知識・能力がなければ十分な判断ができない、ということにつながっていきますし、そのような力が求められてきている、と考えるべきなのでしょう。

別の方向から考えます。「資格制度」という方向からです。
認定調査士の制度ができたのと同じ時期に、司法書士には「簡裁代理認定司法書士」、社会保険労務士には「ADR代理特定社労士」の制度ができました。
「簡裁代理認定司法書士」については、すでに全司法書士の74%を超えていて、「認定司法書士にあらずば司法書士にあらず」とさえ言っても過言ではないような状態になっています。
社労士については、社会保険労務士法の本法の条文で「以下『特定社会保険労務士』という」という括弧書きの注記がなされていて、テレビに出演する社労士も肩書を単なる「社労士」ではなく、「特定社労士」だとして、その独自性が強くアピールされています。
このような他資格における「資格内資格」の強調に比べて、調査士の世界における「認定調査士」は随分と控えめな感じがします。これは、改めていかなければならないところでしょう。
司法書士については、「簡裁代理」が現実の問題として「業務拡大」に結びついた(クレジット・サラ金の過払い請求等)、という事情がありますが、その根底にあるのは、自分自身を「登記手続」を行うだけの「手続屋」ではなく「法律家」の一員であると位置づけ、それにふさわしい能力を持つように努めている、ということなのだと思います。
社労士については、そもそも「社会保険労務士」という資格自体が行政書士から分化してできた資格であることもあり、より専門的な分野に特化して能力を高め、業務展開していく、という姿勢がある、と言えるのでしょう。
このような他資格における動向を、調査士にとっても無縁のものだと考えるべきではありません。先に述べたように、「筆界の確認」についても、民事上の問題に関する能力ぬきに行えるものではない、ということが明らかになってきているのであり、同様の展開を積極的に考えるべきなのです。

今後、特に大分のような地方においては、土地所有者が都会に流出してしまって、相続によって土地を取得してもその土地がどこにあるかも知らず、ましてや土地の境界がどこなのかわかるわけもない、というような事態が多く起きてくることでしょう。そのようなときに、たとえ土地所有者の認識がないとしても、公正に土地の筆界を明らかにすることのできる専門的能力を有する者が求められてきます。その土地の歴史的な経緯と民事的な権利関係を踏まえた「法的判断」のできる専門家が求められているのです。
しかも、その「専門家」は「自称」のものだけでは足りないのであり、信用のおけるものであること、公的な認証を持つものであることを求められるでしょう。
そのような存在というのは、今の日本社会において私たち「土地家屋調査士」以外にはない、と言えます。他には、適格者は全くいないのです。
しかし、その場合、はたして現在の「土地家屋調査士」がまるごとそのような能力を認めれられるものとしてあるのか、ということが問題になります。
それは、率直に言って難しい、と言うべきでしょう。新しい業務領域を開き、新しい職責を担うためには、新しい能力、そのための新しい研鑽が必要だ、というのが社会の要求です。

そしてそのような要求に対して、「認定調査士」という最近できた制度があります。社会構造の変化を受けて、この「認定調査士」に新しい職責を与えていく、ということが考えられてもおかしくないでしょう。
そして、そのような「筆界の認定」を行うものとしての「認定調査士」が、社労士における「特定社労士」のように(あるいは、行政書士から分離したもともとの社労士のように)「調査士一般とは区別されるもの」になって、独自の役割を果たしていくようになるのだとしたら、これまで「土地家屋調査士」一般が行うことができるものとされていた「筆界の確認」は「認定調査士」のみにできるものになる、ということになります。

「土地家屋調査士」という制度が、未来永劫安泰な制度である、と考えるのであれば、そこに安住してのんびりと旧態依然の仕事をしていけばいい、ということになるのかもしれません。しかし、はたして今後そのように社会は動いて行ってくれるのか?・・・もう一度考え、今後の方向性を考えていく必要があるように思います。

あまりにひどい!カジノ(IR)法

2016-12-12 18:34:05 | 日記
「今年の漢字」は、またしても「金」だそうです。オリンピックのあるたびに「金」になるみたいで、いろいろなことのあった2016年も結局「オリンピックの年」ということでおさめられてしまうのか、と思うとなんか情けないですね。
もっとも、auのCMのように「金」を「カネ」と読んで「カネカネカネ・・・」への執着を示すのであれば、「今年」に限らず「毎年の漢字」になるのかもしれません。日本の社会は、そして「強欲資本主義」のグローバル展開は、そういう社会にしているのか、とあらためて思わされます。

今国会における「IR」=カジノ解禁法案のまさに強行な採決へ向けた動きというのも、そういう社会を示すものなのでしょう。「カネさえ儲かればなんでもいい」というまったく情けないような頽廃・堕落だと思います。

わが大分県の岩屋毅議員が議員立法提案者の一人としているので、メールマガジンで「IR法の真実」を教えてくれます。
それによると「IR法」は次のようなものとして構想されているのだそうで、だから問題なく進めるべきだ、ということになるそうなのですが、どう考えても説得的なものではありません。次のようなものです。
1.カジノ単体は認めない。あくまでもホテルや国際会議場、展示場、各種エンターテイメント施設などを有する統合型観光施設のみを認めることとする。カジノフロアーの面積は全施設面積の3%程度に限定する。
2.施行数は当面、全国で三カ所程度に絞り、施行総数についても法定する。
3.魅力ある国際観光地づくりに資する相当規模の施設でなければ認めない。
4.施行者は国の厳格な審査を経てライセンスを付与された事業者に限る。
5.カジノに関しては日本人に対し、一定の入場料の徴収、申告による入場排除などの入場管理政策を施す。
6.この際、これまでの既存の公営競技や遊技から発生しているギャンブル依存症についても抜本的な対策を講じ、全体としてのギャンブル依存症比率の低下を目指す。
7.納付金や入場料による収入を社会保障、教育、観光振興、文化芸術振興、ギャンブル依存症対策などに充当する。
しかし、カジノの「床面積」が「3%以内」で、「非常に少ないから問題じゃない」のだとしたら、「カジノ抜きの総合型観光施設」だっていいのじゃないの?と思ってしまいます。でもそうならないのは、「収益」を上げるのは圧倒的にカジノになる(予定)、ということによるわけで、その床面積の少なさや「単体」でないことなどは、なんの免罪符にもならないように思えます。
むしろ、韓国の「国際会議場」に行ったときに、会議後の夜の議論もそこそこにカジノへ向かう人があったことを情けない気分で見た経験のある私としては、かえって悪いのではないか、とも思ってしまいます。

ギャンブル依存症対策についても「この際」行うこととしている、とのことですが、これは「泥縄(泥棒をとらえて縄をなう)」よりもさらにひどい話です。現に、人口の5%近いギャンブル依存症がいる国で、それをさらに増やすようなカジノを作ってしまって、その収益を「ギャンブル依存症対策」に充てる、というのは、泥棒の盗んだ金を使って縄を買おうとするようなものです。
同じ国会では、TPP批准へ向けた法案を可決しました。トランプ新大統領の下でアメリカが離脱することが確実な情勢であるにもかかわらず採決を強行することの理由として、「日本の国としての姿勢を明確に示す」ということでした。法律を作る、ということには、このような宣言的な意味もあるのでしょう。
だとするとこの「カジノ法」は、賭博罪の違法性阻却事由を明らかにする、という最も根本的なこともできていない段階でも、とにかく「成長戦略のためにはカジノをやるのだ」「細かい違法性の問題などはともかく、背に腹は代えられないからやるしかないのだ」ということを宣言する意味を持っている、ということなのでしょう。これが「法の支配」か?と情けなくなります。

読んだ本-「テロリストは日本の『何』を見ているのかー無限テロリズムと日本人」(伊勢崎賢治著:幻冬舎新書)

2016-12-07 18:38:02 | 日記
南スーダンのPKOへの自衛隊派遣部隊に「駆けつけ警護」の任務付与がなされましたが、そのニュースを見るにつけ、軍事的な紛争に対して日本(人)がどのように対処するべきなのか、という問題についての認識・理解が私を含む日本人には足りないように思えます。本書は、そのようなことについて、勉強になる本です。

著者の本は以前にも取り上げたことがありますが、あらためて著者の紹介をしておくと、著者は「国連PKO幹部として東ティモール暫定行政府の県知事を務め・・アフガニスタンでは日本政府代表として武装解除を指揮」した経験のある人です。現在は東京外大の教授をしているそうですが、軍事紛争の現場の経験を持つ数少ない日本人の一人であり、その経験にもとづく指摘には、蒙を啓かれることが多くあります。

著者は、まずはごく一般的なことについて、次のように言いす。
「人間社会には、それがどんなところでも日常生活があります。それが戦時状態であってもです。そして日常生活には必ず『沙汰』が必要なのです。」
「国家による『沙汰』もしくは『法の支配』の”空白”でインサージェンシー(一般に「テロリスト」と呼ばれる武装した反体制分子のことだそうです)が台頭、跋扈するのです。」


それに対して、どう対処するべきか、ということについて、著者は次のように言います。
「国家に忠誠心のある適正な規模の国軍と警察をつくり『法の支配』を広める。これが国民の安全を守り、日常生活の『沙汰』を下す。唯一国家がそれを行うことで国民は安心し、国家に帰依する。」

別の言い方では、「ゲリラに勝つにはどうすればいいか?民衆をこちら側にひきつければ魚(テロリスト)ほ干上がる。このロジックしかありません。成功しようとしまいと。これしかないのです。」とも言われています。

あたりまえのことですが、「民生の安定」がないので紛争が激化しているのに対して、紛争を根本的に収束させるためには「民生の安定」を実現するしかない、ということになります。軍事的な手段で「悪い奴ら」を根絶やしにしてしまおう、ということがうまくいかないことがアフガニスタンやイラクで、そしてシリアで明らかになっているうえで、このごく当たり前のところに立ち返るべきなのでしょう。
そして、その中における「役割分担」ということを考えるべきで、みんながアメリカと同じことをしようとするのではなく、これまでの歴史が形成してきた立場を生かして、最も有効で有意義な貢献をするように努めるべき、ということになるのだと思います。

本書の主題として言われている「テロリスト」に対する問題や、「日米地位協定」をめぐる問題について勉強になったのですが、それ以外のことを言うと、私は、著者の「成功しようとしまいと。これしかない」という言い方(考え方)に感銘を受けました。もちろん、何か物事がうまくいかなかったときに反省をすることは必要なのですが、さまざまなことへの反省をしつつ、最も根本的なところでは揺るぎないものを貫く、ということが必要です。それを強く言い切れるかどうか、実際に貫いて行けるかどうか、ということが(特に尖鋭な紛争に対するときには)必要なのだと感じさせられました。

・・・そういうところからも、今回の「駆けつけ警護の任務付与」というのは、どうなのかな?と思わされもしますが・・・。