大分単身赴任日誌

前期高齢者の考えたことを、単身赴任状況だからこそ言えるものとして言ってみます。

最近の仕事から~高齢社会と土地境界

2015-12-21 11:43:22 | 日記
私の最近の土地関係の仕事は、高齢者(80歳以上)からの依頼のものが圧倒的に多くなっています。これは私が事業系の仕事をほとんどしない(依頼がない)、ということにもよりますが、やはり社会の高齢化が進んでいることの反映なのだろう、ということを痛感します。

高齢者からの依頼、と言ってもその中身は一様ではありません。近い将来の介護に備えて二世帯住宅をつくるために土地を分割する、といった目的のためのものも中にはあります。・・が、やはり多いのは、「土地を引きつぐ子供のために境界をはっきりとさせておきたい」という、特に具体的な目的があるわけではないけれど、この際だから土地をしっかりとしたものにしておきたい、というものです。

このようなことを受けて、いくつかのことを考えました。まず第一は、多くの土地の現状というのは「境界がはっきりした状態にあるわけではない」ということです。これは日常的に境界を明らかにするための仕事をしている私たちにとっては当たり前と言えば当たり前のことですが、考えてみると面白いことで、それは第二のこととかかわりがあります。すなわち、第二に、そのように「はっきりしたものではない」にもかかわらず、それによって大きな問題(紛争)が生じるわけでもなく、これまではやってこれた、ということです。日本の土地境界制度の特質というのは、ここから考えるべきなのではないか、と思います。そして第三に、今まではそうであったにもかかわらず、多くの土地所有者が「代替わり」を前にして「今後は今までのようには行かなくなるのではないか」と思っている、ということです。「自分が死ぬ前に」ということで、境界をはっきりさせ、それを記録することによって子孫に紛争の種を残さないようにしなければ、と思っているわけです。
これは、「必ずしもはっきりとはしていないけれどそれなりに安定してきた土地境界関係」が崩れようとしている、ということであり、土地を所有しているお年寄りはそのことをひしひしと感じている、ということを意味するのだと思います。次の世代の人々の多くは、引き継ぐべき土地を離れて生活しています。位置的には近くにいるとしても土地と日常的に関わることは格段に少なくなってきています。土地境界に対する認識が、親の世代に比べて格段に薄いものになっているわけです。隣接する土地の中には、すでに売払われていて旧来の土地境界に関する認識を共有するということがまったくなくなっているものもあります。・・・こういう状況の中で、「境界認識を持っている自分がいるうちに境界をはっきりさせておかなければ」と考えるわけです。

土地所有者がそれなりに確かな境界認識を持っていた、そしてそれらが決定的に相違することなく「本来の境界」に収斂しうるものであった・・・という全体としての環境が崩れていく中で、土地境界に関わる業務をしている私たちとしては、まだ境界認識が残っている現在において境界の確認をして紛争予防に努める、ということを進めて行くのが大事であることはもちろんですが、それだけでなく「隣接する両土地所有者がたしかな境界認識を持たない」という場合でも、正当で公正な境界を明らかにできるような専門家としての役割を果たせるようにしていくことが必要なのだと思います。そのためには、自分たち自身の能力を高めていくことと、それを発揮できる枠組みをつくっていくことが必要なのだ、と改めて思っています。


読んだ本―「官僚階級論―霞が関といかに闘うか」(佐藤優著:にんげん出版)

2015-12-14 17:01:39 | 日記
本書の冒頭、
「官僚を『階級』という概念でとらえる試みについて、多少違和感を持つ読者はいるかもしれません。」
という文章から始まっています。はい、確かに私は違和感を持ちました。そしてその違和感は読後においても完全に消えたわけではありません。
たとえば、著者は「官僚の行動原理」として
「官僚は明治憲法下の官吏服務規定を少しだけ変形させたルールで動いている。官吏服務規定において、官僚は国民ではなく、天皇に対して忠誠を誓っていた。先の戦争に日本が敗北したことによって、天皇は国政に対する権能を失った。それにともない官僚は、天皇なき抽象的日本国家に忠誠を誓って行動している。」
と言います。もしも、このとおりなのだとしたら、官僚の利害が「抽象的国家」と一致していることになるのでしょうから、そのような「官僚」を「階級」としてみる、というのはわかりにくい話です。「官僚独自の利害」が明らかにされるのであれば「官僚を『階級』という概念でとらえる」ことに納得できるように思えるのですが・・・。
このようなことになるのは、「官僚」が拠って立つ「国家」の性格による、ということが言えるのだと思います。次のような構造です。
「いったん出来上がった公共圏が、しだいに国家の方に引きずられていき、いつの間にか公共圏と国家の境界線がわからないような状態になっていきます。つまり、『公の世界』が『国の世界』であるかのように理解されてしまう。その近代的な国家が肥大する過程で、社会から大量の官僚が生まれてきます。」
ということです。
「国家」は、「社会の共通利害」を体現する外観を持って表れ、不断に更新されていくものです。そのようなものとして「抽象的国家」は、「社会の共通利害」の体現者であるわけです。それに忠誠を誓うものとして「官僚」もある、ということになります。
ところが、「国家」が本当に「社会の共通利害」を体現するのか?そもそも「社会の共通利害」なんてものがあるのか?・・・ということを考えると、答えは否定的なものにならざるを得ません。社会のある一部(の階級)の利害のために働いたり、そもそも「国家」自体の利害というものができて、そのために働く、ということがあるのが現実であるわけです。そして、抽象的に「国家のため」とすることが、実は具体的には「国家」を体現するものとしての「官僚のため」になってしまったりする、ということがあるわけなのでしょう。その意味で「官僚階級」ということが言えるのかもしれません(・・・が、著者自身も「官僚という階級の内在論理を解明する作業としては不十分な点がある」と言っているように、十分な説明にはなっておらず、もどかしさも残ります)。

「国家」と「官僚」の構造については(話は急に身近な話になりますが)私たちの業界の問題としても考えるべきことです。「不動産登記」というのは、「国民の権利の保全を図り、もって取引の安全と円滑に資することを目的」(不登法1条)とするものです。不動産取引という私的な領域における問題を対象にしつつ、それを公共の課題にしているわけです。ところが、その手続きが「国家」の手続きとして行われるなかで「国家としての課題」であるかのようにとらえられるようになります。「地籍制度」という角度から考えるのもその一つの現れなのだと思います。ここに一つ、立ち止まってもう一度考えてみるべき課題があるように私は思います。
また、もっと現実的なこととして、「不動産登記」をめぐる事務の公共的性格から、その事務が「国家機関」によって(のみ)実現しうるものなのだ、とされると、さらに問題が出てきます。私的な領域における公共的な課題が「国家」の側に吸収されてしまう、ということが、この場面でもあらわれてくるわけです。
そして私たちの問題となると、またもう一つ複雑になって、国家機関の外にある民間の人間が「国家資格」を持つ者としてさまざまな事務を担う、という形がとられているわけで、このとき、私たちはどちらに立つのか、ということが問題になります。公共的課題をそれとして担う立場なのか、「国家」に吸収されて依存する立場なのか、という問題です。
このことについて、従来無自覚なままに、「国家」の側に吸収されるべきもの、と考えてきたように思えるのですが、はたしてそれでいいのか?ということを、考え直さなければならないのだと思います。「国家」がそこまでの役割を果たすべきものと考えるべきではなく、「国家」と一定の距離をもつ「公共圏」をより強く打ち立てることが必要なのではないか、ということであり、その中における一つの「社会集団」としての役割を考えるべきなのではないか、ということです。


読んだ本―「さらば、資本主義」(佐伯啓思著:新潮新書)

2015-12-09 17:52:34 | 日記
佐伯啓思氏の「反・幸福論」シリーズの最新刊です。

「『グローバリズム』『競争力』『成長追求』という3点セットに根本的な疑いの目を向けるべき」ということを、「アベノミクス」に触れたり、トマ・ピケティ「21世紀の資本」に触れたりしながら説き、「アメリカ経済学の傲慢」「資本主義の行き着く先」を論じているものです。現実的な政策評価には必ずしも賛同できない部分も多くありますが、「近代主義の行き詰まり」を指摘する基本的な見方には納得させられますし刺激的に面白く読みました。

本書では、福沢諭吉の「文明論乃概略」について「明治日本が生み出した最高の書物のひとつ」として、その紹介に多くのページを割いています。
本書の主要テーマである「資本主義」に関することとはちょっと離れますが、興味深く思ったのは、次の部分です。
「福沢は、西洋を取り入れるのはよいが、順序をまちがってはならない、という。まず人心を改革し、次に政令に及ぼし、最後に有形の物にいたるべし、という。つまり、難しいものから先にかえていかなければならない、という。この順序を間違って、制度や物という易しい方から導入すると、その道はやがて閉塞し、壁にぶち当たって一歩も進めなくなる、といっているのです。」
その上で佐伯氏は、「今日の改革論もまた、この過ちを犯そうとしているのではないでしょうか。」と言います。
たしかに、一番難しいところを解決できないと最終的には破綻してしまう、というのはその通りですし、この「難しい課題」を永遠の彼岸に押しやって解決可能な易しい所だけしか見なくなるのが世間の常で、その克服が必要です。でも「難しいものから先に」というのは、ちょっと無理なんじゃないかな、と思ってしまうのですが、ここは問題にしている地平が違うようです。「文明論乃概略」の「結論」として佐伯氏が紹介しているのは、次のものです。
「福沢はこの書物で、九つの章を費やして、文明とは何かを論じた後に、最後に文明化とは、端的にいえば独立を確保するための手段だという。西洋を手本とした文明化も、その目的はあくまでも日本の独立の維持にあるというのが「この章の、というよりこの書物の結論なのです。『国の独立は目的なり、国民の文明は此目的に達するの術なり』というわけです。」
ここに「目的」と「手段」に関する今日の(私の)感覚との違い(逆転)があります。しかし、「独立」を基本テーマとして考える、ということは、現代において見えにくくしているものを明らかにする考え方なのかもしれません。特に、「近代主義の行き詰まり」の中で、「成長追求」に変わる基本指針を考える時、「独立」という問題を考えるべきなのだということになるのでしょう。

社会全体の課題が浮かび上がってくるとき、その課題はけっして「大きな」ものばかりでなく、私たちの身の回りの細々とした事柄にもその姿を現してくる、ということがあるのだと思います。社会全体としての「成長」が実現されているときには、その流れに乗ってさえいればいい、という考え方もありえたのでしょうが、そういう条件がなくなると「独立」という事を問題にして真剣に取り組まないと前に進めないばかりか生きてさえ行けなくなってしまう、ということになってしまいます。
これは、私たち土地家屋調査士という存在にとっても現在直面する最も大きな問題なのだと思います。「組織としての独立性」「職業としての独立性」を問題にしないと生きていけなくなってしまう、という問題として。





日司連ホール

2015-12-06 11:29:51 | 日記
前回書いた地籍問題研究会の第14回定例研究会の会場だった日司連ホールは、司法書士会館の地下にあって200人以上のキャパシティのあると思われる立派なホールです。そのようなホールがある、ということは、司法書士会館が大きなビルだ、ということでもあります。司法書士会館の規模は、日調連のある土地家屋調査士会館のざっと4倍はあるように思えます。
この「会館」の規模の違いは、ほぼ同じ程度の会員数(司法書士の方が今は5000人ほど多くなっていますが)の組織間では異様とも思えるものです。
・・・このように言うと、「土地家屋調査士も司法書士に負けないような立派な会館をつくるべきだ」という話のように思われるかもしれませんが、そういうことではありません。むしろ、短絡的に張り合うようにしてそう考えるのは、トコトン間違っているのだと思います。「どれほどの会館を持っているかはその業界のステイタスだ」的に考えるのも、同じ系統です。もちろん、そうは考えながら「無い袖は振れないから」とするのも、同じことです。会館をめぐる今の現実から、すぐにどうこうしよう、という話にするべきではないのだと思います。
しかし、何故こういうことになったのか?・・・ということは、考えておいた方がいいでしょう。
日司連がどのような経緯で現在の会館を建てるに至ったのか、具体的な事情は何一つ知りませんが、常識的に考えると、「ほしいと思ったから建てた」というような単純な話ではないでしょう。会館を建てる必要性があり、その必要性が多くの司法書士を納得させるものだった、ということがなければ、このようなことはなかなかできないのだと思います。
その「必要性」があるのかどうか、それを「必要」と感じるのかどうか、というのが大きな分かれ道なのでしょう。
ごく単純な話、たとえば弁護士会館に行くとその日の会議予定がびっしりと書き出してあり、その数は一日10程度ではとてもおさまらないものです(話の流れで行くと司法書士会館での会議開催数をあげるべきところですが、よく知らないので・・・)。同時に10の会議が日常的に開催されているのであれば、その会議を可能にする会場が確保されなければならない、ということになります。その会場を、所有する会館の中で確保しようとするのか、賃貸で確保しようとするのか、いろいろな方法はありますが、とにかく「必要」があきらかであるわけです。

そしてその「必要性」は、「独立性」との関係で出てくるもの、意識されるものであるように思えます。独立性の高い活動は、何かに従属しているよりも多くのアクションを必要とします。肝心なことは自分以外の誰かが決めてくれて、それに従って動けばいい、というのと、自分自身で方向性を決めて生きて行こうというのでは、やらなければならないことについて質的にも量的にも格段の違いを生み出します。そしてその活動の実施のためには、それを保障する物理的な条件がなければならない、というところから「必要性」が出てきます。もちろん、繰り返しになりますが、その保障のためにどのような方法をとるのか、ということについては様々な方法があり、すぐに「会館」の問題にむすびつくわけではありませんが、いずれにしろ「必要性」を現実の問題として感じなければスタート地点にも立たない、ということになるわけです。この根本的な所から、自らを省みて考える必要があるのでしょう。