先週末、大分県土地家屋調査士会の総会がありました。
総会自体は「無事」終了したわけですが、この「無事」という言葉にも示されるように、「総会」というのは、なんとも頼りなく、どんな意味があるのだろう?と空しい思いを抱かせるものとして終わるのが常のような気がします。
これは、私自身が会長としていわば総会を「主宰」していた時にも感じたことです。その時には、「できるだけ多くの意見がでるようにして、丁寧に議論するようにしよう」と思って総会に臨んだのですが、それが十分になしえた、と思うことはありませんでした。何しろ一年分の問題をわずか数時間の「総会日程」の中に押し込む、ということに難しさを感じざるをえません。そして、そういうことを繰り返していくうちに形骸化していってしまう、ということについて、反省的にとらえ返さざるをえません。
今回の総会でも、たしかに毎回変わらずに、そもそも問題になるようなことではないことをさも大問題であるかのように取り上げて発言する人(以下「Fさん」と言うことにします)がいて、そのレベルに執行部も他の参加者も流されて行ってしまう、ということがあるように思えます。これは、いたしかたない面もあるとはいえ、やはり、反省すべきことでしょう。一見つまらない発言のなかにも、そこから何事かを拾って前進的な要素にすることもできるはずなのに、私としてもそういうことに思いが至らなかったことを反省しなければならない、と思うわけです。
今回の総会でも、そのように「拾う」べきことが少なくとも二つはありました。
一つは、「法務局と調査士会執行部との癒着」ということが、Fさんから言われていたことです。
これは、そもそも「調査士会執行部が、法務省の委託事業(地図作成作業)を不当に自分たちだけで受託した」という言いがかりのような主張がなされることに対して、「地図作成の入札が不調に終わったうえで、なんとか事業実施できるように法務局と調査士会執行部が協議して内容を詰めていった」ということが明らかにされていく中で、「それでは法務局と調査士会執行部との癒着だろう」と言うような意味合いで言われたものです。
ですからこれは、「癒着」と言うよりも、「密接な連携」と言うべきものとしてある、ということになります。
「癒着」と言うと悪いことのように聞こえるけれど、「密接な連携」と言えばよいことのようになるわけですが、そのうえで私の思うのは、この「密接な連携」は、果たして本当にいいことなのか?こういう関係性でいいのだろうか?ということです。ここをもう少し掘り下げる議論ができればいいのにな、と思いました。
と言うのは、この「密接な連携」について「癒着」だととらえる、というのは、その「癒着」だか「密接な連携」だかによって「利益」を享受するのが誰なのか?ということが重要な問題だと思うからです。ここをもう少し掘り下げて議論できればいいのにな、と思うわけです。
上記の発言をしたFさんにおいては、これによって「利益」を享受するのは「調査士会執行部(の個々の人)」だと思われているようです。「調査士会執行部(の個々の人)」の「利益」のために、「法務局」をいいように使っている、という、「悪徳代官」に対する「越後屋」のような構図です。
しかし、実態はそのようなものではないでしょう。逆に、「調査士会執行部」は「法務局」の「利益」のためにいいように使われている、というのが実態だと言うべきでしょう。
そもそも、法務局が発注した地図作成作業について、入札では落札者が出なかった、ということがこの事態の前提です。入札での落札者はなかったけれど、地図作成作業はなんとかやりとげなければならない、・・・ここに「法務局の利益」はありました。これは、行政機関として(「官僚機構として」と言った方がいいのかもしれませんが)、譲ることのできないものです。この「利益」に「調査士会」が対応したわけです。
この構図は、あくまでも「法務局」が「利益」の享受者である、というものです。そして、それに「貢献」するものとして「調査士会(執行部)」があった、というものです。そのようなものとして「密接な関係」(もしくは「癒着」)はあった、ということになります。
ですから、この「癒着」もしくは「密接な関係」について、「調査士会(執行部)」を倫理的な意味において非難する、というFさんの主張は、まったくもって見当はずれなものであるというしかありません。
しかし、もっと冷静な、いわば「政策論」的なところから見ると、このような「調査士会(執行部)」の「献身」というのは、はたして妥当なものなのかどうか?ということが問われなければならないように思えるのです。
確かに「法務局」「法務省」という「官庁」は、その存在の本質的な定義において「公益」を実現すべき存在としてあります。ですから、個別的な検証をしない、という立場をとるのであれば、この「公益」を実現すべき存在に対して協力し献身するということは、そのまま「公益」につくすことなのだ、ということになります。
ところが、「官庁」が、個別具体的な問題に対して「公益」を追求し、それを代表する存在としてあるのか?と言うと、それは必ずしもそういうものではありません。「森友学園事件」に見られるように、「官庁」が「私益」の走狗となってしまうことでさえあるわけです。そして、もっと一般的にあるとされているのは「省益」です。その役所(法務省、厚労省、財務省…等の「省」)の「利益」のために、その省の成員は努力すべきものとされているわけです。
そのようなことの上で、「調査士会(執行部)」が「法務局」に対して「癒着」ともいわれるような「密接な連携」をもって「協力」することの是非、ということが、本当は論議されるべきこととしてあったのではないか、と(今になって)思うのです。
そしてこのことは、そもそも「何故、地図作成作業の入札は不調になったのか?」ということを問うような問題としてあります。
それは、私たちも「私益」の追求に汲々としていた、ということなのでしょう。「公益社団法人」を名乗る公嘱協会においても、その旗印とするところとは裏腹に「儲からない仕事はしない」ということが当然のこととされているようです。
こういう矛盾を問い返す機会として「総会」があるはずなのに、とことん「私益」しか問題にしないFさんに引きずられて、そのような問い返しをしないまま総会を「無事」に終わらせてしまった、というのは、やはり私(達)の「総会」に向かう姿勢が甘すぎたことによるのではないか、と思えるわけです。反省、です。
・・・ということで今回はおしまい。「もう一つ」の論点(「政治連盟」に関すること)については、次回に書くようにします。
総会自体は「無事」終了したわけですが、この「無事」という言葉にも示されるように、「総会」というのは、なんとも頼りなく、どんな意味があるのだろう?と空しい思いを抱かせるものとして終わるのが常のような気がします。
これは、私自身が会長としていわば総会を「主宰」していた時にも感じたことです。その時には、「できるだけ多くの意見がでるようにして、丁寧に議論するようにしよう」と思って総会に臨んだのですが、それが十分になしえた、と思うことはありませんでした。何しろ一年分の問題をわずか数時間の「総会日程」の中に押し込む、ということに難しさを感じざるをえません。そして、そういうことを繰り返していくうちに形骸化していってしまう、ということについて、反省的にとらえ返さざるをえません。
今回の総会でも、たしかに毎回変わらずに、そもそも問題になるようなことではないことをさも大問題であるかのように取り上げて発言する人(以下「Fさん」と言うことにします)がいて、そのレベルに執行部も他の参加者も流されて行ってしまう、ということがあるように思えます。これは、いたしかたない面もあるとはいえ、やはり、反省すべきことでしょう。一見つまらない発言のなかにも、そこから何事かを拾って前進的な要素にすることもできるはずなのに、私としてもそういうことに思いが至らなかったことを反省しなければならない、と思うわけです。
今回の総会でも、そのように「拾う」べきことが少なくとも二つはありました。
一つは、「法務局と調査士会執行部との癒着」ということが、Fさんから言われていたことです。
これは、そもそも「調査士会執行部が、法務省の委託事業(地図作成作業)を不当に自分たちだけで受託した」という言いがかりのような主張がなされることに対して、「地図作成の入札が不調に終わったうえで、なんとか事業実施できるように法務局と調査士会執行部が協議して内容を詰めていった」ということが明らかにされていく中で、「それでは法務局と調査士会執行部との癒着だろう」と言うような意味合いで言われたものです。
ですからこれは、「癒着」と言うよりも、「密接な連携」と言うべきものとしてある、ということになります。
「癒着」と言うと悪いことのように聞こえるけれど、「密接な連携」と言えばよいことのようになるわけですが、そのうえで私の思うのは、この「密接な連携」は、果たして本当にいいことなのか?こういう関係性でいいのだろうか?ということです。ここをもう少し掘り下げる議論ができればいいのにな、と思いました。
と言うのは、この「密接な連携」について「癒着」だととらえる、というのは、その「癒着」だか「密接な連携」だかによって「利益」を享受するのが誰なのか?ということが重要な問題だと思うからです。ここをもう少し掘り下げて議論できればいいのにな、と思うわけです。
上記の発言をしたFさんにおいては、これによって「利益」を享受するのは「調査士会執行部(の個々の人)」だと思われているようです。「調査士会執行部(の個々の人)」の「利益」のために、「法務局」をいいように使っている、という、「悪徳代官」に対する「越後屋」のような構図です。
しかし、実態はそのようなものではないでしょう。逆に、「調査士会執行部」は「法務局」の「利益」のためにいいように使われている、というのが実態だと言うべきでしょう。
そもそも、法務局が発注した地図作成作業について、入札では落札者が出なかった、ということがこの事態の前提です。入札での落札者はなかったけれど、地図作成作業はなんとかやりとげなければならない、・・・ここに「法務局の利益」はありました。これは、行政機関として(「官僚機構として」と言った方がいいのかもしれませんが)、譲ることのできないものです。この「利益」に「調査士会」が対応したわけです。
この構図は、あくまでも「法務局」が「利益」の享受者である、というものです。そして、それに「貢献」するものとして「調査士会(執行部)」があった、というものです。そのようなものとして「密接な関係」(もしくは「癒着」)はあった、ということになります。
ですから、この「癒着」もしくは「密接な関係」について、「調査士会(執行部)」を倫理的な意味において非難する、というFさんの主張は、まったくもって見当はずれなものであるというしかありません。
しかし、もっと冷静な、いわば「政策論」的なところから見ると、このような「調査士会(執行部)」の「献身」というのは、はたして妥当なものなのかどうか?ということが問われなければならないように思えるのです。
確かに「法務局」「法務省」という「官庁」は、その存在の本質的な定義において「公益」を実現すべき存在としてあります。ですから、個別的な検証をしない、という立場をとるのであれば、この「公益」を実現すべき存在に対して協力し献身するということは、そのまま「公益」につくすことなのだ、ということになります。
ところが、「官庁」が、個別具体的な問題に対して「公益」を追求し、それを代表する存在としてあるのか?と言うと、それは必ずしもそういうものではありません。「森友学園事件」に見られるように、「官庁」が「私益」の走狗となってしまうことでさえあるわけです。そして、もっと一般的にあるとされているのは「省益」です。その役所(法務省、厚労省、財務省…等の「省」)の「利益」のために、その省の成員は努力すべきものとされているわけです。
そのようなことの上で、「調査士会(執行部)」が「法務局」に対して「癒着」ともいわれるような「密接な連携」をもって「協力」することの是非、ということが、本当は論議されるべきこととしてあったのではないか、と(今になって)思うのです。
そしてこのことは、そもそも「何故、地図作成作業の入札は不調になったのか?」ということを問うような問題としてあります。
それは、私たちも「私益」の追求に汲々としていた、ということなのでしょう。「公益社団法人」を名乗る公嘱協会においても、その旗印とするところとは裏腹に「儲からない仕事はしない」ということが当然のこととされているようです。
こういう矛盾を問い返す機会として「総会」があるはずなのに、とことん「私益」しか問題にしないFさんに引きずられて、そのような問い返しをしないまま総会を「無事」に終わらせてしまった、というのは、やはり私(達)の「総会」に向かう姿勢が甘すぎたことによるのではないか、と思えるわけです。反省、です。
・・・ということで今回はおしまい。「もう一つ」の論点(「政治連盟」に関すること)については、次回に書くようにします。