大分の土地家屋調査士ブログ

「土地家屋調査士の業務と制度」を中心に、それに広い意味で関連する様々なことについて一人の人間として思うところを書きます。

読んだ本-「米中戦争前夜―新旧大国を衝突させる歴史の法則と回避のシナリオ」

2019-01-23 19:47:30 | 日記
読んだ本-「米中戦争前夜―新旧大国を衝突させる歴史の法則と回避のシナリオ」グレアム・アリソン著 ダイヤモンド社 2017.11



しばらく「読んだ本」について、書いていませんでしたが、ひさしぶりに。
「読んだ本」について書いてこなかったのには、二つの理由があります。
ひとつは、このブログのテーマを「土地家屋調査士の業務と制度」に絞ろうとしたことです。しかし、これはもうやめました。前回も書いたように、あまりにも動きがなく、面白い話題もない状態になってしまっているので、この縛りは外そうと思います。
もうひとつは、最近の私の読書傾向が「一般教養不足」「基礎学力不足」の克服のためのもの中心になっていて、新しい時代の課題に即対応したものではなくなってしまっているからです。最近の私は、「真面目な大学1年生」になったつもりで、1年生が読むような「一般教養」系の本を主な対象にしています。そして「こんなことも知らなかったのか!?」と己の無知に恥じ入るばかり、「失われた40年」は大きいなと思っています。
そんな中ですが、久しぶりに読んだ本について書きたくなりました。
「「米中戦争前夜」・・・まるでフォーサイスの小説のようなずいぶんと刺戟的なタイトルです。この方が「売れる」と思った出版社(ダイヤモンド社)の判断なのでしょうが、きわめてまともな内容には不釣り合いな扇情主義のように思えます。原著タイトルは「Destined for War」・・・・「destained」は辞書を引くと「運命の定まった」「定められた」なので、直訳すると「戦争への運命的な道」みたいになるのでしょうか?内容は「新旧大国を衝突させる歴史の法則と回避のシナリオ」というサブタイトルがよく示しています。

著者は「トゥキディデスの罠」という概念を打ち出します。「トゥキディデス」は古代ギリシアの将軍で、アテネとスパルタとの戦争(プロポネソス戦争)の戦史を著わした人だそうです。この戦争が「新興国と覇権国のあいだのパワー・シフトがはらむ深刻なジレンマ」の発現であったことから、そのような新興国と覇権国との構造を「トゥキディデスの罠」と名付けている、とのことです。
著者は、
「過去500年の歴史を調べ、新興国が覇権国の地位を脅かしたケースを16件見つけた。・・・ケースは16件の対立の内12件で戦争に至ってており、戦争を回避したのは4件だけだった。」

として、それぞれのケースを(戦争に至ったケースも回避しえたケースも)分析します。
その上で、著者は概括して次のように言います。
「愚かな選択や望ましくない選択は、ありえない選択とは違う。戦争は、リーダーたちが絶対に回避しようと思っていても起きる。偶然の出来事や相手方の行動が選択肢を狭め、こんな状況を受け入れるぐらいなら戦争をした方がましだ、という思考をもたらす。」
それは、別の側面から言うと
「政策決定者を合理的アクターと見なすだけでは、決定の本質は見えない。その過程には、組織プロセスと官僚政治プロセスの二つのプロセスがまとわりついている。」(船橋洋一による序文)
ということでもあります。
そしてその上で、現在の中国という新興国が、アメリカという覇権国の地位を脅かしている全体的な状況のもとで、戦争に至ってしまう可能性について、次のように言います。
「現在の流れでは、今後数十年の間に悲惨な米中戦争が起こる可能性は、ただ「ある」というだけでなく、私たちのほとんどが許容できるレベルを大幅に超えた高い確率で存在する。」

その想定されるいくつかの「シナリオ」が示され、
「ここに示したシナリオは、中国の破壊的な台頭によって生じたストレスのために、本来なら取るに足らない偶発的な出来事が、大戦争に発展するプロセスを描いている。両国のリーダーは、弱い者いじめを阻止したり、古い条約義務を果たしたり、自国に相応の経緯を払わせたりするための選択において、回避できると思っていた罠に、いつの間にかはまってしまう可能性がある。衛星攻撃兵器やサイバー兵器、さらには名前も未公開のハイテク兵器は、実戦で使うまでその全容は計り知れず、結果の不透明性を高める。」

というわけです。
もちろん、「米中戦争」を回避するために必要なことも説かれます。危機を危機として認める中で、その回避のための道も見出し得る、ということを私たちは冷徹に見ておく必要があるのでしょう。

このようなことは、昨今の出来事をみていると、より一層強く感じられます。著者が示してくれる「歴史」は、国際的な対立というものが単純な「一対一」のものとしてあるわけではないことを示しています。主要な対立に注意を向けていたら、思わぬ小さな出来事から小さな対立が起き、それが連鎖的に大きな戦争にまで至ってしまう、ということもあるわけです。
最近の韓国との関係、というのもそのようなことを考えさせられてしまうことです。本来的には、北朝鮮との関係を含めて「準同盟」的な関係にあるはずの日韓が、「レーダー照射事件」を契機に抜き差しならぬ対立のなかに入り込もうとしているように見えます。これまでは、軍事的対立を想定していない相手だったのでこの程度で済んではいますが、今の時点で同じようなことが起きて、それがもう一段進んだ対応を生み出してしまったらどのようなことになるのか?・・・・本書で示されている「戦争に至るシナリオ」を読み返して、早い段階で双方が自制してほしいものだと思います。また、面白半分で対立を煽り立てるようなことはするべきではないな、とも。
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2019年の初めに

2019-01-14 19:25:47 | 日記
1月も半分が過ぎ、だいぶ遅ればせながら・・・新しい年・2019年になりました。あけましておめでとうございます。

さて、新しい年が明けたのですが、「土地家屋調査士の業務と制度」を主な対象としているこのブログの更新がかくも遅くなってしまったのは、あまり新しいテーマがない、ということによります。「動き」があまりにも少ないので、論ずることもあまりなくなってきてしまっている、という気がしています。まぁ。私の「やる気」が減退して「諦めモード」に入っていることにも原因があるのかもしれませんが・・・。

ということで、まずは個人的な話。
「老眼鏡」をつくりました。これまでは、元々近眼なので、本を読むときには眼鏡をはずしていて、それで十分に用が済んでいたのですが、最近眼鏡をはずしても本を読みにくくなり、夜になるとほとんど無理、という状態になったので、やむなく「老眼鏡」に至ったわけです。
出来上がった老眼鏡をかけてみると実に調子がよろしい。これまで、本を読むときに如何に無理をしていたのか、ということがわかります。眉間を潜めることなく楽に、はっきりとすらすらと読むことができる、というのは実に気持ちのいいものです。
しかしその反面、「本を読むこと」に特化したものなので、ちょっと離れたところを見ると全然見えません。ボヤーっとした感じがするとともに、それだけでなくフラッと体が崩れるような感じもして気持ち悪くなってしまいます。
昔(今でも使われているのかどうかわかりませんが)慣用句的によく使われていた言葉に「近視眼的」という言い方(「大局的に見通せず、目先のことだけにとらわれているさま」)がありましたが、老眼鏡をかけるとまさに遠くのものを見ることができず、近くのものしか見られない状態で「近視眼的」になってしまいます。
このような身体的な事柄から、遠くも近くも自在に見るということの難しさを痛感させられます。近くを見ようとすれば遠くは見えない、遠くを見ようとすれば近くが見えない、というわけです。一度近視になった者にとってはなおさらです。

話は変わって・・・、正月のテレビ番組のなかで、わが大分県の南画家田能村竹田に似せて描かれた贋作の掛け軸を評して「平面的で遠近感が全くない」と言われているのを聞いて、なるほど「土地家屋調査士のグランドデザイン」という「画」を見て感じたのは、この贋作と同じものだったのか、と思いました。
「遠近」ということで言うと、状況をとらえる場合、少なくとも「大」「中」「小」の三つくらいの段階においてとらえることが必要になります。そして「大状況」をとらえるときにも、「政治」「経済」「技術(テクノロジー)」そしてそれらを含みつつそれらとは区別される「社会」といった位相においてとらえるべき、ということになります。
その上で、それが自分たちを含む「中状況」においてどのように作用するのか、ということを考える必要があります。
その上で、ようやく自分たちにとってどうなのか、ということを考える、ということになるわけです。
この対象における「大中小」が、主体的なとらえ方としての「遠近」に結び付くべきのです。
そして、その「遠近法」がとられていない「画」は、平板でつまらないものだと思われてしまうわけです。
・・・ということで、もう少し言いたいこと(素材)もあるのですが、「遠近法」を考慮して今日はこの辺で終わりにします。

最近読んだ本のなかにあった言葉で感銘したもの。・・・・「べつに自分の言ひ分が採用されるとおもつて發言してゐるのではない」。今年もよろしくお願いします。
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「筆界認定に係る協議会」という一語を読んで考えたこと

2018-12-21 16:06:20 | 日記
日調連のE-Mail Monthlyの12月号(Vol.206)の「11月28-29日の常任理事会の報告」のなかで、「協議事項」として、「法務省から提案の筆界認定に係る協議会への対応について」との記述がありました。
これだけの記述なので、どんなことなのか、他には一切の情報を持ち合わせませんのでさっぱりわかりませんが、私なりの「希望的観測」のもと、これまでに何回も書いてきたことですが、思うところを書くことにします。

この「筆界認定」ということについて、かつて、先日大分においでくださった現法務省民事2課山本補佐官が、「実地調査要領改訂」の際の解説文のなかで、「筆界認定は登記官の最も重要な権限の一つ」と書いておられましたが、それについて私は、「事実と違う」ということを言い続けてきています。たしかに「登記官の権限」だとされていることを認めたとしても、その「権限」は「権能」に基づくものになっていません。「能力」の裏付けのない空疎なものでしかないのです。そして、このような「能力」や現におこなっていること、という意味における「事実(ファクト)」に基づかない「権限」というものは、やがて通用しないものになってしまう、ということになるのだと思い、そのようなことが言われる現状から脱却することが必要だ、と思い、言ってきたつもりです。
この「事実に基づかない」ということは、これも私が今までに何回も言ってきていることですが、単に私だけが勝手に言っている、ということなのではありません。
「これまでの登記官の筆界認定は、基本的には相隣接する土地の双方の所有者の確認が得られた旨の資料の提供がなければ、筆界の認定が困難であると処理していたのが実情であった」
・・・・これは、筆界特定制度の解説のなかで、当時の法務省の担当官が言っていることです。
「通常の表示登記における認定というのは、基本的には、・・・土地家屋調査士さんがお決めになったものを登記所に報告なさる、こういう性格のものでございます。」
・・・これは、筆界特定の国会質疑のなかで当時の民事局長(その後の最高裁長官)が言っていることです。
「重要な権限」だとして大見得を切られた「登記官の筆界認定」は、実は「相隣接する土地の双方の所有者の確認」がなければ発動されることのないものであったり、「土地家屋調査士の報告」がなければ決められることのないものであったわけです。これが「事実」なのです。

「筆界認定」をめぐる様々な問題というのは、この「事実」から考えなければならない、ということになります。
・・・ところが、そのように考えることがこれまではなされずに来ました。まぁ、様々な条件が整った「安定期」においては、こういう問題を考える必要がなかった、ということで、「幸せな時代」であったわけです。
ところが、そうも言っていられなくなってきています。
「所有者不明土地問題」というのは、そのことを端的に示すものです。
一つの土地の「筆界の認定」をしようと思っても、隣の土地の所有者が不明であっては「確認」を得ることができないからです。そうすると、一つの土地の所有者不明は、それに隣接する土地の利用への大きな妨げになってしまう、ということになります。
これをどうにかしなければいけない、ということになります。
これについての、とりあえずの「解決策」を、法務省は「筆特スキーム」として打ち出しました。分筆登記などを行おうとしたときに、隣接地の所有者が不明であるときは、筆界特定手続を迅速に進めるようにする、というスキームです。
これは、基本的に筋の通った考え方です。
この「隣接地の所有者不明」という問題にぶち当たった時に、土地家屋調査士の側は「隣接者探索のための固定資産税情報の利用可能へ」というような「方針」しか出せなかったのに対して、「筆界」の「固有性」なり「特定可能性」という基本的な性格を踏まえた方針であって、基本的に筋が通っているのです。
ところが、この「筆特スキーム」は、あまりにもいろいろな条件を付けているので、実質的には「迅速解決」に寄与しうるものにはなっていないように思えます。多分、あまり利用されることもないのではないか、と思えます(違っていたらごめんなさい)。

そもそも、「筆界」の固有性」なり「特定可能性」という基本的な性格からすれば、これは「相隣接する土地の双方の所有者の確認」を得ることがなくても「特定」「認定」し得るべきものであるはずです。「登記官の重要な権限」などという大見得を切るのであれば、それをやってのけてみせるべきなのです。わざわざ「筆特スキーム」などという面倒くさいものをつくり上げなくても、通常の「筆界認定」において、どんどんとやっていけばいいことなのです。
ところがなかなかそうはいきません。「筆界認定」の「権限」を持っている人は「能力」を持たず(ここで言う「能力」というのは、その有無によって高い価値があるとかいうようなものではなく、極めて実際的な「能力」のことです)、「能力」を持っている人は臆病にしり込みしてそれを発揮する意欲を持たない、ということによって、なかなか前に進むことができなかったわけです。

・・・というこれまでのどうしようもないほどにダメな現状に嫌気がさしてきているところではあるのですが、「筆界認定に係る協議会」の提案、ということを聞くと、少しはまともな方向に事が進んでいくのかな、というはかない望みを持ってもしまう、ということになります。
ことは私の「希望的観測」に沿うものではないのかもしれませんが、いずれにしてもこの「提案」に適切な対応のなされることを切に願うところです。
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先週の大分会の研修会ー法務省民事2課山本補佐官の講義を聞いて

2018-12-13 20:51:34 | 日記
先週の土曜日、大分県土地家屋調査士会の研修会があり、法務省民事局民事第2課の山本補佐官のお話しを聞きました。
お話自体については、現下の「不動産登記をめぐる諸問題」について要点よく漏らさずに話してくださっていたので、勉強になるものでした。
残念なのは、「質問」のレベルがあまりにも低かったことです。ごく一般的に言うと、このような研修会で「質疑応答」の時間がとられるというのは大変いいことだと思いますし、一般的にあまりとられていないこととに不満を持ってさえいたのですが、「質問」を受けたときにここまでレベルが低いものが出てくる、ということになると「ない方がまし」という気分にもなってしまいます。こうして「民主主義の劣化」は進んでいくのか、とも思えて、暗澹たる気分になります。
質問を受ける方としても、ついつい質問者に恥をかかせてはいけない、という「忖度」が働いて、通り一遍の「回答」をしてしまいがちなのですが、本当は質問(者)のレベルを見極めて、あまりにもくだらない「質問」はバッサリと切り捨てることも必要なのかとも思います。(その点、5月に大分に来られた山野目先生の捌きはたいしたものだったな、と思いつつ・・・)

その上で、この研修会での話について、「物足りなかった」的な感想を持つ方もおられるようなので、それについて一言。
現職の役所の人の話に対して過度の期待を持つ、というのが、このような感想を抱いた人の根本的な誤りなのだと思います。行政事務を執行する立場の人が、先走った話をするはずがないのです。
また、もう少し言ってしまうと、役所の人が、斬新で画期的で素晴らしい改革の方針を出すはずもないのです。役所(官僚)というのは、基本的に保守的で現状維持的な方針しかださないものです。「改革」に動くのは、万やむを得ない場合なのであり、さまざまな改革論議の最後尾について、しかたなく決まったことを、その限りにおいて「説明」する、という枠を越えるはずがないのです。もしも越えてしまえば、それは官僚としての立場を踏み外すことになってしまう、と言うべきなのでしょう。
また、そのような役所(官僚)の徳性を踏まえつつ、その一歩先を行く方向性を示すことにこそ「民」の専門家のなすべきことがある、と考えるべきなのです。それが、あまりにもできていないことへの反省をもって。

その上で、枝葉末節の話になりますが(「真実は細部に宿る」という言葉もありますので)、私の興味深く思った点について書きます。
① 「登記制度・土地所有権の在り方に関する研究会」の議論において、「相続登記の義務化」という方向での改正案についえ、ほぼその方向で固まっている、ということでした。この「相続義務の義務化」については法的な原則の問題としてさまざまな問題のあることが指摘されていますし、もしも「義務化」したとしても実効性があるのか、という問題があります。それらのことを百も承知の上で、なお「義務化」に向かうのは「国民世論」によるところが大きい、ということのようです。制度の改革のために、「国民世論」「国民の理解」の必要性の大きさを感じさせるとともに、その上で「実効性」をどう確保するのか、という点における「専門家の責任」ということを考えさせられることです。(世論に押されて「相続登記の義務化」を法制化したとしても、それが実効性を持たないのでは「専門家の責任」が問われるわけです。)
② 「長期相続登記未了土地解消作業」について何回か書きましたが、この作業を行いうるものとされたのが、「弁護士、司法書士」と「それに準ずる者」になった、ということについて、私としては、理屈の上で考えて「法定相続情報証明制度」との連関性があるのではないか、と思っているのですが、その連関性がどこまであるのかはともかくとして、事実の問題として「法定相続情報証明制度」の代理人として行政書士の実績が多くある、という事実があり、また他方、行政書士サイドからの「長期相続登記未了土地解消作業」への業務参入要求が強くあった、という事実があった、とのことです。この二つの「事実」がどう関連しているのかはよくわかりませんが、理論的な推論としては当然につながっているのでしょう。
やはり「既成事実」と言うとなんか悪いことのように思えますが、現実を動かす力というのは、それをも含めてあるわけなのだ、と思わされました。「理論」だけでもいけないし、「事実」だけでもいけない、ということとして肝に銘じるべきことのように思います。
③ これについてもこれまで何回か書いてきましたが、オンライン登記申請における「資格者代理人方式」について、当初「平成30年度内の導入」と言われてきたのが遅れてしまった原因について、「反対する人びと」の存在にある、ということです。これを受けて、「表示に関する登記」に関しては、元々不動産登記令13条の「表示の登記に関する特則」があり事情が違うので、表示に関する登記だけ先行して「資格者代理人方式」の導入へ向けての検討をしている、ということでした。
このこと自体については、とてもいいことだとは思うのですが、そんなことは前からわかっていたことのはずなのに、とも思わざるを得ません。「権利に関する登記」についての「反対する人」に引っ張られることなく、この「資格者代理人方式」が「登記審査のありかた」において「官と民の関係」を根本的に変え得るものであることへの理解の上で、もっと早く事を進めていればよかったのに、とあらためて思わざるをえませんでした。

以上、枝葉末節のつまらないことばかりだな、と思う方もおられるかと思うのですが、公的に行われていることについては、少なくとも「基幹」の部分は公表されているわけでして(インターネットの普及によりこの公開程度は相当に上がっています。それを知らない人がつまらない「質問」をするわけです)、行政官の話を直接聞く、というときには「枝葉末節」にこそ「神が宿る」、と思って聞くことが必要だと思うのです。

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年賀状について

2018-12-10 19:36:33 | 日記
今日は、ごく個人的な話。
年の瀬も押し迫り、「年賀状」のことを考えなければならない時期になりました。
と言っても、私自身については、もう10年ほど前から年末に年賀状を準備することはやめてしまい、その後、数年は元日に年賀状をいただいた方々へ返事を出すということをしたうえで、数年前からは「全廃」にしてしまっております。
ということで、はなはだ失礼なこととは思いますが、私から年賀状を出す、ということはありませんので、このブログを読んでいる方のなかに私宛の年賀状を考えている方がおられましたら、ご無礼をお詫びしつつ、御承知おきくださるようお願いをいたします。
特に、今年は、昨年11月の転居から1年が過ぎて、郵便物の転送期間が過ぎてしまったため、旧自宅(兼事務所)宛てに送っていただいた方については、「宛先不明のため返送」ということになってしまうのではないか、と思われます。
ですから、できれば私宛の年賀状は出さない、ということにしていただけるとありがたく思います。誠に勝手なことを言いまして申し訳ありませんが、よろしくお願いいたします。

・・・と、個人的な事情について書きましたので、もう少し補足しておきます。
既に書いたように、私は昨年11月に、福岡に引越しをしました。
子供たちが家元を離れてから10年ほど「老夫婦二人暮らし」をしてきたのですが、そろそろ一戸建ての家を維持していくことの困難さへの予測もたってきたことから、集合住宅への転居をすることにし、転居先を探しているうちに、娘(孫)たちの近くへの転居がいいのではないか、ということになり、福岡に引っ越したものです。
その中では、私の仕事についても福岡に本拠を移して、というようなことも考えなかったこともないのですが、やはり今更そのような意欲もなく、仕事については細々と大分で続けていくことにしようということでウィークデイは大分での「単身赴任生活」をすることにいたしました。
ウィークデイに単身での生活・仕事をして、週末に自宅に「帰る(行く)」生活をする、ということで、無駄も多いし大変なのではないかと思っていたのですが、予想を超えて快適に過ごせています。
「単身赴任生活」と言うと、まずは「大変だろう」ということが言われます。「何でも自分でやらないといけないから大変だろう」と言われたこともあるのですが、「何でも自分でやらなければいけない」からこそ楽しく充実感を持てますし、逆に言うと「何でも自分でやってしまえば済む」という気軽さもある、というところです。
元来私は、土地家屋調査士という仕事のいいところは、「精神労働と肉体労働との分業」のないところにある、と思っていました。資料を分析して筆界の判断をしたり、法的関係を考慮して妥当な結論を導いたりと言った「精神労働」と、測量をして穴を掘って杭を埋めてと言った「肉体労働」を一人で行えるというところが、他の職種にはなかなかないいいところだと思っているのです。
ところが、「仕事」としては、そのような「分業のないもの」だったとしても、個人の生活としては、飯を作って掃除して洗濯をして、といった「家事」については、ほぼ全面的に「専業主婦」の妻にまかせっきりにしてノータッチで過ごしてきてしまっていました。
昨年末から始めた「単身赴任生活」では、少なくとも週日は炊事洗濯掃除・・・等の家事全般を自分自身でしなければなりません(自慢じゃないですが(ということを言ったうえでの自慢話ですが)この1年間「外食」はほとんどせず3食とも自分で作っています)。
炊事・洗濯・・・といった「雑事」であるかのように言われる「生活」をめぐることを自分自身でやることによって、大袈裟に言うと、はじめて「自立して生活をしている」と言えるのではないか、とさえ思っています。「働き盛り」の人にはなかなか難しいことかもしれませんが、皆様も是非「家事」に関わり、「生活」を見直すことを考えられては、と思います。これはこれで(走ることを楽しいとはとても思えなかったことが嘘であるように)楽しいことです。

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