大分単身赴任日誌

前期高齢者の考えたことを、単身赴任状況だからこそ言えるものとして言ってみます。

非調査士事件について申し入れ

2012-10-30 06:15:51 | 調査士会

土地家屋調査士法は、弁護士法等の他の業務独占資格の資格法と同様に、非資格者が資格者専管業務を行うことを禁じ、それへの刑事罰をも定めています。

この「非資格者業務」に対する規制が、あまりにも弱いのではないか、ということが言われています。これについては、「非資格者業務」に対する規制はある意味で国民の自由な経済活動に対する制約としての側面を持ちますので、規制に慎重になる、という面があるのは致し方ないと言える部分もあります。単に「法律に書いてあるから」ということだけでなく、「非調査士業務」が実際に登記制度への信頼を損ない、国民生活への悪影響を及ぼすものであることを、しっかりと明らかにしていくこと、逆に言うと調査士の業務が「安全・安心」に寄与する意義を持つものであることを示していく、ということが必要なのでしょう。

それにしても、法が、このような規制を設けていることには相応の根拠があるのであり、そこに触れるような事案まで見逃してしまって、法を空文化させてしまう、ということはあってはならないのだと思います。

大分県土地家屋調査士会では、上記のことを踏まえて、きわめて悪質な「非調査士事件」について、昨日、大分地方法務局に申し入れ(通告)をしました。

事案は、ある人物が、宅地開発の前提としての分筆や道路の付け替えや拡幅をめぐる分筆登記において、「測量士」の肩書をつけて「作成者」として反復継続して地積測量図を作成しているもので、きわめて悪質性が高いものと思えます。土地家屋調査士法の所管庁において、然るべき措置がとられることがまず必要であろう、ということで申し入れを行ったもので、事態の推移を見ながら会としてさらに対応を考えていきたいと思っています。 

土地家屋調査士法第68条第1項違反事案について

当会における調査の結果、下記の者が、土地家屋調査士法第68条第1項の規定に違反して、他人の依頼を受けて地積測量図を作成する行為を継続反復して行っている事実が明らかになりました。本違反事案は、当会のこれまでの調査だけでも14件に及んでおり、きわめて悪質性の高いものであると考えます。ここに、その事実についてお知らせするとともに、刑事訴訟法第239条第2項にもとづく刑事告発を行う等、法令の定めるところに従って厳正に対処されますよう申し入れをいたします。

また、本件においては、同時期に同一地域についての地積測量図が作成され、連続して登記申請に及んだことが推測されます。このような場合、土地家屋調査士法に違反する事案として、登記手続きの審査の時点において立件する措置をとるべきものであると考え、申し添えます。   (以下略)<o:p></o:p>

 


今週の予定―三役(総務・財務)打合せ

2012-10-29 05:59:16 | 調査士会

今週の予定

来年度から、「支部」の体制に関する改革を実施することにしており、11月21日に各支部の代表の方にも参加いただく2回目の会議を予定しています。それへ向けて三役(総務・財務)の打ち合わせを11.2に行います。

「支部のあり方」に関する問題は、現段階で検討すべきこととしては、「制度」の問題として取り上げられるいうことになりますが、本来は「何を、どのように行うため」に問題になるのか?という視点が必要な問題です。具体的な諸問題を詰めて行こうとするとテクニカルな話になりがちですが、基本的なことを忘れずに詰めを行っていけるようにしたいと思います。


「調査士会の役員をするということ」続き

2012-10-28 14:16:05 | 調査士会

だいぶ前に(10.5)、「調査士会の役をするということ」について書いて、調査士会の会務を積極的に行おうとする「意欲」のことを書きかけて途中で終わりにしてしまったので、その続きを書きます。

人間というのは、本当に人ぞれぞれで一人一人違うので、あまり一般的なことは言えません。まずは、自分のことを考えるところから出発するべきなのでしょう。

私自身が何故調査士会の役員をやっているか、と言うと、いろいろなことを言えるのですが、つきつめて一言で言うとすると、「調査士という職業」を大切なものだと思う、ということによる、と言えるように思いました。
人間が生きていく、ということにあたって「職業」というのは大事なものとしてあります。それは、私を含めて大多数の人にとって「生きていく糧を得るための手段」、ということにおいて大事であるわけですが、それだけにとどまるものでもないようです。親の遺産が腐るほどあろうと、宝くじで4億円あたろうと、遊んで暮らす人生というのはさみしいもので、やはりなんらかの「職業」を持って生きていく、ということには、「生きる糧」以外の大切さがあるみたいです。
そういう「職業」ですから、「生きていくための糧を得る」ということを一つの条件としつつ、それ以上のものを求めたいところです。「やりがい」とか「誇り」というものです。土地家屋調査士という職業が、そのようなものである、ということを自信を持って言えるようなものにしたい、ということが、「何故?」への答え、ということになるのでしょう。

そして、その上でもう少し具体的に言うと、「正直者が馬鹿を見る」状態はいけない、と思う、ということがあります。

これは、一つには「調査士全体」としての問題です。調査士というのは、それ全体を一つの社会集団として見て、その性格をひとくくりにして評価すれば、「きわめて真面目」な「正直者」と評価しうるものなのだと思えます。一つの社会集団として、このようなものができている、というのは、現代社会において非常に奇特なことだと私には思えます。そこには日本社会の特質だとか、登記制度や資格制度のあり方だとかの要因があるのだと思いますが、とにかく結果としてのこの特性は、とても貴重で大事にするべきものであると私には思えます。このような奇特な社会集団は、今後の厳しい競争社会の中で淘汰されて行ってしまうのかもしれません。しかし、それでいいのか?と思うのです。全体として「正直者」が「馬鹿を見る」ことにしないために、やらなければならないことがあるのではないか、と思うわけです。

また、もう少し詳しく見れば、「調査士」というものは単一のものとしてあるわけではありません。その中は千差万別であって、「愚直」「馬鹿正直」という言葉が、いい意味であてはまるような人が数多くいるとともに、必ずしもそうでもない人もいないわけではありません。言わば、多数派の「愚直」組と少数派の「非愚直」組がいる構図なわけですが、このような場合に、「悪貨は良貨を駆逐する」かたちで少数派の方が主導権を握ってしまう、ということが往々にしてあります。私は、そうなってはいけないのだと思います。「調査士」という社会集団を代表する性格を持った者が、きちんとその社会集団を代表して、そのことによって社会全体の中における「調査士」の位置を、その性格に応じたところでしっかりと確保する、ということがなされなければならない、と思うわけです。

土地家屋調査士会は、そのような組織であるべきなのだと思います。もちろん、過去においてそのようにあり続けてきたわけではありませんし、現在もそうなっているか?というとさまざまな問題があるように思えます。それでも歴史は遅々としてではあれ進んでいるのだし、今後より速く進めるのではないか、とも思います。一人の「職業人」としての社会人として、そういう姿を追求していきたい、というところから、いろいろな不満もありつつその道を進んで行きたい、と思うわけです。


なりすましパソコン襲撃予告事件

2012-10-27 05:46:18 | インポート

「あぁぁぁー尼崎が今日も記事だった」

・・・新聞の投稿川柳です。うまい!尼崎の事件、本当にすごいですよね。「事実は小説より奇なり」というけれど本当だな。

そういうすごい事件があると、ちょっと前のことが色褪せてしまうのですが、「なりすましパソコンでの襲撃予告事件」も、ひどい話でした。私が「ひどい」と思うのは、もちろん事件そのものについてであり(インターネットを、その原理等についてまったくわからないながらに利用している一人として本当に怖い)、「真犯人」についてでもありますが、「なりすまされた人」を逮捕したり、起訴してしまったり、保護観察処分にしてしまった警察・検察についても、です。

警察・検察の捜査について、インターネットなどの技術的な進歩のスピードに操作能力が追いついて行っていない、ということが指摘されていますが、今回の問題の最も大きい問題はそこにあるわけではないように思えます。

技術的な能力不足、ということだけであれば、「犯人の逮捕に行き着けない」ということにはなるでしょうが、「無関係の人を逮捕・起訴してしまう」ということにはならないはずです。「技術的」問題に目を奪われて(「IPアドレス」を「唯一の証拠」にして)、それ以外の要素に結果として目を向けなくなってしまう、というのは「技術」の問題なのではない、のだと思います。

「技術」が発達すると、そこで得られた「成果」が、特に数値化されて立派な形になったものが目の前にあるようになります。本来は、その意味するところを私たち人間がしっかりと見据えなければならないのですが、なかなかそうはならなくなってしまうのでしょう。

それは、そのことに携わる個人における問題でもありますし、「組織」の問題でもあります。

犯人が本名を名乗って襲撃予告するわけはない、とか、アリバイなどの「捜査の基本」をしっかりと踏んでいく必要がある、とか、「立ち止まれる機会」というのはいくつもあったはずです。それが、多分個人としてはできたかもしれないけど、組織としてはできなくなってしまう、という構造があったんではないか、という気がします。「そんあこと言ったって、IPアドレスっていう動かぬ証拠があるんだよ」と技術の発達に本当は追いついてはいないとはいえそれなりに前に行っている人に言われちゃうと、おじさんたちは黙らざるをえなくなってしまう、そういうことの中で本来は「組織」として諸個人の集合以上の力を発揮するべきなのに逆になっていってしまう――ということがあったんじゃないか、と思うわけです。

同じようなことは、私たちの仕事の領域にもあるのかもしれないな、と反省と自戒を含めて感じました。


専門家の責任

2012-10-24 06:27:07 | インポート

イタリアで、2009年のイタリア中部ラクイラの地震で、「安全宣言」が被害を広げたとして過失致死罪に問われた学者や政府担当者に対して、有罪・実刑禁固6年の判決が下された、とのことです。

詳しい状況はよくわからないのですが、「日本の現実」と比べると、いかにも厳しい判決です。イタリアでは、自然現象である地震について、「大地震がないとは断定できない」けれど「大地震の予兆とする根拠はない」ということを述べた、ということの「情報提供」のあり方に関する責任が厳しく問われることになったわけです。

日本においては、自然現象ではなく、人間があえて能動的に作った原発が事故を起こして、莫大な被害をもたらしたわけですが、この原発について、「絶対安全」と言い続けてきた政府関係者や学者が刑事的な責任を問われるようになるとは(刑事告発がなされているとは言え)、とても思えない状態です。私の考えとしては、日本の方が罪が重いように思えるのですが・・・。

・・・が、まぁそれはともかくとして、問題は、「専門家の責任」です。

「医療過誤」「弁護過誤」等の、専門家の責任について、従来はその「専門性」という鎧によって守られて責任追及がなかなかなされなかったところ、近年は医師や弁護士などの専門家においても強く意識しなければならない問題になってきているようです。この背景には、「泣き寝入り」しない権利意識の高まりや、被害者側に立つ専門家の台頭(「象牙の塔」などの「ムラ社会」の規範に囚われない)などの要因や、「訴訟社会」化的な問題もあるようです。

そのような中にあって、私たち土地家屋調査士の世界はどうでしょう?「賠償責任保険」などとして問題になることはありますが、それがどの程度まで「専門家責任」の問題なのか?ということは、もう一度考え直すべきことであるように思えます。

それは、そもそも「専門家」と言えるほどの仕事がなされているのか?という問題です。「境界の専門家」ということが言われて久しくなりますが、これは本来「外部広報」的にアピールするべきものだったと思うのですが、「内部広報」的に作用し、しかもその能力を鍛え上げていく方向ではなく、従来通りのものでも「境界の専門家」なのだ、という自己満足の方向で作用してしまった面があるように思えます。

私たちは、名実ともに「境界の専門家」だと言えるように、自分たちの能力を鍛え上げていかなければなりませんし、その上にあっては、イタリアの地震学者たちが問われたような「専門家責任」も引き受けていかなければならない、ということ考える必要があるのだろう、とニュースを聞いて思わされました。