30年以上前に書かれた小説であり、最近話題になっているというわけでもないものを読んで、こうしてそれについて書いているわけですが、それは、私がこの小説に感心して読むべき本だと思ったというわけではけっしてありません。
むしろ、何故こんなものが世間に公表され、今日まで読みうるような状態でいるのか、と思うほどに、ひどい唾棄すべきような内容のものだと思います。
その上で、それほどにひどい絵空事とも言うべき内容に「現実」が近づいてしまっているのではないか、という危惧をあらためて抱いた、ということで、思ったところを少し書きます。
まずは、小説の「あらすじ」について、「ウィキペディア」では次のように紹介されています。
これでは、何が何だかわからないでしょうが、まぁこういう物事の動きを描いた小説です。
1984年~86年に週刊誌に連載されたもので、時代設定が「1990年」ですから「数年後」という「近未来」とも言えないような「将来」を描いたものです。
ですので、30年以上経った現在からみれば、奇妙に思えるほどの「事実」の違いも多くあります(たとえば、「ソ連」が存在してそれなりの力を持っていたり、日本国内でも「総評」やそれに連なる「革新勢力」が健在です)。
しかし、全体としての「危機の様相」は現実と合致することを多く見出すことができるものでもあります。グローバル資本の国境を越えた強欲が格差を拡大し社会を不安定化させること、その中で差別主義や排外主義が人々を駆り立てる「動機」となりそれを煽動する者が頭角を現し、あるいは権力を握ること、その際に「情報」が大きな意味を持ちねつ造された「事実」によって流れが大きく変わってしまうこと、などです。
このような「世界」の動き、というのは、30年前においてすでに「予測」できたものだったわけです。このような「予測」をおこなうにあたって村上龍は「経済」の勉強を集中的にした、ということですし、それを可能にしたのは「作家的想像力」だったのかもしれません。その意味で「お見事」ではあります。
しかし、そのような世界を描くために中心的に描くのが「鈴原冬二」「狩猟社」になる、というのはいささか「お粗末」です。「狩猟社」というのは、次のような「思想」=「狩猟社会」では弱者は淘汰されていたが、農耕社会に入ると「奴隷」として復活した。99%の人間は奴隷であり、今もその比率は変わらないが「現代の奴隷は力を持っている」。「奴隷どもを駆除して、強者だけの美しい世界を作りたい」・・・・という「思想」をもつ「政治結社」だからです。
このような「思想」が問題外のものであることは明らかですし、さらに小説で描かれるこの「思想」の実現のための手段がまさに「卑劣なテロ」としての殺人や薬物による精神破壊や虚偽情報の流布などであることに、凡そリアリティはありません。
しかもそれを「一人称」で表現する、というのは、どういうつもりなのだか理解しがたいものです。
この小説について「村上龍以外の人が書いたらファシズム小説だと言われる」などと評している人もいますが、だれが書いても「ファシズム小説」であり、ひどいものだというべきでしょう。
しかしその上で、世界の現実は、「トランプ大統領」を生み出したわけですし、フランスでも「極右」の大統領誕生の危険性が現実化しています。日本はそのような動きに無縁なのかというと、一方で「トランプのアメリカ」にも付き従うとともに、その欲求不満を晴らすように「教育勅語(的なもの)」の容認姿勢への転換が図られようとしているなど、決して無縁であるわけではないようですので、見たくない「変実」や「予測」も視野に入れておくべきなのかもしれません。。
むしろ、何故こんなものが世間に公表され、今日まで読みうるような状態でいるのか、と思うほどに、ひどい唾棄すべきような内容のものだと思います。
その上で、それほどにひどい絵空事とも言うべき内容に「現実」が近づいてしまっているのではないか、という危惧をあらためて抱いた、ということで、思ったところを少し書きます。
まずは、小説の「あらすじ」について、「ウィキペディア」では次のように紹介されています。
カナダで狩猟を生活の一部としていた鈴原冬二は、日本帰国の直前に寄ったアラスカの酒場で飲んだくれていた日本人のゼロと出会う。トウジはゼロに誘われ、日本に帰国し独裁者としての頭角を現す。当初は挑戦的なCMを出し注目を集め、世界経済が恐慌に向かい日本が未曽有の危機を迎えると政治結社「狩猟社」を結成し大衆の支持を集めるようになる。国内の敵対勢力を手段を選ばず叩き潰し、勢力を拡大するとともに世界の再編成に乗り出した多国籍企業集団「ザ・セブン」による日本の属国化を阻止するために行動する。 まず自衛隊にダミー・クーデターを起こさせ国会議事堂、首相官邸などを占拠させた。それから間もなく人質の解放と武装解除の交渉のためにテレビに登場し、そこで米ソの世界再編成の陰謀を暴露した。その後、国会は解散し総選挙で革新政権を誕生させて崩壊させた。そしてこのような混乱状態のなか鈴原冬二と狩猟社だけが唯一の国民の希望の星になる。その間にイスラエルと秘密協定を結びプルトニウムを手に入れ戦術核を製造、配備し、同時にハッカーたちによって情報を混乱させアメリカの牽制に成功する。 最終的には、米ソと対等の地位を手に入れ、世界からも一目置かれるようになる。
これでは、何が何だかわからないでしょうが、まぁこういう物事の動きを描いた小説です。
1984年~86年に週刊誌に連載されたもので、時代設定が「1990年」ですから「数年後」という「近未来」とも言えないような「将来」を描いたものです。
ですので、30年以上経った現在からみれば、奇妙に思えるほどの「事実」の違いも多くあります(たとえば、「ソ連」が存在してそれなりの力を持っていたり、日本国内でも「総評」やそれに連なる「革新勢力」が健在です)。
しかし、全体としての「危機の様相」は現実と合致することを多く見出すことができるものでもあります。グローバル資本の国境を越えた強欲が格差を拡大し社会を不安定化させること、その中で差別主義や排外主義が人々を駆り立てる「動機」となりそれを煽動する者が頭角を現し、あるいは権力を握ること、その際に「情報」が大きな意味を持ちねつ造された「事実」によって流れが大きく変わってしまうこと、などです。
このような「世界」の動き、というのは、30年前においてすでに「予測」できたものだったわけです。このような「予測」をおこなうにあたって村上龍は「経済」の勉強を集中的にした、ということですし、それを可能にしたのは「作家的想像力」だったのかもしれません。その意味で「お見事」ではあります。
しかし、そのような世界を描くために中心的に描くのが「鈴原冬二」「狩猟社」になる、というのはいささか「お粗末」です。「狩猟社」というのは、次のような「思想」=「狩猟社会」では弱者は淘汰されていたが、農耕社会に入ると「奴隷」として復活した。99%の人間は奴隷であり、今もその比率は変わらないが「現代の奴隷は力を持っている」。「奴隷どもを駆除して、強者だけの美しい世界を作りたい」・・・・という「思想」をもつ「政治結社」だからです。
このような「思想」が問題外のものであることは明らかですし、さらに小説で描かれるこの「思想」の実現のための手段がまさに「卑劣なテロ」としての殺人や薬物による精神破壊や虚偽情報の流布などであることに、凡そリアリティはありません。
しかもそれを「一人称」で表現する、というのは、どういうつもりなのだか理解しがたいものです。
この小説について「村上龍以外の人が書いたらファシズム小説だと言われる」などと評している人もいますが、だれが書いても「ファシズム小説」であり、ひどいものだというべきでしょう。
しかしその上で、世界の現実は、「トランプ大統領」を生み出したわけですし、フランスでも「極右」の大統領誕生の危険性が現実化しています。日本はそのような動きに無縁なのかというと、一方で「トランプのアメリカ」にも付き従うとともに、その欲求不満を晴らすように「教育勅語(的なもの)」の容認姿勢への転換が図られようとしているなど、決して無縁であるわけではないようですので、見たくない「変実」や「予測」も視野に入れておくべきなのかもしれません。。