大分単身赴任日誌

前期高齢者の考えたことを、単身赴任状況だからこそ言えるものとして言ってみます。

読んだ本-「愛と幻想のファシズム」(村上龍)

2017-04-23 15:40:33 | 日記
30年以上前に書かれた小説であり、最近話題になっているというわけでもないものを読んで、こうしてそれについて書いているわけですが、それは、私がこの小説に感心して読むべき本だと思ったというわけではけっしてありません。
むしろ、何故こんなものが世間に公表され、今日まで読みうるような状態でいるのか、と思うほどに、ひどい唾棄すべきような内容のものだと思います。
その上で、それほどにひどい絵空事とも言うべき内容に「現実」が近づいてしまっているのではないか、という危惧をあらためて抱いた、ということで、思ったところを少し書きます。

まずは、小説の「あらすじ」について、「ウィキペディア」では次のように紹介されています。

カナダで狩猟を生活の一部としていた鈴原冬二は、日本帰国の直前に寄ったアラスカの酒場で飲んだくれていた日本人のゼロと出会う。トウジはゼロに誘われ、日本に帰国し独裁者としての頭角を現す。当初は挑戦的なCMを出し注目を集め、世界経済が恐慌に向かい日本が未曽有の危機を迎えると政治結社「狩猟社」を結成し大衆の支持を集めるようになる。国内の敵対勢力を手段を選ばず叩き潰し、勢力を拡大するとともに世界の再編成に乗り出した多国籍企業集団「ザ・セブン」による日本の属国化を阻止するために行動する。 まず自衛隊にダミー・クーデターを起こさせ国会議事堂、首相官邸などを占拠させた。それから間もなく人質の解放と武装解除の交渉のためにテレビに登場し、そこで米ソの世界再編成の陰謀を暴露した。その後、国会は解散し総選挙で革新政権を誕生させて崩壊させた。そしてこのような混乱状態のなか鈴原冬二と狩猟社だけが唯一の国民の希望の星になる。その間にイスラエルと秘密協定を結びプルトニウムを手に入れ戦術核を製造、配備し、同時にハッカーたちによって情報を混乱させアメリカの牽制に成功する。 最終的には、米ソと対等の地位を手に入れ、世界からも一目置かれるようになる。

これでは、何が何だかわからないでしょうが、まぁこういう物事の動きを描いた小説です。
1984年~86年に週刊誌に連載されたもので、時代設定が「1990年」ですから「数年後」という「近未来」とも言えないような「将来」を描いたものです。
ですので、30年以上経った現在からみれば、奇妙に思えるほどの「事実」の違いも多くあります(たとえば、「ソ連」が存在してそれなりの力を持っていたり、日本国内でも「総評」やそれに連なる「革新勢力」が健在です)。
しかし、全体としての「危機の様相」は現実と合致することを多く見出すことができるものでもあります。グローバル資本の国境を越えた強欲が格差を拡大し社会を不安定化させること、その中で差別主義や排外主義が人々を駆り立てる「動機」となりそれを煽動する者が頭角を現し、あるいは権力を握ること、その際に「情報」が大きな意味を持ちねつ造された「事実」によって流れが大きく変わってしまうこと、などです。
このような「世界」の動き、というのは、30年前においてすでに「予測」できたものだったわけです。このような「予測」をおこなうにあたって村上龍は「経済」の勉強を集中的にした、ということですし、それを可能にしたのは「作家的想像力」だったのかもしれません。その意味で「お見事」ではあります。
しかし、そのような世界を描くために中心的に描くのが「鈴原冬二」「狩猟社」になる、というのはいささか「お粗末」です。「狩猟社」というのは、次のような「思想」=「狩猟社会」では弱者は淘汰されていたが、農耕社会に入ると「奴隷」として復活した。99%の人間は奴隷であり、今もその比率は変わらないが「現代の奴隷は力を持っている」。「奴隷どもを駆除して、強者だけの美しい世界を作りたい」・・・・という「思想」をもつ「政治結社」だからです。
このような「思想」が問題外のものであることは明らかですし、さらに小説で描かれるこの「思想」の実現のための手段がまさに「卑劣なテロ」としての殺人や薬物による精神破壊や虚偽情報の流布などであることに、凡そリアリティはありません。
しかもそれを「一人称」で表現する、というのは、どういうつもりなのだか理解しがたいものです。

この小説について「村上龍以外の人が書いたらファシズム小説だと言われる」などと評している人もいますが、だれが書いても「ファシズム小説」であり、ひどいものだというべきでしょう。
しかしその上で、世界の現実は、「トランプ大統領」を生み出したわけですし、フランスでも「極右」の大統領誕生の危険性が現実化しています。日本はそのような動きに無縁なのかというと、一方で「トランプのアメリカ」にも付き従うとともに、その欲求不満を晴らすように「教育勅語(的なもの)」の容認姿勢への転換が図られようとしているなど、決して無縁であるわけではないようですので、見たくない「変実」や「予測」も視野に入れておくべきなのかもしれません。。

読んだ本-「げんきな日本論」(橋爪大三郎×大澤真幸:講談社現代新書)

2017-04-11 16:47:30 | 日記
「本書は、日本の歴史をテーマにする。でも普通の歴史の本とは、まるで違う。歴史上の出来事の本質を、社会学の方法で、日本のいまと関連付ける仕方で掘り下げるからだ。」

とまえがきで橋爪大三郎氏が言っていますが、そのとおりです。面白かった。
このような本を、高校に入る前くらいの時点で読んでおくと「歴史」というものが違うものに見えてくるでしょうし、そこから「いま」を考えることができるのではないか、と思いました。
・・・という感想は、「もしも私が・・・」ということを含んだ感想です。自分自身の歴史に関する知識が細切れの貧弱なものでしかないことを痛感させられました。およそ「教養」の中でも「歴史」への理解は中心的なものなのだと思います。そのようなものとして「教養の不足」ということを自分自身についても感じますし、業界としてはより一層強く考えさせられます。

「なぜ日本の土器は世界で一番古いのか」「なぜ日本には青銅器時代がないのか」等の18の「なぜ」が提起され、それについて二人が話し合う、という形をとっていて、どれもみな興味深いものでした。

18の「なぜ」のひとつ「なぜ日本には、武士なるものが存在するのか」について、橋爪氏は「武士は地主が自己武装したものではなく、武装した集団が地主になった、という順番ではないか」という仮説を唱えています。そして「武装することの根本には、やっぱり馬がある」として、「馬」というものが「馬に乗る資格のある人」という一定の人間集団をつくる、ということを言います。「馬を操る、移動や運送の能力に長けた者たちが、武装も身につけ、武士の起源になった」というわけです。
このような、「手段」による「社会」そのものの変化、ということは、今日においてコンピュータやインターネットによる社会の変化、にも結び付くもので、ひとつ興味深いものです。

しかしその反対に、「手段」の変化を社会の変化に結びつけない例も指摘されます。「鉄砲」をめぐるものです。
ヨーロッパにおいては、「鉄砲の集団化・平等化作用に媒介された、もう一つの個人化・主体化の作用のようなものがある」「絶対君主の下にいる鉄砲を持つ傭兵と言う時には、集団化・平等化の作用が前面に出ていますが、やがてそれが自己否定的に転回して、絶対君主に抵抗する鉄砲を持つ市民が出現する」というように「ヨーロッパでは、武器・兵器によって、社会が変革されていく」ということがあった、と指摘されます。
しかし、日本においては、「鉄砲」の導入によって戦闘方式に大きな変化がもたらされたにもかかわらず、それが主流にはならなかった、とされます。日本では、「鉄砲の威力に対する驚異もあるが、鉄砲にたいする軽蔑もあ」って、「補助的な武器として、身分の低いものに使わせる。それが足軽鉄砲隊である」という形がとられた、とします。「鉄砲を持ったからと言って政治的主体にならなかった」とされるわけです。
「鉄砲を持っている人びとが集団的に反乱を起こす可能性があったら、フランス革命の第三身分みたいで危なかったでしょうが、日本の足軽はそうはならなかった。常に従属的地位に甘んじた。」ということです。

ここに、日本の文化的特質をみることができる、というところに面白みを感じたのですが、さらにはもっとずっと小さい卑近なことで言えば、土地家屋調査士の「従属的地位に甘んじ」る姿勢の根源というのは、こういうところにあるのかな、とも思わされました。あまり本筋でない感想ですが興味深く考えさせられたところです・・・。

草鞋を作る人

2017-04-02 15:27:34 | 日記
最近、「駕籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」という言葉が頭に浮かびます。「かごいけ」という言葉を聞くことが多いせいなのかもしれませんが、もちろん内容的には何の関係もあるではありません。

この言葉、意味するところは一般に「世の中には階級・職業がさまざまあって、同じ人間でありながらその境遇に差のあることのたとえ。また、そのさまざまのひとが、うまく社会を構成していることのたとえ。」(goo国語辞書)というものとされているようです。
前段の「境遇の差」というのは「階級」的なことで、これがもともとの意味合いだったのか、とも思えるのですが、今は「職業」の問題として後段的に理解するのが一般的になっている、と言えるのでしょう。
私も、この言葉について、「階級」の問題ではなく「職業」の問題として、「土地家屋調査士」という職業に関する問題として、以下のように考えています。

職業に関することですから、ここでは「駕籠に乗る人」は、まずは関係ないことになります。駕籠に乗るのは職業としてではないですからね。問題は「駕籠を担ぐ人」と「そのまた草鞋を作る人」の関係になります。
結論から言うと、私は土地家屋調査士というのは、「草鞋を作る人」なのだな、と思います。そして、先の解説にあるようにその「草鞋を作る人」を含めて社会が構成されているのであり、それはそれでいい、というように考えるべきなのだと思います。
その上で、「草鞋を作る人」としての責任をどこまで果たせるのか、というところに問題はある、と考えるべきなのだと思います。問題は、どれだけいい草鞋をつくれるのか(もしくは草鞋に変わるより良い履物を作れるのか)、というところにある、ということです。ここに職業的な課題がある、と考えるべきだと思うのです。
ところが、土地家屋調査士業界の中では、そのように考えるのではない二つの逆方向の考え方があるように思えて、そこが違うのだな、と思わずにはいられません。

ひとつの考え方は、残念なことながらこれが主流的な考え方なのだと思いますが、次のような考え方です。・・・土地家屋調査士の現状というのは、「草鞋を作る」と言っても、ごく普通につくって一般の小売をしている状態と違って、「全国駕籠運送協会」的なものからの独占的な発注を受けて製造して納入している状態にあります。それが売り上げのほとんどを占めているわけです。このような状態にあると最大の関心事は、「独占的な受注を維持する」ということになって、そのこと(のみ)に力を注ぐような考え方が(ごく自然に)出てきます。そこでは、「より良い草鞋を作る」ということは二の次のことにされて、「全国駕籠運送協会」の機嫌を損ねず独占受注を維持することに汲々とするようになってしまいます。

別のもうひとつの考え方は、「草鞋を作る」ということに飽き足らなくなって、むしろ「駕籠を担ぐ人」になりたい、と考える考え方です。草鞋を作って納入し続けているうちに、どうもせっかく作ったものが有効に利用されていないのではないか、と思えるようなことがでてきます。そして、さらに考えていくと「駕籠運送業界」のありかたそのものに問題があったり、さらに言えば今や「駕籠」の時代ではなく「人力車」の時代なのだとも思えてきます。だから、草鞋をつくるだけではなく、駕籠運送を含んだ旅客運送事業の担い手になっていかなければならない、と考えたりするようになるわけです。

前者の考え方に対しては、後者の分析が批判として有効でしょう。「全国駕籠運送協会」の現状には様々な問題があるわけですし、そもそも「駕籠」の時代がいつまでも続くと思うのは無邪気すぎる、と言うべきです。だから草鞋に強化繊維を編み込んで強度を高めるとか、クッション性を良くするなどの改善を図って、独占納品だけではなく一般的な消費者にも受け入れられるようにしていくべきであるし、さらに言えば「地下足袋」や「靴」を作るような大きな転換を見据えるべきなのであり、「独占受注」の現状に安住するような姿勢でいるべきではありません。

しかし、だからと言って、「草鞋づくり」から「旅客運送事業」への根本的な業態転換を図るべきか、と言うと、そういうことではないでしょう。
もちろん、草鞋づくりをしていく者として、駕籠運送業界や旅客運送事業の動向を見ておくことは必要です。そんなことは関係ない、と「全国駕籠運送協会」に頼りっきりでいるのではダメで、社会の動向に答えられるようにしていかなければならないのです。
また、個々の草鞋づくりをしている人の中から、駕籠をよりよく担ぐための草鞋づくりを追求してきたノウハウを活かして旅客運送事業に参入する人がでてくる、ということはあるでしょう。しかし、それは業界全体としてできることではありません。駕籠用の草鞋を作っていた業界が、そのまま駕籠運送業界に転身したり、その「管理者」になったりできるものではありません。世の中、そんなに甘いものではない、と言うべきです。

やはり、「草鞋を作る人」は「草鞋(かどうかはともかくとして草鞋のような履物)を作る人」でいいのだと思います。あくまでも問題は、どれだけ良質な草鞋(を含めた履物)をつくれるのか、というところにあるのであり、それによって旅客運送事業の展開と発展に寄与し、社会の役に立つのか、というところにあるのだと考えるべきなのだと思います。

・・・ということで、あらためて繰り返します。「駕籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」。
そして、これに付け加えるとすると、「みんな違って、みんないい」・・・なのかと思います。