大分単身赴任日誌

前期高齢者の考えたことを、単身赴任状況だからこそ言えるものとして言ってみます。

カジノ

2018-07-30 19:58:42 | 日記
本当かどうか知りませんが、「ピラミッドの壁に『近頃の若い者はなってない』と書かれていた」という話があります。これが本当だとすると、「近頃の政治家はひどい」というような落書きもどこかにあったのではないか、と思います。それほど言い尽くされていることですので、今更言うのも気が引けるのですが、本当に近頃の政治家はひどい、と思わせられざるをえないような「通常国会」が先日終わりました。
「働き方改革国会」と銘打った国会でしたが、「働き方改革」という言葉が喧伝された(こと自体はいいことだと思いますが)わりには、中身が乏しいというか、大筋としては逆方向であることが明らかになりましたし、そもそも後世には「モリカケ国会」と言われる(わりには成果の乏しい)ものに終わってしまったように思えます。
特にひどかったのは、終盤における「参議院議員定数」「カジノ」の2法です。「国民の代表の選出方法」という基本的問題について、「三権」の他の一つからの指摘をまともに受けない「定数改革」、「成長戦略」の「目玉」として「賭博」を挙げる「カジノ法」、本当に「近頃の政治家はひどい」の一語に尽きるような気がします。
その一語に尽きてしまったのですが、私たちとしてはどのように考えるべきなのか?ということについて、考えるための前提として、隣接業界の動向を紹介しておくことにいたします。
「カジノ法」について、です。

この「カジノ法」について、日司連では「会長声明」を6月5日に出しています。以下引用します。
                        
日本司法書士会連合会 会長 今 川 嘉 典
声明趣旨
 特定複合観光施設区域整備法案、いわゆるカジノを含む統合型リゾート実施法案(以下「IR実施法案」という。)に強く反対し、その廃案を求める。
声明の理由
 IR実施法案は、本年4月27日に閣議決定され、本年5月22日に衆議院本会議で審議入りした。
 その概要は、特定複合観光施設(IR)区域制度、カジノ規制、入場料・納付金等、カジノ管理委員会の設置などであるが、現状でも社会問題となっているギャンブル依存症者数がカジノ解禁により更に増加することが懸念される。その対策として、ギャンブル等依存症対策基本法案が上程(・・・)されており、「ギャンブル等依存症対策推進基本計画」の策定等を軸にギャンブル依存症対策を講じようとしているが、その条文は抽象的で、多くは努力規定であり、具体的依存症対策が十分に講じられているとはいえず、カジノ解禁を急ぐ今回の審議は時期早尚である。
 また、IR実施法案第85条「特定資金貸付業務の規制」では、一定の規制はあるものの外国人観光客や日本人がカジノ事業者からの借入れを可能としている。借入れをしてまでカジノで遊興にふけることを法律で認めることは、依存症対策どころか、新たな多重債務者を生み出すことにもなりかねない。
 政府与党は、「『IR(統合型リゾート)推進法』に基づき、様々な懸念に万全の対策を講じて、大人も子どもも楽しめる安心で魅力的な日本型IRを創りあげます。」と公約を掲げているが、対策は不十分であるといわざるを得ず、現状では依存症患者や多重債務者を増加させる危険性が極めて高いといえる。
 よって、当連合会は、IR実施法案に強く反対し、その廃案を求めるものである。

この「カジノ法」に反対する旨の声明は、日弁連でも出しています。これも引用しておきます。
当連合会は、これまで一貫してカジノの解禁に反対してきた。
我が国の刑法は、賭博行為を犯罪とし、これまで、公営ギャンブルについて、例外的に特別法で違法性を阻却する際には、目的の公益性、運営主体等の性格、収益の扱い、射幸性の程度、運営主体の廉潔性、運営主体への公的監督、運営主体の財政的健全性、副次的弊害の防止等を考慮要素として、慎重な検討が行われてきた。そのため、民間賭博が認められることはなかった。
しかし、カジノは、我が国で初めて民間賭博を公認し、民間事業者が、営利の目的でギャンブル事業を営むことを認めるものである。
当連合会は、特定複合観光施設区域整備法案に改めて反対し、廃案を求めるものである。
  2018年(平成30年)6月19日 日本弁護士連合会  会長 菊地 裕太郎 


日弁連の声明の方は、ずいぶんとあっさりしたもので、もう少し踏み込んでほしいな、という印象がありますが、いずれにしてもそれぞれの資格者団体が、資格者としてかかわっている業務・社会的問題との関連において、「カジノ法」というものに向き合って態度をあきらかにしていると言えるでしょう。社会的な問題にかんする専門家団体の「会長声明」として、あるべき姿を示しているものだと言えるでしょう。
特に、日司連は、「登記業務」以外の問題に関しては、非常に積極的なかかわり方をしており、それをきっちりと社会的に表明する姿勢には感心致します。願わくば、その姿勢が自らの「既得権益」的なものにも切り込むような全般的なものであっていただければ、と思うところです。
土地家屋調査士の場合は、業務的に「カジノ」に関わるところがあるわけではないので、特に何かを言わなければならない、ということではない、とは思います。土地家屋調査士が対象としている業務分野というのは、非常に狭いものであるので、何かを言わなければならない、という場面があまりあるわけではないわけです。
しかし、だからこそ、その狭い守備範囲内に入ってきた問題に関しては、しっかりとした対応をすることが必要なのだと思います。そして、その対応というのは、既に国会まで上げられることへの尻押し的なことだとか、行政が既に問題にしていることへの追随ではなく、「現場」をもつ民間の専門家であればこそ示すことのできる先見性を示すものであるべき、だと思いますので、他団体の優れた取り組みには学びつつ、しっかりとした対応をとれるようにしていただければ、と思います。

最後に、「カジノ」に関する私の個人的「経験」とそこからの意見。
私自身はギャンブルというものにまったく向かない性格なので、カジノはおろかパチンコ屋にも行ったことが(少なくともこの10年は)ないのですが、4年前に「国際地籍シンポジウム」が韓国のソウル市江南であったときに「カジノ」を見たことはあります。
シンポの会場は、「COEX(コエックス)」というところでした。「COEX(コエックス)」は、次のような所です。
ソウル江南(カンナム)エリアの三成(サムソン)にある「COEX(コエックス)」は、国際展示や国際会議、文化・芸術行事などが数多く行われているコンベンションセンターです。地上4階、地下4階、総面積は東京ドーム約9個分(43万平方メートル)。地下には人気のショッピングセンター「スターフィールド COEX MALL」があり、水族館や劇場、映画館などのレジャー関連を兼ね備えた、巨大複合施設となっています。ビジネスに、観光に、平日は14万人、週末は25万人も訪れるスポット。

この江南COEX(コエックス)が、日本において作ろうとしているカジノ(を含むIR)とどのような関係にあるのかわかりませんが、江南のカジノは「自国民入場禁止」であるのに対して、日本で作ろうとしている者は「自国民OK」ですので、おそらくは「それ以上」のものが構想されているのかと思います。
江南のCOEX(コエックス)は「国際会議」も行える会場ですので、この「国際会議」に参加した外国人が、そのあと「カジノ」にも行く、ということが目論まれている、ということなのだと思います。
現に、私自身の見たところでも、「国際地籍シンポ」に参加した日本側参加者の最高責任者は、会議終了後、参加者たちとの意見交換もそこそこに、いそいそとカジノへと向かっていました。国内・国外を問わずせっかくの交流や意見交換の機会である「国際会議」の場も、そこに「カジノ」があることによって、その機会を奪われてしまうのか!?と、虚しく思ったものです。
そのような、わずかな「カジノ」をめぐる経験ではありますが、その程度のことを踏まえても、やっぱり賭博を「成長戦略」にしようとする発想の貧しさを、そこから考えざるを得ないところなのです。

ワールドカップが終わって

2018-07-23 19:33:35 | 日記
サッカーのワールドカップが終わって1週間が経ちました。夜中の試合を観るために、生活のリズムが乱れた人も多かったかと思います。私は、夜中に起きるために早寝して、試合が終わったらまた寝る、という生活のために、すっかり睡眠過多になってしまい、暑さのせいもあって今でも引きずっている感じです。…こういう人は少ないでしょうが・・・。

いろいろと印象深いことがありましたが、私にとって最も印象的だったのは(ひねくれた性格なので)「大迫ハンパないって」のゴールでも、乾の芸術的無回転シュートでもなく、日本チームの一次リーグ最終戦での、終了前10分余りの「攻撃放棄」のパス回し、です。
これについて、「賛否両論」、いろいろなことがいわれていますが、その前提として踏まえていくべきこととして、次のことがある、と思います。
それは、FIFAの「フットボール行動規範」では、その「第1」において「Play to Win」を挙げ、「Winning is the object of playing any game. Never set out to lose.(勝利はあらゆる試合の目的。負けを目指してはならない)」「Play to win, until the final whistle.(試合終了の笛が鳴るまで勝つためにプレーしなさい)」とあることであり、「JFAサッカー行動規範」でも、その「第1」に「どんな状況でも、勝利のため、またひとつのゴールのために、最後まで全力を尽くしてプレーする」とされていることです。
「あらゆるゲーム」「どんな状況でも」勝利を目指すことが求められているわけですから、ポーランド戦における日本チームの「最後のホイッスルが鳴る」までの10分以上の行為は、どう考えても FIFAの「フットボール行動規範」にも、「JFAサッカー行動規範」にも反するものであることは明白です。様々な議論はこのことを踏まえた上でなされるべきでしょう。
その上で、もしも「パス回し」を「正当化」しようとするのなら、「圧倒的に弱いのだから仕方ない」という「背に腹は代えられない」という理由しかないように思えます。たまたまつかんだ僥倖を手放さないようにするためには、「何でもあり」とする居直りです。「4年間、一次リーグ突破のために、そのためだけに努力をしてきた」とする者だけに「許される理屈」ということなのでしょう(だから、それ以外の人がこれを「正当化」しようとすることはできないようにも思えます)。

・・・と、前置きが長くなってしまったのですが、本来書きたかったのは、このポーランド戦を見て、5年前に日調連の岡田会長(当時副会長)が言っていたことを思い出した、ということについてでした。
それは、日調連のやっていること、というのは、「1対0で負けている9回裏2アウトの攻撃で送りバントを指示するようなものだ」と言っていた、ということです(サッカーでいえば、「1対0で負けている後半ロスタイムにパス回しをする」というような感じでしょうか)。この発言については、一緒に聞いていた九大の七戸先生が「副会長がそんなこと言うようでは・・」という反応を示したことによってそのまま終わりになってしまい、さらに発展していく、ということはなかったのですが、5年後にワールドカップを観ていて思いだされた、という次第です。
さて、「あれから5年」の今、状況はどうなっているのか?・・・と言うと、オンライン登記申請に関する「資格者代理人方式」に対する日調連の対応などを見ていますと、「1対0で負けている9回裏2アウトの攻撃で(送りバントどころか)バットを振らずに見送りの三振をするように指示をする」という感じになっています。いや、さらに「相手ピッチャーがボールを投げてくれたときには、わざと空振りをする」というところまで行ってしまっているようにさえ思えるのです。
なぜこうなるのか?
たしかにサッカーのようなスポーツと一般の社会生活とは違います。「負けるが勝ち」というようなことも、よくあることです。そして、土地家屋調査士界は、この「負けるが勝ち」路線を実践していることにかけては人後に落ちない存在としてある、ということができます。つまり、負けているのにパス回しをしたり、バントをしたり、わざと空振りしたりすることは、けっして特殊な状況の下での特殊なことなのではなく、それを忌み嫌っていたような人でも、いざその立場に立てば同じように「負け」を選択するのだ、とされているような世界だというのが「現実」としてある、と言えるのです。
土地家屋調査士における「負けるが勝ち」の「負ける」というのは、結局、「不動産の表示に関する登記」の枠内に収まっていること、それを所管する法務省の手のひらからでないようにすること、です。そしてそれによって「勝ち」になる、というのは、様々な矛盾をはらんだその制度の下において「業務独占」という特権的地位の「実利」を得られる、ということです。問題は「勝つ」ことによる「名誉」などではなく、あくまでも「実利」なのだと割り切ってしまいその道を選んでいく、ということなのだな、ということが、この間のさまざまな出来事を見ると透けて見えてきます。
では、本当に今「負ける」ことが、「勝ち」につながるのか?・・・・おそらく短期的にはそうでしょう。既存の制度と言うのは、すぐに完全になくなってしまうものではないので、今の状態を「負けるが勝ち」状態だとするのであれば、何もしないことによってその状態を保持していくことにつながる、というのは確かにそうなのだと思います。
しかし、それは、言わば「勝ち馬に乗る」ことによって、「勝ち」のおこぼれをもらう、ということに過ぎないのであり、「勝ち馬」だったのが負けてしまえばそれでおしまい、ですし、「勝ち馬」自身が勝つために余分な負担を負いたくないと思って切り捨てるようになってしまえばそれでもおしまい、になってしまうものです。
ですから、やっぱり自力での勝利を目指して、そのための努力を積み重ねていくことが必要なのだと思う・・・ということをあらためて思い起こされた・・・という次第です。

「西日本豪雨」で考えたこと

2018-07-16 19:50:44 | 日記
広島・岡山・愛媛をはじめとした西日本各地の豪雨で200人を超える方が亡くなられたり、行方不明になっています。3万戸を超える家屋被害も出ており、何とも痛ましいことです。お見舞い申し上げます。
このような大きな災害のある度に被害の大きさと何もできない自分の無力さに打ちひしがれてしまうようなところがあるのが正直なところですが、そんな泣き言を言っておらずに、何かしらの「出来ること」をしていかなければならないのだと思いなおしもするところです。

このような災害のたびに、「天災」の恐ろしさを感じるのですが、純粋な「天災」とだけ言っていられないのが、最近の災害だと言えるでしょう。
今回の集中豪雨で言えば、やはり「温室効果ガスによる気候変動」という有力な「仮説」の確かさを感じ、抜本的な対策の必要性と、それを否定するトランプ大統領のような人々の存在から、人類の「強さ」と裏腹な「無力さ」を思います。
そして、どんどんと「身近」なところで考えていくと、もう少し近いところでは、「治水」「治山」や「都市計画」といった問題があります。
そして、その上で、さらに身近な、私たちに直接的にかかわる問題としての個別具体的な「宅地造成」などの問題があります。

被災地の映像を見ていると、比較的新しい住宅に土砂が押し寄せているものがあります。最近宅地造成をした住宅団地が土砂災害に襲われたのかと思うと、その宅地造成に関与した土地家屋調査士は、どのような思いでそれを受け止めているのかと思い、重苦しい気分になります。
おそらくは予測しえなかったことなのでしょうし、宅地造成後の分筆登記をしただけならどうしようもないことだということになるのでしょう。しかし、もしも宅地造成の設計に関与していたのなら、どうでしょう?それでも「予測」は難しいだろうし、一定の科学的知見に基づく行政の「許可」を得ているのだから、その「責任」は大きいわけではない、と言えるのかもしれません。しかし、より確かな知見によって「予測」をすることができたなら、ということも考えられます。そこで出てくる「責任」を負うものとして、そのような覚悟を持つものとして、日々の仕事をしていかなければならない、ということに、改めて思いを致すべきなのでしょう。。

このような災害を見るにつけ、「私たちに何ができるのか」ということを考えます。直接的には大したことができないな、と思わざるを得ないのですが、最終的には「自分の場所でやるべきことをやる」ということが一番大事なのだろう、と思うようになります。
しかし、これが何とも難しいことです。ついつい安易な妥協に走って、その場をやり過ごして事足れりとしてしまう、ということがあります。工期に追われるとか、発注者の利益優先の意向に押されるとか、自分の責任を追及されることを回避したいとか、等々によって「本来やるべきこと」をやらずに済ませてしまう、ということが往々にしてあります。もう一度見つめなおすべきことなのだと、あらためて思います。

その上で、本当に小さなことで恐縮ですが、今回の豪雨による私への影響と、そこで思ったことについて。
豪雨による何の被害もなかった私ですが、若干の影響はありました。あらためて言うほどのことではないのですが、「単身赴任先からの週末の帰宅」が、鉄道の不通によってできなくなった、ということです。
そのこと自体は、まったくささやかなことですし、全く致し方ないことで、なんの問題もないのですが、公共交通機関の不通というのは、社会的な影響の大きなことであり、それによってより深刻な打撃を受ける人も多くあります。東日本大震災の時にも大きな問題になり、つい先日の大阪の地震の際にも問題とされた「帰宅困難者」の問題にもつうじるものです。
だから、JRは、鉄道の運行状況について、より正確な情報をより早く伝える責務を負っている、ということになります。
それがどうだったのか、ということです。

JR九州のホームページを見ると、トップページに
「最新の情報につきましては、「列車運行情報」もあわせてご参照ください。」
という案内の文句があります。
そこで、「連射運行情報」をみると、まず目に入ってくるのが次の文言でした。
[免責] 本サービスの情報は、情報更新タイミングやその他の事由により、実際の運行(航)状況と異なる場合があります。
あくまでも参考情報としてご利用ください。この情報の利用によりお客さまに損害が生じた場合でも責任を負いかねます。
しかし、列車の運行主体であるJR九州のホームページでの情報というのは、言わば「第一次情報」です。運航の休止を決めたのであれば、それは即時にそのままホームページで公表されるようにするべきだし、運航の再開があった時も同じです。運航主体であるJR九州以外の機関が情報として運行状況を伝えるのであれば「実際の運行(航)状況と異なる場合があります」というのもわかるのですが、運航主体であるJR九州がそんなことをいうのは、ましてや「あくまでも参考情報としてご利用ください」などと言う、というのは、まったくおかしなことなのではないか、と思います。
たしかに、「この情報の利用により損害が生じた場合」の「責任」を逃れたい、という気持ちはわからないではないですが、そんなことを言うべきではないでしょう。しっかりと「責任」を負うものとして情報を伝える、というのが、公共交通機関を運行するものとしての「なすべきこと」なのであり、それを回避して責任に背を向けてしまうのは、誤った姿勢なのではないか、と思うのです。私たちの仕事における「責任」に通じるものとして、他山の石として考えるべき事のように思いました。

文科省現職局長の「収賄」容疑

2018-07-04 20:51:26 | 日記
文部科学省の科学技術・学術政策局長が受託収賄罪の容疑で逮捕された、ということです。
現職の高級官僚の逮捕、というのは異例(でもないか?)のことで、どのようなことなのか気になるところです。

報道によると
【毎日新聞7/4(水) 16:54配信】
東京地検特捜部は4日、文部科学省科学技術・学術政策局長の佐野太容疑者(58)=東京都港区=を受託収賄容疑で逮捕し、会社役員の谷口浩司容疑者(47)=同=を同ほう助容疑で逮捕した。
 逮捕容疑は2017年5月、東京医科大の関係者から同省の大学支援事業に関して有利な取り計らいを受けたいとの依頼を受けたことに対し、この大学を受験した佐野容疑者の子供を合格させてもらったとしている。特捜部は入試の点数の加算などが事実上のわいろに当たると判断した模様だ。
 佐野容疑者は16年6月から同省官房長を務め、17年7月から現職。

【最終更新:7/4(水) 18:44産経新聞】
自分の子供を大学に合格させてもらう見返りに、文部科学省の支援事業の対象校とするよう取りはからったとして、東京地検特捜部に受託収賄容疑で逮捕された文科省科学技術・学術政策局長、佐野太(ふとし)容疑者(58)は、省内では「将来の次官候補」と目されていたという。
 佐野容疑者は昭和34年、山梨県出身。早大大学院理工学研究科修了後、60年に旧科学技術庁に入庁した。原子力局政策課長補佐を経て、平成5年から米国スタンフォード大に留学。8年からは在英国日本大使館の1等書記官も務めた。
 省庁再編後は文科省開発局宇宙開発課長や高等教育局私学部参事官(私立学校法人担当)などを歴任。19年9月から21年6月まで山梨大副学長も務めた。28年6月から官房長、29年7月から科学技術・学術政策局長を務めていた。   
 

とのことです。事案の真相はもちろん今後の究明を待たなければわからないことですが、報道されていること(というのは東京地検特捜部が発表(リークを含め)していること)が、まったくの事実無根ではない(それなりに真実に近い)という前提の上で考えてみました。

まず気になるのは、この「2017年5月」という時期です。
この時期というのは、加計学園の問題について
朝日新聞は5月17日、審査のスケジュールをめぐって難色を示した文科省に対し、内閣府が「官邸の最高レベルが言っている」「総理ご意向」などと開設を急がせたことをうかがわせる文書があったと報道
という時期であり、さらに月末の5月25日には
審査当時、文科省事務次官を務めていた前川喜平氏(文科省の天下り問題の責任を取り、2017年1月に辞任)が複数の報道機関の取材に対し、「あるものがないことにされてはならない」などと文書の存在を認めた。
という時期です。
佐野文科省官房長(当時)と東京医科歯科大との話が、「2017年5月」のどの時期になされたという話なのかわかりませんが、いずれにしても当時の文科省は同年1月に発覚した「天下り問題」を受けて大変な時期であったはずで、そのような時期に「官房長」が自分の子供のために便宜を図らせるべく奔走していた、ということがあったのであれば、私たちの「官僚観」を覆すような話(「美談」?)です。

かねて「官僚批判」としては、「省益第一」ということが言われてきました。全体の利益ではなく、各省の利益追求が目的にされてしまっているのではないか、という批判です。
この批判は、かなりの程度において当たっていたのではないか、と思うのですが(「法務省」を近く(?)で見てみた身としても)、最近はあてはまらない事案も結構あるようです。
財務省の佐川前理財局長の「公文書改竄」「国会虚偽答弁」は、「省」のことを思っていたらできないことで、それ以上の「大きなもの」に殉ずる姿勢、そしてそれが自分自身の利益として帰ってくるであろうという打算によるものであると考えるのが妥当だと思えるものです。

そして今回の文科省官房長。
「私益」というものには、様々な形があるものだ、と思わされつつ、結局は「私益」は「公益(「省益」を含む)」に優先する、ということになっているのだな、ということを改めて教えられました。