大分単身赴任日誌

前期高齢者の考えたことを、単身赴任状況だからこそ言えるものとして言ってみます。

読んだ本-「グーグルマップの社会学」(松岡慧祐著:光文社新書)

2016-11-22 18:55:33 | 日記
社会学者として「地図」を研究対象としている著者が、特に「グーグルマップ」を論じたものです。

まずは、「グーグルマップ」について論じる前に、「地図」一般が論じられます。
「地図は現実をありのままに写し取ったものではなく、縮尺・平面化・記号化という方法によって『再構成』したもの」
である、という指摘がなされます。そして、そのような地図については、
「私たちはちょうど地図を見るようにして社会について考えている」
ものとしてある、ということになります。
また、「地図」を必要とする、ということについても、
「旧来の土着的な農村社会では、自分が住み続けている〈場所〉をあらためて地図で確認する必要はなかった。それに対して、流動化(脱地縁化)が進んだ都市社会では、・・土地勘のない〈空間〉に適応するために、地図を必要とするようになったと考えることが出来よう。」
とされています。このことは、私自身、「大分県における地租改正」についてまとめようと思って調べている中で感じたことです。土地の所有を明らかにする、という目的で作られた「地図」が、正確なものを必要とするようになったのは、近代的土地所有権が確立し、売買等の取引が活発に行われて、土地が流動化するようになったことによって、です。自明でないものを知ることが必要になったところで「地図」は必要になった、と言えるのでしょう。

「地図」に関するこのような理解の上で「グーグルマップ」を見ると、それはかなり特異な、これまでの「地図」とは違う特質を持つものであることがわかります。
それは、シームレスで、さまざまな情報とリンクしたものとしてあり、明らかにこれまでの「紙」ベースの地図と比べて優れたものとしてあるわけですが、それは次のようようなものとしてもある、ということが指摘されます。
「現地のことは現地に行けばグーグルマップが教えてくれる。そのような安心感と引き換えに、わたしたちは地図を主体的に読み込み、全体を見渡すような想像力を失いつつあるのではないだろうか。」「たしかに『ググる』という行為によって、わたしたちはデータベースのなかにあるすべての情報にアクセスできるようになったが、それは当然ながら、真の意味での『世界中のあらゆる情報』にアクセスできることを意味しているわけではない。わたしたちがググることができるのは、あくまでも『ウェブ上に存在し、グーグルが収集した』という条件付きでの『あらゆる情報』にすぎないのだ」
このようなものとしてのグーグルマップは、これまでの「地図」が「見わたす地図」だったのに対して「導く地図」になっている、とします。
「グーグルマップは、ユーザーがつねに自分が見たいものを見られるようにするための技術を発達させることで、地図を見る主体を個人化させると同時に、ユーザーが地図を見わたさなくても、代わりにコンピュータが地図を最適化する役割を担うことで『見たいものしか見ない』という態度を可能にし」た
というわけです。そのようなものとして
「個人が『社会』を想像するうえで重要なのは、日常生活において無意識のうちに絶対化している『いま・ここ・わたし』を相対化することである。だが、グーグルマップは、むしろ人びとを『いま・ここ』という日常性に埋没させ、視野狭窄に陥らせる『わたし』のためのメディアとして発達してきている。」
ということになります。
以下、同じようなことですが
、「地図がデータベース消費される」「動物化したユーザーは、理性的に全体を見渡しながら知識を蓄えていくのではなく、はじめから欲求の充足に必要な情報のみにアクセスし、それを消費していく」
というような言い方がされています。

以上の指摘は、私には非常に納得のいくものです。この調子で、「グーグルマップ」への批判的な立場で終始していくのかと思っていたら、終わりの方では、
「グーグルマップのスクロール機能は・・人びとを『いま・ここ』の相対化に向かわせる可能性をももっているといえよう」「「世界がどのようにつながり、そして重なっているかを可視化するグーグルマップの世界像は、まさにこのグローバル化社会を表象するモデルとして最適といえる」
ともされています。たしかに、あらゆるものは「人間の使いよう」ではあるのですが、そのように人間が「使う」主体であり続けられるのか、ということが問われているように思えてしまいます。
それは、結論的には、
「グーグルマップは、GPSや検索機能の導入によって、個人化・断片化を促す『アーキテクチャ』として設計されていると言えよう」
ということです。「『アーキテクチャ』とは、情報技術や物理的な環境の設計によって人々に一定の行動を促すしくみのことを指す」「人々に不自由観を与えることなく、むしろ自発的に設計者の意図に沿った行動を選択させるのが特徴」ということです。

これらの指摘を受けて、もう一度「グーグルマップ」を、そして「地図」を考えるべきだと感じました。

愛媛会「筆界特定10周年講演会」

2016-11-14 16:34:25 | 日記
初めに本題ではなく、先週のアメリカ大統領選挙について。
やはり、ついに「トランプ大統領」が誕生することになってしまいました。
先週、アメリカ大統領選挙について書いたときに、「49%」の可能性で「トランプ大統領」がありうるのかな、と思っていました。「1%」は、希望的観測分です。あの下品な男が「アメリカ大統領」になる、というのは、私だけでなく多くの人にとって(アメリカ国民にとっても)耐え難いことだろうから、最後の最後には踏みとどまるのではないか、と思たのが「1%」分です。
もっとも、数週間前までは、「トランプ大統領」の可能性など皆無だと思っていました。選挙が近くなって、やや詳しいリポートがなされるようになって聞いてみると、アメリカの旧中間層の「絶望」の大きさを感じました。まさに自棄ノヤンパチが「トランプ大統領」を生んでしまうのではないか、と思えてきたのです。それでも、ギリギリのところで踏みとどまるのでは、と思ったのが甘いところでが・・・。
今後のことを考えると、「トランプ大統領」は、そこに「希望」というより「絶望からの脱出」を賭けた人々の願いを実現することはけっしてないでしょう。1年後にうまれているのが、ただの「失望」にとどまって、「大きな後悔」にならないように事態が推移していくことを願うしかありません。本当に、どうなると?トランプ!

本題です。
先週の金曜日(11.11)、愛媛県土地家屋調査士会の「筆界特定制度10周年記念講演会」に行ってきました。
高松法務局の秦慎也局長と松山地方裁判所の河合裕行所長の講演です。

高松法務局の秦慎也局長は、筆界特定制度の創設時に法務省本省で制度策定の事務に当たられた方ですし、松山地方裁判所の河合裕行所長は大阪法務局の局長在任時に、筆界特定手続の迅速な処理へ向けた指揮をとり実現した方です。それだけに、この手の講演会にありがちな通り一遍の話ではなく、「課題と展望」に踏み込んだお話を聞くことができ、勉強になりました。

特に、現在は裁判所におられる河合所長から、「筆界特定と裁判との連携」に関する話を聞き、内容的なところでの「筆界特定の質」の確保が重要であり、「境界確定訴訟における判断の仕方・傾向を理解することの重要性」を説かれたところを肝に銘じるべきだと感じました。
また、秦局長が、筆界特定制度の創設時には、「新たな土地境界確定制度」構想からの「後退」に憤慨したが、10年たった今にして思うといい制度になっているのでは、と述べられていたことに共感しました。

その上で、もちろん現状に安住していていいわけではありません。これまでの至らないところを克服していく必要がある、のだと思い、その「課題」について考えさせられました。以下、列記します。
①「筆界特定手続きの迅速化」は、特にその「難易度に応じた速度」を立てることによって大きく実現するものなのだと思います。「所有者不明土地との筆界特定」において、その一部が実現しようとしていますが、より一層加速する必要があるのだと思います。

②さらに、多くの人々がこれまでのような「筆界認識」を持たないようになっていく中で、これまでのような人々の筆界認識の存在に依拠した「筆界確認」のありかたは通用しなくなっていくのであり、筆界特定制度10年で築いてきたものを一般的な登記での筆界認定に生かしていくことが必要になっています。

③筆界特定制度導入の経緯については、「平成地籍整備」との関係が強調されていました。たしかに「時代が動いた」契機としてはそうなのでしょうが、あまり「行政的」に考えるのは、少し違うのではないか、という気がします。そこには「司法的」な課題もあるのであり、「裁判との連携」の問題を含めて、こちらを強化していく必要があるのだと思います。

いずれにしても、勉強になり刺激を受けた講演会でした。より多くの方が聞いて、さらに議論をできればよかったのに・・・、というのが少々残念なところでしたが・・・。

アメリカ大統領選挙

2016-11-07 18:37:48 | 日記
アメリカの大統領選挙が、いよいよ近づいてきました。今週の中ごろには、新しいアメリカ大統領が決まっていることになります。

日本で見ているかぎり(少なくとも私には)、「トランプ大統領」が誕生するなどということはおよそ考えられることではありません。あの下品さ、排外主義性は、けっして「アメリカを再び偉大に」することはなく、とんでもなくみっともないものに(「偉大」さと正反対のものに)してしまうような気がします。
しかし、現実に「決戦」の時を二日後に控えた今においても「トランプ大統領」誕生の可能性が否定しきれない状況にあります。これって何なんでしょう?

話は変わりますが、最近「司法占領」(鈴木仁志)という小説を読みました。(この小説、実は10年ほど前にも一度読んでいるのに、今回読んでみて、前回読んだときのことを、ほぼまったく覚えていないことに愕然としました。極めて大きな枠で言えば覚えていることもあるのですが、そのほかのことは、ほぼ何一つ覚えていないのです。年をとるというのはこういうことか、とまさに愕然としているところです。)

「司法占領」は、2002年発行の、「2020年代」の日本の司法制度はこのようになっているのではないか、ということを描いた近未来小説です。
2002年というと、司法制度改革推進計画が閣議決定され、本格的にスタートした年です。以降、2004年の法科大学院開校、2006年の新司法試験開始、2009年の裁判員制度施行、とさまざまな「改革」が実施されて行きます。

その2002年の時点で、著者が描いた「近未来」は、タイトルにあるように、日本の司法制度がアメリカに(というよりグローバル企業に)「占領」された姿です。アメリカのローファームが大挙して日本に押し寄せ、日本企業同士の契約までニューヨーク州法を準拠法にして結ぶようになり、日本の法律事務所はつぶれ、大幅に増えた弁護士は路頭に迷って仕事を漁りあう・・・というような状況が描かれています。

現実がここまでのものになっているわけではない(まだ「2020年代」になっているわけではありませんが)のだとは思いますが、基本的な方向性というのは、このような方向で進んでいるのではないか、と思わされるところもあります。
ロースクール、新司法試験制度というのは、どう見ても失敗したのではないか、と思えますが、それによって弁護士の世界が大きく変わった、ということは確かにあるのでしょう。弁護士が大量に増えた社会は、国民の司法アクセスが向上した社会というより、司法へのアクセスを容易にできる強者がより勝てる社会に過ぎないようにも思えてしまうところがあります。司法制度だけでなく、もっと深いところで社会が変わっているようにも思えるのです。

ここで「アメリカ大統領選」に戻ります。とても信じられないような「トランプ大統領」を生み出しかねないアメリカの状況というのは、まさにこの小説が描いている姿が、決して誇張とは言えないようなものとしてあるのではないか、と思えるわけです。
そうでもなければ、「トランプ大統領」などというものの可能性がでてくることはないのではないか、ということを、この小説が描いているような「5年先」の日本の問題としても考えなければならないのでしょう。もちろん、わが業界の問題としても・・・。