前回、新井先生が、「甲乙地主ノ境界及一己ノ所有ニシテ地所接続スルトモ毎筆ノ境界ハ双方凡五勺ツゝ(即一間の二十分の一)除却シテ丈量スヘシ」と規定する「地租改正事務局出張官心得書(明治9年9月18日地租改正事務局関東府県出張官ヘ達)」を挙げておられることを紹介し、「明治9年9月18日の「達」の意味するところ、そこで「除却」するものとされていたのは「9㎝」よりもはるかに大きかったことについては、その他の詳しい説明とともに後述することとします」としていましたので、そのことについてまず書きます。
地租改正事業の中での「丈量」の対象は、初期においては
「耕地ヲ丈量スルハ畔際ヨリ打詰ト心得ヘキ事」(明治8年7月8日「地租改正条例細目)第三条)
とされていました。「丈量」は、あくまでも「畔際ヨリ打詰」で行っていた、すなわち「畔部分は測っていなかった」ということになります。これはまさに、新井先生が言われるように「公簿地籍が地租徴収の目的の下で測量された成果に基づくことに起因している」ものです。地租改正事業の中での「反別」(面積)の丈量は、その結果に「反当り収穫量」を乗じてその土地の「総収穫量」を計算し、それによって「地価」を算出し、さらにそれによって「地租」額を算定するためのものでした。したがって、「反別」は、あくまでも「収穫可能地」の面積を出すものに過ぎず、「畔」は含まれていなかったわけです。
ところが、これは明治9年11月には、次のように変わります。
「畦畔之儀、改租丈量之際、其歩数ヲ除キ候ハ収穫調査ノ都合ニヨリ候儀ニテ、右ハ該田畑ニ離ルべカラザルモノニ付、官民有地ヲ不論其本地ノ地種ヘ編入シ 券状面外書ニ歩数登記候儀ト可相心得 此旨相達候事。 但地租改正之際既畦畔ヲ算セズ丈量済之分ハ漸次本文之通改正候様可致事」(明治9年11月13日内務省達乙第130号)
まさに「畦畔の歩数を除」いていたのは「収穫量調査の都合」によるものであった、ということが示されています。そのうえで、畦畔は「該田畑ニ離ルべカラザルモノ」として、今後は調査(丈量)の対象とする、とされているわけです。これにより、以降は、畦畔については「券状面外書ニ歩数登記」されるようになりました。「外書」「外畦畔」です。
大分県においては、この内務省達乙第130号の出された明治9年11月には、すでに地租改正事業が完了していましたので、これにもとづく「外畦畔」はほとんど存在しないのですが、全国的には数多くあります。では、この「外書」によって、「公簿面積を出す際に測った土地の範囲は、今日の実測面積が対象としている一筆の土地全部ではなく、その一部分に過ぎない」状態は解消されて、「本地」と「外畦畔」を合算したものが「一筆の土地」とイコールになったのか?ということが問題になるわけですが、これについては、後で見ることにして、その前に、「地租改正事務局出張官心得書(明治9年9月18日地租改正事務局関東府県出張官ヘ達)」についてみることにします。
新井先生は、この「心得書」のうちの「第2項」である「甲乙地主ノ境界及一己ノ所有ニシテ地所接続スルトモ毎筆ノ境界ハ双方凡五勺ツゝ(即一間の二十分の一)除却シテ丈量スヘシ」を挙げておられますが、そのほかには次のようなものがあります。「畠地は大小の別なく一筆内に自己に作道、小畔を設るともその歩数は該地段別より除却すへからす」「崖髙の地にして其崖鍬入に必需の地は該地段別に合量すへし」といったものです。すなわちこれは、「畦畔は丈量しない」としていたそれまでの方針では、さまざまな不都合があるのでこれを改めて、丈量対象を増やしていくことを示す「達」であった、ということが言えます。ただし、これによっても「田」についての「畔際より」が改められているわけではないので、「田」については「畦畔」を含まずに行うことについては変わりがなかった、と考えられます。ですから、「畔」について、少なく見積もっても「30㎝」ほどは「筆界」よりも内側の位置になると思われますので、たとえば「20メートル四方の田」であれば、一筆の土地としては「20×20=400㎡」であるところ、「19.4×19.4=376㎡」というように5%強の「減少」が見られることになります。そしてこれは、一筆の土地が数枚の田で構成されている場合や、傾斜地にあって畦畔が大きい場合にはさらに大きなものになります。「公簿面積が実測面積より3割も小さい」ということが出来する所以です。
しかし、明治9年11月の内務省達乙第130号で畦畔を「其本地ノ地種ヘ編入シ券状面外書」するようになり、さらにその後には
「従来外書きにある用悪水路、井溝、ため池及び畦畔は異動の都度本地に量入すべし」(「地租事務取扱心得」明治42年9月22日東京税務監督局長訓55号16条)
ということになって、やがて最終的には明治35年の「登記簿・台帳一元化」の際に
「外畦畔、石塚または崖地等・・の地積が外歩として記載されている土岐は、本地の地積とこれらのものの地積とを合算して地積欄に記載するものとする」(「登記簿・台帳一元化実施要領」昭和35年4月1日民事甲第685号民事局通達 第27、4項)
という形ですべて「本地に合算」されるようになりますので、明治9年11月以降の地租改正事業成果によるものは、「外書」を合わせれば「丈量範囲」と「一筆地」とが合致されるようになったのではないか、従ってそのような地域においても「縄延び」があるのであればその理由は何か?ということが問題になります。
このことについて、「登記研究」誌の834号から837号までの4号にわたってなされた「十字法による丈量-検証結果報告」(寛塾)が興味深い事実を示してくれています。
これは、「地租改正事業における丈量(測量)は、徳川時代から行われていた十字法によったものが多数であった。」ということから、「十字法とは具体的にどのようなものか、そして十字法はどの程度の精度を得られるのか」ということを、単に頭で想像するだけでなく、「当時使用していた間縄、間竿,四方縄、十字器を復元して作成し、これらを用いて、明治時代から地形の変更がないと思われる土地を選定して、十字法を用いて丈量し、その成果を土地台帳の面積と近代測量の成果とを比較」(834号)する検証実験です。
検証実験の結論的な報告としては、次のように言われています(837号)。
「地租改正当時の・・測量方法(である)十字法の方法によって測量し、この結果を土地台帳の地積と比較すること」を行った結果
① 「本地についての測量結果は・・・当初の予想に反して、精度のいい数字であった」
② しかし「畦畔についての測量結果は、土地台帳の外畦畔の記載に比べて大幅に相違があった」ということが確認された、というものです。
すなわち、実測面積と台帳地籍との違い(「縄延び」)の主な原因は「畦畔の取り扱い方」にある、ということが確認された、ということになります。
具体的には、「外畦畔」がたしかに「丈量」されているものの、「外畦畔」として丈量されているのは、今日の理解で「畦畔」とみられる部分の全体ではなく、「人間が田んぼの間を歩く幅の部分の「あぜ」という機能の部分だけを算入」して「傾斜部分(法面部分)を地積に算入していなかった」のではないか、ということです。
「畦畔も本地に編入」「本地の地積に合算」した、と言っても、それはやはり一筆の土地の全部ではなく、「丈量の対象範囲の相違」は、程度の差はあれ、あいかわらず続いた、ということです。
「検証結果報告」では、この事実を受けての考察もなされています。
そこでは、まず従来の「定説」を次のように繰り返して確認します。
「縄延び現象が全国的に認められるのは、測量技術の問題のほかに、課税のための測量であるため、節税目的で面積の過少申告を容認していた、と説明されています。」「面積の過少申告の方法として、間延びした間縄で測った、間延びした間縄で測れば、実際の面積よりも小さい面積を得ることができる。そこで、「縄延び」した検泡を使用した結果、公簿面積が現況面積より小さい現象を「縄延び」と称しているのではないか、と私は思っているんですけども…」
と「従来定説」を繰り返すわけですが、そのうえで、
「しかし、今回の検証実験の結果を見ると、公簿面積と実測面積の違いは、この縄延び現象(A)のほか、外畦畔の簡便な測量成果(B)が極めて大きく起因しているというふうに評価するのが正しいのではないか」
と指摘され、「そうですね。と認めています。
まさに「測定範囲の相違」が「縄延び」の主な原因である、ということです。
しかし、イマイチ、すっきりしないところもあります。
もちろん、この奈良県という一地方におけるほんの数筆の一事例をもって、最終的な結論を導き出すわけにはいかない、というのは当然のことではあるのですが、それにしても少なくともこの検証結果から導き出される結論はよりはっきりとさせておいたほうがいいように思えます。
と言うのは、上記引用の中の「(A)」「(B)」は私が付したものですが、ここでは「間延びした間縄で測る節税のためのゴマカシ」=(A) と 「一筆地全部を図るわけではない測定範囲の相違」=(B)という二つのことが言われているわけで、その「どっちもあり」という結論であるかのように見えます。
しかし、先に述べた検証結果の①「本地についての測量結果は・・・当初の予想に反して、精度のいい数字であった」ということは、Aの「間延び間縄」説を否定するものとしてあります。Aは、少なくともこの検証結果では否定されているのだ、ということをはっきりとさせておくべきでしょう。
・・・以上、なんかしつこく細かいことをグジグジほじくりだしているみたいな話に思えてしまうかもしれませんが、この辺の曖昧さというのは、現実問題として次のような問題に発展していくので、はっきりさせておいたほうがいいように思えるのです。
先の引用文の続きで次のように言われます。
「そうすると、登記実務の中で、地積の更正の登記を申請する場合には、まず土地台帳を見て、土地台帳に外畦畔の記載があるか否か確認することは非常に重要である、ということができますね。すなわち、土地台帳に外畦畔の記載があり、かつ、現地の境界に畦畔がある場合における縄延びは、狭義の縄延び現象のほか広義の縄延び(外畦畔の簡便な測量による。)現象の結果、大幅に地積が増加する可能性がある。」
というものです。
ここでは、「外畦畔の記載がある」場合に(限って)「外畦畔の簡便な測量による」「広義の縄延び」もあることを考えるべき、とされているのですが、たとえば私の今いる大分県のように、そもそも明治9年11月以前に地租改正事業の丈量作業の終了している地方においては、「外畦畔」を測って「外書」するということ自体を行っていないので、「外畦畔の記載」はないわけですが、その場合のほうが登記地積と実測面積の違いはより大きなものになります。ですから、上記のような理解をしていると、現実問題に関する判断の際に結論を180度逆にしてしまう危険がある、ということになるわけで、注意をしておかなければならないと考えた次第です。
(なお、上記検証報告全体としては、
「土地台帳に外畦畔の記載はないが、現地の境界に畦畔がある場合は、一般的には、本地の面積にこの畦畔も含まれていると推察されるのですが、地域によっては、本地の面積は水張部分のみを計上し、この畦畔については外畦畔の記載を省略した取り扱いも考えられなくはないのです。この場合も、大幅な地積更正が認められることになります。」
と指摘して、正しい理解が示されています。)
地租改正事業の中での「丈量」の対象は、初期においては
「耕地ヲ丈量スルハ畔際ヨリ打詰ト心得ヘキ事」(明治8年7月8日「地租改正条例細目)第三条)
とされていました。「丈量」は、あくまでも「畔際ヨリ打詰」で行っていた、すなわち「畔部分は測っていなかった」ということになります。これはまさに、新井先生が言われるように「公簿地籍が地租徴収の目的の下で測量された成果に基づくことに起因している」ものです。地租改正事業の中での「反別」(面積)の丈量は、その結果に「反当り収穫量」を乗じてその土地の「総収穫量」を計算し、それによって「地価」を算出し、さらにそれによって「地租」額を算定するためのものでした。したがって、「反別」は、あくまでも「収穫可能地」の面積を出すものに過ぎず、「畔」は含まれていなかったわけです。
ところが、これは明治9年11月には、次のように変わります。
「畦畔之儀、改租丈量之際、其歩数ヲ除キ候ハ収穫調査ノ都合ニヨリ候儀ニテ、右ハ該田畑ニ離ルべカラザルモノニ付、官民有地ヲ不論其本地ノ地種ヘ編入シ 券状面外書ニ歩数登記候儀ト可相心得 此旨相達候事。 但地租改正之際既畦畔ヲ算セズ丈量済之分ハ漸次本文之通改正候様可致事」(明治9年11月13日内務省達乙第130号)
まさに「畦畔の歩数を除」いていたのは「収穫量調査の都合」によるものであった、ということが示されています。そのうえで、畦畔は「該田畑ニ離ルべカラザルモノ」として、今後は調査(丈量)の対象とする、とされているわけです。これにより、以降は、畦畔については「券状面外書ニ歩数登記」されるようになりました。「外書」「外畦畔」です。
大分県においては、この内務省達乙第130号の出された明治9年11月には、すでに地租改正事業が完了していましたので、これにもとづく「外畦畔」はほとんど存在しないのですが、全国的には数多くあります。では、この「外書」によって、「公簿面積を出す際に測った土地の範囲は、今日の実測面積が対象としている一筆の土地全部ではなく、その一部分に過ぎない」状態は解消されて、「本地」と「外畦畔」を合算したものが「一筆の土地」とイコールになったのか?ということが問題になるわけですが、これについては、後で見ることにして、その前に、「地租改正事務局出張官心得書(明治9年9月18日地租改正事務局関東府県出張官ヘ達)」についてみることにします。
新井先生は、この「心得書」のうちの「第2項」である「甲乙地主ノ境界及一己ノ所有ニシテ地所接続スルトモ毎筆ノ境界ハ双方凡五勺ツゝ(即一間の二十分の一)除却シテ丈量スヘシ」を挙げておられますが、そのほかには次のようなものがあります。「畠地は大小の別なく一筆内に自己に作道、小畔を設るともその歩数は該地段別より除却すへからす」「崖髙の地にして其崖鍬入に必需の地は該地段別に合量すへし」といったものです。すなわちこれは、「畦畔は丈量しない」としていたそれまでの方針では、さまざまな不都合があるのでこれを改めて、丈量対象を増やしていくことを示す「達」であった、ということが言えます。ただし、これによっても「田」についての「畔際より」が改められているわけではないので、「田」については「畦畔」を含まずに行うことについては変わりがなかった、と考えられます。ですから、「畔」について、少なく見積もっても「30㎝」ほどは「筆界」よりも内側の位置になると思われますので、たとえば「20メートル四方の田」であれば、一筆の土地としては「20×20=400㎡」であるところ、「19.4×19.4=376㎡」というように5%強の「減少」が見られることになります。そしてこれは、一筆の土地が数枚の田で構成されている場合や、傾斜地にあって畦畔が大きい場合にはさらに大きなものになります。「公簿面積が実測面積より3割も小さい」ということが出来する所以です。
しかし、明治9年11月の内務省達乙第130号で畦畔を「其本地ノ地種ヘ編入シ券状面外書」するようになり、さらにその後には
「従来外書きにある用悪水路、井溝、ため池及び畦畔は異動の都度本地に量入すべし」(「地租事務取扱心得」明治42年9月22日東京税務監督局長訓55号16条)
ということになって、やがて最終的には明治35年の「登記簿・台帳一元化」の際に
「外畦畔、石塚または崖地等・・の地積が外歩として記載されている土岐は、本地の地積とこれらのものの地積とを合算して地積欄に記載するものとする」(「登記簿・台帳一元化実施要領」昭和35年4月1日民事甲第685号民事局通達 第27、4項)
という形ですべて「本地に合算」されるようになりますので、明治9年11月以降の地租改正事業成果によるものは、「外書」を合わせれば「丈量範囲」と「一筆地」とが合致されるようになったのではないか、従ってそのような地域においても「縄延び」があるのであればその理由は何か?ということが問題になります。
このことについて、「登記研究」誌の834号から837号までの4号にわたってなされた「十字法による丈量-検証結果報告」(寛塾)が興味深い事実を示してくれています。
これは、「地租改正事業における丈量(測量)は、徳川時代から行われていた十字法によったものが多数であった。」ということから、「十字法とは具体的にどのようなものか、そして十字法はどの程度の精度を得られるのか」ということを、単に頭で想像するだけでなく、「当時使用していた間縄、間竿,四方縄、十字器を復元して作成し、これらを用いて、明治時代から地形の変更がないと思われる土地を選定して、十字法を用いて丈量し、その成果を土地台帳の面積と近代測量の成果とを比較」(834号)する検証実験です。
検証実験の結論的な報告としては、次のように言われています(837号)。
「地租改正当時の・・測量方法(である)十字法の方法によって測量し、この結果を土地台帳の地積と比較すること」を行った結果
① 「本地についての測量結果は・・・当初の予想に反して、精度のいい数字であった」
② しかし「畦畔についての測量結果は、土地台帳の外畦畔の記載に比べて大幅に相違があった」ということが確認された、というものです。
すなわち、実測面積と台帳地籍との違い(「縄延び」)の主な原因は「畦畔の取り扱い方」にある、ということが確認された、ということになります。
具体的には、「外畦畔」がたしかに「丈量」されているものの、「外畦畔」として丈量されているのは、今日の理解で「畦畔」とみられる部分の全体ではなく、「人間が田んぼの間を歩く幅の部分の「あぜ」という機能の部分だけを算入」して「傾斜部分(法面部分)を地積に算入していなかった」のではないか、ということです。
「畦畔も本地に編入」「本地の地積に合算」した、と言っても、それはやはり一筆の土地の全部ではなく、「丈量の対象範囲の相違」は、程度の差はあれ、あいかわらず続いた、ということです。
「検証結果報告」では、この事実を受けての考察もなされています。
そこでは、まず従来の「定説」を次のように繰り返して確認します。
「縄延び現象が全国的に認められるのは、測量技術の問題のほかに、課税のための測量であるため、節税目的で面積の過少申告を容認していた、と説明されています。」「面積の過少申告の方法として、間延びした間縄で測った、間延びした間縄で測れば、実際の面積よりも小さい面積を得ることができる。そこで、「縄延び」した検泡を使用した結果、公簿面積が現況面積より小さい現象を「縄延び」と称しているのではないか、と私は思っているんですけども…」
と「従来定説」を繰り返すわけですが、そのうえで、
「しかし、今回の検証実験の結果を見ると、公簿面積と実測面積の違いは、この縄延び現象(A)のほか、外畦畔の簡便な測量成果(B)が極めて大きく起因しているというふうに評価するのが正しいのではないか」
と指摘され、「そうですね。と認めています。
まさに「測定範囲の相違」が「縄延び」の主な原因である、ということです。
しかし、イマイチ、すっきりしないところもあります。
もちろん、この奈良県という一地方におけるほんの数筆の一事例をもって、最終的な結論を導き出すわけにはいかない、というのは当然のことではあるのですが、それにしても少なくともこの検証結果から導き出される結論はよりはっきりとさせておいたほうがいいように思えます。
と言うのは、上記引用の中の「(A)」「(B)」は私が付したものですが、ここでは「間延びした間縄で測る節税のためのゴマカシ」=(A) と 「一筆地全部を図るわけではない測定範囲の相違」=(B)という二つのことが言われているわけで、その「どっちもあり」という結論であるかのように見えます。
しかし、先に述べた検証結果の①「本地についての測量結果は・・・当初の予想に反して、精度のいい数字であった」ということは、Aの「間延び間縄」説を否定するものとしてあります。Aは、少なくともこの検証結果では否定されているのだ、ということをはっきりとさせておくべきでしょう。
・・・以上、なんかしつこく細かいことをグジグジほじくりだしているみたいな話に思えてしまうかもしれませんが、この辺の曖昧さというのは、現実問題として次のような問題に発展していくので、はっきりさせておいたほうがいいように思えるのです。
先の引用文の続きで次のように言われます。
「そうすると、登記実務の中で、地積の更正の登記を申請する場合には、まず土地台帳を見て、土地台帳に外畦畔の記載があるか否か確認することは非常に重要である、ということができますね。すなわち、土地台帳に外畦畔の記載があり、かつ、現地の境界に畦畔がある場合における縄延びは、狭義の縄延び現象のほか広義の縄延び(外畦畔の簡便な測量による。)現象の結果、大幅に地積が増加する可能性がある。」
というものです。
ここでは、「外畦畔の記載がある」場合に(限って)「外畦畔の簡便な測量による」「広義の縄延び」もあることを考えるべき、とされているのですが、たとえば私の今いる大分県のように、そもそも明治9年11月以前に地租改正事業の丈量作業の終了している地方においては、「外畦畔」を測って「外書」するということ自体を行っていないので、「外畦畔の記載」はないわけですが、その場合のほうが登記地積と実測面積の違いはより大きなものになります。ですから、上記のような理解をしていると、現実問題に関する判断の際に結論を180度逆にしてしまう危険がある、ということになるわけで、注意をしておかなければならないと考えた次第です。
(なお、上記検証報告全体としては、
「土地台帳に外畦畔の記載はないが、現地の境界に畦畔がある場合は、一般的には、本地の面積にこの畦畔も含まれていると推察されるのですが、地域によっては、本地の面積は水張部分のみを計上し、この畦畔については外畦畔の記載を省略した取り扱いも考えられなくはないのです。この場合も、大幅な地積更正が認められることになります。」
と指摘して、正しい理解が示されています。)